ダリア

埴輪

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ダリアの旅

1 嵐の中で

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 空が曇って来た。
 風が湿り気を帯び、スカーフを剥がして鼻を剥き出しにする。
 鼻腔に吸い込まれる空気にダリアは目を細めた。

「雨かしら……」

 雨が降るのは珍しい。
 それに同意するように艶やかな羽を纏った賢い友が鳴いた。

「羽が濡れるのは嫌よね。早く雨宿りできるところを探しましょう」

 すっかりダリアの手に慣れた鴉の「モナ」は心地良さげにダリアからの愛撫にうっとりと鳴いた。
 心なしか目が気持ち良さげに細められている気すらする。
 野生の野鳥とは思えないほど人懐っこいその様子にダリアは嬉しさと戸惑いを感じずにはいられなかった。
 初めての友人として旅の供にした鴉のモナの寿命はそう長くはない。
 雌か雄かも分からない友がこの先何年生きられるかは分からないが、仲間とも離れてこうしてダリアについて来たのだ。
 ダリアの何に惹かれたのかはわからない。
 ただ、ここまでついて来たモナを捨てておくことはどうしてもできなかった。
 野生の鴉として狩りをしてきたモナの立派な足には鋭い爪がある。
 賢いモナは自身の凶器をよく理解しているようでダリアの肩にとまるときは力加減を調整してくれる。
 ちょうどダリアの唯一の荷物である手提げの鞄の紐の部分に爪を固定するという配慮までしてくれるのだ。
 飼い慣らされた鳩や狩りのために調教された鷹や鷲などを見て来たが、こんなにも賢く聡明で人懐っこい鴉は初めてだった。
 ダリアの柔肌に傷をつけないように細心の注意を払ってくれている。
 優しくて賢いモナのことをダリアもどんどん好きになっていった。
 まだ出会ってから一日しか経っていないというのに。
 自分は人と話すよりもこうして言葉は分からないが時折相槌のように鳴き声を返してくれる鴉と疑似的な会話をする方が心が安らぎ、楽しいということをダリアは知った。
 
「もっと早く、お前に出会ていれば良かったのにね」

 モナの嘴を撫でながら囁く。
 その囁きに込められた思いをモナは理解しているのだろうか。



*


 モナは重い。
 砂漠化が進み、年々食糧が減っていくこの土地で立派過ぎるほど立派な体躯をしている。
 肩が凝りそうなほどに、モナは重かった。
 全てを捨てた、或いは失い奪われた身のダリアには重すぎる命の塊だ。

 迸る生命力は夜明けと共に狩りへと飛び立ち、目覚めたダリアの目の前に戦利品である野鼠の死骸を置いてくれた。
 目覚めに視界に入った鼠の死骸にはさすがのダリアも驚き、思わず悲鳴を上げたが、すぐに落ち着いた。
 このご時世にたかだか小動物の死体如きを怖がる女などいない。
 いるとしたらよっぽどのお姫様だろう。
 鼠は病の気を運ぶと言われ、ダリアは差し出して来たモナに悪いがそれを食すことはなかった。
 断られたモナは気を悪くすることもなくダリアの目の前でそれを美味そうに嘴で引き千切るように食べた。
 それを眺めながらダリアもまた朝食として残り少ない干し肉と胡桃を齧り、唯一の嗜好品として持ち運んでいた茶葉を煮て雑な味のお茶を飲んだ。
 昨夜銅の薬缶に泉から汲んだ水を入れ、一晩置いておいたのを使った。
 沸かす前に冷えたそれを喉に流し込む。
 銅には穢れを祓う力があると昔から伝えられている。
 故郷にいた頃は銅で出来た容器に水を一晩入れ、それを朝に飲むという習慣があった。
 長い間刷り込まれたダリアの常識や習慣はそうそう変えられるものではない。
 そしてその知識は意外にもダリアを助けてくれている。

 無謀な旅をしていても別にダリアは好んで死にたいわけではない。
 人や獣、魔物に襲われて死ぬのは仕方がないと思えても、まさかこの歳で慣れない土地の水を飲んで腹を壊して死ぬ、というのはあまりにも情けないと思った。
 小さめの薬缶はすぐに湧く。
 かつてのダリアなら銅で沸かした湯で茶を淹れるなど、ましてそのまま茶葉を煮つめるなど考えもしなかっただろう。
 茶葉は丁寧に保存しなければならない。
 銀紙に包められただけの茶葉は濡れていないだけマシであったが、その香りと味の変化はどうしようもない。
 ダリアは茶を淹れる名人であったが、それを披露するための道具も湯も茶葉も人もこの場にはなかった。
 それでもダリアは茶の味のするお湯を飲んで身体の芯から温まる心地良さに確かな幸福を感じたのだ。

 困ったことに、薄く茶の味が滲みただけのお湯は存外美味かった。
 
 ――天は情け容赦がなく、そして神は気まぐれである。

 この歳になってようやくダリアはその言葉の意味を理解した気がする。
 全てを失ったと思い、こうして目的もなくただただ足が進む限り歩き続けようとダリアは決めていた。

 好んで死に行くつもりではないが、それでもこのまま無防備に旅をすればそう遠くないうちに悪党に襲われ、攫われ嬲られて殺されるか売られるだろう。
 殺されるのはまだしもどこかへと売られるのならば舌を噛み切るつもりだ。
 もしくは飢えた獣や魔物に食い殺される。
 地図もなくただなんとなく太陽が沈む方角へと歩いているためまともな食糧を売ってくれる村や町にいつ着けれるのかも分からない。
 ダリアの荷物は多くない。
 乾燥させた果物と胡桃、干し肉数切れに、粟の実一掴み分と、それが今のダリアの命を繋ぐ糧だ。
 他は塩と唯一の瓶詰に酢を入れている。
 あとは銅の薬缶から始まり銀の食器が一人分。
 替えの下着はあっても服はそのままである。
 運良く水場を見つけては全てを脱ぎ捨て、洗っていく。
 乾くまでの間に親切な男から貰った大きなマントは大変役に立った。
 寝具すらないのだ。
 冷え込む夜などはそれを毛布代わりに寝ることもできる。
 故郷から旅発ち、もう幾日過ぎていたが、その間ダリアは実に運が良く、誰かに襲われることもなかった。
 ただ途中で道端で呼びかけられた商人達との取引で損をしてしまったり、物乞いに恵みを施したり、誰にも顧みられなかった死体に黄泉への餞別を供えたりと確実にダリアの手荷物は軽くなっていった。
 それでもダリアは特に惜しいと思うこともなく、むしろ重くかさばる金銭や貴重品、マントの下に纏う首飾りや腕輪などの装飾品の数々を早く処分したいとすら思っていたのだ。
 飾り気のない古びたマントを纏うダリアがそれこそ盗賊達が涎を垂らし、商人が目の色を変えるほどの金銀や宝石を所持していることを知るのは賢い友人のモナぐらいであろう。
 ダリアからすれば食べることも身を温めることもできないそれらの貴重品よりも飲み水の方が大事だった。
 食料よりも飲み水の確保が重要だと、さすがのダリアでも分かる。
 だが水も持ち運びたくともダリア一人では限度があるのだ。

 ゆっくりと確実にダリアに無謀な旅の洗礼が降りかかっているというのに、当の本人は呑気なものでもうすぐ雨が降るなら替えの服はどうしようかと考えていた。

 今のダリアが唯一困っているのは、今朝飲んだ茶もどきをもう一度飲みたいと思っている自身の心の変化である。
 湿気始めた茶葉を鍋で炒ってみたらどうだろう。
 香ばしい香りが生まれ、また別の味わいになるのではないかという好奇心や期待。
 肩に圧し掛かるモナの重みと同じように、小さな喜びや試したいことがダリアの胸に満ちるたびにダリアは自身がまたこうして何かに喜べる事実を思い知るのだ。
 
 現世に喜びを見出すのは危険だ。 
 気をつけなければならない。
 それが生への浅ましい執着となることをダリアは知っていた。



* *


 降り出した雨がどんどんその強さを増していく。
 結局名乗ることもなかった優しい男に貰ったマントをダリアは頭に被せた。
 
「モナ! お前も早くどこかに雨宿りして来なさい! 羽が濡れてしまうわ! 」

 ダリアの言葉にモナはしばらく上空を飛び回っていたが、強くなる雨に観念し、一声鳴くとどこかへと飛んで行った。
 その力強く羽ばたいていく後ろ姿にダリアは安堵する。
 文字通り漸く肩の荷が下りたような、飛んで行った気がした。
 野鳥であるモナはダリアよりもずっと賢く逞しくやっていける。
 自然の中こそモナの生きる世界なのだ。
 ただ淘汰されていくだけのダリアとは違う。

 モナのことはなんの心配もなかったが、当のダリアは悲惨だ。
 防寒服も何もないダリアは雨に濡れ、急激に身体が冷えるのが分かった。
 暖かなマントも濡れてしまえばその意味をなさない。
 これでもだいぶ荷物を減らしたが、それでも走るにはダリアの荷物は邪魔であった。

 雨水が沁みこんだ布靴はもうべしょべしょである。
 風が強く、木々の葉が揺れ枝が折れる。
 怖ろしい魔物のような風の呻き声がダリアの耳に入って来る。
 嵐が来そうだ。

 これは困ったとダリアは息ができないほどの強い突風を浴びながら歩き続けた。
 歩くというよりもそれは放浪に近い。
 できればこのままぬかるんだ地面に倒れて寝てしまいたい。
 確実に寒さで凍死してしまうだろうが、血が出ない分誰かを驚かしてしまうこともないだろう。
 嵐に襲われたダリアは全身を濡らし、指の先から血の気が引いて行くのが分かった。
 刺すように冷たく、そして強い風のせいで息が苦しい。
 雨粒が矢のようにダリアを襲い、何度か折れた枝が鞭のように襲って来た。
 今どの方角に向かって歩いているのかも分からない。
 もしかしたら来た道を戻っているのかもしれない。
 
 死の影をダリアは感じた。

 ここは故郷からまだそう遠くない。
 旅慣れした人々からすれば呆れるほどダリアの歩みは遅く、計画性の無さに怒りすら湧くだろう。
 このままここで息倒れた場合、ダリアの死体はもしかしたらその身につけている装飾品や年恰好のせいで故郷に知らされるかもしれない。
 運が悪ければ親切な誰かによってダリアの死体が故郷に戻され、その死に顔を見られるかもしれない。

 それは困るとダリアは思った。
 生まれ故郷で、ダリアを知る人々に弔われる自身を想像すると心の臓が冷える心地がする。
 それならば獣に食い荒らされるか、良心のない人々に身ぐるみを剥がされ、または悪意でもって顔を刻まれた方がずっといい。

 その方が、ずっといい。

 濡れたマントのせいで身体は重く、泥まみれの足にも疲労が溜まる。
 ダリアが小さくも確実に一歩一歩前へと進むのを邪魔するように嵐は勢いを増し、泥濘が意思を持っているかのようにダリアの足を引っ張る。

 銀紙に包まれた干し肉は無事だろうか。
 粟の実は濡れてしまったのか。
 茶葉はもう完全に湿気てしまったなと思いながら、ダリアの息はどんどん荒くなる。
 あともう一歩。
 あともう一歩とダリアは体力と体温が尽きる前にただ一歩でも遠く、故郷から離れたかった。
 ダリアの全てだったあの土地。
 絶対的だった人々の影から。
 
 いつの間にか青褪めた唇から祈りの詩が紡がれていた。
 ダリアは短くもない人生の中で常に祈っていた。
 敬虔な信徒として天に感謝を捧げ、神を敬って来たのだ。
 ダリアは当たり前のように祈る。
 それはダリアの体力を奪うこととなったが、信心深いダリアの心は確かに温かくなった。
 ダリアは命を助けて欲しいとか、嵐が治まるようにとか、そんな恐れ多いことを祈っているわけではない。
 そんなことを敬愛する神に願うなど、ダリアには思いもつかないのだ。

「神よ、わが偉大なる父よ。どうか貴方様に仕えるこの矮小な身にあと一歩、あと一歩でも歩むことができる力をお貸しください」

 ただ、ほんの少しだけの力が欲しかった。



* * *


 ダリアに応えたのは強すぎる突風だった。
 それが神の答えで、天の采配ならば仕方がないとダリアが思ったときだ。
 そんなときだった。

 荒々しい風の怒号に支配された耳に、悲鳴が届いたのは。

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