ダリア

埴輪

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ダリアの旅

6 トーマ 《後》

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 すぐに器の中身が無くなった。
 勢いよくがっつき過ぎたことに気づいたのか、ほっと一息ついた後に少年の頬が恥じらう様に赤く色づき、ダリアからそっと視線を外す。

「大丈夫そうね」

 貧しい粟の粥が少年の口に合うかという不安もあったが、どうやら心配ないようだ。
 ダリアはおずおずと返された器を受け取り、今度は上澄みではなく沈んだ粥を掻き混ぜて掬い取る。
 もわっとした湯気に自身の食欲もそそられたが、それよりもまず少年の空腹をある程度満たしてやりたかった。
 少しでも胃の中が温まれば、気持ちも落ち着き、明日への渇望が持てると思ったのだ。
 死にに行くように故郷を飛び出したはずのダリアは、自然とそのように考えた。

「さぁ、熱いから気を付けて」

 先ほどよりも量も多めに掬った粥は小さな器を満杯にした。
 腹の音を鳴らしながら少年が唾を呑み込む。
 手渡された匙を今度は握りしめて勢いよく掬って口に入れた。

「っ、ぁ、×、××……!」

 たぶん、熱いと言いたいのだろうなとダリアは思った。
 ダリアの忠告が通じなかったせいか、少年は火傷したらしい唇を抑える。
 匙には半ば戻されたように粥が一口分掬ってある状態だ。

「ああ、大変」

 ダリアは革の水筒に入れていた飲み水を差し出す。
 ごくごくと慌てて飲み干す少年に苦笑いしながら、敷物に置かれた器と匙を手に取った。

「慌てなくても、誰もとらないわ」

 先ほどと同じ様にダリアは匙に息を吹きかける。
 少年の行動があまりにも幼く、なんだか見た目よりもずっと年下のように思えた。
 実際に謎めいた顔貌の少年がいくつなのか分からないが。

「はい、召し上がれ」

 ダリアは硬直する少年の口元に匙を向ける。
 視線をうろうろと彷徨わせ、気恥ずかしいのか耳まで赤くする少年がとにかく可愛らしい。

「っ、あ、あぅ……」

 もごもごと口ごもる様子に、ダリアの胸に柔らかな感情が芽生える。
 たぶん、これは母性と呼ばれる感情なのだろう。
 ダリアよりも身の丈のあるこの少年がまるで世話のかかる赤ん坊のように思えた。

「あーん」

 ああ、楽しい。
 葛藤の末にダリアの手ずから粥を食べる少年の姿が、とても可愛いと思った。

 こんなにも楽しいと思ったのは、初めてかもしれない。



*


 腹が満ちたせいか、少年はもそもそと乾燥させた杏子を齧りながら瞼を重そうに垂れさせている。
 その様子に随分と気持ちが落ち着いたのが分かる。
 初めの頃の少年の痛々しさと比較すれば今は安定しているといえた。
 もう日はとうに暮れており、今だ戻らないモナのことを考えると少しの不安が芽生えたが、あの逞しい足や賢い瞳を思い出してどうにかその不安を振り払う。
 何も心配しなくともモナはダリアよりもずっと強い。
 むしろ今は今だ正体も手掛かりも掴めない小屋を襲った化け物や人攫い達の仲間がいつここに来るのかと警戒した方が良いのだろう。
 そうでなくとも旅の天敵は多い。
 武器も防具も、武術の心得もないダリアは身を守る術がないのだ。
 今までならばそれはそれで運命として淡々と受け入れる覚悟があったが、今のダリアは無責任に自由に死ぬわけにも殺されるわけにもいかない。
 
 舟をこぎ始めた少年の無防備な姿を見て、ダリアは薪を組み立てなおし、炎を強くした。
 少しでも獣を除けるために。
 これは一種の賭けでもある。
 焚火は獣除けになれるが、火を恐れない魔物の類もいるのだ。
 そしてここに人がいるという印が上がれば良からぬ者達を引き寄せてしまう可能性もあった。
 ダリアは鍋の底が空になってから自分の迂闊さに気づいたが、もう既にどうしようもない。
 粥を炊いたせいで食糧の匂いにつられてやってくるかもしれない災難をすっかり失念していた。
 盗賊が出ると噂され、昨日に引き続き不可解で無惨な死体を見たばかりだというのに。
 つくづく、自分は家のことしかできない使えない女だと、ダリアは内心で自嘲した。
 そして、ずっとそうやって家の中で守られて来たのだと実感する。

「……」

 嵐の後の澄んだ夜空を見上げ、ダリアは遠くに思いを馳せるように瞼を閉じた。

(……旦那様)

 もう、そう呼べる資格がないことがただただ切なかった。



* * *


 今更のことだが、少年の名をダリアは知らない。
 少年も当たり前だがダリアの名を知らないだろう。

「私、ダリア」

 自身の胸に手を当て、ダリアはにっこり微笑む。
 一晩中夜番をしていたせいでその目元には薄っすらと隈がある。
 それは少年も同じであった。
 少年もまた一晩中膝を抱え、ダリアが身振り手振り示しても横になることはなかったのだ。
 どんなに眠そうにしても、まるで寝てしまえば永遠に起きて来れないと信じているかのように常に自分の皮膚をつねったり、唇を噛んでたりしていたことをダリアは知っていた。
 ダリアを警戒しているというよりも、ずっと俯いたまま何か考え込んでいるらしい。
 故郷のことか、家族のことか、自分の今後のことか。
 少年は若く、そして身分がある。
 服にも相応の執着を示し、食欲もあった。
 ダリアと違って、今後は悩み苦しまなければならないのだろう。
 そのことに少しの羨ましさを感じた。

「だ、だりゅ、あ?」

 慣れない発音に少年は苦戦しているようだ。
 それでも、ダリアの名が通じるという事実にほっとした。

「そう。ダリアよ」
「だりゅあ、だりぃあ……」
「ダ・リ・ア」
「……だ、り、あ」

 何回か繰り替え事に少年も慣れて来たようだ。

「だりあ」

 何回目かして、少年がはにかみながらダリアの名を呟く。
 何故だろうか。
 ダリアは自分の名がまるで特別なもののように思えた。

「そう…… 私はダリア」

 ダリアと、もうその名を呼んでくれる人はいないと思っていたのに。
 運命というものは本当に、ままならない。
 そして、自分の心も。

「貴方の、名前は?」

 ダリアの問いかけの意味を、少年は理解し、そして躊躇いの後、恐る恐る口を開いた。

「……とーま」



* * *


 目の前の女は一体誰なのだろう。
 信じてもいいのだろうか。
 何をしゃべっているのかも分からない、この外人を俺は信じてもいいのだろうか。

 いや、そもそもこれはやはり夢なのだろうか?
 ずっと覚めることもなく、痛みも苦しみも、匂いも全てがリアルなのに、どれも非現実的すぎて受け入れられない。
 だって、可笑しいじゃないか。
 あんなに酷い目にあったはずなのに、俺の身体に傷が一つもないなんて。

 でも、目の前の女がくれたお湯も、食い物も、確かに味がして温度を感じた。
 一体、ここはどこだ。
 この女は、誰だ。
 どうして、俺はここにいる?
 どうして、こんな目に遭わなければならないんだ?

 疑問は尽きない。
 尽きるはずもない。

 自分が何者かすら分からなくなりかけている。

「×××、ダリア」 

 女がずっと同じ単語を繰り返す。
 その手振りと口調で名前を言っているのが分かる。
 聞き慣れない発音だ。
 舌が上手く回らず、何度も言い直した。

 漸く、だりあが俺の発音に満足したらしく、今度は言葉だけではなく視線だけで俺の名前を訊いているのが分かった。
 躊躇いはあった。
 ここで名乗ってしまえば、目の前の女を夢ではなく現実のものだと認めてしまう気がした。
 この、信じられないぐらいに優しく、夢みたいに綺麗な女が。
 だりあがあまりにも見かけない顔立ちをして、嘘みたいに綺麗だからより現実なのか分からなくなるのだ。
 あんな綺麗な瞳を見たことがなかった。

 だりあの問いに無視を決め込んでも良かったはずだ。
 でも、何故か出来なかった。
 ずっと、汚い自分を抱きしめてくれていた。
 優しく笑ってくれた。
 言葉が通じない俺に水をくれた、食べ物をくれた、マントをくれた。
 女が何者で、本当にあいつらとは関係がないのか、本当に俺の味方なのか、分からない。
 騙されているかもしれない。
 警戒し、疑心暗鬼になってしまう。
 
 それでも、信じたかった。
 嘘でもいいから、俺を見捨てないで欲しかった。

 誰かに助けて欲しかった。
 
「……斗真」

 いつの間にか、口から勝手に音が零れた。
 酷く馴染みのあるはずの名前は、まるで意味のない羅列のように聞こえた。

「立花、斗真」

 言葉が通じないのはお互い様だ。
 だりあは首を傾げ、飴玉を舐めるみたいに囁いた。

「トーマ……?」

 なんとなく、発音は違ったが、斗真は泣き出しそうなほど嬉しかった。

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