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秋風視点 過去編
58 水の中/秋風
しおりを挟む──空気を読めるようになりたいと初めて思ったのは、四歳の時だ。
「あなたなんて生むんじゃなかった」
母の真っ暗な瞳に、丸呑みにされてしまいそうになる。図書館の本で見たブラックホールみたいだった。
「ぼくいなくなったほうがいいの? それなら……きえちゃおうか?」
そうだ、消えたらいい。要らないものは捨てる。ゴミと同じだ。
自分としてはすごくいい提案に思えたし、喜んでもらえると期待したのだけど、なぜか母は怒り狂っていた。
「……! なんてことを言うの!? 私に息子を死なせた女になれって言うの? 秋風、どうしてあなたは母さんを困らせることばかりするの!?」
「ご、ごめんなさい……」
だめだった。俺は幼心に、何か失敗してしまったのだと気がついた。
次は母が喜ぶことをちゃんと間違えずに言いたいと、そう強く思った。
──五歳の時に、初めて嘘をついた。
「『天使みたい』? はっ、どこが。悪魔よ。あいつそっくりな目に、顔つき。私はわかるの。あの子は将来絶対に極悪な女たらしになるって」
(……女たらしって、どういう意味だろう)
分からなかったけれど、母の声色から、良い意味ではない事は理解した。
母はたぶん、電話越しの相手に俺の悪口を言っているんだろう。
「!? ……秋風、いたの? どこから聞いていたの?」
だって、後ろに立つ俺の気配に気づいた瞬間、振り返って焦った顔をしたから。
テレビドラマで見た、犯行現場を見られてしまった犯人みたいだった。
「……なんの話……?」
だから俺は、聞いていないフリをした。嘘をつくことで母を喜ばせることができるのなら、それがいいと思った。
「……、……なんでもないわ」
母があからさまにホッとした顔をした。
「……」
自分の対応は正解だったのだと、俺は知る。
しかし、間違えてしまう時もたくさんあった。
「あなたさえいなければ」
「なんで私がこんな目に遭うの……?」
「こんなお荷物だけ残して、なんなのよ」
俺が上手く空気を読めないと、そんな言葉と共に、深いため息が母の口から吐き出される。
その音は世界で一番恐ろしい音だ。ため息の音を聴くと、心臓が冷たく縮まるから、耳を塞いでしまいたくなる。
でもそんな態度を取ったらまた不快にさせてしまうから、ため息から逃げるすべは俺にはなかった。
「──秋風……っ、この悪魔! あなたがいるから私は、自分の人生を生きられないのよ!!」
母は定期的に癇癪を起こす。
泣きわめく母には、どんな言葉をかけても無駄だ。
俺のせいで苦しんでいる人を目の前に、どうしたらいいか分からない。使えない。俺は、なんの役にも立たない。生きているだけで人を不快にさせてしまう。
「はぁ……あんた、ガキにあたるのは良しな。みっともない。まともに自分で育てられないのなら産むんじゃないって話さ」
「っ……、お母さんが、お母さんが、おろすのだけは許さないと言ったんでしょ……!?」
「そりゃあ、生き物を捨てるのはどうかと思ったからね。そもそも、宿ったこと自体が間違いだったんだろうよ。それはあんたと、あんたの男の咎だ」
(おろす? とが……?)
わからない言葉ばかりだ。
働いている母の代わりに、母の母──祖母が、俺の世話のほとんどを担っている。
世話というか、最低限の衣食住の保障というのだろうか。それ以外についてはノータッチだから、俺は祖母とも挨拶や普通の言葉を交わしたことは一度もない。
「だからあたしは反対したんだよ。あんな男が、あんたを愛するわけがないじゃないか。あんたの人生の役に立つと思ったのか? 結局は、要らないコブが一つできただけだろう。あんたは親になれるような人間じゃないのにね」
「……ッ」
祖母は冷たい顔をする人で、俺の母をよく言葉で攻撃した。
母は俺には言いたい事を言えるけど、祖母のことは怖いのか、何も言えずすぐ俯いてしまう。
「おばあちゃん、おかあさんをいじめるのはやめて……!」
俺はいつも母を守るために飛び出し、両手を広げて祖母の前に立ち塞がっていた。
「……何もわかっていない。愚かな子だ」
「ハッ……あの悪魔そっくりの顔で、よくもそんなことを言えるわね。母さんを一番苦しめてるのは、いったい誰だと思ってるの?」
祖母も母も俺に呆れている。
「……っ」
俺は、間違った言葉を言ってしまう、空気の読めない自分がすごく恥ずかしかった。
恥ずかしくて恥ずかしくて、消えてしまいたかった。
「この顔だけの男、最低人間、地獄に堕ちろ」
祖母が自分の部屋に閉じ籠った後、真っ暗な和室で母は毎夜ボソボソと呟く。
母とそのお腹の中にいた俺は、どうやら『最低人間』に捨てられたらしくて。俺は父の顔も声も知らないけど、母が言うには、俺は最低人間とよく似ている。だから俺も最低人間。そういうことらしい。
「おかあさん……?」
「……起きてたの」
母は俺と目が合うと、毎回ため息をつく。
深いため息。
「……」
深いため息。
「……」
深いため息。
「……」
心臓が、バクバクする。
(……どうしたら、おかあさんは幸せになってくれるんだろう)
ずっと考えていた。
ずっと考えていたけれど……、結末は本当にあっけなかった。
──六歳の時、俺の母は幸せになった。
結婚をしたからだ。
相手はバツイチで、八歳の娘がいる……蓮見蓮吾という男。
誰もが聞いたことのある、子供の俺ですら知っていた、蓮見グループの会長だった。
俺は一瞬で、今までの姓を捨て、『蓮見秋風』に生まれ変わった。
母は大層美しいが、俺というお荷物がいるせいで婚活が上手くいかず、絶望していた最中。蓮見蓮吾という大物と出会い結ばれたことで、急に人生が好転したのだ。
俺の家も、母と祖母の三人で暮らしていたオンボロアパートから、見たこともないような豪邸に変わった。
生活に余裕ができて、結婚相手に愛されて、母の表情もすっかり変わった。
いつも刻まれていた眉間の皺が綺麗にとれた。
オンボロアパートにいる時、俺はよく、母が眠っている隙にその寝顔を覗き込んだ。そして、彼女の眉間に指をそっと当て、頑張って皺を伸ばしていた。
眠っている時くらい、安らかな顔を見たかった。優しい力で皺をなぞる。何度も、何度も。
癖がついているのか、いくらそんなことしたって無駄だったけど、いつかは変えられるって信じていた。
でも……違った。
俺が変えられることなんて、何一つなかった。
結婚によって母が幸せになって嬉しいはずなのに、なぜだろう。少し、虚しかった。
「──良い子でいるのよ、秋風。これ以上ない自慢の息子になりなさい」
「……はい」
「あなたのせいで私ごと捨てられるかもしれない。分かってるわね?」
何度も忠告を受けた。
だから俺は、良い子になれるようにだけを考えて生きることにした。
学校では一番の優等生になる。どこに出しても恥ずかしくない、母と義理の父が望む息子になる。
そして、人を不快にさせないような人間になる。
俺は生まれた時点でマイナスだから、罪滅ぼしをしなければいけない。
今、こう言ったら喜ぶんだろうな。これを言ったら怒らしてまうからやめよう。
日々人の顔色を伺った。
求められてるであろう言葉を吐く。求められていない反応はしない。
失敗と成功を繰り返し、だんだん上手に空気を読み取れるようになる。
その場その場の、人を不快にさせない最適解が、分かるようになっていく。
「蓮見くんってすごいよね。クラス中のみんな、蓮見くんのことが好きだよ! 女子も男子も……!」
「そうなんだ」
「そ、そうなんだって……。好かれたいから、お返しが欲しいから、優しくしてくれてるんでしょ?」
「……?? どういうこと…?」
「私はプリンが好きな子に今日の給食のプリンをあげたよ。お返しに、来週のメロンをもらいたいからっ。みんなそういう感じだよ!」
「? 俺は欲しいものはないから、よく分かんない。欲しいなら、俺のメロンもあげるよ」
「やったぁ! 何と交換こする?」
「ううん、なにもいらない」
「ええええ。蓮見くん、変なの~~」
クラスメイトの女の子とそんな会話をして、驚かれた。『みんなそういう感じ』とはどういう感じのことを言っているんだろう。
よく分からなかったけど、自分が変なのかもしれないと、考えるようになった。
俺は、クラスメイトにも、先生にも、好かれたいと思わない。それは『変』なことなんだろう。
でも正直、誰に好かれても嫌われても、心底どうでも良いのだから仕方がない。
俺自身のこと、俺への評価、すべてに興味がない。
見返りなんて要らないから、ただ、みんなを幸せにしたい。
少しでも良い気持ちになってもらいたい。気分を落とさせたくない。
そうすれば、許される気がする。
そうすれば、俺が生きている罪悪感を、ほんのわずかだけ減らすことができるはずだから。
──『あなたなんて生むんじゃなかった』
本当はあの日からずっと、時間が止まっているのかもしれない。
あの瞬間、自分という存在がめちゃくちゃになって消えた。
消えたから、虚像で形を作っているんだ。
本当の俺は、海の底に沈んだまま、ぼうっと水面を眺めているだけ。
「秋風くん、かっこいい!」
「すごい……!」
「なんでもできるんだね!?」
「一緒にいると楽しいっ」
「優しくて綺麗で、だいすきっ!!」
耳あたりのいい言葉たち。
何もかも、右から左へ耳を通り抜けていく。すべて他人事だ。
自分に言われている実感が全くない。
だって、蓮見秋風はただのキャラクターだ。その場その場の相手の望む人格を映し出しているだけだから。
蓮見秋風は、カメレオンのように色を変える。目の前の人が、今どういう人間を欲しているのかによって、変化する。
共感されたいのか、叱られたいのか、甘やかされたいのか、笑い合いたいのか、悲しみを分け合いたいのか、癒されたいのか、励まされたいのか。
なんにでもなって、なんとでも言う。
意思も実態もない。
そんな蓮見秋風を動かし、喋らせ、操作して。
俺自身は、深い海の水の中で一人、じっとしている。
……ここはなんの音も、なんの衝撃も、届かない場所。
だから悪魔や最低人間と言われても平気だし、自分のことじゃないから傷つくことはないし、楽しくも嬉しくも悲しくも寂しくもない。何もない。感じない。持たない。望まない。
それでいい。
それがいいと……
思っていた。
「手、震えてるぞ」
だけど。
ざぶんと──大きな音がした。
遥か遠くに見える、青い水面が揺れた。波の間から光が差し込み、深海に灯りをつけた。
誰かが、俺の手を掴んだ。
濁流だ。
俺は──水中から、引き上げられていた。
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