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第2章
(1)門出は鬼門、吉祥は天命なり
しおりを挟む「琳榎様、もうお目覚めでしたか。すぐに朝餉のご用意を」
試験結果発表後からというもの、琳榎の周囲はてんやわんやと慌ただしい。
「それより咏祥さん、李氷様はどちらに? ご挨拶を申し上げたいのだけど」
そう告げると洗面用の水桶を円卓の上においた咏祥がゆっくとふりかえる。
りぃん、と草雲雀のように鳴る菊を模した簪が少し傾いた。
「だんな様、ですか?」
「ぇぇ」
他にもう一人だんな様がいるのかと逆に問い返したくなる。
「ささ、まずはお顔を」
咏祥はにっこりとして水桶をとり、琳榎の前へさしだす。
貴人じゃあるまいし自分で身支度ぐらいととのえられるのだが。
「ありがとうございます」
うまいことはぐらかされたような気もしないでもないが、寝台に座したまま水桶に手をいれ少しぬくい水で顔を洗う。
すぐに手巾がわたされそれで拭うと乾いたばかりの肌に粉黛をほどこされそうになり、やんわりと断ると「お綺麗ですのに」と咏祥は渋った。
二日もすれば慣れそうなものを身支度をととのえるだけに人の手を煩わせるのはどうにも気がひける。
「で、李氷様は」
はぐらかされはしたが、それで折れるような琳榎ではない。
琳榎は後見人である李氷なる人物の邸へ居候させてもらっていた。
三位までの上位及第者には国から金塊の御褒美がもらえるためそれで家でもかりようかとも考えたが、所詮田舎者。
いきなり不慣れな王都での年若い娘の独り暮らし。いささか自信に欠けるし怖い。
合格者の大半が地方出身者が多くを占める事情がら登用されるさい後見人となった高官が官吏としての立ち居振舞いまでを指導にあたるとして衣食住すべての責任を負うとした措置がとられるのだという。
琳榎もまたその慣例にならうとして李氷邸に身をよせていた。
「だんな様でしたらお戻りになられてはおりません。大変お忙しい方ですから」
確かに宰相が昼日中から邸でごろごろ左団扇というのもどうかと思う。
昨日は邸を一通り案内された。
老人の独り暮らしにしては贅沢すぎる広大さで、にしては建物に華やかさはなく、どちらかといえば質素。古めかしくて趣がある。
そうした素朴な佇まいを払拭するように山水の名画のような庭院は岩のおかれた配置から木々の植えられ方一つとっても不自然さはなく、苔むした石畳、石塔のような四阿、池の湖面を優雅におよぐ水鳥。
人工物でありながらそれを感じさせない。陰と陽が集約されてある。
邸とは住む人の人となりが垣間見れる。
質素にして厳格。調和を好む。そう解釈した。
「ではいつお戻りに? かれこれ二日はお世話になっているのに、ご挨拶すら申し上げないなんて…………」
人としてどうかしている。
いゃ、むしろ常識を疑われるだろう。
家主不在に土足であがりこんで、お姫様のように厚く歓待され、お礼の一つも伝えない。
それでは親の顔がみたいといわれて然り。
一通りの礼儀、作法、道徳的な振るまいを教わってある。
師の君の顔に泥をぬるわけにはいかない。
気が咎め、身を小さくすると咏祥は閃き顔でうなづいた。
「もしやご存知ありませんでした? 民草の手前こちらが本宅とはなっておりますが、だんな様におかれましては他に隠れ家なるものがいくつかあり、そのいづれかでお過ごしあそばれこちらに参るのは、祭儀のある時だけでして」
「そうなの!?」
咏祥によると王宮からするとこの李氷邸はちょうど丑寅の方角にあたり、つまりは鬼門である。
そこで碧京が、妖怪には妖怪をといって鬼門封じをかねて王宮の一角であったこの邸を宰相にさげわたしたのだという。
春分、冬至、夏至、秋至の早朝、宰相自らが魔を祓う儀式が行われるらしい。
(碧京に妖怪にたとえさせる李氷様ってーー)
琳榎のなかで李氷なる人物像が混迷をきわめた。
「ですからだんな様へのご挨拶は宮殿でお会いしたときにでもどうですか」
「ーーはぁ、ですね」
頷き、思い出したように、ぁ、あの、と続ける。
「どうして李氷様が私の後見人になってくださったのでしょう」
疑問だった。皇帝に次ぐ権力者。宰相がわざわざ後見人など引き受けてくれたのか。
数多いる文武百官がいるなかで何ゆえ? とだれでも疑問をいだかざるをえないだろう。
適当な有力豪族、貴族なりもともいたはず。
「陛下がお決めになられたそうですよ。詳しくは存じませんが。宰相の邸だからと気兼ねなどせぬようにと主よりくれぐれもいいつかっております」
「…………」
碧京が? まぁ、都に他に頼れる人も知人がいるわけでもない。
何から何までありがたい。
李氷様には会えないとしてーーーー
「でしたら碧京様はいつこちらに?」
「!」
琳榎の放った不用意な一言に咏祥の目がすぅと細められた。
「陛下はお越しになられることはありません。かわりにこれをお預かりしております」
しまった、と思ったが時すでに遅し。
喩え単なる呼称だとしても碧京はこの蓬藍国の皇帝。
今までのようにばったり出くわして、碧京様と気軽に挨拶をかわせなどしないのだ。
これでは明後日から初出仕だというの先が思いやられる。
陛下、もしくは主上、そう心に刻むと同時に少し寂しくもある。
ーーが。はて。預かりもの?
「夕べお渡ししたかったのですがすでにお休みのようでしたので」
「ごめんなさい。睡魔には赤子も逆らえないともいいますし。疲れていたのやも」
試験から解放され、息苦しくも扉こそないけれど個室のような特殊な場所におしこめられ五日。拷問にも等しい。
ホッとして気がぬけ疲れがでたのかもしれない。
不慣れなフカフカお布団でもぐっすり体を休められたぐらいだ。慣れてみればなんてこともない。
久々に足を伸ばして眠れただけで感動ものだ。
「さぞやお疲れでしたでしょう、無理もありません。さても、どうぞ」
咏祥は恭しげに掲げると、そっと手わたした。
陛下から賜り物だろうか。ぞんざいには扱えないのだろう。
紫の風呂敷にくるまれたそれは肩幅はあろうかという大きさ。ちょうど長方形といってさしつかえないだろう。
「何かしら、開けても?」
耳をかたむける。
薬剤にしては軽すぎ、振ればカタカタと鳴る。
珍品なる薬剤なら尚よし。音はすれども布のようなものでくるまれているためか、モノまでは判別できない。
首をかしげると、クスクスと鈴の音のような笑声があがった。
「わたくしは朝餉のご用意をいたしますね」
では、そそくさと桶を手に室を後にした。
もしかしたら気をきかせてくれたのか。
よく気のきく侍女を見送った琳榎は包みを膝上においた。
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