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第一章

28 怪しい影と怪しい影と笑う影

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 勇者が滞在している町は、良くも悪くも話題となり活気が生まれる。

 邪悪があるから勇者が訪れたのか、勇者がいるから邪悪が引き寄せられたのか。

 少なくとも、その影は勇者がいるからやってきた邪悪だった。





(二度と暴走しないようにってんで腑抜けが勇者になったらしいが、どんなツラしてるんかねえ。しかもそんな腑抜けが邪神を倒せるとでも?)

 夕刻の赤黒い世界を影は進む。

 勇者のいる場所は知らない。
 すぐに事を構えるつもりもない。

 影は自らの弱体化を知っている。
 神殿で最高峰の治療を受けたにもかかわらず治らなかった古傷がある。

(何が神殿認定だ。俺は最高神に選ばれし真の勇者だ。最高神から直接神託を受けられる特別な存在だ。暗黒の森に巣くう邪悪な魔族国家を滅ぼし、邪悪な魔族どもを殺しまくって人々の安全と平穏に寄与してやった偉大なる勇者様だぞ)

 暗黒の森から帰ってきた冒険者たちが依頼完了報告や換金のために冒険者組合へ向かう様を、酒場に吸い込まれるように入っていく様を眺める。

 神殿認定勇者は毎晩のように酒盛りするという。
 奴の顔は知らないが、勇者の装備は有名だ。
 代が変わるごとに新調されるが、基本的に意匠は同じなのだ。

 今日はその面を拝むだけで済ませてやろう。

 いくら紛い物とはいえ、神殿の後ろ盾のある勇者を貶めるには準備がいる。

 この町には闇属性の人間がいるという情報もある。
 そいつが何かしらの犯罪を犯し、勇者が捕らえようとするも失敗したなんて筋書きになればこれ以上ない――。

「あら、先客がいたのね」

 唐突に、背後から女の声が聞こえた。

 振り返ると、目深にフードをかぶりながらも妖艶な美しさを醸し出す女がいた。
 唇の赤がなまめかしい。
 細く長い指に長く伸ばした爪がどこか扇情的だ。
 なんの飾り気もない黒衣までもが美しさを引き立たせる。

 ろくに顔も身体も見えないのに、なんて美しいのだ。

「あなたも訳ありなのかしら」

 女が近づいてくる。
 闇探しの腕輪が鈍く反応する。

 闇属性、女。
 事前情報では十歳くらいだったはずだが、闇属性ならば人間と成長速度が違ってもおかしくない。
 おかしな魅了を持っていてもおかしくない。

「てめえ、闇属性か」

「だったらなぁに? ふぅん、なかなか良い男じゃない? 深い傷を負ってなお目的を果たそうとする目は好きよ? 憎しみに満ちた気配もまた良いわね」

 本気なのかからかいなのか、あるいは別の意図なのか。

 なんにせよ、この女は危険だ。
 闇属性は敵だと強く認識しているにも関わらず、女の色香に惑わされる。
 声一つ聞くたびに心臓が高鳴り、欲しくなる。
 従いたくなる。

「ねえ、暗黒の森の魔物を倒すつもりはない? 魔物を弱体化させるけど素材の劣化はさせない、格上の敵だって倒せる魔法みたいな薬があるのだけど」

「そんなうまい話あるわけねえだろが」

 そうでなくとも、この女は危険だ。

 影は金に困っていない。
 勇者の称号を剥奪されはしたが、毎月一定額が勇者功労金と称して支払われ続けている。
 金はやるからおとなしくしていろという意味合いだと分かってはいるが、やられっぱなしで引き下がってやるほどおりこうさんじゃない。

「いらねえよ。危ない橋なんぞ渡る必要はねえ」



 偽銀の疾風のせいで引退を余儀なくされてから、得た金を使っていろいろやった。

 聖都の一等地に悪趣味な家を建ててやったし、非合法奴隷商から女を買ってボロ雑巾以下になるまで虐げてやった。
 偽銀の疾風が隣国貿易に向かうと知れば潰すための小細工をし、奴が呪いつきの大怪我をしたと知れば残った仲間をそそのかしつつ冒険者組合に圧力かけて全財産奪ってやったし、呪いにかかっているのを表向きの理由に神殿治療には法外な額が請求されるように仕向けてやった。

 最辺境のこの町まで流れて清掃業冒険者に身をやつしながら治療費を稼ごうとしていると知った時は、大笑いして溜飲を下げたものだ。
 これで奴は一生底辺の底辺だと、勇者に逆らうから痛い目見るんだと、死ぬまで後悔しろと、さんざん馬鹿にしてきた。

 奴の呪いがなぜか解けて神殿に治療に向かったと報告を得た時は何かの間違いではと思ったが、事実であることと、優秀な治療術師の順番待ちを理由に待機させていることを知り、底辺に甘んじておとなしくしていれば見逃してやったのにと、目障りだから消してやろうと決めた。

 奴は今の俺より弱いと高をくくって仕損じたのは痛恨だが、奴は限りなく致命傷に近い重傷のまま暗黒の森の奥に逃げていった。

 あの怪我では、イノシシモドキやキャロクモドキでさえ倒せまい。

 あれから一度も生存の噂さえ聞いてないのだ、魔物にやられたか怪我が悪化したかは知れないが、もはや命はないだろう。
 まさかあの怪我で暗黒の森の中心部を抜けて向こう側にまで逃れられたとも思えない。

 そう判断した後は、最高聖女を抜かした直接神託に従っていろいろやってきた。

 意味不明な神託もいくつかあったが、馬鹿げているくらい面白い報酬を前にはどうでもいいことだった。



「じゃあ、言い方を変えるわ。……この薬を魔物にかけたら面白いことが起こるのは本当よ。あなたが生き残れるかは知らないけど、確実に今の勇者の面子は潰せるの。神殿のお偉いさんも肝を潰すでしょうね。ふふふふうふふふふ」

 この女は、やはり危険だ。
 とんでもなく危険だ。
 面白すぎる。

 どうしてこうも心をくすぐってくるのか。
 あからさまに怪しく、危険であることも匂わされているのに、欲望を刺激してくる。

 そういう魅了だ、冷静になれ俺様と、心の中で言い聞かせても無駄だった。

「さあ、受け取って。お試しだからタダでいいわ。あなたのお眼鏡に叶ったら、次は買ってちょうだい……」

 怪しい瓶を差し出される。
 一瞬は躊躇したが、受け取ってしまった。

 そういえば、この町に流れてきた偽銀の疾風は一人の孤児を可愛がっていたという。

 その孤児が闇属性だったという話を思い出した時には、女の姿は消えていた。

(しっかし……偽銀の疾風はあんな女を可愛がっていたのか? 話だけ聞くのと実物見るのとじゃ全然違うじゃねえか。ま、いいけどよ。これは俺にツキが回ってきたって事だ)

 すべては、あの偽銀の疾風のせいだ。

 奴は、見ず知らずの女性を救おうとした正義の味方なんかじゃない。
 偉大な勇者がただただ気に食わなかったから、一見正当な理由で攻撃できる機会をうかがっていたクズだ。

 何が孤高だ。
 奴は一族が持つべき特殊能力どころか民族の象徴たる角さえ持たず故郷を追われた出来損ないだ。
 まともな人間関係を築けないから一人でいただけの不適合者だ。

 だから闇属性なんか拾って世話して、あんな邪悪を生み出したのだ。

(偽銀の疾風が可愛がっていた子供が邪悪に落ちて魔物をおかしくして町に混乱を振りまき、今代勇者は力不足で解決できず犠牲者を出してしまう……。いい筋書きじゃねえか)

 裏で糸を引いているのが真の勇者という部分さえ伏せられていれば、完璧だ。

(そこに颯爽と現れて事態を解決する俺様。あの愚かな神殿連中も俺様の偉大さを再認識するに違いねえ。やはり最高神の選択を疑ってはいけなかったのだと顔面蒼白にしてくれりゃ万々歳だぜ)

 真の勇者はやはりあなたしかいないと懇願されて、奇跡の秘薬を用いて身体を治すことも、表舞台に返り咲くことも、またあの頃のように豪遊することも、魔族を思う存分虐殺することも可能かもしれない。

(今日は良い日だ! 偽勇者よ……勇者としての最後の酒をせいぜい楽しむといい)

 酒場に入っていく偽勇者はまだ見ていないが、かまうまい。
 どうせ奴は今夜も酒場で酒盛りして酔っぱらうのだし、そのせいで対応が遅れて非難されるのは見えているのだ。





 笑いながら暗黒の森へ歩いていく後ろ姿を、黒衣の影は無表情で眺めていた。

(キサマは私の顔なんて覚えていないだろうけど……)

 この顔の傷は勇者の手によるものだ。
 奴は、魔族のくせに顔が美しいなど度し難いと、生き地獄を味わえとばかりに死なない程度に傷つけてきたのだ。

(私は忘れたくとも忘れられずにきたのよ)

 復讐は甘美だ。
 奴が瓶を魔物にぶつけて「こんなはずじゃなかった」と泣きわめく様を間近で見たい。
 だが、奴に渡した瓶は特別製だ。

 女は、復讐を終える瞬間に命が尽きてもかまわないと思っているが、今はまだその時ではない。
 勇者は復讐対象だが、憎いのは勇者だけではないし、一番憎いのが勇者というわけでもない。
 一時の悦楽のために本来の目的を見失うほど愚かになったつもりもない。

 いずれは聖都に魔物を放ち、聖都の神殿を破壊し尽くす。
 あの惨劇の元凶を滅ぼす。

 それこそが、復讐の完遂の瞬間だ。
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