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第三章
幕間 謎の土地での目覚め その2
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落ち着いてぽつりぽつりと教えてもらえた範囲の情報を総合すると、『彼』は魔物討伐を専門とする冒険者を長く続けていたらしい。
十五歳で故郷を出てから、二十年近く。
魔物討伐だけで稼いで暮らしていたという。
しかし、大怪我したことで魔物討伐ができなくなった。
治療費が貯まったところで治療を受けに行ったが、悪党の罠によって命を狙われ、大怪我をしながらも暗黒の森に入り、魔物に対処しきれず瀕死の重傷を負った。
女性が発見した時には虫の息で、応急処置をしてここに運び込んだはいいが長く危険な状態が続いていた。
実に六年も眠っていたという。
自分のことなのに知らない話を聞き終わったところで、『彼』は疑問を口にした。
「治療系統の魔術は、山の外には存在しないのですか?」
六年も看病してくれるような人が、目覚めたことを泣いて喜んでくれるような人が、無能の角なしに治療魔術や高価な薬なんてもったいないとは考えないだろう。
彼女たちに治療魔術の才能がなかったとしても、高額な治療費を出せる金がなかったとしても、袋の中の魔力結晶を売ればなんとかなったはずだ。
「存在はする。わらわは使えもする。ただの傷であれば、数日もあれば小康状態まで治療できるさね。しかし、呪いの傷は治癒魔術の効果も薬の効果も薄い。死なない程度の状態を保つので精一杯よの」
自称土地神な女性は部屋の引き出しを開け、『彼』の身体に巻いてあるのと似た布の塊を取り出して見せた。
「偶然にも質の良い呪い封じの布が手に入り、回復に向かい始めたが、それもここ一年ほどの話での。おそらく……記憶の欠落は長すぎる昏睡状態のためだろう」
実感はまるでないが、この人たちが『彼』のために手を尽くしてくれたのは間違いなさそうだ。
そこまでさせる価値が自分にあったのかは分からないが、泣きじゃくる女性の姿を思い出すと、大切に思われていたことは理解できる。
「そう、なんだ。……ぼくとあなた方は、どんな関係だったの?」
無能の角なしなんか好んで世話する者が故郷にいたとは思えない。
けれど、外にいる人間たちは角を持たないと知っていた。
ならば、この人たちは、誰なのだろう。
「わらわは無関係な赤の他人よ。旧知の娘がおぬしを連れてきたのでな、場所を貸しておっただけよの。さ、おぬしも話しておやり」
「私は、あなたを見守るしかできなかった、ただの銀色の竜。この姿は人に化けたもの」
「……守護竜様?」
一度も会った記憶はないが、守護竜様は銀色の竜だったはずだ。
けれど、女性は断固として認めないと言わんばかりの厳しい表情で首を振った。
手も勢いよく振って否定している。
「違うわよ。血縁は否定しないけど、あのダメ親父との縁はもうとっくに切ってるから」
「……だめおやじ? 守護竜様が?」
「あ、人間には分かりづらい事情だったわね。守護竜の制約に関わるのだけど、あまりにあんまりでアレすぎるから、解除も変更もできない父が無能に思えて……喧嘩別れして、それだけ。人間視点では、立派で偉大な守護竜様、なのよね」
「具体性が足りなすぎぬか? 困惑されておるぞ?」
銀髪の女性は苦い顔になって目をそらした。
「だって、出奔して何十年の今でも制約解けなくって、この曰く付きの指輪使ってようやく会話と接触が可能になったくらいきっついんだもの。治癒魔術だって土地神様より得意なのに、解呪だってほんとは使えるのに、この子相手には一切使えないのよ? これ手に入れるまで姿を見せることすら許されなかったのよっ? 影からこっそり手助けもできなかったのよっ? 見守るなんて名ばかりの遠くから観察しかできなかったのよ……っ?」
女性はだんだん涙目になって必死に訴える雰囲気になっていった。
「それは、初耳だの。てっきり親しい仲とばかり。もしやおぬし世に言う変質者」
自称土地神の女性が思わずといった風につぶやき、思い切りにらまれた。
「人聞き悪いこと言うんじゃないわよ! 私はまとも! 制約が鬼畜なだけ! でもって土地神様は変質者通り越して変態よ変態!」
「なっ? どこが変態じゃ!」
この二人、見た目は似ていないが沸点が低いのは共通かもしれない。
怒らせないようにしよう。
痛い思いはしたくない。
「死んだ信者の魂かっさらって産みなおしておきながら伴侶にしているところとか!」
「精霊に血縁の概念はない。肉ある生命のような禁忌にはならん」
「精霊目線がどうだろうと私から見りゃ変態は変態よ!」
この女性たちが気安い仲なのはよく分かった。
取っ組み合いの喧嘩になりそうな一触即発感はあるが、実際には相手の襟首つかむところでとどめている。
だが、なんだろう、ものすごく、いたたまれない気がする、
扉の隙間からこちらをうかがっていた薄い赤茶の髪の少年が、なんか申し訳なさそうに会釈すると去っていった。
友人などいた記憶はないのに、面識もないのに、苦労性の友人という単語が浮かんで消えた。
一通りの情報交換を終え、少年に運んできてもらった重湯を口に含む。
「すみません、この方々は人間の身体の仕組みが分からないようで」
最初に土地神の手で運ばれてきた肉ごろごろ野菜ごろごろの煮込みはとてもおいしそうだったが、食欲を誘う香りに思わず手が伸びたが、さすがに六年の昏睡から目覚めたばかりの身体にはきつすぎると即座に少年によって却下され、大麦を砕いてよく煮込んで汁気だけすくい取った重湯が作られた。
土地神と竜の娘は作り方を知らなかったので、少年のお手製だ。
「ほっとする……」
塩気も何もないから、おいしいかというと素直にはうなずけない。
けれど、すうっと身体に入っていくし、じんわりと奥から温かくなってくる。
「ふぅむ? 人間はそんなお湯みたいなもので腹が膨れるのかの?」
しかし、自称土地神な女性には理解しがたいものらしい。
「絶対に私たちと同じご飯の方がお腹いっぱいになって元気になれるわよ?」
自称竜な銀髪の女性も不服そのものの顔をしている。
「今の状態だと、栄養不足よりも消化不良による異常の方が怖いのです。神様もお姉様も、病人にはまずお粥が基本と覚えてください。重湯にするかは状態によりますが、何も食べられないのが何日も続いた後なら重湯にしておけば大間違いはないでしょう」
「人間とは面倒なのなぁ」
「そこまで軟弱な種族だったかしら、人間って」
この人たちが何者かはいまいち分からないが、分かった。
少なくとも、彼女らに身の回りの世話は任せられない、と。
早く回復しないと、善意のつもりなのに状態が悪化する何かをされかねない。
重湯を飲み終わり、一息ついた後で、『彼』は一つの疑問を口にした。
「この袋も、あなた様がくれたのですか?」
銀髪の女性に問うと、きょとんとされた。
「え? いえ、それは……私があなたと再会した時には持っていましたよ。何年も生命維持をできたのは、そこに入っている魔力結晶のおかげです」
一粒で小銀貨数枚はしそうな魔力結晶なんて、そう簡単に買えるものじゃないし、軽々しく渡せるものじゃない。
魔物討伐専門の冒険者を長く続けていたなら買えたのかもしれないが、治療費を稼ぐために他の仕事に就くくらいなら魔力結晶を売った方が早いし、そうしなかったのだからその時は持っていなかったはず。
治療費が稼げたところで買う余裕があったとも思えない。
「強大な力ある精霊様がくださったのでしょうね。他にも、私があなたを見つけた時には全部壊れてしまっていましたが、一回防御や身代わりのお守りをたくさん持っていましたし、どれも人間には使えない高度な術が施されていましたから」
精霊様という言葉に、一瞬だけ、誰かの姿が脳裏をよぎった。
神秘的な誰かの慈愛に満ちた微笑みと、頬に触れる手の温もり。
水色と銀色の光。
同時、帰らなければと心が叫ぶ。
しかし、どこに帰ればいいのかが分からない。
そもそも帰る場所なんてあったのか?
バッガなんて名付けられた無能の角なしに。
(大事なことは思い出せないのに、いらない知識だけは残っているのか……)
動かなければと焦燥感が湧いてくるのに、どこに向かえばいいのか分からない。
粗末な布の切れ端で作ったと思われる袋を握りしめる。
記憶は六歳くらいで止まっているが、『彼』の身体は四十前後の大人だという。
記憶も認識もちぐはぐすぎて現状理解には心許ないけれど、それだけの歳月が流れれば大切な人の一人や二人できていてもおかしくはない。
(誰かが、ぼくの無事を願って持たせてくれた……。ぼくなんかのために……)
精霊様であれば作ることができるし、命を削るような苦痛を感じずとも大量に用意できるかもしれない。
だが、どうしてそこまでしてもらえたのか、分からない。
バッガ・ギベオンは、角を持つ特別な民の中に産まれた無能の角なし。
それだけは、まるで魂に刻まれた情報であるかのように、鮮明に覚えている。
まともに産んでくれなかった両親を恨んだ記憶も、まともに産まれた兄弟をうらやんだ記憶も、まともじゃないから攻撃されるんだと悔しがった記憶も、まともじゃないから何をされても仕方ないとあきらめた記憶も、まともじゃないから普通のご飯を食べられなくても仕方ない、まともじゃないから熱湯を浴びせられても仕方ないし、まともじゃないから蹴られて斜面を滑落させられても仕方ない――と、ただひたすら痛みに耐え続けてきた記憶が、落とせない汚れのように心にこびりついている。
「ぼくは、どこで暮らしていたの」
幼少の無力で無能な時代しか、覚えていない。
あんな暮らしのままで四十年も生きられたとは思えない。
何か、変化は、あったはずだ。
「森の東側の人間の国、それしか分かりません。おそらく、森に近い辺境部だとは思いますが……。ずっと見守ってきたわけではないのです。誰と親しかったのかも、帰りを待つ人がいるのかも、私には分かりません。……いたとしても、今のあなたを東側に帰すわけにはいかないのです」
どうしてと問いかけて、呑み込んだ。
呪いの傷、それも森の外で受けた傷。
身体に巻かれているのは呪い封じの布。
解呪の布ではない。
治療布でもない。
(ぼくの、身体は……治ってはいない。呪いにむしばまれ続けている)
どちらが悪か、単に敵対していただけかは分からないが、相手は呪いを持ち出すくらい明確な殺意を持っている。
戻ったら命が危ういのだ。
六年も昏睡状態では、日常動作さえできなくなっている可能性がある。
たとえ傷が治癒しようとも、戦うのは難しかろう。
まともな食事をとれるようになるだけでも、どれだけかかることか。
「ある程度回復したら、西側に向かいませんか? ずっとここでお世話になるわけにはいきませんし、生存が知れたとしても向こう側まで追っ手は来ないはずですから」
魔力結晶と魔術符を渡してくれた誰かのことは気にかかる。
けれど、顔も名前も居場所も分からない相手を、正体不明の敵に狙われているかもしれない状況で探すのは危険すぎる。
場合によってはその相手にも危険が及ぶ。
精霊のたぐいだろうと、無敵ではない。
それでも、心が痛む。
なにか、約束を交わした気がするのだ。
「そうするのが、誰にとっても、一番安全なのです。お守りを渡してくださった方のことは、私たちがきちんと調べますから……あなたは西へ」
魔力結晶の入った袋を握りしめる。
どんな想いが込められていたのか、覚えていない思い出せない分からないけれど、自分のせいで迷惑をかけるわけにはいかない。
記憶を取り戻せるかは分からないが、少なくともここで目覚める前にどんな状況に置かれていたか把握できるまでは、安全な場所で生活基盤を整えた方がいいだろう……。
十五歳で故郷を出てから、二十年近く。
魔物討伐だけで稼いで暮らしていたという。
しかし、大怪我したことで魔物討伐ができなくなった。
治療費が貯まったところで治療を受けに行ったが、悪党の罠によって命を狙われ、大怪我をしながらも暗黒の森に入り、魔物に対処しきれず瀕死の重傷を負った。
女性が発見した時には虫の息で、応急処置をしてここに運び込んだはいいが長く危険な状態が続いていた。
実に六年も眠っていたという。
自分のことなのに知らない話を聞き終わったところで、『彼』は疑問を口にした。
「治療系統の魔術は、山の外には存在しないのですか?」
六年も看病してくれるような人が、目覚めたことを泣いて喜んでくれるような人が、無能の角なしに治療魔術や高価な薬なんてもったいないとは考えないだろう。
彼女たちに治療魔術の才能がなかったとしても、高額な治療費を出せる金がなかったとしても、袋の中の魔力結晶を売ればなんとかなったはずだ。
「存在はする。わらわは使えもする。ただの傷であれば、数日もあれば小康状態まで治療できるさね。しかし、呪いの傷は治癒魔術の効果も薬の効果も薄い。死なない程度の状態を保つので精一杯よの」
自称土地神な女性は部屋の引き出しを開け、『彼』の身体に巻いてあるのと似た布の塊を取り出して見せた。
「偶然にも質の良い呪い封じの布が手に入り、回復に向かい始めたが、それもここ一年ほどの話での。おそらく……記憶の欠落は長すぎる昏睡状態のためだろう」
実感はまるでないが、この人たちが『彼』のために手を尽くしてくれたのは間違いなさそうだ。
そこまでさせる価値が自分にあったのかは分からないが、泣きじゃくる女性の姿を思い出すと、大切に思われていたことは理解できる。
「そう、なんだ。……ぼくとあなた方は、どんな関係だったの?」
無能の角なしなんか好んで世話する者が故郷にいたとは思えない。
けれど、外にいる人間たちは角を持たないと知っていた。
ならば、この人たちは、誰なのだろう。
「わらわは無関係な赤の他人よ。旧知の娘がおぬしを連れてきたのでな、場所を貸しておっただけよの。さ、おぬしも話しておやり」
「私は、あなたを見守るしかできなかった、ただの銀色の竜。この姿は人に化けたもの」
「……守護竜様?」
一度も会った記憶はないが、守護竜様は銀色の竜だったはずだ。
けれど、女性は断固として認めないと言わんばかりの厳しい表情で首を振った。
手も勢いよく振って否定している。
「違うわよ。血縁は否定しないけど、あのダメ親父との縁はもうとっくに切ってるから」
「……だめおやじ? 守護竜様が?」
「あ、人間には分かりづらい事情だったわね。守護竜の制約に関わるのだけど、あまりにあんまりでアレすぎるから、解除も変更もできない父が無能に思えて……喧嘩別れして、それだけ。人間視点では、立派で偉大な守護竜様、なのよね」
「具体性が足りなすぎぬか? 困惑されておるぞ?」
銀髪の女性は苦い顔になって目をそらした。
「だって、出奔して何十年の今でも制約解けなくって、この曰く付きの指輪使ってようやく会話と接触が可能になったくらいきっついんだもの。治癒魔術だって土地神様より得意なのに、解呪だってほんとは使えるのに、この子相手には一切使えないのよ? これ手に入れるまで姿を見せることすら許されなかったのよっ? 影からこっそり手助けもできなかったのよっ? 見守るなんて名ばかりの遠くから観察しかできなかったのよ……っ?」
女性はだんだん涙目になって必死に訴える雰囲気になっていった。
「それは、初耳だの。てっきり親しい仲とばかり。もしやおぬし世に言う変質者」
自称土地神の女性が思わずといった風につぶやき、思い切りにらまれた。
「人聞き悪いこと言うんじゃないわよ! 私はまとも! 制約が鬼畜なだけ! でもって土地神様は変質者通り越して変態よ変態!」
「なっ? どこが変態じゃ!」
この二人、見た目は似ていないが沸点が低いのは共通かもしれない。
怒らせないようにしよう。
痛い思いはしたくない。
「死んだ信者の魂かっさらって産みなおしておきながら伴侶にしているところとか!」
「精霊に血縁の概念はない。肉ある生命のような禁忌にはならん」
「精霊目線がどうだろうと私から見りゃ変態は変態よ!」
この女性たちが気安い仲なのはよく分かった。
取っ組み合いの喧嘩になりそうな一触即発感はあるが、実際には相手の襟首つかむところでとどめている。
だが、なんだろう、ものすごく、いたたまれない気がする、
扉の隙間からこちらをうかがっていた薄い赤茶の髪の少年が、なんか申し訳なさそうに会釈すると去っていった。
友人などいた記憶はないのに、面識もないのに、苦労性の友人という単語が浮かんで消えた。
一通りの情報交換を終え、少年に運んできてもらった重湯を口に含む。
「すみません、この方々は人間の身体の仕組みが分からないようで」
最初に土地神の手で運ばれてきた肉ごろごろ野菜ごろごろの煮込みはとてもおいしそうだったが、食欲を誘う香りに思わず手が伸びたが、さすがに六年の昏睡から目覚めたばかりの身体にはきつすぎると即座に少年によって却下され、大麦を砕いてよく煮込んで汁気だけすくい取った重湯が作られた。
土地神と竜の娘は作り方を知らなかったので、少年のお手製だ。
「ほっとする……」
塩気も何もないから、おいしいかというと素直にはうなずけない。
けれど、すうっと身体に入っていくし、じんわりと奥から温かくなってくる。
「ふぅむ? 人間はそんなお湯みたいなもので腹が膨れるのかの?」
しかし、自称土地神な女性には理解しがたいものらしい。
「絶対に私たちと同じご飯の方がお腹いっぱいになって元気になれるわよ?」
自称竜な銀髪の女性も不服そのものの顔をしている。
「今の状態だと、栄養不足よりも消化不良による異常の方が怖いのです。神様もお姉様も、病人にはまずお粥が基本と覚えてください。重湯にするかは状態によりますが、何も食べられないのが何日も続いた後なら重湯にしておけば大間違いはないでしょう」
「人間とは面倒なのなぁ」
「そこまで軟弱な種族だったかしら、人間って」
この人たちが何者かはいまいち分からないが、分かった。
少なくとも、彼女らに身の回りの世話は任せられない、と。
早く回復しないと、善意のつもりなのに状態が悪化する何かをされかねない。
重湯を飲み終わり、一息ついた後で、『彼』は一つの疑問を口にした。
「この袋も、あなた様がくれたのですか?」
銀髪の女性に問うと、きょとんとされた。
「え? いえ、それは……私があなたと再会した時には持っていましたよ。何年も生命維持をできたのは、そこに入っている魔力結晶のおかげです」
一粒で小銀貨数枚はしそうな魔力結晶なんて、そう簡単に買えるものじゃないし、軽々しく渡せるものじゃない。
魔物討伐専門の冒険者を長く続けていたなら買えたのかもしれないが、治療費を稼ぐために他の仕事に就くくらいなら魔力結晶を売った方が早いし、そうしなかったのだからその時は持っていなかったはず。
治療費が稼げたところで買う余裕があったとも思えない。
「強大な力ある精霊様がくださったのでしょうね。他にも、私があなたを見つけた時には全部壊れてしまっていましたが、一回防御や身代わりのお守りをたくさん持っていましたし、どれも人間には使えない高度な術が施されていましたから」
精霊様という言葉に、一瞬だけ、誰かの姿が脳裏をよぎった。
神秘的な誰かの慈愛に満ちた微笑みと、頬に触れる手の温もり。
水色と銀色の光。
同時、帰らなければと心が叫ぶ。
しかし、どこに帰ればいいのかが分からない。
そもそも帰る場所なんてあったのか?
バッガなんて名付けられた無能の角なしに。
(大事なことは思い出せないのに、いらない知識だけは残っているのか……)
動かなければと焦燥感が湧いてくるのに、どこに向かえばいいのか分からない。
粗末な布の切れ端で作ったと思われる袋を握りしめる。
記憶は六歳くらいで止まっているが、『彼』の身体は四十前後の大人だという。
記憶も認識もちぐはぐすぎて現状理解には心許ないけれど、それだけの歳月が流れれば大切な人の一人や二人できていてもおかしくはない。
(誰かが、ぼくの無事を願って持たせてくれた……。ぼくなんかのために……)
精霊様であれば作ることができるし、命を削るような苦痛を感じずとも大量に用意できるかもしれない。
だが、どうしてそこまでしてもらえたのか、分からない。
バッガ・ギベオンは、角を持つ特別な民の中に産まれた無能の角なし。
それだけは、まるで魂に刻まれた情報であるかのように、鮮明に覚えている。
まともに産んでくれなかった両親を恨んだ記憶も、まともに産まれた兄弟をうらやんだ記憶も、まともじゃないから攻撃されるんだと悔しがった記憶も、まともじゃないから何をされても仕方ないとあきらめた記憶も、まともじゃないから普通のご飯を食べられなくても仕方ない、まともじゃないから熱湯を浴びせられても仕方ないし、まともじゃないから蹴られて斜面を滑落させられても仕方ない――と、ただひたすら痛みに耐え続けてきた記憶が、落とせない汚れのように心にこびりついている。
「ぼくは、どこで暮らしていたの」
幼少の無力で無能な時代しか、覚えていない。
あんな暮らしのままで四十年も生きられたとは思えない。
何か、変化は、あったはずだ。
「森の東側の人間の国、それしか分かりません。おそらく、森に近い辺境部だとは思いますが……。ずっと見守ってきたわけではないのです。誰と親しかったのかも、帰りを待つ人がいるのかも、私には分かりません。……いたとしても、今のあなたを東側に帰すわけにはいかないのです」
どうしてと問いかけて、呑み込んだ。
呪いの傷、それも森の外で受けた傷。
身体に巻かれているのは呪い封じの布。
解呪の布ではない。
治療布でもない。
(ぼくの、身体は……治ってはいない。呪いにむしばまれ続けている)
どちらが悪か、単に敵対していただけかは分からないが、相手は呪いを持ち出すくらい明確な殺意を持っている。
戻ったら命が危ういのだ。
六年も昏睡状態では、日常動作さえできなくなっている可能性がある。
たとえ傷が治癒しようとも、戦うのは難しかろう。
まともな食事をとれるようになるだけでも、どれだけかかることか。
「ある程度回復したら、西側に向かいませんか? ずっとここでお世話になるわけにはいきませんし、生存が知れたとしても向こう側まで追っ手は来ないはずですから」
魔力結晶と魔術符を渡してくれた誰かのことは気にかかる。
けれど、顔も名前も居場所も分からない相手を、正体不明の敵に狙われているかもしれない状況で探すのは危険すぎる。
場合によってはその相手にも危険が及ぶ。
精霊のたぐいだろうと、無敵ではない。
それでも、心が痛む。
なにか、約束を交わした気がするのだ。
「そうするのが、誰にとっても、一番安全なのです。お守りを渡してくださった方のことは、私たちがきちんと調べますから……あなたは西へ」
魔力結晶の入った袋を握りしめる。
どんな想いが込められていたのか、覚えていない思い出せない分からないけれど、自分のせいで迷惑をかけるわけにはいかない。
記憶を取り戻せるかは分からないが、少なくともここで目覚める前にどんな状況に置かれていたか把握できるまでは、安全な場所で生活基盤を整えた方がいいだろう……。
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