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※ 第十ニ段 『四つ足』

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 30年前、ある田舎道で起こった不思議な話。

 その日。糸井さんは、家の付近の川でたくさんの鮎を釣り上げ、意気揚々と帰宅の道を歩いていた。

 時は昼下がり。刺すような日差しが、逆にとても気持ちよかったことを覚えているという。
 季節は夏。

 ききょう、あさがお、あげは蝶が道の同行だ。

 あと幾分も経たぬうちに家だ、というところで、見知った顔に「おい」と呼び止められた。
 頭の禿げ上がった、祖父の姿がある。

「あっ。じいちゃん。見て、見て!鮎が釣れた。いっぱい釣れた」

 無邪気な笑顔で、魚籠を差し出して見せる糸井さん。
 だが、祖父はおもむろに表情を険しくし、「何が鮎じゃ!」と唾を飛ばした。

「井戸の蓋が開けっ放しになっておった。またお前のせいじゃろう。水を汲んだ後はしっかり井戸蓋をしておけと、あれほど言っとったのに!!」

 ええ、それは違う。
 俺、一度怒られてから井戸の蓋にはじゅうぶん注意していた筈なのに――

 言い訳をしようにも、祖父は言い訳が何よりも嫌いな人だということはわかっている。

 黙って俯いていると、「そこへ座れ!」と怒鳴られた。

 シュンとしながら正座し、がみがみと呪文のようなお叱りの言葉を受ける。居たたまれなかったので、自然と目を伏せてしまったという。

 ・・・ああ。早く終わらないかなぁ。
 じいちゃん、小言が始まると長いからなぁ・・・

 と憂鬱な気持ちになっていると、

「あなた!何をやってるんですか、あなた!!」

 妻の声が聞こえてきた。
 何をやっているも何も。じいちゃんから怒られているんだ。見りゃわかるだろう。

「何がじいちゃんですか!あなたのお祖父さんは、もうずっと前に亡くなってるでしょ!」



 そこで、ハッとなった。



 慌てて顔を上げると、家の近くにあるお地蔵さんの前にほとんど土下座するような姿勢で正座していた自分自身に気がついた。

 祖父が既に鬼籍に入っていることも、自分は結婚して子供もおり、今は久しぶりに長期休暇をとって生まれ故郷の田舎に帰り、ノンビリしている最中だった――ということも、すっかり思い出した。

 魚籠は、お地蔵さんの隣に投げ出されたように転がっていた。
 あれだけたくさん入れておいた鮎は、一匹残らず姿を消していた。
 そして何故か、自分が上半身裸になっていることにも気付いた。
 自ら脱いだと思しきシャツは、きれいに畳んで魚籠の隣に並べられていた。

  ※   ※   ※   ※

 家に帰って老いた父親に仔細を話すと、「そりゃァ何ぞ四つ足の仕業だ!」と大いに笑われた。
 奥さんはしきりに嘆息し、「この科学時代にみっともない・・・」とぼやいていた。
 4歳になる娘さんは、面目なく終始渋い顔を呈していた糸井さんを見ながら、わけもわからずウフフフと笑っていたという。

「・・・化かされた、というわけですね。方言で〝ちょーらかさるっ〟というらしいです。『嘲弄ちょうろうされる』、つまりなぶり物にされるという意味らしい。 ・・・いやはや。私ももう、その当時の父よりだいぶ余分にトシを取りました。恥だと思って今まで誰にも他言しませんでしたが、このまま墓の中まで持って行くような話でもない。こんなものでも喜んで聞いて下さるならば、こちらも喜んでお話ししますよ」

 仮名で発表して頂ければね、と言い添えて、糸井さんは最後に柔和な笑みを零された。


 ――彼は、K県立大学に長く在籍しておられた元・教授先生である。

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