真事の怪談～寸志小品七連～

其ノ五『兄さん』

　昭和の三十年代後半頃。優すぐるさんが10歳の頃の話。

　彼の子供時代は、小学校でもお昼は弁当を使っていた。
　優さんのお母さんはいつも小さなアルマイトの弁当箱の中へギュウギュウに日の丸ご飯を詰め、全体の六分の一ほどのスペースにおかずを一品だけ入れてくれた。優さん曰く、「卵焼きは当たり。ちくわと菜っ葉の醤油炒めは外れ」だったという。

　その日は、卵焼きの筈だった。朝ご飯の時、その香りが台所から漂ってきたからだ。
　大好物がお昼に食べれる。それだけで、当時の腕白小僧は授業中も気がそぞろであった。

　お昼休みだ。さぁいただきます。優さんは、意気揚々と弁当箱を開けた。


　中から何かが跳び出てきた。
　4寸（約13センチ）ほどもある、巨大なテンコブ（家蜘蛛）だ。

「げっっっ!!!」

　弁当箱を投げ捨てる優さん。ご飯と梅干しが、床へ落ちた。
　卵焼きは影も形もない。
　周囲の子供達も「気持ち悪い」と騒ぎ散らす中、テンコブは散乱したご飯を踏みにじり、僅かな隙間から廊下の外へ出て行った。素早すぎたせいか、誰も追えなかった。


　家に帰って、すぐさまお母さんに「テンコブにお昼の卵焼きを盗み食いされた。俺ぁ何も食べれなくて腹ぺこだい」と訴えた。

　するとお母さんが、いきなり顔を覆うようにして泣き始めた。

　わけがわからず狼狽する優さんを尻目、「ああ、兄さん。兄さん――」 お母さんはそう連呼しながら、ひたすらぼろぼろ、涙を零し続けていた。


　お母さんの兄、つまり優さんの叔父さんは、若くして空襲で亡くなったということだけしかわからない。
　そして弁当箱はといえば、綺麗に洗って翌日からふつうに使用したという。