夢の渚

高松忠史

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8 紅いハイビスカス

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「今日は村役場の作業があるんだけどチーリンさんも行くかい?」

朝食を食べている最中諒太はチーリンに声をかけた。

「それが…ちょっと用事があって…」
チーリンは上目遣いに諒太に答えた。

「ふぅーん…わかった」
(この島にいて用事ってなんだ?)
諒太は顔には出さずに平静を保って答えた。

諒太は作業服に着替えると車に工具類を積み込んで村役場へ向かった。
美波間村役場は村長、副村長、瞳を含めた一般職員2人、あとはリタイアした嘱託職員やパートが交代で勤める非常にこじんまりとした小さな役場であった。
建物は台風に耐えられるようコンクリートで造られていたが、いかんせん村の税収入が限られているため、古い建物は建て替えができず至る所が傷み外壁などは黒くシミがついているほどだ。
諒太が役場に到着するとちょうど村長が役場に併設されたヘリポートの草むしりをしていた。
このヘリポートは空港の無い美波間島にあって、ヘリを使って災害時の物資の運搬や急病人などの搬送など緊急時に利用される。

「村長、お疲れさまです」
諒太はこちらに気付かず一心不乱に草をむしる波平村長に声をかけた。

「おお、真田君! 久しぶり」
波平村長は首にかけたタオルで汗を拭うと笑顔で諒太に近づいた。

「村長自ら草取りを?」
諒太は波平の姿に驚いて声をかけた。

「役場で働くみなさんは自分の仕事が忙しいからね。真田君、僕はこう見えて結構暇なんだよ。やれる事は自分でやらないと村の人に示しがつかないからね」
波平はこだわりのない笑顔を見せた。

波平は既に村長を5期勤め、年齢はかるく70歳を超えていた。
頭は白髪で真っ白になり、眼鏡をかけた顔は優しい好々爺という雰囲気で、いつも穏やかな表情で島民と接していた。
諒太も村長が怒ったり、気分が悪そうな顔など島に来て一度たりとも見たことがなかった。
波平は島民全ての名前を記憶し、自分から気さくに話しかけるなどその優しくきめ細かい人柄から美波間村の島民から絶大な信任を得ていた。
諒太も島に来た時など波平の自宅に夕飯に招かれたこともあった。
諒太もこの気さくで偉ぶらない波平村長に深い信頼を抱いていた。

「真田君今日は役場の工事かい?」

「はい、パソコンの設置や配線の工事に伺いました」

「そうか、ご苦労様。総務の瞳さんに聞けば委細わかると思うよ」

「はい、わかりました。では早速取り掛かりますね村長」

「よろしく頼みます真田君」
どこまでも腰の低い村長であった。

諒太が役場に入って廊下を歩いていると廊下の向こうから副村長の宜保とすれ違った。
諒太は立ち止まり軽く会釈をしたが宜保は全く意に介さずに歩き去った。
この男、事務仕事は卒なくこなすが、人間的に問題があるようなところがあり、自分より立場が上の人には媚び諂うくせに立場が下の人間には居丈高に振る舞うところがある。
出入り業者などにはまるで汚い物でも見るような態度をとることもあった。
背が低くきっちりと髪を七三分けにしているところなどはいかにも役人といったところである。 
島の産業振興のことを考えれば美波間島リゾート開発計画には賛成だという意向を早くから示し、このところ存在感を高めていた。
外向きは大人しく振る舞ってはいるが其の実、能面のような顔の下には野心家の顔が隠されていた。
諒太はこのような人間はどこの世界にもいるものだと割り切り、宜保の態度など気にもとめなかった。

「やあ、瞳ちゃんお疲れさま」

諒太は真剣な眼差しでデスクのパソコンに向かう瞳に声をかけた。
瞳は村の正職員として総務課に所属をしてはいるが、小さい村役場だけに一般的な役場の住民課、健康福祉課、観光課などの業務にあたる仕事を兼任し、パート職員の統率者として毎日忙しい日々を送っていた。

「あ!諒太さん!」
瞳は満面の笑みで諒太に顔を向けた。

「瞳ちゃん相変わらず忙しそうだね」

「そんな事ないよ。皆さん頑張ってくれているから」

瞳のデスクの周りに座っているパート職員の我那覇道子と宮里志乃が照れたように笑った。
二人とも50代のベテランパート職員で若い瞳を支えていた。

「あら、瞳さん、真田さんが来てくれて嬉しそうね~」
我那覇道子は瞳を揶揄った。

「もうー道子さん変な事言わないでよー」
瞳は顔を赤くして頰を膨らませた。

我那覇と宮里は顔を見合わせクスクス笑った。
諒太は横を向いて咳払いをすると工事の作業手順を瞳に聞いた。
既に倉庫に届いている新しいパソコンを設置する作業で、古いパソコンからデータを転送する作業も含まれた。当然セキュリティソフトも新たにインストールしなければならない多少時間がかかる作業であった。
諒太は慣れた手つきで次々に作業をこなしていった。
コンピュータを扱う事に関してこの島で諒太の右に出るものはいないだろう。
なぜなら畑で鍬を振るう年数よりコンピュータを使って仕事をしていた年数の方が圧倒的に長いのだ。
しかも世界的大企業SOMYで大容量のコンピュータを使って電子機器の開発をしてきた実績がある諒太にとってこのような作業は朝飯前というところであった。
奥から砂川博之が近づいてきて後ろに立つと諒太の素早いタイピングを見つめた。
砂川は正職員として普段は村の水道管理、公園管理、建築土木などの業務を取り仕切り、台風などで被害が発生するような時には危機管理主任として先頭に立つ事になっている。
外に出ることの多い砂川は真っ黒に日焼けした顔をモニターに向けた。

「真田さん役場で働かない?
その技術もったいないよー」
砂川は軽口を叩いた。

「砂川さん勘弁してくださいよ。
俺は外で汗かく仕事の方が性に合っているんですから…」
諒太は砂川の冗談だとわかりつつ明るく答えた。

「やっぱりなぁー、真田さんだったらそういうと思ったよ」
砂川は微笑し諒太の肩を軽く叩くとと自分の席に戻った。
暫くしてパソコンのデータ転送が始まりひと時 人の手がいらなくなったタイミングで瞳は諒太に声をかけた。

「諒太さんちょっと話があるんだけど、先に中庭に行っててもらっていい?」

諒太は緑の生垣で囲われた役場の中庭のベンチに座り瞳を待った。
生垣には可憐な紅いハイビスカスの花が咲いている。

「諒太さん、ハイッ!」
いきなり声が聞こえたと思ったら放物線を描いて瞳が放った缶コーヒーが宙を舞った。
諒太は両手で上手く受け取った。

「ナイスキャッチ!」
瞳は親指を立ててニコっと笑った。

「ありがとう瞳ちゃん」
とても冷えた諒太の好きなブラックコーヒーだ。
瞳は諒太の隣に腰をかけた。
諒太はコーヒーを瞳はシークァーサージュースを口にした。

「どうしたの? 話って何かな?」

「うん…台北東海公司のことなんだけど…チーリンさんがここに来た理由聞いて驚いた。まさかチーリンさんまで翻弄されていたなんて…
諒太さんも聞いたでしょ?」

「ああ…聞いたよ。数年前とは比べ物にならないくらい台北東海公司の勢いは増しているようだね…」

「ねぇ諒太さん…チーリンさん、いつまで美波間島に居るつもりなんだろう?」
瞳はじっと諒太の横顔を見つめた。

「さあ…俺にはわからないが、彼女人気のある女優なんだろ?
事が落ち着けば台湾に帰るんじゃないかな」

「婚姻もしていない若い男女がひとつ屋根の下に暮らしているって世間体が悪いんじゃないかなって思うんだけど…」

「世間体か…ここの島民ならチーリンさんがここに来た理由がわかれば心配いらないんじゃないかな…」

「それはそうなんだけど、世間体というより私が…」
瞳は下を向いた。

「え?」

「ううん。何でもない」
瞳は取り繕うようにベンチから立ち上がった。

「そういえば最近、宜保副村長の携帯電話がひっきりなしに鳴るの。
その都度席を外して誰かと話しているみたいなの。
もしかしてリゾートホテル計画のことなのかなと思って…」

「そうか…副村長は計画推進派の筆頭だもんな… 
でも波平村長は慎重な姿勢を示しているし、源さんや竜男をはじめ反対派だって頑張っている。
そんなに心配しなくても大丈夫じゃないかな」

「そうだといいんだけど…」
瞳は心配そうに顔を曇らせた。
風にハイビスカスの花が揺れていた。

作業が終わり片付けをしていると主に社会福祉の業務をしている宮里志乃が諒太に声をかけた。

「真田さん、お願いがあるんだけど、帰りに浦添のおばあちゃんの家に寄ってもらえないかな?」

「浦添りくさんの家ですね。いいですけど、どうしたのですか?」

「さっき役場におばあちゃん テレビが映らなくなって困っているって電話があったの。悪いんだけどちょっと家に寄って見てもらえないかしら?」

諒太は快く引き受けた。 
諒太はいままでこの手の依頼を断わったためしがない。
呉屋工務店から入る大規模な仕事の依頼を除けば個人の手伝い程度の仕事に関しては決して諒太は謝礼を受け取らなかった。
それでは気が済まないと礼金の代わりに自分の畑で採れたトマトやナスなどの野菜や果物、海藻や魚介、なかにはちんすこうなどのお菓子まで差し出す島民もいたが、諒太は自分が食べられるだけの量を有り難く頂戴するのみで、それ以上のものは決して受け取らなかった。
家への帰り道にある高齢の浦添りくの家に行ってみるとテレビが映らなくなっていた原因はなんのことはない、リモコンを誤操作して入力をビデオ画面にしてしまっていただけのことであった。 高齢になると最近の電化製品は必要のない機能が多く、そのリモコンも実に複雑で厄介なものなのだ。
諒太はりくの長い茶飲み話しに捕まりかなりの時間を費やしてしまった。 話し相手がいない高齢者にはよくあることなので諒太は嫌な顔ひとつせず話しに付き合った。
そして家に帰る頃にはすっかり陽も傾いていた。

「あ!真田さんおかえりなさい」
チーリンが出迎えた。
笑顔を浮かべ何やら嬉しそうな空気を醸し出していた。  

「た…ただいま…」
諒太はチーリンのいつもとは違う雰囲気に圧倒された。

「晩御飯できているから食べましょ?」
陽気にチーリンは言った。

諒太は何かチーリンに変化が起こったことを感じ取った。
諒太が着替えて居間に入るとなんとちゃぶ台の上にはラフテーやじゅーしーと呼ばれる炊き込みご飯が並べられ味噌汁まで作られていた。

「これは…」
諒太はチーリンの顔を見たがチーリンは静かに微笑んでいるのみである。

「さあ、とにかく食べてみてください」

「あ…ああ」
諒太は言われるがままチーリンの味噌汁を口にしてみた。

お⁈…
他の料理にも手を付けてみた。
チーリンは諒太をじっと見つめている。

「どうですか?」
チーリンは上目遣いに諒太の顔を伺った。

「美味い…」
諒太は口に出した。

チーリンはちゃぶ台の下で小さくガッツポーズをした。

「これ…島の味付けだよな…これをどこで?」
諒太はいままでの料理とは違う味の変化に驚きチーリンに聞いた。

「やっぱりわかりますよね…実は清子おばあちゃんに教えてもらったんです…」
チーリンは伏し目がちに答えた。

「そうか…これ清子さんの味か…」


チーリンの指を見ると何ヶ所も絆創膏が巻かれている。

「チーリンさん…女優が指に怪我なんかして大丈夫なのかい?」

チーリンは慌てて手を隠した。

「あ、これ…
怪我は本当はまずいんですけど、女優としてというより女性としても向上していかなきゃいけないと思ったんです。 
料理が上手くなることでこれから演技の幅が広がるかもしれませんしね…
それと…自分が作った料理を美味しいって食べてもらえるのは嬉しいです…」
チーリンは照れたように俯いた。

諒太は女優ということを鼻にかけないチーリンのいじらしさに感心した。



数日が経ち源一が慌てて飛び込んできた。

「諒太ぁ! いるかぁ⁈
大変なんだちょっと来てくれ!」

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