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完璧な頭脳
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「佐倉君。君は生命の死についてどう考える」
遠野教授は二人きりの静かなラボで突然問いかける。つい数分前までメディアの嵐が吹き荒れていたラボ。面会謝絶、通信設備断絶によりようやく静寂を取り戻した白を基調としたラボ。
実験台用の簡素な回転椅子に腰掛けた遠野教授は窓から見える夜の闇に視線を投げた。眼下には出待ちをするマスコミが徹夜を覚悟している様子だった。
なぜこんなことになっているのか。そこから説明する必要があるだろう。
簡潔に説明すると、昨日遠野教授の身の回りの世話をしていたお姉さんが殺害遺体で発見された。
私は何度か顔を合わせていたのでショックが大きかった。おそらく遠野教授はそれ以上なのではないかと思われるが――。
しかし、教授はいつもと変わらずこんな事を聞いてくるのだ。そう、いつもと変わらず――。
「生物の定義としましては、自己増殖能力・エネルギー変換能力・恒常性維持能力の三つが挙げられることが一般的です。人によっては外界との隔絶なんてものを取り上げる方もいらっしゃいますが。私はこの中の自己増殖能力以外のどれかの機能が完全に停止してしまった場合が死だと考えます」
「君は自己増殖能力を除くなんて当たり障りのないことを言うのだね。自己増殖能力、つまりは生殖能力だが、それは遺伝疾患でいくらでも欠損個体が存在しているし、事故や病で自己増殖能力を無くす場合も多い。もちろん老化でそれは確実に失われる。君はそういった個体、主に人に対して差別的な発言と捉えられるのを避けるために先手を打っているのだね。君は賢いよ。それを世間では大人と呼ぶのだろうね」
「いえ、私は単に遠野教授の研究を否定しないように発言したまでです。教授が作られた不死化マウス。細胞単位で減数分裂による自己増殖能力を備えることで細胞死を理論上なくし、個体としての死滅を否定する。代償として生殖機能としての減数分裂を行うことができず、個体の死イコール種の絶滅に繋がる。自己増殖能力の有無を定義に据えることは、ここの学生として不相応だと思っておりますので」
「君の口からは、論理性のある言葉ばかり出てくる。だから僕も好感を持つことができたのかもしれないね」
私は遠野教授と現在交際している。二年前に私のアプローチを受けてもらったのだ。
今、大学院博士課程三年目の私は来年から他大学のポストドクター……通称ポスドクとして働く話を頂いているのだけれど、私自身このラボから移る気がない。なので、契約助手として残ろうとしている。正直なところ、遠野教授が好き……という理由だけである。
アメリカで十五歳で博士号を取り、その時に作られた不死化マウスが今年で十五才を迎える。健康状態に異常はなく、神経の劣化も見られないという完璧なサンプルだ。
「人に応用するには倫理的観点から許可が降りない。だから僕の研究はあれが終着点なんだ。あとは想定されていた神経細胞の劣化が起きないことに対する考察と証明、もっと寿命の短い個体での寿命比較実験など、さして興味をそそられない論文を学生に書いてもらうくらいだね」
「ホルモンと神経劣化の関係性について研究している学生の前でよくそんなことを言えますね」
「嘘偽りなく情報を開示することが、知の探求のパフォーマンスを上げることに繋がる。ほら、こうして僕が正直に発言したおかげで君は誤解なく思考することができているのだから」
「教授はモチベーションの維持ということにも気を使われるべきですよ」
「モチベーションというのは目的がない者の為にある言葉だよ。目的があれば必要なことは考えるし行動する。最低限度のパフォーマンスは保証されているといっても過言ではない」
「そんなことより、このマスコミどうするんですか? あれは何日も待ち構えるつもりですよ」
研究棟の下にはハイエースが何台か停まっている。中に泊まっている様子も分かる。
「そんなことより有意義な話をしよう。死についてだ。君は生物の定義の崩壊と死を紐付けたけれど、僕の考えは少し違っていてね」
熱くて苦い煎れたてのブラックコーヒーをすする教授。
「やはり、嗜好品に栄養素となる糖は邪魔だな」
「教授、続きをお願いします」
「そうだね。僕の考える生命の死というのは種の絶滅なんだよ。ヒトというのは個で主観として生死を考えてしまうが、ヒトの個は種という大きな枠から見れば細胞と同義であり、種が続く限り種としては元より不死にニヤリーイコールなんだよ。種を一つの個として見さえすれば不死。不老かどうかは分からないけれどね。不死を望む人は既に不死を手にしていたんだ」
「それでも、人が望むのは個としての不老不死ですから、概念だけでは納得いかないですよね。それこそ全は一、一は全って事なのでしょうけど循環論法のような考えでは大衆に広く周知されることは難しいですよ」
「私が作った不死化マウスがいまだに議論され続けているのはそれが原因なんだ。一つの個体を一つの種にしてしまった。君が言った通りね。不死化マウスとして周知されてはいるけれど、実際のところは個体を種という大枠に組み替えただけなんだ。それを無理矢理個の形に留めている。これを人で行うとホムンクルスと言われるのだろうね。それに、誰も触れないようにしているが問題はもっと別のところにあるんだ」
「なんですか?」
「僕は外的要因さえなければ種に終わりがないことを前提として不死化マウスという言葉を使った。しかし、外的要因がなく不死化マウスが死を迎えてしまったら……」
「種の絶滅が決まっていることの証明になってしまう?」
「そう。その通りだ。あのマウスはパンドラの箱なんだよ。実験の結果が死を迎えることでもあるが、その結果が不可避の人類滅亡を示唆することになる。これは……気付いた権力に消される実験かも知れない」
ふーっと溜め息をついてコーヒーをすする。私には教授の考え以上に苦く熱い自虐的な飲み物を好んで口に入れる気持ちのほうが理解できなかった。
人類の到達点。完璧な頭脳。
世界にそこまで言われた遠野教授の思考回路を理解できないことは、私みたいな凡人にとってなんら不思議なことではないが、コーヒーに関しては理解したい心境がある。
「そういえば教授。以前教授のお姉さんが近所のスーパーで買い物をしている時に顔を合わせた事があったのですが……」
「姉も四十八で命を落とすとは。戦国時代なら大往生だ」
いつも斜に構えて世の中を達観している教授は、昨日お姉さんが亡くなったことが分かったというのに普段通りだ。これで慌てていたら逆におかしく感じる。
「教授……実は嫌な噂を耳にしまして」
「なんだい? 嘘偽りなく情報を開示することが、知の探求のパフォーマンスを上げることに繋がる。ほら、遠慮せず言ってごらん」
「お姉さんを殺害したのが遠野教授だという噂があるのですが、どう思いますか?」
「なんだ。そのことか」
警察の聞き取り調査で、お姉さんが殺された場所付近で死亡推定時刻頃、遠野教授の目撃例が相次いだそうだ。死亡推定時刻は一昨日の正午頃。住宅街から近い小さな山中だったそうだ。その住宅街で遠野教授を見かけたという……。
「僕は君と一緒に昨日の朝、カナダの学会から帰ってきたところだ。アリバイもなにも、無茶が過ぎる推論だ。体が二つあるわけでもあるまいし」
教授の家庭は少し複雑で、遠野教授が生まれてすぐに両親が離縁。総合病院の院長でもある父親と十八歳の姉のいる家で育った。姉は遠野教授の世話に専念するという理由で高校を中退し、資産に余裕がある家庭で家事に専念していたそうだ。
そして、遠野教授の父は五年前に他界しており、病院は当時の副院長が引き継いでいる。
この情報は、メディアでも取り上げられており有名な話だ。
「そうですね。体が二つないと無理ですね」
「なんだい? まるで僕が体を二つ持っているかのような言い草じゃないか。残念ながら僕には人に隠れて自分の複製を作るほどの度胸は持ち合わせていないんだ」
「教授の口からヘタレ宣言なんて聞きたくなかったですが」
「いやいや、僕なんてヘタレで十分さ。ただただ自分の内側の世界で物事が完結してしまっている小さな男さ」
「思考に他人が介在する必要がない。だからこそ完璧な頭脳と言われているのでしょうね」
「僕はその呼び名は好きじゃないんだよ。僕は一つの種ではなくその中の個なんだ。あくまでね。僕が消えたところで代わりはいるんだ」
「いませんよ。教授の代わりなんて」
私は真っ直ぐに教授の目を見る。
「私が惚れたのは遠野連。あなただけです。他に代わりはいません」
「照れるじゃないか。やめてくれよ」
全く照れた素振りも見せてくれずに無表情でコーヒーをすする教授。いや、コーヒーをすするという行為が照れ隠しなのかもしれないと思えば多少は言葉通り照れているのかもしれない。
「そんなことより」
実験台にコーヒーを置くと遠野教授も真っ直ぐに私を見る。
「スーパーで僕の姉を見た……。何か言いたいことがあったからそんな言葉を導入してきたのだろう?」
教授には私の拙い会話術なんて全てお見通しのようだった。そう、言いたいことがあったのだ。
「教授のお姉さんはコーヒーを飲まれませんよね?」
ポットから新しいコーヒーを注いだ教授は一口飲むと睨みつけるように私を見る。……一応教授と学生という間柄だ。脅すような視線には慣れている。
次いで放たれる言葉も。
「コンクルから言いたまえ」
コンクル……コンクルージョンの略で、つまりは結論だ。研究経過報告と同様に私は簡潔に答える。
「はい。……犯人をどうするおつもりですか?」
コーヒーを置いた教授はニヤリと笑った。教授が笑うときは決まって想像以上の答えが返ってきた時だ。教授が喜ぶ回答は論理的説明を四つも五つも飛ばして正解を言い当てること。今のはまさにそうだったのだろう。
「コンクルがそれか……。面白いコンクルにたどり着いたものだ。スーパーで会った、姉がコーヒーを飲まない。そのアブストからどうしてその答えが出たのやら。聞かせてくれないか? 君の考察を」
女の勘どころではない。博打にしても確率の低い、論理もご都合主義にも甚だしいとは分かっているけれど、私の直感がこれが答えだと叫んだのだ。砕けたガラスを地面にばら撒いたら元の形になった……そのくらい有り得ない全てのピースがハマる感覚。その答え合わせをしなくて何が研究者だ。
知の探求――私と遠野教授との共通の趣味。
嘘偽りなく情報を開示する! それが妄言だと言われようとも。
「スーパーでお姉さんが買われていたものにコーヒーシュガーがありました」
「ほう。その可能性としては?」
「遠野教授が使わないことは前提として省きます。まず、お姉さんもコーヒーを飲まれていて、コーヒーシュガーを入れるタイプだった。二つ目が、お客様用に買う必要があった。三つ目が、コーヒーシュガーを使う第三者が家にいた」
「そこで君は三つ目の可能性で論理を進めた訳だ。どうして?」
「以前お姉さんがラボにお越しになったときお茶を飲まれていました。よって、コーヒーを飲まない方の可能性が高かった。お客様用かどうかですが、個包装のコーヒーシュガーではなかったので自家用なのだという私のご都合解釈です」
「なるほど。君は三つ目の可能性で話を進めたかった……という解釈でいいかい?」
この時点で論理性を欠いているのは重々承知している。苦しい説明だと指摘されているけれど……けれど進めたい。確かめたい。
「いいよ。続けて」
「ありがとうございます。第三者だった場合、どういった人が考えられるか」
「君が考えた可能性を……そうだね、三つ上げてくれたまえ」
「はい。まずは親族の方がしばらく家に来ている。親しいご友人がしばらく家に来ている。実は誰にも知られていないご家族がいた」
「君の話しぶりからすると、誰にも知られていないご家族がいたというルートを選んだのだろう。さしずめ僕の普段の言動からごく最近に家庭に変化がないということを感じ取ったといったところか」
「はい。正しくそうです。私の直感によるところが大きいです」
「いいよ。続けて」
「そこで私が出した推論はこうです。教授のお姉さんは教授のお父さんとの子供を産んでいた。それも教授とほぼ同じ年に」
「ほう」
「教授のご両親が別れたのは、それが原因です。そして、お姉さんが高校を中退したというのも、世間一般に知られている内容とは違い、真実は出産のため。教授のお父さんの病院で出産し、出生を届け出なかった……と。おそらく、世間体を気にしての秘匿だったのでしょう。近親相姦は法律で裁かれる事案ではありませんが、文化的に許される事ではありません。そして今回の事件。おそらく、そのお姉さんの息子さんがお姉さんを殺害した。周辺住民が見たという遠野教授は、実は瓜二つで歳もほぼ同じ遠野教授の甥なのでは? そう考えました」
「目撃証言からなら、まだ双子という考え方の方が可能性としては高いのではないかい?」
「これは私の女の勘なんですけど……」
遠野教授は止めどなくコーヒーをすする。
「ラボに来たお姉さんは、なんというか子供を愛するお母さんの雰囲気がありましたから」
私は誤魔化すように笑って言うと、遠野教授はソーサーにコーヒーカップを置いて、また夜空を見上げた。そして――。
一筋の涙を流した。
私は初めて遠野教授の涙を見た。いや、初めて遠野教授が感情を出すところを見た。感情や本能なんていうものを全て理性で抑え、理論で動く人類の到達点。完璧な頭脳。そう呼ばれた遠野教授の流した一筋の涙。
さっきまで格好良くコーヒーをすすっていたのに、いまや鼻をすする音を立てている。
「キムワイプしかなくてすみません」
「ありがとう佐倉君」
鼻をかみ、涙を拭き取ってすぐに落ち着く遠野教授。
「生命の死について……初めてまともに考えた気がしたよ」
世界で最も生死の真理に近づいたとされる遠野教授が言う。
「個にとってはやはり重要なのは個の生死であって、種の存続ではない。それは人以外の生物でも共食いが数多く存在することから明らかなのかもしれない。種に嗜好や指向はあるかもしれないけれど、個にしか思考はない。私は思考する限り主観で大切な個の死は、やはり受け入れがたい。実験でも仮説でもなく、唐突に現れた結果で知る事になるとは、僕も学者としてまだまだだ」
実験用の回転椅子に腰掛け、遠野教授はコーヒーを口に落ち着いていた。
「君の推論……いや、妄想と言ったほうがいいかな。その通り、姉には子供がいた。父と母の子供と同じ歳だ」
「じゃあ、やっぱりお姉さんを手にかけたのは……」
「でも佐倉君、一つ君の推論には間違いがあるんだ。いや、一つしか間違いがなかったのは逆に超人的というか超能力を疑いたくなるが……」
「え……と。なんでしょう?」
「姉の息子が犯人ではない。――僕が姉の息子……母さんを殺したのは僕の同い年の叔父、遠野連だ」
「え、じゃあいなかったことにされたのが……」
「正しく戸籍を与えられていたはずの叔父の方だ。父の意向で三歳頃から入れ替わったんだ。それが今になって爆発したんだろう。母さんを殺すという方法で」
「そんな……そんな……」
「近親相姦は遺伝疾患が出やすいけれど、僕の場合はそう……この異常な思考回路なのだろう。あ、そうそう。君が結論付けた質問に答えていなかったね」
……犯人をどうするおつもりですか?
「殺すよ。この手で」
ブラックコーヒーよりも黒く、夜空よりも遠い瞳で迷いなく答えた遠野教授。いつもの理性的な教授の顔だ。怒り狂っているわけでもない。理性が本能に負けているのではない。だからこそ思った。
本能は理性で抑えることができる。では理性を抑えるのはどうしたらいい?
人類の到達点、完璧な頭脳で導き出した答えをどうすれば抑えることができる?
「それだけは私が止めてみせます!」
「させないよ」
いや、これは理性ではない。感情と理性が複雑に絡み合っているだけだ。
感情と理性の区別が付いていないだけだ。なら――。
「ではその瞬間には立ち会わせてもらいます。ずっと……止めるように声をかけさせてもらいます」
「好きに……したらいい」
「はい。好きにします。あと、もう一つ質問なんですけど」
「なんだい?」
「叔父さんの名前が遠野連なら、遠野教授には別の名前があるはずですよね?」
教えてください。教授のことなら何でも知りたいんです。
「全て片付いたら……教えてあげるよ。それまで僕は遠野連だ」
「では、全てが終わるまで隣で付き添います。ダメなことは止めます。くじけそうになったら支えます」
人類の到達点、完璧な頭脳。
でも、心はどこか欠けている。
やっと教授の足りないところを補える。
これは喜ぶべきことではないのかもしれないけれど、完璧な彼にも欠点はあった。それは……
遠野教授は二人きりの静かなラボで突然問いかける。つい数分前までメディアの嵐が吹き荒れていたラボ。面会謝絶、通信設備断絶によりようやく静寂を取り戻した白を基調としたラボ。
実験台用の簡素な回転椅子に腰掛けた遠野教授は窓から見える夜の闇に視線を投げた。眼下には出待ちをするマスコミが徹夜を覚悟している様子だった。
なぜこんなことになっているのか。そこから説明する必要があるだろう。
簡潔に説明すると、昨日遠野教授の身の回りの世話をしていたお姉さんが殺害遺体で発見された。
私は何度か顔を合わせていたのでショックが大きかった。おそらく遠野教授はそれ以上なのではないかと思われるが――。
しかし、教授はいつもと変わらずこんな事を聞いてくるのだ。そう、いつもと変わらず――。
「生物の定義としましては、自己増殖能力・エネルギー変換能力・恒常性維持能力の三つが挙げられることが一般的です。人によっては外界との隔絶なんてものを取り上げる方もいらっしゃいますが。私はこの中の自己増殖能力以外のどれかの機能が完全に停止してしまった場合が死だと考えます」
「君は自己増殖能力を除くなんて当たり障りのないことを言うのだね。自己増殖能力、つまりは生殖能力だが、それは遺伝疾患でいくらでも欠損個体が存在しているし、事故や病で自己増殖能力を無くす場合も多い。もちろん老化でそれは確実に失われる。君はそういった個体、主に人に対して差別的な発言と捉えられるのを避けるために先手を打っているのだね。君は賢いよ。それを世間では大人と呼ぶのだろうね」
「いえ、私は単に遠野教授の研究を否定しないように発言したまでです。教授が作られた不死化マウス。細胞単位で減数分裂による自己増殖能力を備えることで細胞死を理論上なくし、個体としての死滅を否定する。代償として生殖機能としての減数分裂を行うことができず、個体の死イコール種の絶滅に繋がる。自己増殖能力の有無を定義に据えることは、ここの学生として不相応だと思っておりますので」
「君の口からは、論理性のある言葉ばかり出てくる。だから僕も好感を持つことができたのかもしれないね」
私は遠野教授と現在交際している。二年前に私のアプローチを受けてもらったのだ。
今、大学院博士課程三年目の私は来年から他大学のポストドクター……通称ポスドクとして働く話を頂いているのだけれど、私自身このラボから移る気がない。なので、契約助手として残ろうとしている。正直なところ、遠野教授が好き……という理由だけである。
アメリカで十五歳で博士号を取り、その時に作られた不死化マウスが今年で十五才を迎える。健康状態に異常はなく、神経の劣化も見られないという完璧なサンプルだ。
「人に応用するには倫理的観点から許可が降りない。だから僕の研究はあれが終着点なんだ。あとは想定されていた神経細胞の劣化が起きないことに対する考察と証明、もっと寿命の短い個体での寿命比較実験など、さして興味をそそられない論文を学生に書いてもらうくらいだね」
「ホルモンと神経劣化の関係性について研究している学生の前でよくそんなことを言えますね」
「嘘偽りなく情報を開示することが、知の探求のパフォーマンスを上げることに繋がる。ほら、こうして僕が正直に発言したおかげで君は誤解なく思考することができているのだから」
「教授はモチベーションの維持ということにも気を使われるべきですよ」
「モチベーションというのは目的がない者の為にある言葉だよ。目的があれば必要なことは考えるし行動する。最低限度のパフォーマンスは保証されているといっても過言ではない」
「そんなことより、このマスコミどうするんですか? あれは何日も待ち構えるつもりですよ」
研究棟の下にはハイエースが何台か停まっている。中に泊まっている様子も分かる。
「そんなことより有意義な話をしよう。死についてだ。君は生物の定義の崩壊と死を紐付けたけれど、僕の考えは少し違っていてね」
熱くて苦い煎れたてのブラックコーヒーをすする教授。
「やはり、嗜好品に栄養素となる糖は邪魔だな」
「教授、続きをお願いします」
「そうだね。僕の考える生命の死というのは種の絶滅なんだよ。ヒトというのは個で主観として生死を考えてしまうが、ヒトの個は種という大きな枠から見れば細胞と同義であり、種が続く限り種としては元より不死にニヤリーイコールなんだよ。種を一つの個として見さえすれば不死。不老かどうかは分からないけれどね。不死を望む人は既に不死を手にしていたんだ」
「それでも、人が望むのは個としての不老不死ですから、概念だけでは納得いかないですよね。それこそ全は一、一は全って事なのでしょうけど循環論法のような考えでは大衆に広く周知されることは難しいですよ」
「私が作った不死化マウスがいまだに議論され続けているのはそれが原因なんだ。一つの個体を一つの種にしてしまった。君が言った通りね。不死化マウスとして周知されてはいるけれど、実際のところは個体を種という大枠に組み替えただけなんだ。それを無理矢理個の形に留めている。これを人で行うとホムンクルスと言われるのだろうね。それに、誰も触れないようにしているが問題はもっと別のところにあるんだ」
「なんですか?」
「僕は外的要因さえなければ種に終わりがないことを前提として不死化マウスという言葉を使った。しかし、外的要因がなく不死化マウスが死を迎えてしまったら……」
「種の絶滅が決まっていることの証明になってしまう?」
「そう。その通りだ。あのマウスはパンドラの箱なんだよ。実験の結果が死を迎えることでもあるが、その結果が不可避の人類滅亡を示唆することになる。これは……気付いた権力に消される実験かも知れない」
ふーっと溜め息をついてコーヒーをすする。私には教授の考え以上に苦く熱い自虐的な飲み物を好んで口に入れる気持ちのほうが理解できなかった。
人類の到達点。完璧な頭脳。
世界にそこまで言われた遠野教授の思考回路を理解できないことは、私みたいな凡人にとってなんら不思議なことではないが、コーヒーに関しては理解したい心境がある。
「そういえば教授。以前教授のお姉さんが近所のスーパーで買い物をしている時に顔を合わせた事があったのですが……」
「姉も四十八で命を落とすとは。戦国時代なら大往生だ」
いつも斜に構えて世の中を達観している教授は、昨日お姉さんが亡くなったことが分かったというのに普段通りだ。これで慌てていたら逆におかしく感じる。
「教授……実は嫌な噂を耳にしまして」
「なんだい? 嘘偽りなく情報を開示することが、知の探求のパフォーマンスを上げることに繋がる。ほら、遠慮せず言ってごらん」
「お姉さんを殺害したのが遠野教授だという噂があるのですが、どう思いますか?」
「なんだ。そのことか」
警察の聞き取り調査で、お姉さんが殺された場所付近で死亡推定時刻頃、遠野教授の目撃例が相次いだそうだ。死亡推定時刻は一昨日の正午頃。住宅街から近い小さな山中だったそうだ。その住宅街で遠野教授を見かけたという……。
「僕は君と一緒に昨日の朝、カナダの学会から帰ってきたところだ。アリバイもなにも、無茶が過ぎる推論だ。体が二つあるわけでもあるまいし」
教授の家庭は少し複雑で、遠野教授が生まれてすぐに両親が離縁。総合病院の院長でもある父親と十八歳の姉のいる家で育った。姉は遠野教授の世話に専念するという理由で高校を中退し、資産に余裕がある家庭で家事に専念していたそうだ。
そして、遠野教授の父は五年前に他界しており、病院は当時の副院長が引き継いでいる。
この情報は、メディアでも取り上げられており有名な話だ。
「そうですね。体が二つないと無理ですね」
「なんだい? まるで僕が体を二つ持っているかのような言い草じゃないか。残念ながら僕には人に隠れて自分の複製を作るほどの度胸は持ち合わせていないんだ」
「教授の口からヘタレ宣言なんて聞きたくなかったですが」
「いやいや、僕なんてヘタレで十分さ。ただただ自分の内側の世界で物事が完結してしまっている小さな男さ」
「思考に他人が介在する必要がない。だからこそ完璧な頭脳と言われているのでしょうね」
「僕はその呼び名は好きじゃないんだよ。僕は一つの種ではなくその中の個なんだ。あくまでね。僕が消えたところで代わりはいるんだ」
「いませんよ。教授の代わりなんて」
私は真っ直ぐに教授の目を見る。
「私が惚れたのは遠野連。あなただけです。他に代わりはいません」
「照れるじゃないか。やめてくれよ」
全く照れた素振りも見せてくれずに無表情でコーヒーをすする教授。いや、コーヒーをすするという行為が照れ隠しなのかもしれないと思えば多少は言葉通り照れているのかもしれない。
「そんなことより」
実験台にコーヒーを置くと遠野教授も真っ直ぐに私を見る。
「スーパーで僕の姉を見た……。何か言いたいことがあったからそんな言葉を導入してきたのだろう?」
教授には私の拙い会話術なんて全てお見通しのようだった。そう、言いたいことがあったのだ。
「教授のお姉さんはコーヒーを飲まれませんよね?」
ポットから新しいコーヒーを注いだ教授は一口飲むと睨みつけるように私を見る。……一応教授と学生という間柄だ。脅すような視線には慣れている。
次いで放たれる言葉も。
「コンクルから言いたまえ」
コンクル……コンクルージョンの略で、つまりは結論だ。研究経過報告と同様に私は簡潔に答える。
「はい。……犯人をどうするおつもりですか?」
コーヒーを置いた教授はニヤリと笑った。教授が笑うときは決まって想像以上の答えが返ってきた時だ。教授が喜ぶ回答は論理的説明を四つも五つも飛ばして正解を言い当てること。今のはまさにそうだったのだろう。
「コンクルがそれか……。面白いコンクルにたどり着いたものだ。スーパーで会った、姉がコーヒーを飲まない。そのアブストからどうしてその答えが出たのやら。聞かせてくれないか? 君の考察を」
女の勘どころではない。博打にしても確率の低い、論理もご都合主義にも甚だしいとは分かっているけれど、私の直感がこれが答えだと叫んだのだ。砕けたガラスを地面にばら撒いたら元の形になった……そのくらい有り得ない全てのピースがハマる感覚。その答え合わせをしなくて何が研究者だ。
知の探求――私と遠野教授との共通の趣味。
嘘偽りなく情報を開示する! それが妄言だと言われようとも。
「スーパーでお姉さんが買われていたものにコーヒーシュガーがありました」
「ほう。その可能性としては?」
「遠野教授が使わないことは前提として省きます。まず、お姉さんもコーヒーを飲まれていて、コーヒーシュガーを入れるタイプだった。二つ目が、お客様用に買う必要があった。三つ目が、コーヒーシュガーを使う第三者が家にいた」
「そこで君は三つ目の可能性で論理を進めた訳だ。どうして?」
「以前お姉さんがラボにお越しになったときお茶を飲まれていました。よって、コーヒーを飲まない方の可能性が高かった。お客様用かどうかですが、個包装のコーヒーシュガーではなかったので自家用なのだという私のご都合解釈です」
「なるほど。君は三つ目の可能性で話を進めたかった……という解釈でいいかい?」
この時点で論理性を欠いているのは重々承知している。苦しい説明だと指摘されているけれど……けれど進めたい。確かめたい。
「いいよ。続けて」
「ありがとうございます。第三者だった場合、どういった人が考えられるか」
「君が考えた可能性を……そうだね、三つ上げてくれたまえ」
「はい。まずは親族の方がしばらく家に来ている。親しいご友人がしばらく家に来ている。実は誰にも知られていないご家族がいた」
「君の話しぶりからすると、誰にも知られていないご家族がいたというルートを選んだのだろう。さしずめ僕の普段の言動からごく最近に家庭に変化がないということを感じ取ったといったところか」
「はい。正しくそうです。私の直感によるところが大きいです」
「いいよ。続けて」
「そこで私が出した推論はこうです。教授のお姉さんは教授のお父さんとの子供を産んでいた。それも教授とほぼ同じ年に」
「ほう」
「教授のご両親が別れたのは、それが原因です。そして、お姉さんが高校を中退したというのも、世間一般に知られている内容とは違い、真実は出産のため。教授のお父さんの病院で出産し、出生を届け出なかった……と。おそらく、世間体を気にしての秘匿だったのでしょう。近親相姦は法律で裁かれる事案ではありませんが、文化的に許される事ではありません。そして今回の事件。おそらく、そのお姉さんの息子さんがお姉さんを殺害した。周辺住民が見たという遠野教授は、実は瓜二つで歳もほぼ同じ遠野教授の甥なのでは? そう考えました」
「目撃証言からなら、まだ双子という考え方の方が可能性としては高いのではないかい?」
「これは私の女の勘なんですけど……」
遠野教授は止めどなくコーヒーをすする。
「ラボに来たお姉さんは、なんというか子供を愛するお母さんの雰囲気がありましたから」
私は誤魔化すように笑って言うと、遠野教授はソーサーにコーヒーカップを置いて、また夜空を見上げた。そして――。
一筋の涙を流した。
私は初めて遠野教授の涙を見た。いや、初めて遠野教授が感情を出すところを見た。感情や本能なんていうものを全て理性で抑え、理論で動く人類の到達点。完璧な頭脳。そう呼ばれた遠野教授の流した一筋の涙。
さっきまで格好良くコーヒーをすすっていたのに、いまや鼻をすする音を立てている。
「キムワイプしかなくてすみません」
「ありがとう佐倉君」
鼻をかみ、涙を拭き取ってすぐに落ち着く遠野教授。
「生命の死について……初めてまともに考えた気がしたよ」
世界で最も生死の真理に近づいたとされる遠野教授が言う。
「個にとってはやはり重要なのは個の生死であって、種の存続ではない。それは人以外の生物でも共食いが数多く存在することから明らかなのかもしれない。種に嗜好や指向はあるかもしれないけれど、個にしか思考はない。私は思考する限り主観で大切な個の死は、やはり受け入れがたい。実験でも仮説でもなく、唐突に現れた結果で知る事になるとは、僕も学者としてまだまだだ」
実験用の回転椅子に腰掛け、遠野教授はコーヒーを口に落ち着いていた。
「君の推論……いや、妄想と言ったほうがいいかな。その通り、姉には子供がいた。父と母の子供と同じ歳だ」
「じゃあ、やっぱりお姉さんを手にかけたのは……」
「でも佐倉君、一つ君の推論には間違いがあるんだ。いや、一つしか間違いがなかったのは逆に超人的というか超能力を疑いたくなるが……」
「え……と。なんでしょう?」
「姉の息子が犯人ではない。――僕が姉の息子……母さんを殺したのは僕の同い年の叔父、遠野連だ」
「え、じゃあいなかったことにされたのが……」
「正しく戸籍を与えられていたはずの叔父の方だ。父の意向で三歳頃から入れ替わったんだ。それが今になって爆発したんだろう。母さんを殺すという方法で」
「そんな……そんな……」
「近親相姦は遺伝疾患が出やすいけれど、僕の場合はそう……この異常な思考回路なのだろう。あ、そうそう。君が結論付けた質問に答えていなかったね」
……犯人をどうするおつもりですか?
「殺すよ。この手で」
ブラックコーヒーよりも黒く、夜空よりも遠い瞳で迷いなく答えた遠野教授。いつもの理性的な教授の顔だ。怒り狂っているわけでもない。理性が本能に負けているのではない。だからこそ思った。
本能は理性で抑えることができる。では理性を抑えるのはどうしたらいい?
人類の到達点、完璧な頭脳で導き出した答えをどうすれば抑えることができる?
「それだけは私が止めてみせます!」
「させないよ」
いや、これは理性ではない。感情と理性が複雑に絡み合っているだけだ。
感情と理性の区別が付いていないだけだ。なら――。
「ではその瞬間には立ち会わせてもらいます。ずっと……止めるように声をかけさせてもらいます」
「好きに……したらいい」
「はい。好きにします。あと、もう一つ質問なんですけど」
「なんだい?」
「叔父さんの名前が遠野連なら、遠野教授には別の名前があるはずですよね?」
教えてください。教授のことなら何でも知りたいんです。
「全て片付いたら……教えてあげるよ。それまで僕は遠野連だ」
「では、全てが終わるまで隣で付き添います。ダメなことは止めます。くじけそうになったら支えます」
人類の到達点、完璧な頭脳。
でも、心はどこか欠けている。
やっと教授の足りないところを補える。
これは喜ぶべきことではないのかもしれないけれど、完璧な彼にも欠点はあった。それは……
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そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
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※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
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そのほかに外伝も綴りました。
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