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28.記憶喪失
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美波さんの話を聞いて俺はすとんと心に落ちた。まるで四列同時に消すことができたテトリスのようにピタリとハマってモヤモヤとしたものが消える。
「生活に必要な知識は覚えていますし、読み書きや勉強も少し見たりすれば簡単に思い出して支障はありません。ただ、春休み以前の……母親が亡くなるより前の記憶が無いんです」
だからお母さんが亡くなった時にショックだったかも分からないわけだ。自分の両親を父親母親と親しみのこもっていない呼び方をするのも記憶が無いからこその距離感なのかもしれない。
病院で美波さんのお父さんが親子なのだから気を張らなくていいなんて言っていたのもそれが原因だろう。中学の先生との対話でも思い出話の一つも出なかったのは学校に行っていなかったからというだけでなく、そもそも記憶自体が無かったから。
妙に秘密があったのも、記憶がなくて答えようが無かったのだろう。
そして――
「探しもの……それは失くした記憶のことだったんだね」
俺の言葉に美波さんは視線を落としたまま首を縦に振って肯定する。実体がなく、しかし確実に失くしたというもの。それは俺が美波さんの家に入る前に推測していたもので間違いなかった。フィクションの世界だと思っていた記憶喪失。それに現実で触れることになるとは思っていなかったが、今日一日の言動から疑うべくもない。
「私の記憶は母親が亡くなった翌日の朝からしかありません。三月十五日の朝からです」
「じゃあ、ちゃんと記憶があるのはこの二十日間くらいか」
「はい……」
美波さんはずっと俺と視線を合わせない。怯えたように目を伏せたままだ。
「お葬式で親戚が集まったときも皆さん私の知らない私について話をしていて、私は思い出そうと理解しようと必死に考えてもどうにもできなくて……。私の父親はそんな私のことに理解を示してくれて、母親が死んでショックで混乱してるって説明してくれていました」
美波さんは小さな声でつぶやくようにして話してくれるとコップに口をつけた。しかしオレンジジュースは減った様子もなかったので、手持ち無沙汰に口をつけたのだろう。
「本当に母親が亡くなった混乱から記憶が無くなった可能性もあります。病院で先生からもそう言われました。でも分からないんです……」
美波さんはそう言ってコップを握る手に力を込める。
「混乱して記憶を失くすほどショックなのに、悲しむこともできない私って……酷い人間なんじゃないかって……」
コップを両手で握る美波さんは声を震わせる。よく見れば声だけでなく体も震えている。とても辛そうに目を強くつむっている。
「そんなことないよ」
俺の言葉に美波さんはゆっくりと目を開いた。
「お葬式のときも思い出そうと頑張ったんでしょ? 今日だって記憶を取り戻そうとしてたんでしょ? 記憶を取り戻したら辛くなるって分かってても思い出そうとしてるなら、それだけで十分優しい人だって証拠だよ。大丈夫。今日一日しか一緒にいなかった俺にもそれは伝わってる」
嘘偽りない言葉だ。俺のことを振り回している状態なのは間違いないが、優しいと感じる瞬間がある。例えばエロ漫画を見つけた瞬間に脅すという選択肢が思い浮かばないことや、病院で俺をもてなすために持てる限りのジュースを買ってきたこと。それだけでも優しい子なんだと確信を持てる。よく思い出せば他にもあるだろう。
「ありがとう……ございます……」
美波さんは絞り出すように言うと、それから口を閉ざした。
「記憶を失う前も今と変わらない感じだったのかな。中学校の先生の話を聞いててそう思ったよ。真面目で優しい人格の持ち主だったんだろうね」
美波さんは黙ったまま涙を流し始めると、スカートのポケットからハンカチを取り出して目元に強く押しあてた。父親以外に話をしたことで緊張の糸が切れたのだろう。落ち着くまでしばらく時間がかかるかもしれない。時計の針はそろそろ六時を差す。寮の門限は七時なのであまりゆっくりはできないけれど、せめて涙が止まるまでは急かしたりせずに待つことにしよう。
「生活に必要な知識は覚えていますし、読み書きや勉強も少し見たりすれば簡単に思い出して支障はありません。ただ、春休み以前の……母親が亡くなるより前の記憶が無いんです」
だからお母さんが亡くなった時にショックだったかも分からないわけだ。自分の両親を父親母親と親しみのこもっていない呼び方をするのも記憶が無いからこその距離感なのかもしれない。
病院で美波さんのお父さんが親子なのだから気を張らなくていいなんて言っていたのもそれが原因だろう。中学の先生との対話でも思い出話の一つも出なかったのは学校に行っていなかったからというだけでなく、そもそも記憶自体が無かったから。
妙に秘密があったのも、記憶がなくて答えようが無かったのだろう。
そして――
「探しもの……それは失くした記憶のことだったんだね」
俺の言葉に美波さんは視線を落としたまま首を縦に振って肯定する。実体がなく、しかし確実に失くしたというもの。それは俺が美波さんの家に入る前に推測していたもので間違いなかった。フィクションの世界だと思っていた記憶喪失。それに現実で触れることになるとは思っていなかったが、今日一日の言動から疑うべくもない。
「私の記憶は母親が亡くなった翌日の朝からしかありません。三月十五日の朝からです」
「じゃあ、ちゃんと記憶があるのはこの二十日間くらいか」
「はい……」
美波さんはずっと俺と視線を合わせない。怯えたように目を伏せたままだ。
「お葬式で親戚が集まったときも皆さん私の知らない私について話をしていて、私は思い出そうと理解しようと必死に考えてもどうにもできなくて……。私の父親はそんな私のことに理解を示してくれて、母親が死んでショックで混乱してるって説明してくれていました」
美波さんは小さな声でつぶやくようにして話してくれるとコップに口をつけた。しかしオレンジジュースは減った様子もなかったので、手持ち無沙汰に口をつけたのだろう。
「本当に母親が亡くなった混乱から記憶が無くなった可能性もあります。病院で先生からもそう言われました。でも分からないんです……」
美波さんはそう言ってコップを握る手に力を込める。
「混乱して記憶を失くすほどショックなのに、悲しむこともできない私って……酷い人間なんじゃないかって……」
コップを両手で握る美波さんは声を震わせる。よく見れば声だけでなく体も震えている。とても辛そうに目を強くつむっている。
「そんなことないよ」
俺の言葉に美波さんはゆっくりと目を開いた。
「お葬式のときも思い出そうと頑張ったんでしょ? 今日だって記憶を取り戻そうとしてたんでしょ? 記憶を取り戻したら辛くなるって分かってても思い出そうとしてるなら、それだけで十分優しい人だって証拠だよ。大丈夫。今日一日しか一緒にいなかった俺にもそれは伝わってる」
嘘偽りない言葉だ。俺のことを振り回している状態なのは間違いないが、優しいと感じる瞬間がある。例えばエロ漫画を見つけた瞬間に脅すという選択肢が思い浮かばないことや、病院で俺をもてなすために持てる限りのジュースを買ってきたこと。それだけでも優しい子なんだと確信を持てる。よく思い出せば他にもあるだろう。
「ありがとう……ございます……」
美波さんは絞り出すように言うと、それから口を閉ざした。
「記憶を失う前も今と変わらない感じだったのかな。中学校の先生の話を聞いててそう思ったよ。真面目で優しい人格の持ち主だったんだろうね」
美波さんは黙ったまま涙を流し始めると、スカートのポケットからハンカチを取り出して目元に強く押しあてた。父親以外に話をしたことで緊張の糸が切れたのだろう。落ち着くまでしばらく時間がかかるかもしれない。時計の針はそろそろ六時を差す。寮の門限は七時なのであまりゆっくりはできないけれど、せめて涙が止まるまでは急かしたりせずに待つことにしよう。
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