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青木ヶ原樹海

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「痛てて……」

 背中にかかる衝撃と共に上半身を起こすと、そこは先程までいた電車のホームではなかった。高くそびえる木々が生い茂り、腰をつけている地面は踏み固められていない腐葉土で柔らかい。人の熱気によるべたつく嫌な湿気ではなく、ひんやりとした心地良い朝の森林の湿気。

「ここはどこだ?」

 そう問いかけても誰も返事をしてくれない。出せる限りの大声でおーいと叫ぶが、何の反応もない。仕方ないので立ち上がって学ランについた土を払うと、何かが落ちる。

「ん?」

 土の上に落ちたそれは、突き飛ばした女子高生が俺に投げたネックレスだった。チェーンは千切れていたが、ついていた小さな筒状の飾りは綺麗なままだった。俺はそれをいつか返さないといけない日が来るかもしれないとポケットにしまい、そのまま手に触れたスマホをとりだした。しかしスマホで現在地を確認しようとしても圏外のため地図アプリも起動できず、何も情報を得ることができない。ここにいれば助けが来るのか、それとも自分からどこかへ向かうべきなのか。そう悩んでいると、遠くから学校のチャイムのような音が聞こえてきた。

「東の方か」

 異世界に飛ばされたわけではないなら、影の伸び方からしてチャイムが鳴った建物は現在地から見て真東の方角。ここにいても何も始まらない。そう思い、俺はゆっくりと森の中を東に向けて歩き始めた。


 足が沈むほど柔らかな地面を歩き始めてすぐ、俺は背後からすごい勢いで草をかき分けて何かが近付いてくる音に振り返った。深い森ということもあり熊や猪だと怖い。俺はできるだけ音を消して近くにある大木の裏に回り込むようにして身を隠した。みるみる近付いてきたそれが視認できる程の距離に来たとき、俺はおそるおそる木陰から顔を出す。熊や猪のような野生の獣だろう。そう思っていた俺だったが、木の反対側あたりで何かの匂いを探すように鼻を鳴らすそれを見て恐怖に足を震わせた。

 つぎはぎされたように歪な手足が体から六本。太い二本の尻尾は象の鼻のようで、自在に振り回されている。顔には正面に二つと側面に二つの計四つの目があり、口は狼のように凶暴な形をしている。そしてなによりその巨体。体高四メートルはあり、体長も尻尾を含めれば八メートルはありそうだった。

 見つかれば確実に殺される――

 疑う余地の無いほどに圧倒的な生物を前に、俺はただただ震えていた。あまりの恐怖に俺は木陰から顔を半分出したままずっとその怪物を見続けていた。完全に隠れて目を離すことよりも怪物を視界にとどめておく方が安全な気がしていたのだ。しかし、しばらく匂いを辿ろうと鼻を鳴らしていたそいつは、俺の方から吹いた風に全身の毛を靡かせるとピタリと動きを止めた。そしてゆっくりと四つある目全てで俺の顔を捉える。

 まずい!

 そう思った瞬間に俺は怪物に背中を向けて走り出していた。走るとすぐに過呼吸になるため逃げても簡単に捕まってしまうだろう。そう思っていたのだが――

「息が苦しくない?」

 それどころか、体が軽く感じるほどだった。全力で走っても息が上がる気配がない。振り返ると、怪物はその巨体を二本の大木に挟まれて道を迂回していた。多少の木々ならへし折れるのではないかとも思える体だが、回り道をした方が早いと判断したのだろう。それならば木の生い茂る道を選んで走れば逃げ切ることも可能かもしれない。何が原因か分からないが、異様に調子の良い体に感謝だ。

 それから俺は我武者羅に細い道を選んでは走り続けた。しかし怪物は回り道をしつつも俺との距離を少しずつ縮めていた。初めに三十メートルはあったであろう距離も今や二十メートルほど。追いつかれるのも時間の問題か――。そう思っていたところで俺は木々の少ない開けた場所へと出てしまった。前方には先程と打って変わって巨木が生えていない草原のような状態。俺自身の走る速度も上がるが、怪物はもっと加速するだろう。それでも俺は全力で草地を駆け抜けた。これはまずい……しかし走るしかない……

「私の後ろに隠れていなさい」

 草地に出てすぐ、突然かけられた声の方に俺は注意を向けた。声の主は女性であったが、力強さを感じる。凛とした声と共に現れた女性は臆することもなく堂々とした佇まいで、この人に任せておけば安心だと本能に訴えかけられているかのような気分にさせられた。身長は百七十センチメートルの俺より少し高い。縛られていない長い黒髪が風で扇状に広がり、俺を隠してくれているかのよう。服装は何というか……忍び装束といった感じ。それも漫画やアニメでイメージされるくノ一ではなく、本格的な戦闘用の服装といった感じの。

 彼女の背後にまで駆け抜けた俺は振り返って様子を見る。怪物におびえる俺とは違って、彼女は真っ直ぐに怪物の方を見ながら、漫画やアニメに出てくる忍者のように素早く手で印を結んだ。早九字のようなものだろうか。早すぎてどのような形をどのような順序で結んだかも分からない。そして、その女性は森を抜けてきた怪物へ向けて小さく呟いた。

「……火遁・獄炎柱の術」

 すると首が痛くなるほど見上げなければ先端が見えない炎の柱が怪物の巨体を軽々と包み込んだ。俺はその火柱を中心にして吸い寄せられるように荒れ狂う風に目を細めながらじっと立ち尽くすだけ。そして数秒後、炎が消えたその場には怪物の骨すらも残らず黒い地面が姿を見せているだけだった。

「大丈夫かい少年」

 俺は目の前で起きた事象に腰を抜かすようにして地面に座り込んでしまっていた。そんな俺を置き上がらせようとしてくれたのか女性が手を差し伸べてくれる。しかし俺は素直にとることができなかった。

「泣くほど怖かったか。だがもう安心していい」

 涙を流してしまっているのも怖かったからでも安心したからでもない。ただ……ただ悔しく思ったのだ。大切な幼馴染すら守ることができなかったような弱い自分が、一方的に守られているという事実に――

 それでも命を助けてくれた恩人に何も言わないわけにはいかない。そう思って涙を制服の袖で拭うと感謝の言葉を口にしようと息を吸った。

「ありがとうございま……」

 しかし最後まで言い終えることができなかった。俺は体から力が抜けて視界が真っ黒に染まり、気を失ってしまったのだった――
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