春風のインドール

色部耀

文字の大きさ
42 / 45
最後の授業

しおりを挟む
 夏も真っ盛りの七月二十日。ただ座っているだけでも汗が吹き出し、下敷きで扇いでも送られてくる風すら熱く感じる。終業式が終わって生物室に来た私は壁にかけられた乾湿計を見てテンションが下がる。乾球温度は三十五度、湿球温度も三十三度。隣に書かれている湿度計算表を見ると湿度八十七パーセントらしい。それは暑いわけだと納得して、生田先生が来るまで大人しく待っていることにした。生物準備室には生徒だけで入らないように言われているし鍵も開いていない。なんでも、生物準備室には危険な薬品もあるので教師がいない状態で生徒を入れるわけにいかないのだとか。生物室だけは生田先生が朝一で鍵を開けてくれているのでこうして入ることができている。

 最近は誰もいない昼休みに生物室の実験台の冷たさを感じるのが日課のようにもなっていた。

「お待たせしてしまいましたか」

「卯月ー。寂しかったー?」

 生田先生と一緒に現れた真紀はそう聞きながら私に飛びついてくる。暑い……本当に暑いから抱き着くのだけは勘弁してほしい……。真紀を振りほどいていると隣で生田先生が生物準備室の鍵を開ける。

「お二人とも。どうぞ中へ。今日は良い紅茶の葉をもらったので振る舞いますよ」

「やったー!」

 真紀は飛び込むように生物準備室に入っていく。私はその姿を焼き付けるように後ろから見つめていた。

「さあ、細川さんもそんなところでボーっとしていないでどうぞ」

 微笑む生田先生はそう言って部屋の中に手を向ける。

「はい……。失礼します」

 生物準備室には古い本棚の匂いが漂っている。古い木製の棚には古い資料といくつかの標本。骨格標本には大きな布がかけられていて足元しか見えない。先程までエアコンが効いていたかのように少しひんやりとした空気があり、埃っぽい感じもせず外とは違って夏の不快感はなかった。

「お二人は座って待っていてください。紅茶は私が入れますので」

 生田先生はそう言うと一人楽しそうに電気ケトルでお湯を沸かして茶葉を準備していた。初めてこの部屋に来たときと同じ透明なティーセット。あの日以来何度か私たちにこうして紅茶を作ってくれているけれど、いつ見ても綺麗なティーセットだ。あの真紀でさえ緩やかに溶け出す茶葉の色を黙って見ているほど。

「友人から自家製レモンも頂いているので、真紀さんはレモンティーにしますか? 細川さんはストレートしか飲まれないのですよね」

 いつもレモンティーもミルクティーも飲まない私のことを覚えていてくれている生田先生は、確認するようにそう言った。しかし今日は最後のティータイム。最後くらいは先生の友人が作ったというレモンで作るレモンティーも悪くない。

「今日はレモンティーにします」

 そう言うと生田先生は驚くように少しの間硬直すると嬉しそうに笑って答えた。

「たまには良いと思います。このレモンはとても風味豊かでオススメですから」

 生田先生は自分で作った野菜はもちろん、友人が作ったものを食べたり飲んだりしてもらっても喜ぶ。単純というと言葉が悪いかもしれないけれど、その生田先生の様子にはとても好感が持てる。もし私が何か栽培したとして、それを生田先生に渡したら喜んでもらえるのだろうと想像もしてしまう。

「それではどうぞ」

 隣り合って座る私と真紀の目の前に出された透明のティーカップには鮮やかな茶色い紅茶。その水面には輪切りのレモンが浮かんでいる。反対側に座る生田先生は自分のレモンティーには手をつけず、私たちの感想を待つかのようにニコニコと私たちを見ている。マジマジと見られていると恥ずかしくもあるけれど、感想を期待されているのが分かっているので先生の視線を気にしないように努力しつつティーカップに口をつけた。

「凄く美味しいです。いつも頂く紅茶よりも香りが強くて喉を通ったあともしばらく鼻に残るみたいです。それも好きな香りなので良いです」

 私は正直なところ紅茶に対する知識は全くない。飲んだところで茶葉の種類も分からなければ、格好良い評価もできない。それでも今日飲んだ紅茶は美味しかった。レモンのアクセントもまた初めてのものだったので新鮮だ。

「それは良かったです」

 満面の笑みを浮かべる生田先生と隣で格好付けながら飲む真紀。いつまでもこうしていたくなるほどに穏やかな時間だった。

 しかし、そんな時間にも終わりは訪れるもの。三人が揃って紅茶を飲み干したタイミングで生田先生が口を開いた。

「今日はただの一学期が終わるというだけではありません。細川さんの最後の登校日でもあります。私にとって数少ない真面目に活動をしてくれる部員の一人である細川さんがこの学校を去る前に、二つ。私から贈りたいものがあります」

 生田先生はそう言ってホワイトボードを手に取った。

「一つ目は理科の教師である私からの最後の授業です」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

【完結】知られてはいけない

ひなこ
ホラー
中学一年の女子・遠野莉々亜(とおの・りりあ)は、黒い封筒を開けたせいで仮想空間の学校へ閉じ込められる。 他にも中一から中三の男女十五人が同じように誘拐されて、現実世界に帰る一人になるために戦わなければならない。 登録させられた「あなたの大切なものは?」を、互いにバトルで当てあって相手の票を集めるデスゲーム。 勝ち残りと友情を天秤にかけて、ゲームは進んでいく。 一つ年上の男子・加川準(かがわ・じゅん)は敵か味方か?莉々亜は果たして、元の世界へ帰ることができるのか? 心理戦が飛び交う、四日間の戦いの物語。 (第二回きずな児童書大賞で奨励賞を受賞しました)

鐘ヶ岡学園女子バレー部の秘密

フロイライン
青春
名門復活を目指し厳しい練習を続ける鐘ヶ岡学園の女子バレー部 キャプテンを務める新田まどかは、身体能力を飛躍的に伸ばすため、ある行動に出るが…

屋上の合鍵

守 秀斗
恋愛
夫と家庭内離婚状態の進藤理央。二十五才。ある日、満たされない肉体を職場のビルの地下倉庫で慰めていると、それを同僚の鈴木哲也に見られてしまうのだが……。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

処理中です...