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国語教師 根本卯月
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春の風薫る四月。視線を上げれば校庭の桜は咲き誇り、足元ではタンポポが黄色い花を風に揺らしている。高校教師生活も一週間が経ち、環境の変化で緊張していた日々も少し穏やかになった。そんなある日の昼休み、私は一人で校庭を散歩していた。早めに済ませた昼食後すぐに職員室を出たおかげか、桜の木漏れ日を浴びる校庭を独り占めにできる。学内の草花は手入れが行き届いており、どこを見ても季節を感じる色と香りで満たされている。
私は七年前に茨城にある母の実家に引っ越した後、故郷である宮城の大学にある文学部へ進学し、国語の先生として高校の教員免許を取得した。そしてそのまま宮城で教師となったのだけれど、何の因果か母校である下山商業高校に配属されたのだった。下山商業高校は綺麗な校庭の学校として有名になっており、いまだに恩師で生田先生の努力の成果が感じられる。今は違う高校に勤務しているらしいが、いつか同じ職場で働く機会もあるかもしれない。
そんな生田先生が築き上げた華やかな学内も、あわただしい就職直後の一週間では隅々まで見ることができていない。今日は先輩からの勧めもあって私は気分転換を兼ねてこうして散歩と決め込んでいた。桜並木を越え、ビオラと菜の花が植わっている花壇が並ぶ渡り廊下を横切る。その奥には私が短い高校生活を過ごした思い出の場所がある。南向きで日当たりの良い校舎裏。今はどんなものが植えられているのだろう。そう胸を躍らせて角を曲がった。その先からは変わらぬ春の香りが漂ってくる。その景色は私に七年前のあの日に感じた眉をひそめるほどの異臭を思い出させる。インドールやスカトールといった臭い成分――。生田先生から何度か話に聞いたことでよく覚えている。大学時代に香水について調べていたときにその名称を耳にして驚いたものだ。なんでも、オレンジやジャスミンなどの香り成分の一種だったのだとか。人を引き付ける匂いだと聞いたときに耳を疑ったのを覚えている。もしかすると今日はそのときの匂いが思い出されてここに足を運ばせたのかもしれない。しかし今日は当然ながら、あの日の臭いは漂ってこない。それはやはり私が思い描く人物がいないということなのだろう。校舎の角から顔を出すと倉庫の角で腰をおろしていた男子生徒と目が合った。
急いで昼食を終えた私が真っ先に訪れた場所。つまりこの先客も私と同じかそれ以上に急いで昼食を終えてここにいるということだ。早く昼食を済ませた上でこのような人目に付かない場所にいる理由はあまり多くないだろう。一つは教師や同級生に見られたくないような非行をしているか。もう一つは一秒でも教室にいたくないからか。怯えたような眼をした男子生徒の様子からするに後者なのだろうと予想する。
「こんなところでどうかしましたか?」
「別に……」
そう言いつつも男子生徒はその場から立ち去ろうとはしなかった。名札は外しているようだけれど、学ランの襟に付いているピンバッチから二年生であることだけは分かる。私はそんな彼の隣に並ぶようにしてしゃがみ込むと視界に入るトマトやキュウリの苗を見ながら語り掛けた。
「私は今年からこの下山商業高校で国語を担当させていただくことになった根本卯月と言います。何か困ったことがあるのでしたら教えてくれませんか? 新任なので他の先生より頼りないかもしれませんが……」
男子生徒は黙って私の話を聞いてくれている。そこで私は懐かしい言葉を思い出して彼に伝えたのだった。
「困っている生徒に手を差し伸べるのは教師の務めですから」
私は七年前に茨城にある母の実家に引っ越した後、故郷である宮城の大学にある文学部へ進学し、国語の先生として高校の教員免許を取得した。そしてそのまま宮城で教師となったのだけれど、何の因果か母校である下山商業高校に配属されたのだった。下山商業高校は綺麗な校庭の学校として有名になっており、いまだに恩師で生田先生の努力の成果が感じられる。今は違う高校に勤務しているらしいが、いつか同じ職場で働く機会もあるかもしれない。
そんな生田先生が築き上げた華やかな学内も、あわただしい就職直後の一週間では隅々まで見ることができていない。今日は先輩からの勧めもあって私は気分転換を兼ねてこうして散歩と決め込んでいた。桜並木を越え、ビオラと菜の花が植わっている花壇が並ぶ渡り廊下を横切る。その奥には私が短い高校生活を過ごした思い出の場所がある。南向きで日当たりの良い校舎裏。今はどんなものが植えられているのだろう。そう胸を躍らせて角を曲がった。その先からは変わらぬ春の香りが漂ってくる。その景色は私に七年前のあの日に感じた眉をひそめるほどの異臭を思い出させる。インドールやスカトールといった臭い成分――。生田先生から何度か話に聞いたことでよく覚えている。大学時代に香水について調べていたときにその名称を耳にして驚いたものだ。なんでも、オレンジやジャスミンなどの香り成分の一種だったのだとか。人を引き付ける匂いだと聞いたときに耳を疑ったのを覚えている。もしかすると今日はそのときの匂いが思い出されてここに足を運ばせたのかもしれない。しかし今日は当然ながら、あの日の臭いは漂ってこない。それはやはり私が思い描く人物がいないということなのだろう。校舎の角から顔を出すと倉庫の角で腰をおろしていた男子生徒と目が合った。
急いで昼食を終えた私が真っ先に訪れた場所。つまりこの先客も私と同じかそれ以上に急いで昼食を終えてここにいるということだ。早く昼食を済ませた上でこのような人目に付かない場所にいる理由はあまり多くないだろう。一つは教師や同級生に見られたくないような非行をしているか。もう一つは一秒でも教室にいたくないからか。怯えたような眼をした男子生徒の様子からするに後者なのだろうと予想する。
「こんなところでどうかしましたか?」
「別に……」
そう言いつつも男子生徒はその場から立ち去ろうとはしなかった。名札は外しているようだけれど、学ランの襟に付いているピンバッチから二年生であることだけは分かる。私はそんな彼の隣に並ぶようにしてしゃがみ込むと視界に入るトマトやキュウリの苗を見ながら語り掛けた。
「私は今年からこの下山商業高校で国語を担当させていただくことになった根本卯月と言います。何か困ったことがあるのでしたら教えてくれませんか? 新任なので他の先生より頼りないかもしれませんが……」
男子生徒は黙って私の話を聞いてくれている。そこで私は懐かしい言葉を思い出して彼に伝えたのだった。
「困っている生徒に手を差し伸べるのは教師の務めですから」
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