未来からの小説、過去からの恋

色部耀

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KAZU:六日目

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 翌日、一睡もできなかった俺は学校に行く準備をしていつもよりも早く家を出た。深夜十二時過ぎに心春に朝の待ち合わせの連絡を入れた時にしっかり分かったと返信を貰っている。その時は心春からのリアクションがある事実に全身から力が抜けて床に座り込んでしまったが……。

「おはよ」

 家から出てきた心春はなぜか気まずそうな顔で小さくそう言う。通学カバンと部活用のバッグを力なくさげている姿がなんだか元気がない様子を表していた。

「おはよう」

 心春がいる。目の前にいる。それだけなのに俺は嬉しくてそれ以上の言葉が出てこなかった。じっと心春の顔を見て立ち止まっていた。心春は俺の顔をちらりと見ては視線を逸らす。俺はただ心春がそこにいるだけで満足し、不意に笑みが浮かぶ。

「なに笑ってるのよ」

 ふくれっ面の心春はそう言うとじっとりと俺を睨みあげる。そんな心春の反応も俺はただ嬉しく感じてしまっていた。

「何でもないよ。それより心春の方こそ何かあった?」

 流石に事情を聞いてくれと言わんがばかりの心春の様子に触れないのも変だし、理由を聞くことにした。さしずめ、昨日俺の記憶に無いところで何か心春が後ろめたく思うような出来事でもあったのだろう。心春が生きているということ以外は俺にとってもはや大した問題ではないと思うけど。

「一昨日……あんなこと言ったのに……。昨日風邪なんかひいちゃって……」

 尻すぼみにそう言った心春はそこで言葉を発することを止めた。一昨日――。ふと停止していた思考を無理矢理回転させる。

「ああ、なるほど」

 一昨日心春が言ったこと。明日の朝に絶対言うから――。風邪をひいたせいで実行できなかったから気まずくなってしまったというところだろうか。しかし、あの時決意していたとおりその件は俺の口から言わせてもらおうと思っていた。俺は心春のことが好きだと――

「それでね。今日和樹がせっかく朝から会おうって言ってくれたからちゃんと言おうと思って」

「待って。それは俺の口から言わせて」

「え……」

 俺の言葉を聞いた心春は目を丸くして視線を上げた。少し混乱しているみたいだ。しかし、これは俺が決めたこと。俺が言わないといけない。

「俺は」

「いってきまーす。おや、和樹くん。おはよう」

 今から想いを告げよう――。そう思っていた時にタイミング悪く声をかけてきたのは心春のお父さんだった。スーツ姿のお父さんは、昨日の晩に見た時とほとんど変わらなかった。変わらず優しそうで朝早いのに穏やかだ。いってきますと家の中の人に言って出てきたところで偶々俺達がいたものだから無視するわけにいかず声をかけてくれたのだろう。

「おはようございます」

 反射的に心春への話を中断して心春のお父さんに挨拶をする。すると心春のお父さんは心春を見て小さく笑った。

「なに? 私なにか変?」

 笑われたことで自分が何かおかしいのかと身だしなみを確認する心春。俺も特に何かおかしいところはないように思える。しかし、心春のお父さんは更に分かりやすく笑いながら否定した。

「いやいや。なんだかお母さんの昔の姿にかぶって見えてね。お父さんも昔はお母さんを困らせてそんな顔をされたなって」

 お母さん――。昨日の夕方に話していたものとは違う。HARU――春香さんのことだ。

「別に私は困ってなんかないもん!」

「うん。そうだね。お母さんも昔おんなじこと言ってた。じゃ、お父さんは先に行くね」

 そう言って心春のお父さんは俺達の登校とは逆方向へと歩いて行った。心春は気が抜けたのか、大きく溜息を吐いて肩を落としていた。

「ごめん。変な空気にしちゃった。お父さんも最近私のこと見てお母さんを思い出すことが多いから。いい大人なのにね」

 心春はそう言って笑っていたが、俺も昨日はHARUを見て何度も心春を思い出した。そのくらい二人はよく似ている。心春のお母さんが亡くなってからまだ二ヶ月も経っていない。忘れられるはずがない。思い出せるときはいつでも思い出してしまうのだろう。その気持ちは今の俺なら痛いほど理解できる。

「確かに心春はお母さんとよく似てる」

「なんで和樹がそんな辛そうな顔すんのよ」

 心春がいない事実に押しつぶされた昨日。それと同じような気持ちになっていたのか、それと同じような気持ちなのかと考えると、どうしても他人事だと笑うことなんてできなかった。それに、俺の時とは違って生き返らせることができるなんて希望も無いんだ。

「ごめん。なんか心春のお母さんのこと思い出しちゃって」

 昨日はずっと心春を元に戻すことばかり考えていたせいで、心春のいる今の世界では心春のお母さんが事故に遭っているなんて考えもしていなかった。ただ心春を元に戻すその一心で……。心春のいる今の世界になっていること自体に後悔は無い。後悔は無いはずだけど昨日の夜から連絡を取っていないHARUのことを思い出すと、俺の心に重くのしかかるものがある。しかし、心春がいる。そのこと以外は考えるべきじゃない。そうするしかない。

「あーもう。やめやめ! なんか湿っぽくなっちゃったし、もう時間も無くなっちゃったじゃない。この話は終わり! その前の話も保留! 後でちゃんと時間がある時にしよ! ほら、学校急ごう」

 携帯で時間を確認すると、走らないと学校に間に合わない時間になっていた。


 それから午前の授業が終わり、俺は心春と一緒に昼飯を食べようとテニスコートの傍のベンチに来ていた。少し遅れて智也も来ると言っていたので、弁当は開けずにそのままだ。心春も弁当を傍らに置き、足を伸ばして俺の顔を見る。

「ねえ和樹。やっぱり朝からなんだか暗くない? 何かあったんなら話してよ」

 HARUが死んでしまっている。それが今の俺に絡みついていた。心春がいないことに心を痛め、心春を戻すために過去を修正したというのに。今はHARUが……心春のお母さんがいない事実に胸を痛めている。贅沢な考えだと分かっている。分かっているけれど心春を元に戻すためには歴史そのものを元通りにするのがベストだったと自分に言い聞かせて一日を過ごしていた。

「何もないって訳じゃないけど……。ちょっと辛いこと思い出したっていうか……」

 心春はそんな俺に何を話せば良いか悩んでいるみたいで、腕を組んで唸っていた。

「そうだ心春。心春のお母さんのこと、何か聞かせてよ。心春と心春のお母さんとの思い出話とか」

 心春が産まれてきたことで、心春と心春のお母さんが過ごしてきた日々があったことで、そこに価値があったのだと知って安心したい。自分の選択が間違っていなかったと確信したい。そんなズルい考えで俺は心春から思い出話を聞こうとしてしまった。まだ心春のお母さんが亡くなってから間もなくこんな話を聞いては心春が辛いと分かっていたのに。

「どうしたの急に? 和樹って私がお母さんのこと思い出すと辛くなるからって今まで自分から聞いてこなかったのに」

「ははは。バレてた?」

「何年一緒にいると思ってんのよ。まあいいや。和樹が聞きたいっていうなら話すけど……」

 空を見上げた心春には辛そうな表情は無かった。むしろ清々しいような幸せそうな表情だった。

「辛いことは辛いけどさ。思い出すと楽しかったことばっかりだよ」

 そう言って心春は小さい頃からの思い出話をしてくれた。幼少期に家族旅行で行った遊園地の話。小学校の時にから毎年キャンプをしていた話。中学校に上がって一緒にテニスをした話。

「一緒にテニスした時なんて、子供とテニスするのが夢だったなんて言って喜んじゃってさー。お父さんと三人でよく日が暮れるまでやってたんだー」

 心春は嬉々としてお母さんとの思い出を語ってくれていた。

「そうそう。キャンプの時っていっつもお父さんがご飯作ってくれてたんだけど、その時にお母さんが何回もおんなじこと言ってたなー」

「へー。どんなこと言ってたの?」

 それこそ思い出したかのように心春は言った。

「伝えたい言葉はしっかり伝えなさい。伝えられなくなった時に絶対に後悔するから」

「……心春はそれになんて答えてたの?」

「その時はいまいちピンとこなかったから、お母さん好きーとか言ってたと思う。でも今思い出すと、お母さんにいっつも好きだって伝えてて良かったと思う。それだけは後悔せずに済んだから」

 心春のお母さんは何か伝えたいことを伝えられなくなって後悔した経験があったのだ。自意識過剰かもしれないけれど、それはKAZUに向けた想いだったのかもしれない。昨日聞いた話だと、俺と会う約束をした二日後――つまり今日を最後に未来へとメッセージが送れなくなったはずだから。HARUが伝えたくて後悔した言葉……それはやはり昨日直接聞いた言葉だったのだろうか。

「心春は……お母さんの子供で良かったと思う?」

「当たり前じゃん!」

 今日一番の笑顔で答えてくれた心春に、俺はふと涙が零れた。

「なに泣いてんの! おっかしー」

 笑いながらタオルを渡してくれた心春は更に続けて言った。

「……でもありがとね」

 心春の感謝の言葉に答えようとした時、視界の端に猛スピードで駆けてくる智也の姿が入った。

「すまん! グレートケツプリになりきれてなかったせいで遅くなった! 先食べてても良かったのに!」

 ふうと一息ついた智也は勢いよくベンチに座る。そして弁当の入った袋を開けながら俺の顔を見て言った。

「どうした和樹? 大丈夫か? 上腕三頭筋が泣いてるぞ」

「上腕三頭筋は泣かねーよ」

 智也の冗談に付き合いながら、俺は深呼吸をして息を整えると続けて言った。

「大丈夫。なんでもないよ」

「和樹、知ってるか? 大丈夫な奴は大丈夫って言わないんだよ。聞くだけしかできないかもだけど、話してみろよ」

 大丈夫な奴は大丈夫って言わない。確かにそうかもしれない。

「まあ、なんていうか……。どうしても選ばないといけない二択があって、俺が選んだ方が正しかったのかって不安になってただけ」

 それも心春の話を聞いて安心させてもらったところだけれど。

「別に正しくなくっても良いんじゃね? てか俺正しいって言葉あんま好きじゃねーし。なんか正しいとか間違ってるとかって誰かを責める時に使われるじゃん? それが嫌でさ」

 智也が来るのを待って弁当に箸を付けなかった俺達を尻目に自分の弁当を食べながら言う智也。それに言葉を返したのは心春だった。俺を挟んで身を乗り出すように前かがみになってからかうように言う。

「分かった。妹にいっつも言われてるんだ」

「うるせー。そうだよ! 文句あるか?」

「べっつにー」

 にやにやしている心春をよそにご飯をかきこんで智也は続ける。

「まあ、和樹もあんまり自分を責めるなよ。ちなみに、その二択って両方を選ぶなんてできなかったのか?」

「両方……?」

「そうそう。二択が何なのか分かんねーけど、例えばおにぎりとサンドイッチのどっちかしか買えないお金しかなくて選ぶってなら、誰かにお金貸してもらうとかさ。なんか色々あったんじゃね?」

「佐藤が思いついて和樹が思いつかないなんてありえないから」

「馬鹿にすんなよ? こう見えて進学校に通ってんだよ」

「成績は天と地ほど離れてるけどねー」

 心春と智也が他愛のないやり取りを始めたところで俺は自分の世界に入り込んでしまっていた。両方を選ぶ……。確かに具体的にどうすれば二人を選ぶことができるかなんて考えたこともなかった。もちろん二人を恋人にするなんて話ではない。俺が後悔していたのは俺の選択でHARUが、春香さんが死んでしまった世界にしてしまったことだった。つまり、俺はHARUを死なせたくなかっただけということ。そして、俺が選んだ選択肢。心春の存在する今の世界に戻すこと。その二つは本当に両立させることができないのか? 心春が産まれる条件とHARUが死ぬ条件は別じゃないのか? なぜ昨日の時点でその考えに思い至らなかったのか?

「智也……」

「そうだよな! 和樹は俺の味方だよな!」

「いや、そうじゃなくて」

「ほら! 和樹は私の味方よ」

「両方選べるかもしれない」

「両方の味方?」

 急に立ち上がった俺に驚いた心春は心配そうに声を上げる。

「どうしたの急に」

「心春はそのままに、心春のお母さんを生き返らせることができるかもしれない!」

「ちょっと……さっきから何言ってんの」

 混乱している心春を俺は確信を持って真っ直ぐに見る。

「細かい話は後で話す! それと心春にも聞きたいことがある!」

 そう言って俺は立ち上がると強引に心春の腕を引く。ここでは流石に話せない。すぐに部活の人が集まって来るだろうし、そんな中で心春から根掘り葉掘り話を聞くのは無理だ。

「心春、部活は?」

「ごめん。ちょっと借りてく。ストロベリー味のプロテインドリンク買ってやるから先生には何とか言っといて」

「お、俺の好みよく分かってんじゃん。それなら任せとけ」

「ありがと」

 部活でのことを智也に頼むと俺は心春の腕を掴んだまま走り出す。

「ちょっと、待って。どこ行くの?」

「俺の家!」

「えー!」

 言葉では抵抗しつつも心春は俺の横に並ぶようにして走る。

「和樹! 弁当忘れてんぞ!」

「食べといて!」

「ったく。後で俺にも説明しろよー!」

 振り向く時間も惜しい。俺は後ろ手を振ってそのまま走った。


「ねえ、そろそろ説明してよ。部活もサボることになったんだしさ」

 息も絶え絶えに家に着いた頃に心春に尋ねられる。俺とは違ってあまり息を切らすこともない心春は眉をひそめて家に駆けこもうとする俺を引き止めた。怒っているわけでは無い。ただ単に事情を知りたいという感じだ。

「小説サイトで俺が心春と勘違いしてやり取りをしていた人。覚えてる?」

「そりゃ覚えてるわよ。流石に昨日の話を忘れるほど馬鹿じゃないし」

 心春は俺が意図した内容とは少し違う解釈をしたようだけれど問題ない。過去が変わったことで俺とHARUがやり取りをしていた事実が消えていないと確かめられればそれでいい。

「信じられないかもしれないけどその相手のHARUは……、高校時代の心春のお母さん――春香さんだったんだ」

 心春はそれを聞いて直ぐに納得も理解もできなかったのか、一瞬硬直してから笑って話し始めた。

「え、いや……。なにそれ、わけわかんない」

「とりあえず中でちゃんと説明するから入って」

 俺は心春の手を引いて部屋まで上がる。その間心春は黙ったままずっと考え込んでいた。

「おじゃま……します」

 部屋に入る時に心春は一応といった感じに声を出して扉をくぐる。急ぐ用事も混乱するような話もなければここで何年ぶりに部屋に入っただのなんだのと話が弾んだことだろう。しかし、俺にも心春にもそんな余裕などなかった。

「ベッドにでも座ってて」

 心春は素直に俺のベッドに腰かけ、デスクチェアーに座る俺を少し低い視点から見上げる。

「で、さっきの続きなんだけど」

「うん」

 小さく相槌を打った心春に俺は少しゆっくりと自分でも整理しながら説明をした。

「初めはちょっとした違和感だったんだ。お互いに言っていることが食い違う的な。それで一昨日、HARUと話をしていたせいで過去が変わった。心春のお父さんの大会優勝を記念して買ったコート整備用のトンボが無くなって、代わりに倉庫の中に俺宛てのメッセージが書き込まれるって」

「落書きって、KAZUのバカって書かれたあの……?」

「そう。あれは過去のHARU――心春のお母さんが同じ学校にいないって疑った俺に対して書いたメッセージだったんだ」

「でも、でも……」

「もちろんまだ続きがある。それから授業を抜け出してお互いに違う時代を生きているって確かめた。それで半信半疑だったHARUも未来の俺と過去の自分が小説サイトで繋がってるって納得してくれたんだ。それで――」

「それで?」

「俺達は会う約束をして、実際に昨日里見公園で待ち合わせをして顔を合わせたんだ」

「いや、ちょっと待って。だってお母さんはもう……」

 死んでいる――。その言葉を飲み込んで心春は押し黙った。

「昨日は心春のお母さんが生きてたんだ。俺のメッセージが過去を変えることで……ね。まあ、無意識にだけど」

「昨日はお母さんが生きてた……? じゃあなんで!」

 心春は一度立ち上がると涙を流して崩れ落ちるようにもう一度ベッドに腰を下ろした。

「なんで今お母さんはいないの?」

 顔を両手で覆って消えゆくような声を上げた心春。その言葉に俺は更に胸を締め付けられる。しかし、それもどうにかなるかもしれないのだ。

「それは……心春のお母さんが死なない世界だった代わりに心春がこの世に生を受けない世界になってたから……」

「もしかして、さっき言ってた二択って……」

「うん」

 心春のいる世界かHARUの死なない世界かの二択……。

「なんでお母さんが死なない世界を選んでくれなかったの? お母さんが生きていてくれるんだったら私なんかいなくったって良かったのに」

 両手で顔を覆い続けて声を震わせる心春。涙は見えなくても泣いていることは分かる。辛い気持ちなのが分かる。

「俺が心春のいる世界を選んだんだ。それに関して後悔は無い。けど……」

 気付いてしまった。

「どちらかを選ぶだけじゃなくて、心春もいるし心春のお母さんも死んでしまわないようにできるんじゃないかって」

 俺の言葉に心春は顔を上げて目を見開く。乾いていない涙の跡で顔を濡らしているが、表情は泣き顔ではない。

「お母さんを生き返らせられるの?」

「死ななかったことにできるかもしれない」

 自信の無い言葉を使ってしまったが、力強く言い放った。それに対して心春は考える時間もなくすぐに答える。打てば響く速度で言う。

「生き返らせて! お母さんを事故から助けて!」

「任せて。そのためにわざわざ心春に来てもらったんだから」

「私にできることがあるの?」

「事故のこと。お母さんが死んでしまった事故のことを出来るだけ詳細に教えて欲しいんだ」


 その後俺は心春から事故について細かく聞いた。何月何日の何時ごろだとか、どういった目的で外出していた時だったとか。以前は交通事故としか聞いていなかったけど、相手の車種やなぜ事故が起きてしまったのかやどこでどういう状況だったのかまで事細かに教えてもらった。本当なら心春もこんなことを思い出しながら話すのは辛いことのはずだけれど、生き返るかもしれないという希望がそれらを覆い隠してしまっていたみたいだった。事故の情報をHARUに伝えることで死なない未来を作ることができる。そう信じて。
 心春から聞ける限りのことを聞き終わった俺は、HARUへのメッセージを打つために携帯で小説サイトを開いた。

「それにしても、よく信じてくれたと思うよ。証拠らしい証拠も見せてないっていうのに」

「和樹の言葉だから信じようって」

 和樹の言葉だから信じよう――。HARUからも同じ言葉を言われたことを思い出す。全く同じ言葉――。

「なんで笑ったの?」

「いや、やっぱりよく似てるなって」

 小説サイトを開いて新規メッセージ作成。宛先にHARUを指定しようとする。しかし、そこで一つ問題が発生した。

「退会……してる?」

 無情にも表示されたのは、このユーザーは既に退会されていますの文字。HARUのマイページに飛ぼうとしてもやはり同じ表示が出る。

「心春。心春はサイトから退会とかしてないよね?」

「え? うん。どうかしたの?」

 つまりサイトとしては過去と繋がっているにもかかわらず、HARU自体がサイトを退会してしまっているということ。希望は……絶たれた……。

「HARUが……サイトを退会しちゃったみたいなんだ」

「え、じゃあメッセージが届かないってこと?」

「うん……。もうこっちから連絡を取る方法は無い……」

 力なくコトンと音を立てて携帯を机の上に置く。もう諦めるしかない――。俺はそう言おうと心春の方を見る。しかし、心春の顔にはまだ希望の光がともっていた。

「アカウント消しちゃっても……。まだ過去と繋がってるなら小説を読むだけならできるよね?」

 心春の言葉にハッとなる。そうだ。ここは小説投稿サイトだ。しかし――

「読んでくれる……かな?」

「読むよ。だってKAZUのファンなんだから」

 心春の力強い言葉に押されて俺はパソコンに向かった。小説なら……。そう思うと自然と心春から聞いた情報を物語として構築しはじめる。どうあがいても俺は小説家らしい。情報ですら作品として伝えるのが最適だと考えてしまう。

「分かった。試してみるよ。でも、小説として投稿するからには少しくらい形にしたい」

「うん。その方がお母さんも喜ぶんじゃないかな?」

「そう……だね。でも少しでも早く書き上げないといけないのは間違いない」

 過去に反映されるまであと十時間もあるとはいえ、一分一秒でも早く書き上げてHARUに読んでもらえるチャンスを作るべきだ。書くしかない。指を動かすしかない。俺は急いで小説執筆ページを開いて書き始めた。

「大丈夫。和樹ならできる。お母さんなら読んでくれる」

 心春はそう言って俺の背中を押してくれた。

「そうだと……いいな」

 プロットも何も書かずに本編を書くのなんて初めてだ。心春が黙って見守ってくれている中、俺はただひたすらにキーボードに向き合った。集中しているせいで忘れてしまいがちな時間も、常に時計を視界の隅に入れて自分を鞭打った。せめて一時間でと――。こんなに早く指が回ったことはない。自分でも不思議な感覚だ。頭が熱い。指先が熱い。それでも俺は書き続ける。
 そしてどうにか終わりが見え始めた時、後ろから小さく呟くような声が聞こえて意識を引き戻されたような感覚になった。

「ねえ、一つだけ聞いても良い?」

「ん?」

 心春の声はそれまでとは違って力強さもなく、どことなく不安な様子が見え隠れしていた。

「もし、お母さんを生き返らせることに成功したらさ。この二ヶ月くらいの私達の思い出も色々無かったことになっちゃうのかな?」

 俺は心春の質問にピクリと肩を震わせて、一瞬キーボード上を走る手の動きが止まる。思えばそうだ。今までだって過去が変わってしまった後に俺だけが元の記憶を持ったままだった。周りの皆は変わったことにも気が付かず、無かったものは無かったものに、変わったものは変わったものにと違和感なく過ごしている。世界にとっては心春のお母さんが亡くなったことによって起きた出来事自体が無かったことになってしまうだろう。それを心春は気が付くこともないのだろう。でも――

「悲しかったことは、忘れてしまった方が良いんじゃない?」

 それだけ言って俺は書く作業に戻る。あの日悲しみに暮れていた心春の姿も無くなってしまうのであれば、俺はそれで良い。それが良いと思う。やはり心春には笑って過ごして欲しいから。

「違うの。私が言いたいのはそれじゃないの」

 俺は振り返らずにキーボードを叩き続ける。無視をしているわけでは無い。何があろうと書くことだけはやめてはいけないから。自分で定めたタイムリミットは刻一刻と近付いてくるか。

「お母さんが死んだお陰って言うと不謹慎だし、変な言い方だけど……。お母さんが死んじゃったから和樹がまた小説を書き始めてくれたし、それまで以上に遊んでくれるようになったから……。それも全部なかったことになっちゃうって思うと……」

 尻すぼみに言う心春の言葉を聞きながらも俺はHARUに伝えるための物語を綴る。時間がない。急がないといけない。今までに無いほど頭も回っている。心春の言葉もしっかり聞こえている。心春のこともちゃんと考えている。俺にとっては心春の言葉もHARUの存在もどちらも大切でかけがえのないものだから。

「私のためにいっぱいいっぱい頑張ってくれた和樹のことを忘れちゃうのは嫌だなって。なんて我儘だよね。だから……だから……」

 続きが出てこないのか、それからしばらく言葉が発せられることはなく、キーボードを叩く音だけが部屋に響いていた。迷うことなく打ち込まれる文字。一秒でも早くと走る指。そして擦り切れるほどに動いた指は遂に止まる。小説が書き終わる。俺と心春の希望が乗せられた小説が――。

「もし、私が忘れてしまっても。和樹だけは覚えてて。私たちの思い出を」

 投稿ボタンをクリックして大きく溜息を吐く。今まで呼吸をすることすら忘れていたのではないかと思うほどに空気が美味しく感じる。時刻は十四時五十九分。執筆時間は一時間を切った。一万字近い短編小説の形をしたそれをこんな短時間で書き上げたことは未だかつてない。俺は心春に声をかけようと椅子を回転させて振り返る。すると――


 背後で聞き慣れたビープ音が聞こえたのだった。


 吐き気と全身の鳥肌が止まらない。そのせいか体中が震える。こんな……こんなことがあっていいのか? 涙を止めた心春は何が起こったのか分からないといった風に立ち尽くしている。ゆっくりパソコンの方を見ると絶望を表す真っ青な画面。

「そりゃ……そりゃないだろ。十分余裕をもって書き上げたのに! なんで! どうして!」

「和樹。落ち着いて。何? 何が起きてるの?」

 マウスを何度も動かす。キーボードが壊れるほど乱暴に叩く。意味もないのにパソコンモニターを掴んで揺さぶる。

「分からない……分からないけど、もうどうしようもないみたいだ」

 眩暈がする。身体の感覚が薄れるような痺れまで感じる。ああ、全てが終わったのだと悟る。少ししてパソコンが復旧し、俺は確認をするようにメッセージ作成画面を開いた。そこから宛先一覧を見てHARUを選択する。さっきまで表示されていなかったHARUを。ああああと四文字だけのメッセージを送信した。送信ボタンを押した直後、背後で着信音が鳴る。

「KAZUからのメッセージ……。ねえどういうことなの?」

 俺からのメッセージを受け取った心春は混乱の表情で俺に何が起きているのかを問う。

「もう、過去とは繋がってない。小説は心春のお母さんの下に届きさえなかったってことだよ」

 それにしてもなぜ? どうしてこんな中途半端な時間に繋がりが途切れたのだろう。俺はゆっくりと指を動かして調べ始めた。そこで見つけたのは何のことはない。HARUが使っていたであろうサイトの閉鎖日時だった。二〇〇五年五月十四日十五時――。たった今繋がっていた過去でサイトが閉鎖されたというだけの話だった。

「なんでこんなことも調べなかったんだ……。ごめん心春……。俺がもっとしっかりしていればどうにかできたかもしれなかったのに」

 もっと早く気付いていればHARUが読んでくれる可能性を作れたかもしれない。HARUとの関係を途絶えさせるような形になっていなければ今頃メッセージででも伝えることができたかもしれない。思い起こせば俺の失敗だらけだ。

「ううん。駄目だったものは仕方ないよ。和樹は悪くないって。だから謝らないで。私だってもっと前から和樹の話をちゃんと聞いてたら手助けできたかもしれなかったんだし。だから私の方こそごめんって言いたい」

「心春の方こそ悪くないのに。謝ろうとしないで。せっかくのチャンスをものにできなかったのは全部俺のせいなんだから。結局何も変えられなくて無意味に終わった。元どおりにはなったけど無駄に右往左往しただけだった」

「ううん。無意味でも無駄でもなかったよ。私にはすごい励みになったんだよ? だって、お母さんが死なずに生きてる世界があったってことを知れたんだもん」

「でもそれって心春の産まれなかった世界の話で……」

 自分の無力さ、その悔しさに強くこぶしを握り締める。震える体をそうしてどうにか抑えることで精一杯だった。

「それでも良い。あったかもしれないもしもの話が、いつも私を元気づけてくれるの。KAZUの小説みたいにね」

 もともと心春を元気づけるために復帰した小説の執筆。だからか心春のその言葉に俺は元気をもらうことができた。パソコンの前で俯いていた顔も少しだけ上をむくことができた。

「だからさ。これからも小説書いてね」

「うん。今までどおり書き続けるよ」

 そう。今までどおり。元どおり。緩やかで暖かな日常に戻るだけ。それだけだ。

「まだ明るいし、私は部活に戻るね」

「うん」

 それだけのはずなのに、なぜこんなにも辛いのだろうか。

「あ、そうだ和樹」

 ぼんやりしながら椅子を回転させて部屋を出て行こうとする心春の方を見る。

「明日の部活、昼からだからさ。朝暇だったらウチに来てよ。久しぶりに二人で遊びに出かけよ?」

 恥ずかしそうに言う心春だったが、その真意は明らかだった。――俺を元気づけようとしてくれているのだ。俺が落ち込んでいる時、決まっていつも心春は遊びに誘ってくれる。

「ありがとう。……八時くらいに心春の家の前に行くよ」

 魂の抜けたような俺の返事に対して心春は無理矢理作った笑顔で手を振った。

「うん。待ってるね。じゃ、また明日」

 俺の部屋から出て駆け足で玄関へ向かう足音が聞こえる。日常へと帰っていく音のよう。心春は俺を励まして明日を見ている。俺はそんな彼女とは違って、ただただ座って終わってしまったことへと思いを馳せているのだった。HARUと会っていたのだとしたら……。HARUを死ななかったことにできたのなら……。そうやってもう引き返せない過去を想像しているだけだった。
 心春が出て行って少し経ち、俺は熱くなった頭を冷やしにシャワーを浴びに風呂場へと向かった。衣服を投げ捨てて目一杯シャワーを浴びる。頭も体も溢れ出す感情で熱くなっていて、冷水がかかっても寒さを微塵も感じることはなかった。冷水を浴びるのは不思議なもので、体温と共に思考まで奪い取ってくれるような感覚がある。考える力が無くなるまで、心臓まで冷えて心まで冷たく冷静になれるまでシャワーを浴び続けた。

 シャワーと共に流した涙は、悲しみからなのか悔しさからなのか、俺には分からないままだった。
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