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第十章〈聖女の受難〉編
10.14 身代金(2)1万リーヴル
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人質解放の場で久しぶりに顔を合わせた。
遠目から、おどおどしている様子が感じられる。
私は当初、人質生活の苦悩と不安があのジャンヌをこれほど激変させたのだと考えて、同情を禁じえなかった。あるいは、拷問に近いことをされたのか。
「あっ、王様……!」
私に気づくと、おいおいと泣き出してしまった。
一瞬驚いたが、ジャンヌはまだ少女と呼べる年齢だ。
脱走を試みるほど精神的につらかったのだろうし、助かったとはいえ塔から墜落したのだから肉体的にどこか痛めていても不思議ではない。
私自身も泣き虫だから、緊張が解けて涙ぐむ心境はよくわかる。
何はともあれ、労りと休息が必要だ。
生きて帰ってきたことを実感して、私は安堵していた。
「王様、王様ぁ……、早く助けてください……」
どこか痛いところはあるか?
怖いことや、つらいことはなかったか?
故郷でも宮廷でもいい、ジャンヌの好きなところでゆっくり休むんだ。
その若さで、少女の身で「戦え」「奇跡を見せろ」なんてもう誰も言わないし、言わせない。君はもう十分働いた。みんなの期待に応えたんだ。身代金だってみんなが君のために集めたんだ。無事を祈りながら待ってるんだ。
あとのことは私に任せて——。
「どうしよう、お姉ちゃんが連れてかれちゃった……っ!!」
見ている世界がぐらりと歪み、私はかろうじて立っていた。
焦りながら、どうにか記憶の糸を手繰り寄せる。
「君は確か……、ピエールと言ったな?」
ジャンヌによく似た顔に見覚えがあった。
ランスの聖別式のとき、ジャンヌの家族と親戚が来ていた。
以前、兄が二人、弟が一人いると聞いたことも覚えている。
この日、人質として解放されたのは、ランス以来ずっとジャンヌの従者としてともに行動し、コンピエーニュ包囲戦で囚われていた弟のピエールただ一人だった。
「詳しい話を聞かせてくれ」
姉弟は「身代金が支払われたので相手に引き渡す」と告げられて、それぞれ別の馬車に乗せられたが、途中で隊列が二手に分かれたという。
「どこに連れて行かれたか、場所はわかるか?」
「すいません。ぼく、字が読めないんです」
「では、方向はわかるか?」
「えっと、太陽が沈む方だから……」
ピエールは南へ、ジャンヌは西へ。
ジャンヌの引き取り手は、パリ大学総長でボーヴェ司教のピエール・コーション。自分が管轄する教区から脱走した異端者の疑惑があると訴えて、交渉中だったジャンヌの身柄を強引に横取りしたのだ。
ピエールの証言をもとに諜報員が調査した結果、ジャンヌが連れて行かれたのはパリではなく、ノルマンディーの首府ルーアンの可能性が高い。
パリ侵略以前からイングランドが所有している重要拠点だ。フランスの中でもとりわけイングランド政府の支配に好意的な地域で、こちらが侵入するのは簡単ではない。
私は、ブルゴーニュ公に一杯食わされたのだ。
確かに嘘はついていない。ジャンヌを丁重に扱っていたのは良心からではなく、価値ある商品だったからだ。フランスとの交渉内容を叩き台にして、イングランド相手に人質の値段を限界まで釣り上げた。
ピエール・コーション——その背後にいるイングランドは、ジャンヌの身代金として1万リーヴルもの大金を支払ったという。
読者諸氏にとって身近な「円」で換算すると、1万リーヴルは3500万~3億5000万円に相当する。恥ずかしながら、当時の私が自由に使える個人資産(おこづかい)が4エキュ、つまり8リーヴル程度であることと比較すれば、ジャンヌの身代金がいかに異常な高値だったか理解できるだろう。
イングランドは、ひとりの少女に国家予算を投じたのだ。
(※)第十章〈聖女の受難〉編、完結。
一般論として——、捕縛から異端審問までのいきさつについて、ジャンヌ側のエピソードは数え切れないほど取り上げられるのに、シャルル七世側の動きはほとんど触れることなく、まるで何もしてないかのように思われています。
次章では、シャルル七世とその周辺の動向を中心にストーリーを進める予定です。
話の都合で「盛る」場合もありますが、世間で言われてるほど「何もしてない」わけじゃない。
例えば、今回のジャンヌの弟ピエール救出の件。
『7番目のシャルル』執筆と並行して私訳している、
ガストン・ボークール著『シャルル七世の歴史(Histoire de Charles VII)』二巻より、シャルル七世が身代金を払って弟を救出したエピソードを元にしています。
遠目から、おどおどしている様子が感じられる。
私は当初、人質生活の苦悩と不安があのジャンヌをこれほど激変させたのだと考えて、同情を禁じえなかった。あるいは、拷問に近いことをされたのか。
「あっ、王様……!」
私に気づくと、おいおいと泣き出してしまった。
一瞬驚いたが、ジャンヌはまだ少女と呼べる年齢だ。
脱走を試みるほど精神的につらかったのだろうし、助かったとはいえ塔から墜落したのだから肉体的にどこか痛めていても不思議ではない。
私自身も泣き虫だから、緊張が解けて涙ぐむ心境はよくわかる。
何はともあれ、労りと休息が必要だ。
生きて帰ってきたことを実感して、私は安堵していた。
「王様、王様ぁ……、早く助けてください……」
どこか痛いところはあるか?
怖いことや、つらいことはなかったか?
故郷でも宮廷でもいい、ジャンヌの好きなところでゆっくり休むんだ。
その若さで、少女の身で「戦え」「奇跡を見せろ」なんてもう誰も言わないし、言わせない。君はもう十分働いた。みんなの期待に応えたんだ。身代金だってみんなが君のために集めたんだ。無事を祈りながら待ってるんだ。
あとのことは私に任せて——。
「どうしよう、お姉ちゃんが連れてかれちゃった……っ!!」
見ている世界がぐらりと歪み、私はかろうじて立っていた。
焦りながら、どうにか記憶の糸を手繰り寄せる。
「君は確か……、ピエールと言ったな?」
ジャンヌによく似た顔に見覚えがあった。
ランスの聖別式のとき、ジャンヌの家族と親戚が来ていた。
以前、兄が二人、弟が一人いると聞いたことも覚えている。
この日、人質として解放されたのは、ランス以来ずっとジャンヌの従者としてともに行動し、コンピエーニュ包囲戦で囚われていた弟のピエールただ一人だった。
「詳しい話を聞かせてくれ」
姉弟は「身代金が支払われたので相手に引き渡す」と告げられて、それぞれ別の馬車に乗せられたが、途中で隊列が二手に分かれたという。
「どこに連れて行かれたか、場所はわかるか?」
「すいません。ぼく、字が読めないんです」
「では、方向はわかるか?」
「えっと、太陽が沈む方だから……」
ピエールは南へ、ジャンヌは西へ。
ジャンヌの引き取り手は、パリ大学総長でボーヴェ司教のピエール・コーション。自分が管轄する教区から脱走した異端者の疑惑があると訴えて、交渉中だったジャンヌの身柄を強引に横取りしたのだ。
ピエールの証言をもとに諜報員が調査した結果、ジャンヌが連れて行かれたのはパリではなく、ノルマンディーの首府ルーアンの可能性が高い。
パリ侵略以前からイングランドが所有している重要拠点だ。フランスの中でもとりわけイングランド政府の支配に好意的な地域で、こちらが侵入するのは簡単ではない。
私は、ブルゴーニュ公に一杯食わされたのだ。
確かに嘘はついていない。ジャンヌを丁重に扱っていたのは良心からではなく、価値ある商品だったからだ。フランスとの交渉内容を叩き台にして、イングランド相手に人質の値段を限界まで釣り上げた。
ピエール・コーション——その背後にいるイングランドは、ジャンヌの身代金として1万リーヴルもの大金を支払ったという。
読者諸氏にとって身近な「円」で換算すると、1万リーヴルは3500万~3億5000万円に相当する。恥ずかしながら、当時の私が自由に使える個人資産(おこづかい)が4エキュ、つまり8リーヴル程度であることと比較すれば、ジャンヌの身代金がいかに異常な高値だったか理解できるだろう。
イングランドは、ひとりの少女に国家予算を投じたのだ。
(※)第十章〈聖女の受難〉編、完結。
一般論として——、捕縛から異端審問までのいきさつについて、ジャンヌ側のエピソードは数え切れないほど取り上げられるのに、シャルル七世側の動きはほとんど触れることなく、まるで何もしてないかのように思われています。
次章では、シャルル七世とその周辺の動向を中心にストーリーを進める予定です。
話の都合で「盛る」場合もありますが、世間で言われてるほど「何もしてない」わけじゃない。
例えば、今回のジャンヌの弟ピエール救出の件。
『7番目のシャルル』執筆と並行して私訳している、
ガストン・ボークール著『シャルル七世の歴史(Histoire de Charles VII)』二巻より、シャルル七世が身代金を払って弟を救出したエピソードを元にしています。
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