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8章 幸せになろう
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しおりを挟む彼女が失踪した。
心のどこかでこうなる気はしていた。だから毎日愛してると伝えた。でもそれは意味がなかった。もう彼女は俺の事を愛してくれていて、それでも俺の手を離した。それ程に彼女は傷つけられ、逃げ出したくなる程辛かったのだ。それを思うと胸が苦しくなり、同時に腹が立った。
彼女は確かに人を見下し、自分本位に生きてきたのだから孤独になってしまうのはしょうがない。だがそんな風にしたのは誰だ。本当は素直で魅力的な人なのに、国中の人間から嫌悪される程の悪女になってしまったのは、育ってきた環境と本質を見抜けない周囲のせいだ。何故彼女だけがこんなにも追い込まれなければいけないのだ。そのせいで彼女は俺の前から消えてしまった。
今無理やり連れ帰ったとしても、彼女は傷つき続けるだろう。じゃあ変えるしかない。例え世間から冷遇されても必ずやり遂げる。ずっと彼女は独りでそんな視線に晒されてきたのだ。これくらい、どうって事ない。
彼女を幸せに出来るのは、俺だけだ。
俺はまずロレンツォに手紙を書いた。彼女はロレンツォに協力を依頼してここから去ったのだろうと推測したからだ。そして同時に王子との面談を申し込む手紙と、とある新聞社にも手紙を出す。返事を待っている間も、ここをしばらく離れられるように準備をすすめた。
まず最初に返ってきたのは新聞社からだった。当初から彼女の本質を見抜き評価してくれていた例の記者、ドース・ゴドウィン氏は俺に協力すると快く了解してくれた。俺が彼に頼んだ事は、婚約破棄となったきっかけのミーシア様が階段から落ちた事件についてだ。
あれは本当に故意にしたものなのか。本人達も疑問に思っているくらいなのだから、他に目撃者がいるかもしれないと思い、何か情報はないか聞いていた。そしてそれは見事に的中し、あの場にいた人間の中から、あれは単なる事故だった様に見えたという証言がいくつかあったと書かれていた。だがどの目撃者も、誰もがミラ・イヴァンチスカが犯人だと思っている空気の中、さらにケビン様も激昂していたため言い出せず、きっと勘違いだったのだろうと思う事にしていたらしい。
その情報を早々に掴んでいたゴドウィン氏だったが、王族が絡んでいる事もあってこの事は内密にして欲しいとどの目撃者も言うので、記事にする事は断念していた。だが更にもう一つ、ゴドウィン氏はある情報を掴んでいた。
この例の事件が起きる少し前に、ケビン様が彼女に大いに失望するきっかけがあった。それは彼女がミーシア様の根も歯もない噂を流した事だ。そんな事をしていないと言った彼女の言葉を勿論信じていたが、どうやらそれは本当だった様だ。
ミーシア様がケビン様と懇意になったと噂される様になった頃に、ミーシア様に近付いた令嬢三人がいた。友人がいなかったミーシア様はこの三人を受け入れ、無自覚に言いなりになっていたらしい。
ミーシア様の悪評を流したのはこの三人だった。そしてそれをミラ・イヴァンチスカが言い始めたと偽ったのだ。その三人は常々から自分達よりは下の階位であるミーシア様を馬鹿にしていた。ミーシア様に近付いたのはあくまで王族の人間と関わりを持ちたかっただけで、その実陰口をたたいていたらしい。
それが学園中に囁かれる様になってしまい、慌てて彼女のせいにした、という訳だ。そもそも何かと彼女を敵対視していたらしく、三人にとっては日頃の鬱憤を晴らせるだけでなく、彼女とケビン様との仲を壊しより孤独にさせる絶好の機会だったという訳だ。あまりにも悪質すぎる。
そしてこの三人はこれらの真実を脅しや金を使って揉み消した。だが正義感を持った生徒数人が、ゴドウィン氏の粘り強い取材によって打ち明けてくれて発覚した。よってこの事実も、勇気ある生徒達のためを思うと公には出来ず、闇に葬るしかなかった。
この手紙を読んで怒りのあまり拳を強く握り、近くの机を殴っていた。拳の先からうすらと血が流れ、そこで我に返った。そして涙が溢れた。怒り、苦しみ、悲しみ、彼女の心を思うと涙が止まらない。
絶対に彼女を救いたい。俺に出来ることは何だ、考えろ、と頭を巡らす。相手は上位貴族、そして王族だ。もうこの際権力なんて一つも脅威ではないが、財力で抵抗されたら厄介だ。それを上回る資産がないといけない。幸い事業のおかげで余裕は出てきたが正直心許ない。俺はオンズロー氏に金を借りることは出来ないか聞く事にした。
だがそんな必要はなかった。一通の手紙が俺の元に届いた。てっきりロレンツォからかと思ったが、その差出人の名前は知らない女性のものだった。
仕事の話だろうかと開封すると、一行目でその女性の正体が分かった。彼女の母親からの手紙だった。
予想通り彼女はロレンツォと共にここを抜け出した後母親を探し出し、今は一緒に暮らしているとの事。ロレンツォが2人が再会した店に手紙を送ってくれて、彼女の母親に俺と連絡をとるきっかけを与えてくれたらしい。
俺はリンダに産衣を作ってもらう様頼み、お礼の手紙と共にロレンツォに送った。直接俺に言うのは憚られたのだろう。それでも協力してくれた彼の気遣いがありがたかった。
彼女の母親からの手紙には、とある銀行の口座番号と、娘の為に使って下さいという文章が添えられていた。その口座にはラワン卿が彼女の母親にずっと送金していたものと、自身も少しずつ貯めたお金が入っているという。
そして彼女がこの国から出て行こうとしている事を知る。私が引き止めておくから、どうか娘を救って下さいという言葉でその手紙は締められていた。
思いがけない援軍と、彼女の無事を確認して俺の覚悟は決まった。オンズローにも事情を話し協力を得る事になった後、すぐに新聞社と相変わらず返事が来ない城に速達で手紙を送った。
二日後にゴドウィン氏から準備が整ったとの手紙がきたので、翌日早馬でとある場所へ向かった。そこはウィリアムズ領と首都の中間あたりにある別荘地で、出入り口に1人の男が立っているのが見えた。
「ゴドウィン氏でしょうか?」
「ウィリアムズ卿!お待ちしておりました」
ゴドウィン氏との挨拶はそこそこに、その屋敷に入る。部屋に案内され入室すると、真っ青な顔をした令嬢三人が身を寄せ合って座っていた。
「ここまでご足労頂きありがとうございます」
この屋敷はオンズローが所有している別荘だ。彼女達と面会するための場所を悩んでいたら、快く貸してくれた。
「さて、何故ここに来て頂いたかご存知ですよね?」
俺がそう問うと、三人はびくりと体を震わせた。構わず続ける。
「おや?ゴドウィン氏からお聞きになっていると思いますが」
「…聞いてるわ」
恐らく三人のリーダー格であろう女が口を開いた。サイドにいる二人は相変わらず身を縮こまらせて俯いていた。俺は三人の前に一枚の紙を置いた。リーダー格の女は訝しげに顔を歪ませた。
「何よこれ」
「ここにあなた方がミーシア様の悪評を流し、それをミラ・イヴァンチスカになすりつけた事に間違いありませんという事と、それぞれの名前を書いて頂けますか」
「はあ?」
「これを記事にして全国に発行します」
「なっ…!!」
たまらなくなった様にその女が立ち上がる。
「そんな事認めるわけないでしょ!?」
「勿論名前は伏せさせて頂きますよ」
「そういう話じゃ」
「認めて頂かなくとも、この事実は必ず記事にさせて頂きます。但しその場合は実名を出す事になりますが」
「…私達を脅しているの?」
「ええ。あなた方もそうしてきたのでしょう?」
まさか自分達はそんな事はされないとでも思っていたのだろうか。立ち上がった女は唇を震わせ俺を睨み、サイドにいる二人は放心状態だ。
その時俺を睨んでいた女がちらりと横に控えていたメイドに目配せをした。メイドが小さく頷いたのを確認してすかさず口を開く。
「また揉み消そうとしても無駄ですよ。いくら積まれてもやめるつもりはありません。それと、新聞社を襲撃しようなんていう馬鹿な真似はおやめ下さいね。既に新聞社にはたくさんの警備員を配置しておりますし、記者一人一人にも必ず誰かが付く様に手配済みです。あ、それと我々に協力してくれた情報提供者を探す為に人を雇いましたね?」
一気に女の顔色が悪くなる。
「今私の仲間がお支払いした倍の金額をお渡して撤退させている所です。序でにあなたから報酬を貰い、人探しを頼まれたというサインも貰う手筈になっています。お金さえ積めば喜んで彼らは我々に従うでしょう。分かりますね?認めていただけないのであれば、その陳述書も記事に出す事になります。
こういった事をするのならもっと慎重に人を選ばなければいけませんよ?こんな一介のご令嬢の頼みを安請け合いする様な輩に頼むなんて、逆に足元を掬われるのですから」
立ち上がっていた女が力が抜けた様にストン、と座った。たった2日でここまで手を回せたのも、全て彼女の母が渡してくれた潤沢な資金と、ゴドウィン氏、そしてオンズローのおかげだ。ゴドウィン氏が上記の情報を掴み、現在オンズローが交渉にいってくれている。直前までその交渉に付き添ってくれていたゴドウィン氏が、サインを書く事を了承する所まで見届けてくれているので確実だ。
「ご自身の立場を理解されましたか?そちらに選択権なんてないのです。
…むしろ名前を伏せると言ってあげているんだ。それだけでも十分譲歩していると思え。彼女は国中に悪女として名前が知れ渡り苦しんでいるんだ。それに比べたら周囲の人間にばれるくらい、どうという事はないだろ?」
そう言い切った瞬間、サイドにいる内の一人が声をあげて泣き出した。そしてもう一人がリーダー格の女につかみかかる。
「だからやめた方がいいって言ったのよ!」
「はあ!?あんただって喜んで言いふらしてたくせに!」
「私はあの女じゃなくてミーシアが気に入らなかっただけよ!あなたが素性も知らない様な人間に妙な事を頼むからこんな事に…」
「何よ!バレたらどうしようってあなたが一番真っ青な顔してたじゃない!私がこの提案をしたら喜んで了承してたのはどこの誰よ!?」
「あなた達はまだいいじゃないのよお…私なんて婚約が決まりそうだったのにい…」
三者三様に騒ぎ始める。もしこの三人の親達が動こうともこちらがする事は変わらない。むしろ騒ぎが大きくなる程、今度は他の新聞社が嗅ぎつけるだろう。娘達が勝手に金を使って揉消そうとする様な人間に育てた事を悔いてもらうしかない。恐らく首都内での婚姻は難しくなるだろうが、遠い領地もしくは他国なら大丈夫だろう。ただ俺の妻の様に素直な人間じゃないと幸せにはなれないだろうが、どうなろうが俺が知る事じゃない。
無事陳述書を完成させ、早速城の方に“ミーシア様の悪評を流したのは彼女ではなく別の人物達で、その証拠もある”という旨の手紙を送った。そしてやっとケビン様と面談出来ることになった。
二日後に城直々に馬車を寄越してくれるとの事。彼女が失踪して二週間が経過していた。俺はこの間両親と村の人達には黙って行動していた。
一番の理由は事業を滞らせたくなかった事。もう一つは俺一人で行動した方が効率よく動けるからだ。ここの人達は情に厚い人達ばかりだ。彼女の不遇な境遇を知れば黙ってはいられず、収拾がつかなくなる可能性が高い。だがしばらくここを離れなければならない。俺は首都に行ってくるとだけ両親に伝えた。
すると父は必ず戻って来いと言った。俺が何をしようとしているのか分かっているらしい。もう高齢の両親を心配させて申し訳なかった。
ただ、俺は嘘をつくのは苦手だが真実を言うのは得意だ。だってあなた達がそう育ててくれたから。俺は「行ってきます」と伝えて、馬車に乗り込み首都へと向かった。
到着するなり部屋に通され入室すると、既にケビン様は待機されていた。俺は心に静かな炎を燃やしながら、淡々と話した。想像していたよりも、ケビン様は落ち着いた様子で俺の話を聞いてくれた。
もうある程度の覚悟を決めてきていたのかもしれない。あの頃の自身の浅はかな行為を自覚している様にも見えた。侮辱罪として捕まる可能性も考慮してあれこれ準備をしてきたがその必要性もなく、ケビン様は公の場で彼女に謝罪する事を了承してくれた。
一生この国で生きていく一人の国民として、未来の国の主がちゃんと悔い改める事の出来る人間なんだと知れて少し安心した。俺はケビン様を信じる事にした。約束してくれたあの瞳は嘘ではなかったと思う。
だが約一週間後に開かれる二人の結婚式でのケビン様のスピーチを聞くまで安心は出来ない。約束を反故された場合の次の手の為に、ミーシア様が階段から落ちた事件についての証言は掲載するのをやめ、例の令嬢三人が起こした事件のみ掲載する事にした。
これで一旦ケビン様との対決は終了した。だが俺にはもう一人対峙しなければならない人物がいる。その人物とは一通の手紙であっさりと面談の許可がとれていた。ケビン様との面談が終わった翌日、今度はあちらから指定されたとあるレストランへ向かった。
給仕に名前を告げると、またもや部屋に通された。確かにこれから話す事は大っぴらにするものではない。それなのにどうしてこんな人の目に晒されるような場所を指定してくるのだろうとは思っていたが、さすがにちゃんと弁えた環境を用意してくれていた様だ。
「お待たせしてすみません」
「気にしなくていい。君はそこにかけてくれ」
そう言ってラワン卿は自身と対峙する様な位置に置かれている椅子を指した。言われた通りそこに座る。初めて対面した時とは随分と違う気がした。
「適当に頼んでおいた。何か苦手な物はあったかな?」
「いえ、特には」
「それは良かった。ここのローストポークは食べておくといい。この店が一番旨いんだ」
そして料理が運ばれ始め、テーブルに並べられていく。勧められたローストポークはまだなかった。
「酒はどうだ?」
「頂きます」
ラワン卿自ら俺のグラスにワインを注いでくれ、俺も注ぎ返す。そしてお互いワインを掲げ一口含んだ。最近あまり食べれていなかったからか、アルコールが胃に染みる。
「あの子が君の領地から出て行ったのは知っている」
ラワン興はそう言った後、切り分けた料理を口に含んだ。俺も特に返事をする事なく口に入れる。ラワン卿勧めのレストランでも、やっぱり味気ない。彼女が出て行ってから、ずっとこうだ。
「理由も知っているし、君がケビン様と何を話したのかも知っている」
「そうですか…ならば話は早いですね」
そう言って俺は一枚の手紙を差し出した。
「手紙を預かってきました。こちらをお読み頂けますか」
ラワン卿は俺から手紙を受け取り、差出人の名前を確認したが眉一つ動かなかった。さすが国王に信頼を置かれる様な人間だ。“ヨハナ・アルタウス”という名前を目にしても動揺した様子はなかった。どこか予感していたのだろうか。
ラワン卿は封を空け手紙を読み始めた。手紙の内容は少しだけ知っている。ラワン卿が彼女の母親に送り続けたお金を一銭も使わず俺に預け、娘の為に使ってもらう事にした事と、これを機に一切の関係を断ちたい事。
彼女の母親は何度もラワン卿にお金を送るのをやめてほしいと手紙を出していたらしい。しかし一向に聞いてもらえず、もう放っておく事にしたそうだ。そしていつか役立てる時に、出来れば娘の為に使えたらと考えていた。
そんな手紙を表情を変える事なく読み終えると、丁度ノック音が響き、ラワン卿は入室を許可した。給仕が運んできたのは例のローストポークだった。
「食べたまえ」
「頂きます」
勧められるままローストポークを口に含む。久しぶりに味がした。何故か彼女の顔が浮かんだからだろうか。
「どうだ?」
「美味しいです」
「それは良かった」
手紙の事に特に触れる事なく、お互い静かに食事をする。口元を拭ったラワン卿が言った。
「こちらの事は任せてくれ。恐らく王族の矜持がどうとか言う人間がケビン様の謝罪を反対するだろうが何とかする。どのみち国交問題に発展しそうになっていたからな。ここでしっかり誠意を見せるのはこの国にとっても大事な事だ」
「よろしくお願いします」
グラスを揺らし小さく波打つワインを眺めながら、ラワン卿は再び口を開いた。
「私のせいで、あの子には苦しい人生を歩ませてしまった」
まさかそんな言葉が出てくるとは思わず、動きを止めて見つめる。変わらない表情でラワン卿は揺らしていたワインを一口含み、グラスを机に置いた。そして一枚の紙を俺の前に差し出す。それは小切手だった。
「ここに君が今回の事で使用したおおよその金額が書いてある。ヨハナから受け取ったお金は君達のこれからのために使ってくれ」
「これは…十分過ぎる程の額です」
「そうか、ならば尚更受け取ってくれ。私はこうでしか相手を慮れないのだ。どうか受け取って欲しい」
それはまるで、金さえ渡せば自分から離れていかないだろうと思っていたかつての自分を風刺している様だった。
「誰かの背中に隠れて小さくなっているあの子を見たのは初めてだった。その姿を見て自分のした事の残虐さに今更気付かされたのだ。
君達からしたら本当はもっと俺に落ちぶれて欲しいだろうが、私には娘以外にも子どもがいる。立派に育ってくれたその子達のために、私はこの立場を守らなければならない」
ゴドウィン氏によると、婚約式の件でミーシア様を唆した黒幕は彼女の継母だった。ヨハナ・アルタウス以外眼中にないラワン卿に、ついに彼女の継母が反抗するために行った事だったという。どうやら彼女の継母がその賭けに勝利し、ラワン卿に息子達の将来の保証を約束させた様だ。
そして今日、ラワン卿は愛し続けていた女性に本当の別れを告げられた。随分と淡々と喋っているが生きる糧を失った今、どの様な気持ちでこの話をしているのだろう。俺は彼女が消えた日から喪失感に苛まれている。
彼女の母親からの手紙にも“あなたからしたら、全ての元凶であるあの人への生ぬるい処遇に納得出来ないと思います。ですがあの人もまた、可哀想な人なのです。傲っていると思われるかもしれませんが、私からはっきりと別れを告げられる事があの人にとって大きな罰になると思って下さい”と綴られていた。
二人の歴史を俺は知らない。だが答えは決まっている。俺はそっとその小切手をラワン卿に返した。
「あなたの誠意は分かりました。ですがこれは受け取れません。彼女を利用するだけ利用して、碌に守りもせず捨てたあなたが今更父親面ですか?これを受け取る事で、あなたが私達に許されたと思われたくありません」
彼女の母親に送金し続けたのも、これまでの自分の行いを許してもらいたかったからだろう。だがそれは一銭も使われる事はなかった。その意味が分かるからこそ、俺も受け取れない。
「今回ヨハナ様から受け取ったお金は、お二人が彼女に対して出来る最大の贈り物と思い受け取りました。十分すぎるほどありましたから、余ったものは全てどこかへ寄付するつもりです。これからの私達にあなたが関わる事はないし、世話になるつもりもありません。どうぞご自身の後継の事だけをお考え下さい」
「…分かった」
ラワン卿が差し出した小切手を再び胸元にしまったのを確認して、俺は立ち上がった。
「では、よろしくお願いします」
「ああ」
そして俺は席を立ちレストランを後にした。その帰り道、先程ローストポークを食べた時に彼女の顔が浮かんだ理由が分かった。味は違っていたが、ローストポークにかけられていたソースにはマスタードとはちみつの香りがしたのだ。きっと何かの因果があるのだろうが、俺が知る事ではない。
新聞社に到着すると、例の記事が完成していた。いよいよ明日、まず首都圏内に向けて発行され、全国にも配布する予定だ。その印刷代と郵送代も、例のお金のおかげで実現出来た。
そしてその記事と共に、彼女の母親に迎えの馬車を寄越すから首都へ来てほしいと手紙を送る。これで準備は整った。後は念のため当日まで身の回りに気をつけるだけ。
予想通り令嬢達側の人間は無抵抗だったが、警戒はしておくべきだろう。24時間体制で警備してくれている新聞社の一室を間借りして、序でに自身の安全も確保していた。ただベッドなんてものはないので、横向きに丸まる事で眠れる大きさのソファで体を休めている。
この生活をあと数日耐えれば結婚式だ。手紙を投函して新聞社に戻り、付き添ってくれた警備員に礼を言って部屋に入る。ソファに寝転ぶと空きっ腹に入れたアルコールが体を回った。額に手を当てふうと息を吐いた瞬間、言葉に出来ない寂しさが襲った。
一段落ついた安心からだろうか。無性に彼女が恋しくなった。もう逃げられない様に、二度と逃がさない様に、そのためにここまで夢中で駆け抜けたが、もうとっくに限界だった。
会いたい。とにかく会いたい。早く君を抱きしめたい。
君がいなくなってもうすぐ1ヶ月が経つ。まるで何十年も離れ離れになった様な気分だ。俺は君を少し甘やかせすぎたのかもしれない。君の意思を尊重出来るほど利口ではない。全世界を敵に回してでも追いかけ続ける人間なのだ。
君を愛しているから。
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