アレックス・マーベルと優しい世界

はくまいキャベツ

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「おかーさん、あそこに誰かいるー」

 そう言って4歳の娘が私の服を引っ張って道の外側を指差した。

 市場からの帰り道。舗装されているとはいえ木々に囲まれている為人通りはなく、何者かが潜める事だって可能だ。娘のその一言にぞっとした私は、なるべく落ち着きを払いながら手を引く。

「エリン、早く行きましょう」
「なんで?」
「お父さんが帰って来ちゃうわ」
「でも寝てるよー?」
「…え?」

 あまりにも怖くて娘が挿した方向を見れていなかったが、そう言われると思わず凝視してしまう。針葉樹が並んだその先に、確かに人の様なものが横たわって見える。ただそれは思ったよりも小さく、位置も遠くて確信を持つ事が出来ない。

「いってみる?」
「え…だ、だめよ!獣だったらどうするの!?」
「けものって、くまのこと?」
「そう…他にも、猪とか…その…」

 娘に答えながらも、その“人”の様な塊をちらちらと伺う。ぴくりともしない事に少しほっとした。

「とにかく行きましょう。離れた方がいいわ」
「分かったー」

 駄々をこねる時もあるが、意外にもあっさりと従ってくれてほっとする。けれどずっと私の心はもやもやしていた。

「ただいまー」
「おとーさんおかえりー!」

 それから1時間経った頃、夫が帰宅した。本来なら夕飯の支度をしている筈なのだが、私は先程見た光景が気になって全く手についていなかった。どうしても引っかかってしまった私は、夫に全てを話した。

「この子と2人だけだったから怖くて確認出来なくて」
「それはそうだよ。俺が見に行ってこようか」
「そうね…でも、本当に獣か何かだったら」
「ぴくりともしなかったんだろ?大丈夫だろ」

 大工仕事を生業としている夫は、確かに腕っ節は強い。心配ではあるが、すぐにそう言ってくれて少し安心した。

「エリンもいくー!」
「うーん、流石に駄目だな。ここから歩いて10分くらいだよな?」
「ええ」
「すぐに帰ってくるから家で待ってな」
「やだー!エリンもいきたいー!!」
「エリン、お母さんのお手伝いしてくれる?今日はエリンの大好きなとうきびを使ったスープよ。つぶつぶを取るの、上手だったじゃない」
「“ぶつぶつ”やる!」
「…じゃあ行ってくるわ」

 小声でそう言うと、夫は出て行った。それから娘ととうきびの粒を取る作業をしたが、相変わらず心は落ち着かなかった。無事見つけられただろうか、襲われたりしていないだろうかとそわそわしながら待つ事30分。夫は帰ってきた。

「おかえ…」

 私は言葉を失った。身軽で帰ってくるだろう、いや、そう願っていたが、夫は両手に何かを抱えて帰ってきた。夫の体にすっぽりと収まる小さなそれを理解するのに数秒かかった。

「子ども…!?」
「毛布を持ってきてくれ。医者の所に連れて行く」
「わ、分かったわ…!」

 震える手を抑えながら寝室の毛布を取ってきてその子を包む。恐らく娘より少し年上の男の子だった。薄汚れた金色の髪から除く目は閉じられ薄く呼吸をしている。思わず目から涙が溢れた。

「君が責任を感じる事じゃない。とにかく今は急ごう」

 夫の言葉に無言で何度も頷く。そして近所の人から馬を借り、夫は隣町の医者の所へ向かった。

 待つ事しかできない私は悶々としながら、とりあえず夕飯の準備を再開する。正直身が入らず結局スープとパンだけになってしまったが、娘は美味しそうに平らげてくれた。少しだけ心が休まる。娘を寝かしつけた頃に夫は帰って来た。

「どうだった!?」
「大丈夫、危険な状態ではないって。今は眠ってる。ただ随分と食べれていなかった様でかなり衰弱してるんだ。どこから来たか分からないが足もぼろぼろだった」
「……っ!」

 再び涙が溢れた。夫がそっと私の背中をさする。

「可哀想に…どうして」
「本当にな…何にせよ最悪の事態にならなくて良かった。君が気付いてくれたおかげだよ」
「私じゃないわ、エリンが気付いてくれたの。…あの時、私が怯まずに1秒でも早く見つけてあげられたら」
「だから君が責任を負う事じゃないよ。とにかく命は助かったんだ。あとは回復を祈ろう」
「ええ…」

 夫は夕飯を食べ終わると、再びあの子の元へ向かった。私は何度も寝返りを打ちながら、どうか助かります様にと願いながら、何とか一夜を過ごしたのだった。

 翌日。近所にいる夫の両親の所へ向かい、エリンを預けて私も隣町に向かった。森で子どもが倒れていたという噂は小さな村な事もあって既に知られており、両親はすぐに理解して快く預かってくれた。更に”手持ちが今このくらしいしかないのだけど“とお金まで持たせてもらい、その後も偶然居合わせた村の人達に呼び止められては、同じ様に治療費の足しにしてと渡された。

 ここに嫁いでおよそ6年。最初は何をするにも隣町へ行かなければならなかったり、ほとんど自給自足の生活で戸惑ったりしたが、ここの人達は私を他所もの扱いせず血縁関係も超えてたくさん助けてくれた。何度もそう感じていた事だけど、今改めてここに来られて良かったと実感したのだった。

「あなた」
「イヴリン!丁度良かった。さっきあの子が目を覚ましたって言われて」
「本当!?」

 診療所に入るなり出くわした夫から朗報を聞く。夫が朝食を買いに少し席を外していた間に目覚めたらしく、2人で慌ててその子の病室に向かった。6つのベッドが置いてある内の窓際のベッドに何人か集まっていた。看護婦が私達の存在に気付く。

「良かった、丁度奥様も来られたのですね。あなたを見つけてくれたご夫婦よ。旦那さんはずっとあなたに付き添ってくれていたの」

 恐る恐るベッドを覗くと、あの金髪の男の子が横になったまま薄らと目を開けていた。思わずほっと息を吐く。医者が聴診器を何回か胸に当て、にこりと笑った。

「熱もないし、呼吸も正常。とにかく今必要なのは栄養だね」
「ありがとうございます。あの、目覚めた時の様子って…」

 私がそう問うと、先程とは別の看護婦さんが教えてくれた。

「私が様子を見にきた時にはもう目を開けていらっしゃいました。そして私の顔を見るなり、ここはどこかと聞かれたので、運ばれるまでの事を大まかに説明してあります。名前は上手く聞き取れませんでしたが恐らくアレックス、と。歳は8つだそうです」
「8つ…」

 娘よりいくつか上と言ってもそう変わらないと思っていた。それくらい、この子はあまりにも小さく痩せていた。どこから来たのかは分からないが、数日彷徨っていたとしてもここまで痩せ細る事はないだろう。
 
 もしや、と私の中で最も恐ろしい事が頭をよぎる。例え心の中であっても言葉にしたくなくて、代わりに唇を噛んだ。夫も悲痛な表情を浮かべていた。

「声が聞けたのは今の所それだけで、まだ頭が働いていない様子です。詳しい事はもう少し回復してから聞いていきましょう」
「分かりました…」
「今お食事をお持ちしますので、お待ち下さいね」

 そう言って医者達は病室から出て行った。それを見届けた後、夫が近くの椅子に座り静かにその子の頭を優しく撫で始めた。私もベッドに腰掛けて、その子の手を握る。
 
 冷たくて、細くて、娘の柔らかい手とは違い乾燥していた。子どもの手とは程遠い感触に苦しい何かが込み上げる。

 その子がゆっくりと首を動かし、薄く開いた目のまま夫を見つめた。夫は今にも瞑ってしまいそうなその目を見つめ返しながらそっと伝える。

「よく頑張ったな」

 夫のその言葉でかは分からないが、その子の瞳から一筋の涙が溢れた。それが全てを物語っていた。

 それからその子、アレックスは徐々に回復していった。液状の物から固形の物も食べられる様になり、私と夫と義母が交代で付き添い、やがてベッドからも起き上がれる様になった。少しずつだが会話も増えて来ている。ただ相変わらずここまでの経緯は不明で、私達も特に追求はしていない。

 医者も私達と同じ見解で、恐らく以前から十分に食べさせて貰えておらず、挙句の果てに捨てられてしまったのだろうという事だった。

 私達が住まう村は深い森に囲まれていて、近くにある人里はこの町だけだ。そしてアレックスは明らかにこの町の子ではなかった。

 子どもの足でこんな所まで彷徨うなんて不可能だ。恐らく随分と離れた所からやって来て、わざわざこんな深い森にアレックスを捨て置いたのだろう。絶対に帰って来させない様にという意思が感じ取れて、怒りが湧いた。

 ただ医者はこの子は神に恵まれた子だと言った。ぼろぼろの足で森の中を彷徨っていたにも関わらず、獣に襲われなかった上に破傷風にもならず、こうして回復してきている事は奇跡なのだという。

 彼のこれまでの境遇をわざわざ深掘りする必要はないだろう。とにかくアレックスの命が助かったという事実だけでいい。それだけで十分なのだ。

「マーベルさん、少しよろしいですか」
「はい」

 今日は娘とアレックスの見舞いにやって来ていた。1週間ほど前に初めて顔を合わせた2人は最初は照れ臭そうにしていたけれど、最近では一緒に絵を描いたり、リバビリも兼ねての散歩を一緒にしたりして徐々に仲良くなってきている。しかも今回は娘が自分から行きたいと希望したので連れて来た。

 しばらく娘には寂しい思いをさせていたので、アレックスに対してどう思っているのだろうと心配していたが、嫉妬などの感情はなく“お兄ちゃん”と呼んで慕ってくれている。今もアレックスと楽しそうにお絵描きをする娘に声をかけた。

「エリン」
「なあに?」
「先生が何かお話あるみたい。行こうか」
「いかない」
「え?」
「お兄ちゃんといるー」

 まさかここまでアレックスに懐いているとは驚いた。一瞬それでも良いかとも思ったが、まだ十分に動けないアレックスに対しエリンは動き盛りの4歳だ。負担が大きすぎると判断した私は説得を開始する。

「お母さんいなくなっちゃうよ?大丈夫?」
「だいじょうぶ!」
「でもお兄ちゃんが大変だもの。ほら、行きましょう?」
「やだ」
「僕は構わないよ」

 一瞬どこから声がしたのだろうと思ってしまった。声の主は勿論アレックスだった。

「でも、どれくらいかかるか分からないし」
「先生の部屋知ってるし、何かあったらそこに連れて行くよ」
「そ、そう…?」

 いつもと変わらない表情のままだったが、突然見せてくれた積極性に、驚きと嬉しさが込み上げる。でもやっぱり不安で、もう一度声をかけようとしたら“おかあさんばいばーい”と娘に嬉しそうに言われて何も言えなくなってしまった。

「じゃ、じゃあお母さん行かせてもらうね。エリン、お兄ちゃんはまだたくさん動けないから、大人しくしていてね。寂しくなったらお兄ちゃんに言って、お母さんの所に連れて来てもらうのよ」
「わかったー!」
「ごめんね、アレックス。無理しないで、大変だったら私の所に来てね」
「分かった」

 若干後ろ髪を引かれながら病室を後にする。娘の楽しげな声だけが救いだった。

「おや?エリンちゃんは」
「それが、アレックスと一緒にいたいと言われて…」
「はは、すっかり仲良しですな」
「私、様子を見ておきますよ」
「ありがとうございます」

 看護婦さんがそう言って2人の所に向かってくれてほっとする。これで心置きなく話を聞ける。

「では早速本題に入りましょうか。あの子のこれからの事についてです」
「はい」

 何となくそんな気はしていた。そして最近毎日の様に夫と話し合っていた事だった。

「どうお考えでしょう?」
「私達は、あの子と家族になりたいと思っています」
「そうでしょうな。あれだけ献身的にお世話してらっしゃいますから」
「ですが、そんな簡単な事ではないとも思っています。何より大事なのはあの子の意思であって、選択肢を一つにはしたくないのです」
「分かりました」

 医師がにこりと笑う。そして一枚の紙を取り出した。

「知り合いに孤児院を開いている人がいます。いつでも帰って来たくなる様な暖かい場所を心掛けている方で、実際にたくさんの子どもがそこで立派に成長しています」

 その紙には孤児院の名前や方針などが書かれていた。

「見学などは可能でしょうか」
「勿論です。私が手配しますのでいつでもおっしゃって下さい」
「分かりました」

 医師から紙を受け取り、丁寧に折り畳む。

「マーベルさん達のあの子を想うお気持ちは本当に素敵だと思います。あまりプレッシャーをかける事はよくないと分かってはいますが…私は、あなた方が家族になれる事を応援していますよ」
「…はい」

 扉をゆっくりと閉める。2人の所へ向かいながらぼうっと考えた。

 アレックスと家族になる。それは私のエゴなんじゃないか、ただの偽善ではないかとこれまで何度も問うた。

 可哀想だから、という理由は罷り通らない。アレックスだけじゃない、私達家族全員の人生も180度変える大きな決断だ。では一体何を決め手とするのか。私にも分からないのに、8歳のアレックスに委ねていいものなのか、いくら考えたって答えは出ない。

ーー私はどうしたいの?どうしてあの子の側にいたいと思うの?

「奥様?」
「…え?」

 いつの間にか到着していたらしく、2人を任せていた看護婦さんに声をかけられ慌てて姿勢を正す。

「あ、ありがとうございました」
「いえ、私はここから見ていただけですから。
 とても可愛いくて癒されましたよ」

 そう言って微笑んだ看護婦さんは頭を下げると仕事に戻っていった。

「あれなんのとりー?」

 娘の声が耳に入る。その方へ目を向けると、2人が窓際に手をついて喋っていた。

「ムクドリ。黄色いくちばししてるだろ」
「ほんとだー。じゃああれは?」
「カラス。その辺にいるじゃん。知らないの?」
「しらなーい」
「嘘だ、絶対見た事あるって」

 2人で外を眺め、笑い合っている。初めて見たアレックスの笑顔。その隣で嬉しそうに、にししと笑う娘。

 その瞬間、身体の底から湧き上がった。

ーーそうか、私アレックスが愛おしいんだ。

もうどうにも抑えられなくて、衝動的に2人を後ろから抱きしめていた。

「あ!おかーさん!」
「び、びっくりした!なに!?」
「ふふ…驚かせてごめんなさいね。もうね、可愛いなあと思ったのよ」

 翌日、娘は両親に預けて夫と2人でアレックスの元へ向かった。

 “あなたと家族になりたいの”

 そう告げると、アレックスは照れ臭さそうに頬を掻いた後、静かに頷いてくれたのだった。


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