私の愛した彼はもう誰かのもの

ももな

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1話 出会い

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目覚まし時計が鳴り響く。午前6時。まだ薄暗い冬の空をぼんやりと眺めながら、美咲はベッドから体を起こした。カーテンを開けると、都心の高層ビルが霞む中で目に入る。いつもと同じ朝、いつもと同じ風景だった。

「今日も忙しくなりそうね……」

自分に言い聞かせるように呟くと、美咲は手早く支度を済ませ、家を出た。出版社での仕事は充実していると言えば聞こえはいいが、実際にはほとんど自分の時間を削られる日々だった。新刊の企画をまとめ、作家との打ち合わせを繰り返し、時には彼らの愚痴や相談まで引き受ける。気づけばもう30代半ば。恋愛なんて、最後に考えたのはいつだっただろうか。

「私は今が充実しているから」と、周囲に言い続けてきた。だが、内心ではわずかな不安と孤独が膨らみつつあった。


昼過ぎ、美咲は業務の一環として、とある美術展を訪れていた。仕事の都合で訪れることは珍しくないが、この日は少し違った。上司から新たな書籍企画のヒントを得るために、テーマ性のある展示を見てきてほしいと頼まれたのだ。

「これも仕事の一環よね……」  
独り言を呟きながら展示室に足を踏み入れると、ひんやりとした空気とともに鮮やかな絵画が目に飛び込んできた。抽象画、風景画、肖像画——多様なジャンルの作品が整然と並ぶ中、美咲は一つの絵の前で足を止めた。油彩で描かれた大きなキャンバス。どこか荒々しさと静けさが共存する不思議な一枚だった。

「この絵……何か特別なものを感じるな……」  
心の中で呟いていると、背後から穏やかな男性の声が聞こえた。

「それ、すごく良い絵ですよね。この画家の作品は、感情の揺れ動きが色彩に表れているんです。」

美咲は振り返った。そこには40代半ばくらいのスーツ姿の男性が立っていた。端正な顔立ちに、柔らかい物腰。彼の言葉には、どこか専門的な知識と情熱が感じられた。

「そうなんですか……絵に詳しいんですか?」  
自然と聞き返すと、彼は微笑みながら答えた。

「ええ、少し仕事で関わっているので。普段は絵画のコンサルタントをしています。」

「コンサルタント……」  
美咲は初めて聞く職業に興味を抱いた。

その後、二人は自然な流れで絵についての話を続けた。彼の名前は涼介。仕事で美術展に足を運ぶことが多いらしい。彼の語る内容は知的でありながらも堅苦しくなく、美咲は気づけば時間を忘れて聞き入っていた。

「こういう話をするのって楽しいですね。普段、こんな風にゆっくり美術を楽しむ機会がなかったので。」  
そう美咲が口にすると、涼介は少し驚いたように首を傾げた。

「出版社のお仕事なら、クリエイティブな場面にたくさん触れていると思っていましたが、意外ですね。」

「ええ、まあ、そうなんですけど……実際は締切に追われるばかりで。」  
少し恥ずかしそうに言う美咲に、涼介は優しい笑みを浮かべた。

「そんな忙しい中でも、こうやって立ち止まれる時間があるのは素敵ですね。美術館って、心を落ち着けてくれる場所ですから。」

その言葉に、美咲は小さく頷いた。確かに、自分にとってもこの場所が久々に心を開放してくれる時間になっているように思えた。


二人はその後も少し話をしたが、美咲が次の予定に向かうために別れることになった。涼介が差し出した名刺を受け取ると、美咲は「またどこかで」とだけ言葉を交わし、会場を後にした。

会場を出た後、美咲は不思議な感覚に包まれていた。涼介との出会いが単なる偶然とは思えないほど、自分の心に深く刻まれていることに気づく。
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