疾風となれ!

musimaru

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疾風となれ!

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「疾風となれ!」
       
プロローグ

 キッチンから妻の声がして我に返った。パソコンからデジタルフォトフレームに写真を
移し、それを眺めながら思い出に浸っていた。もう15年になる。
 そのころ僕は漫画家になろうと思っていた。真っ白な紙の上に自在に世界を創り上げて
行くことが面白かったのだ。神様はそんな思いで宇宙を作ったのかしらん、そう考えたり
もした。
 僕は漫画を描くことを通じて、作者は2次元の世界で動く登場人物の運命を操ることが
できること、そのようなことが自分の身にも起こっているかもしれないと考えたりもした。
 僕はある漫画が大好きだった。作者が動かす登場人物たちはみな生き生きとしていた。
みんな別々の夢を持って、しかし一致団結し悪人をやっつけながら旅を続けていく姿は僕
をやる気にさせた。そんなストーリーを作るのが夢だった。
 だが、運動会をきっかけにして、正確には運動会の1週間後だが、風向きが東から西に
変わるように僕の道がヘアピンカーブを描いた……。
 
1.

 5月の第3日曜日、その日は五月晴れを絵に描いたような運動会日和だった。赤青白の
3チームに学年を縦割りして、プログラムは順調に進んだ。
 小6の僕は赤組で得点係だった。だから自分が出る種目の時以外は、校舎の3階で得点
掲示をするのだった。連絡係の持ってきた点数を見、2メートル四方のボード3枚を使っ
てあらかじめ作っておいた数字を貼り付け、ベランダから吊るすのだ。
 僕はこの仕事はどうでも良いと思っていたが、校庭を俯瞰できるベランダにいるのが好
きだったから、係を決めるときに真っ先に得点係に立候補し、まんまとその位置を確保し
たのだった。
 高いところからの風景は漫画に似ていると見るたびに思った。つまずいて転んだ選手は
転んだのではなく転ばされたのだ。舞う土埃は時折吹きすぎていく風を見せたかったのだ
ろう。動きを表すのがうまいのは影のつけ方が巧みなせいだ。
「駿、リレーは次の次だぞ。入場門前に集まるようにって、園田先生が呼んでたよ」
 谷口隼人の声で現実に戻ってしまった。隼人は、勉強では実技教科を除いてできないも
のはない。
「ありがと、じゃあ得点ボード頼んだよ」
「オーケー、そしたら前もって百点足しとくよ」
 それが激励の代わりだというような口ぶりで隼人が言う。
 リレーは点数が高いから、それまで負けていても大逆転が期待できる。赤組は1位の白
組に20点の差をつけられていた。青組とは50点以上の開きがあったが、どの組にも優
勝の可能性がある。
「とにかくバトンを落とさないようにするよ、じゃあね」
 隼人は笑いながらサムズアップ。

 運動会の花といえばやはりリレーである。最終種目は6年男子のクラス対抗リレーだっ
た。7人ひと組の選手の1人に選ばれたのだが、そこでとんでもないことをやってのけた。
 僕はアンカーだった。走る順番は園田先生がタイムをとって決めた。でも僕はそこそこ
速いとは感じていても、自分がとんでもなく速いとは思っていなかった。
 最終走者は100メートルを走る。ほかの走者は50メートルを走る。その日のレースは序
盤こそデッドヒートが繰り返されていたが、4走にバトンが渡る頃になると少し縦に間延
びしだした。6走も頑張ったが、結局僕は6チーム中3位でバトンを受け取った。
 その時トップとの差は20メートル。青組の1位の子と白組の2位の子がどちらも速い
ことは知っていた。2人がバトンを受けてからまもなく僕の番がやってきた。
 考えてみれば今まで人の足の裏を見て走った記憶がない。1人を除いて。だから、すで
にバトンを受け取って走り去った4つの足の裏を見ているうちに、それを闘志と言うのだ
ろう、体全体がほてっていくのがわかった。得点のことは頭から消し飛んでいた。
 6走が近づいてきた。僕は前の2人から目を離さず、練習した時のように右腕を後ろに
伸ばして助走を始めた。「はい」という掛け声と同時にバトンの丸みが手のひらに伝わった。
僕はそれを確かめるようにしっかり握った。「よし、大丈夫だ」そう呟いて、チータが獲物
を狩るのを思い浮かべながら、心のギアをトップに入れた。そして思い切り腕を振った。
加速しているのがわかった。
 僕の視界には2位の子の背中だけがあった。彼との距離は5メートル。1歩ごとに背中
が大きく見えてくるのがわかった。そして僕自身が驚くほどあっさりと抜いたのだ。僕は
追い抜いたときには既に1位の子に照準を当てていた。「あと10メートル! がんばれ!」
どこからか声が追いかけてくる。あれは園田先生だ。頭の片隅で捉えながらさらに腕に力
を込める。
 1位の子の足音が聞こえてきた。どんどん大きくなってくる。2つの足の裏が交互に蹴
り上げる砂や土が見える。最終コーナーを回った。ゴールまでは直線だ。力を振り絞った。
 1位の子も必死になっているのがわかる。互いに無言だが、「負けたくない」というオー
ラに包まれているようだ。そのとき僕は、もちろん視界の中心にはその子がいたが、スロ
ーモーションを見ているような気がした。頭が現実の体の動きをまどろっこしく感じてい
たに違いない。
 あと2歩ほどで先頭に並ぶ位置まで近づいたとき、僕はやや右に進路をふくらませ、す
かさず一気に抜いた。その瞬間1位の子が止まって見えた。驚いた。すぐ先に白いテープ
が見える。そこを超えねばならないのだ。僕は抜き去ったあと、空気がどこまでも続く厚
い壁になったような気がした。抜き返されるのではないかと不安がよぎる。
 最後の数歩は目をつぶっていた。だから胸に少しの抵抗を感じるまでゴールしたことが
わからなかった。目を開き前に誰もいないことを確認し、それから少し恥ずかしかったが、
おもむろに両手を上げた。
 チームのみんなが駆け寄ってきた。口々に何か叫んでいる。園田先生も走ってきた。満
面の笑みだ。
 その時初めて観客の歓声にも気がついた。拍手も聞こえてきた。うれしかった。負けそ
うだった正義の味方が大逆転して勝ちを収めたアニメを見たときのような、そんな充実感
だった。
 僕はその日ヒーローになった。絵もうまいと言われていたが、そんなものとは比べよう
もないぐらいいい気分だった。走るのもいいものだと思った。緑を含んだ5月の風が、シ
ャワーで汗を流す時よりも心地よいものだと思った。
 ふと周りを見渡すと、ゴールのすぐ近くにある本部と書いてあるテントの脇に父と
母がいる。僕は控えめにガッツポーズを送った。忙しい父親が、6年目にして初めて応援
に来てくれたのだ。僕は急に大人になったような気がした。
 父と母に軽く手を振り、クラスの集合場所に戻って水筒の水を飲んだ。興奮を抑えるよ
うな冷たさだった。うまかった。トラックでは閉会式の準備が始まっている。
「すげーじゃん駿。あんなに速いとは思ってなかった。ボルトみたい」
 傍らにやってきた、佐藤睦美が言う。幼馴染で男勝りな性格の睦美は、いつも足が遅と
言って僕を小馬鹿にしていた。
 睦美は幼稚園の頃までは僕とかけっこで負けたことがない。いつも僕が悔しがって泣く
のだった。その睦美が今、僕を認めているのだ。
「ボルトのようになれるかな」
「ばか、調子に乗ってんじゃないわよ。んなわけないでしょ。そういうのをジイシキカジ
ョーって言うのよ。まあ、でもなかなかイイ走りだったわね。駿もその気になったらでき
るってことよね。あっ、閉会式始まっちゃう」
 言い残して女の子たちが集まっている方へ走っていく。
 今まで負け越してきた睦美に、開口一番すごいと言わしめたのだから僕にとっては大金
星だ。睦美はポニーテールが好きで二重まぶたの綺麗な、睫毛の長い瞳の大きな子だった。
 真一も近づいてくる。小学校に入ってから仲良くなった1人だ。真野真一は幼い頃から
体が弱く、だから運動は大嫌いだった。身長もクラスで並ぶと前から数えたほうがはやい
ぐらいだったし、体も細く色白でいかにも虚弱に見えるのだ。
「駿、運動会終わったらうちに来ない? ジンゴロベーの居場所が見つかるかもしれない
んだ」
 拍子抜けした。こんな時に、大活躍した主人公を目の前にしてそのことには一切触れず
に、なにも今ジンゴロベーはないだろ。しかも初夏だぜ。僕は鶏のような顔になって真一
を見ていた。そして、
「しんちゃん、あのさ……」と言いかけるやいなや、
「多分ね、森林公園にいると思うんだ。あそこに大きな樫の木があるじゃん? 多分ねそ
の根元に穴があいてたから、多分ねそこだと思うんだ。そんで、明日の振替の休みを使っ
て行こうと思ってさ、一緒に行こうよ。だから今日計画を立てたいんだよ」
 真一はまくし立てるのだ。言いたいことがあると我慢ができない。とにかく肺の中の空
気が続く限り話し続ける。こうなると手がつけられない。
 僕は狙った雀に跳びかかろうとして体を伸ばした瞬間、あえなく逃げ去られてしまった
哀れな猫のように自分のせりふを飲み込むしかなかった。
「……だから駿、行こうよ。な、一緒に探そうよー」
「んー、帰ったらメールするよ。きっとするから。それより閉会式が始まっちゃうよ」
 振り切った。1位の子を抜くのより難しい。会話の隙をうまく手元に引き寄せるのは本
当に厄介だ。僕は真一の速射砲に出会うたびにそう思う。真一は閉会式などどうでもいい
のにとなおもぶつくさ言いながら自分の席に戻っていった。
 閉会式では1位赤組、2位白組、3位青組という結果報告があった。もちろんみんな頑
張ったのだが、やはりリレーがものをいった。
 
 家でのその日の夕飯は僕の好きなものばかりが並んだ。父も母も祖母もアンカーどうし
の走りをビデオで見ては、ゴールの瞬間に合わせてビールで乾杯している。3回も繰り返
した。
 最初の乾杯こそ嬉しかったが、そのうち恥ずかしくなり、しまいにはコーラの気が抜け
たようにまったくしらけてしまっていた。殊に祖母は涙が止まらない。孫の活躍もさるこ
とながら、若い頃陸上短距離の選手だったので、喜びはひとしおだったのだろう。
 その日の宴は夜遅くまで続いた。こんなに家族が喜んだことがあったろうか。小野寺家
の伝説になるかもなと思った。

2.

 桜の開花が例年より早く、入学式の日は既に葉桜になっていた。僕は今日から中学1年
生だ。少し大きめの学生服。首のあたりが窮屈で、いつものように半ズボンとTシャツが
いいと思いながら、校長先生やPTA会長の挨拶を聞くともなしに聞いていた。
 睦美と真一とは同じ中学だが、成績優秀だった隼人は都内の私立に進学した。
「学校は違うけどこれからもよろしく。ジュニアオリンピックに出てくれよ」と卒業式で
言われた言葉が思い出される。今、僕はジュニアオリンピックを目指すことになっている。
 実はあの運動会のあと一週間ほどたってから、僕は園田先生に職員室に呼ばれたのだ。
園田先生はショートカットで丸顔でテニスが好きだった。

「駿君さ、ジュニアオリンピックに出てみない?」
 園田先生は前置きもなく、いきなり本題に入った。
「えっ、ジュニアオリンピックって何ですか」さっぱりわけがわからない。
「全国の中学1年から3年までの陸上選手が集まって競う大会よ。もちろん学年ごとに種目
を分けて行うのよ。駿君は100メートルを目指すといいわね。うん」
 園田先生はにこにこ顔でもう決めたとでも言いたげだ。
「そんなこと言われても、どうしていいかわからないよ先生。全国だなんて。今決めない
といけないんですか。お父さんやお母さんに相談しなくちゃならないし」
「大丈夫、ご両親にはもう了解をとってあるの。駿君しだいだっておっしゃってたわよ」
 園田先生は相変わらずにこにこしている。なんて手回しがいいんだろう。僕はそれでも
いぶかしんでいた。そもそもどうして僕なんだろう。たかだかリレーで活躍したぐらいで
全国の大会に出ろだなんて無理に決まってる。
 もじもじしていると、園田先生は察したよう言う。
「あのね、運動会の閉会式のあと、駿君のご近所に二階堂仁さんていうおじさんがいるで
しょう、その二階堂さんが私に声をかけてきたのね。二階堂さんは若い頃に箱根駅伝に出
て優勝したことがあるんだって。で、駿君の100メートルのタイムを聞かれたってわけ」
「はあ」と僕は気のない返事。
「でタイムを教えたのね。そうそう駿君は100メートル12秒8だったのよ。そうしたら二階
堂さん喜んじゃって、来年のジュニアオリンピックに出したらどうかって言うのよ。も
ちろん先生だってジュニアオリンピックなんて名前しか聞いたことがなかったから、その
時は半信半疑だったわ。で、二階堂さんに説明してもらったの。簡単に言うとね、出場す
るには標準タイムというのがあって、それをクリアするか県で1番になればいいんだって」
 園田先生はそう一気に喋って、ミネラルウオーターで一息ついた。
「で、中学1年の標準タイムは11秒8なんだって。駿君は1秒縮めればいいのよね。あと1年
以上あるんだからできるでしょ。二階堂さんも太鼓判を押してたわよ。やってみなさい」
 園田先生の決意は固いようだった。僕にも事情が飲み込めてきたが実際に走るのは僕で
ある。また、陸上短距離で1秒縮めることが、そんなに簡単ではないことも知っていた。
「でも先生。僕、走り方がわからないし、それに1秒って」
 と言いかけると、すかさず園田先生が、
「それも大丈夫。駿君がやると決めたら二階堂さんがコーチを引き受けてくださることに
なってんの。それだけ期待されてるんだよ。どう?」
 と準備は万端仕上げを御覧じろと言わんばかりだ。それでも心を決めかねていると、
「しょうがないわね。じゃあお呼びするしかないわね」
 そう言うが早いか、園田先生は足早に校長室に入っていった。
 僕はたとえ校長先生に言われても決めることはできないだろうと思っていた。中学に入
ってからのことだし、権威とは無関係な立場だし、そもそも校長先生は僕のことを何も知
らないはずだ。だから校長先生の出る幕はないのである。
 たしかにあの時はヒーロー気分に浸れていい思いをした。それとて右向け右の集団生活
の中で、たまたま起きた珍事にほかならない。家族も大げさに祝ってくれた。でもたかが
運動会だ。
 漫画家になりたくてそれなりに勉強している僕にとって、この誘いは間違いなく悪魔の
囁きだった。しかし、それに抵抗するだけの自信はなかった。絵がうまいことはみんなの
認めるところだったが、そのレベルがどの程度のものなのか皆目見当がつかないでいたか
らだ。
 だが、走りについては違う。大人が、しかも陸上経験者が太鼓判を押してくれたのだ。
父や母まで僕次第だと言っているらしい。園田先生に至ってはほかに選択肢を用意してい
ないのだ。しかし、それでも決意するにはたしかな拠り所が必要だった。その準備まで園
田先生は抜け目なくやっていたのだ。
 笑い声が聞こえてきたのをきっかけに意識が校長室のドアに向いた。ほどなく校長室か
ら3人の大人が出てきた。園田先生、校長先生、二階堂のおっちゃん! の順で。
「やあ小野寺君、もう園田先生から聞いていると思うけど、この方が二階堂仁さんだ。君
の走る姿を見てぜひコーチをさせて欲しいと、そうおっしゃるんだよ」
 何も知らない校長先生は、自分が仲を取り持つから安心しなさいとでも言いたそうに、
それでなくても垂れているのに、目がたてになるのではないかと思うぐらい目尻を下げて僕
に紹介した。おっちゃんもおっちゃんだ、今まで校長先生と何を話してたんだろう。
 というのも、おっちゃんは僕が物心ついた頃からの知り合いだったからだ。通りをはさ
んで向かい合わせに住んでいたのだから、文字通り向こう三軒両隣、仲良く付き合ってい
た。
「駿、そういうわけだからよろしくな。これからは師匠と弟子の関係になるのかな」
 まだ決めてもいないのに、園田先生と同じノリだ。校長先生はおっちゃんの馴れ馴れし
い様子に目を白黒させている。
 今日のおっちゃんはいつものジャージ姿ではなく、スーツだった。でも、ヒゲをそるの
は忘れて欲しくなかった。
「よろしくって言われても」
 戸惑いながら園田先生に目をやると、先生は僕に向かって小さくVサインを送っていた。
「いいか、駿のタイムは全国に通用する速さなんだぞ。しかも、まったく練習もせずにだ。
天性の素質があるとおっちゃんは思ったね。ばあちゃんから遺伝したのかもな。どうだ、
そうするつもりはないが、騙されたと思っておっちゃんにつきあわねぇか。父ちゃんと母
ちゃんからもお願いされちゃったし。幸枝さんも顔中しわだらけにして、どこが目なんだ
か口なんだかわからなくして喜んでたぜ」
 後でわかったのだが最後の2つは大嘘だった。が、ここまできて、僕の気持ちがやっと
変化した。もちろん自信なんてない。けれども、これほど自分を認めてくれる大人がいる
のだと思うと、やれるだけのことはやってみたいという気になった。
「おっちゃん、先生……その、よろしくお願いします」
 その時拍手が僕を取り囲んだ。実は職員室にいた先生たちも聞き耳を立てて僕の決断を
待っていたのだ。大人はずるい、と思った。それにしても随分大げさな拍手だった。

 あれから1年近く。僕は入学式の退屈さを、回想することで紛らしていた。
 おっちゃんは、僕の知らない走るためのノウハウを1つ1つ辛抱強く教えてくれた。ほぼ
毎日、1時間きっかり練習した。特別長い時間ではない。
 お願いしますと言ったものの、相手もいないし、毎日黙々と練習することはそれほど楽
しいものではなかった。だから、なによりも練習のあとのファストフードでのコーラとポ
テトが楽しみだった。
 タイムはというと、卒業するまでの期間で0.5秒も短縮できた。つまり、12秒3で走れる
ようになったのだ。その頃になって僕はポテトよりは走ることが楽しくなってきた。
でも、1人でひたすら練習するだけの毎日だったから、ジュニアオリンピックを本気で目
指す気にはまだなれなかった。
「スパイクを履くともっと速くなるからな。中学行ったら陸上部に入れ。あそこの顧問は
おっちゃんの教え子だから安心していいぞ」
 おっちゃんの正体はなんだろう。そう言えば箱根駅伝に出たことしか聞いてなかった。
学校の先生だったなんて聞いたこともない。いつか聞いてみようと思った。

3.

 入学式も無事終了した。クラスは全部で5クラスあり、僕は3組でまたもや睦美と一緒だ
った。真一は1組になった。睦美とは年小の頃からずっと一緒だ。幼馴染もここまで来る
と、つかず離れずどこまでも続く線路のようで、そのうちなくてはならないもののよう
になってしまったらどうしようと、半ば本気で心配になった。
 1年生は体育館から親や先輩たちの視線にやや緊張しながら各教室に向かった。前の人
について行けばそのうち着くだろうと、カルガモのひなのように歩いていく。1組から順
に並んでいる教室にひなたちはぞろぞろと分かれていき、僕も3組の教室に入っていった。
 待っていた担任は佐東東志生という。黒板に書いてあった。すらっとした体型でスポー
ツ刈りだ。180センチメートルはありそうだった。意志的な眉毛と口元とは対照的にダチョ
ウのような目をしている。僕は信用できそうな大人だと思った。
 それにしてもサトウトシオという名前はどういうんだろう。まさか、名付け親が酔っ払
ってたわけじゃないだろうけど、東を重ねたり(普通はしないよ)「砂糖と塩」と読めたり、
そういうことを考えなかったのだろうか。
 先生は黒板の名前を指して、
「3組のみんな初めまして。サトウ・トシオです。ちょっと読みにくいけど、1度見たら
忘れないだろうと考えて、私の愛すべき父親が酔っ払うことなく真面目につけた名です。
調味料ではありません。気に入ってます。歳は27。1年間よろしくな」
 誇らしく胸を張って真面目くさってそう言った。みんなが吹き出した。それがきっかけ
となって各々が各々の部屋から顔を出してきた。
「私の教える科目は体育。部活は陸上部。委員会は美化委員会だ。走ったり跳んだり投げ
たりするのが好きな人は上手い下手は問わないから陸上をやってみないか」と言ったとき、
先生がまっすぐ僕を見た。
 それに気づいた子はいなかったにしろ、僕は恥ずかしかったし驚いてもいた。射すくめ
られそうな気がした。すぐに目をそらしてしまった。
「まあ、無理にとは言わないけれど部活はやったほうがいいぞ。3年間勉強も部活も一生
懸命やるようにな」
 先生はそう言うと、余計なことは一切言わず、いく枚かのプリントを配り翌日以降の予
定を確認し、取り急ぎ出席簿の1番目と2番目の子を明日の日直に指名して、「では、今日
はこれで終了」挨拶をして教室を出ていった。
 先生の姿が見えなくなった頃合を見計らったように、誰かがすかさず言った。
「先生のあだ名考えたぞ。甘辛先生ってどうよ」
 それを聞いた女子がさらにすかさず、だっさーい、いつそれ昭和? アマカラだって、
どう考えても年寄りだよね、と言いながらゲラゲラ笑った。睦美だった。
「じゃ、他にいいのがあるのかよ」
 その子は赤井琉太と言い、後で僕と同じ部活に入ることになるのだが、よせばいいのに
ムキになって言い返す。
「何言ってんの、誰も先生のあだ名を決めようなんて言ってないじゃない」
 睦美の真骨頂が早くもお披露目の時を迎えた。僕は知らぬふりを決め込むことにする。
「おかしいと思うから笑ったのに何が悪いのよ。そもそもアマカラがダサいと言われたら
まずあなたの語彙力の貧困さを反省すべきでしょ。そんなことに気づきもしないでムキに
なって、初対面のしかも女の子に向かって『のかよ』とはなによ。『んですか』ぐらい言え
ないの。『ん・で・す・か』ぐらい。あなたデリカシーって言葉知らないでしょ? そんな
顔してるもんね。あーあ、1年間ほぼ毎日かー、永いなあ。いやんなっちゃう」
 琉太は始めこそ攻撃的な前傾姿勢で睦美を睨んでいたが、この長広舌に及んでは反撃の
隙も与えられず、魔法をかけられたように、構えていた日本刀がなまくらどころか頭をた
れたすすきになってしまった。
 僕がその日のうちに琉太と仲良くなったのは「睦美対処法」を伝授したのがきっかけだ
った。しばらくは睦美対策の話に花が咲いた。百倍の反撃をどういなすかということでは
なく、もちろん撃退するなどという恐ろしいことは口にも出さず、反撃のいとぐちを掴ま
せないように話すにはどうすればいいのかという一点に集中した。
 後々この会話には参加者が増え(男子ばかり)「睦美シンポジウム」が、口撃を受け玉砕
した者が出るたびに開催されるようになった。これによって、3組の男子のコミュニケー
ション能力(特に女子に対してではあるが)は、相当鍛えられたことは言うまでもない。
 数日後、あだ名が決まった。怒ったときや不機嫌なときは「塩せん」その他の場合は「甘
せん」と呼ぶことになったのだ。睦美一派(クラスの女子全員であるが男子がそう名づけ
た。恐るべし睦美のカリスマ性である)の協議により決定され、男子を交えた話し合いの
機会も与えられずいつの間にやら一般化してしまった。だれが伝えたのか職員室でも既に
そう呼ばれている。ひとり琉太だけは「甘せん」は自分のがパクられたと言って譲らない。
もちろん男子の間だけでの話である。
 一方、佐東先生はまんざらでもない様子だ。むしろ好んでさえいる。その証拠に、
「宿題を意識して忘れたりしたら僕は塩せんになるからな。甘せんがいいと思うなら真面
目にやってくることだな」とその代名詞を自分で使っているのだ。甘せん、普段は僕って
言うんだ。初めての時は私って言ってたのに。
 部活はすぐに決まった。というよりも決められていたと言うべきだろう。二階堂のおっ
ちゃんが甘せんに根回しをしておいたこともあるし、僕自身も入学前におっちゃんに言わ
れていたからだ。それが当たり前だと思っていたから他の部活は見向きもしなかった。普
通であれば4月に興味のある部活を体験し、5月には決めるのが大筋なのだ。
 睦美つながりで仲良くなった琉太も迷わず陸上部に入った。僕は100メートルだが琉太は
中距離を得意としていた。
 入部届けは入学式の翌日提出した。昼休みにそれを出しに行ったとき甘せんは職員室に
1人だった。よろしくお願いしますとだけ言って立ち去ろうとすると、甘せんに、
「まてまて、小野寺君、今時間はあるかい」
 呼び止められた。
「あ、はい、大丈夫ですけど」
「そうか、それじゃちょっと話でもしようか。屋上に行こう」
 そう言って、東西に細長い三階建ての校舎の東側の外階段を登って屋上に出た。
 4月にしては乾燥した風が心地よかった。屋上には数人ごとの生徒のかたまりがいくつ
か、互いに重力のバランスを取るように位置を決めていた。
 僕たちもその調和を乱さないように、西側よりの隅の方へ移動し校庭が見える南の方を
向き、柵の前に並んで立った。
「小野寺君、身長は」並んでいるから大体の見当はつくはずなのに甘せんは言った。
「165です」
「165か。僕もそれくらいだったかな。中1の頃は並ぶと後ろの方だったからな。教室でも
頭一つ飛び出てるから目立つんだよな。だから、居眠りなんかするとすぐばれる」
「は、はあ」
 僕は晴れていいのか曇っていいのかわからないような空模様のまま気のない返事。
「二階堂さんから聞いていると思うけど、これからは僕が君のコーチをやることになった。
ジュニアオリンピックを目指してね。タイムも聞いてるよ。標準記録までもうすぐだけど、
大丈夫、それは早いうちにクリアできるさ」
 にこにこしている。
「はい、よろしくお願いします」晴れてきた。
「おっちゃん、いえ、二階堂さんから先生は二階堂さんの教え子だと聞いています」
「そうなんだよ。もう10年ほど前になるけど、僕が高校生だった頃のコーチだったんだ」
「高校生ですか」
「うん。高1の頃、僕の父親が交通事故で亡くなってね。中学から陸上をやっていた僕は
高校でも陸上部に入ったんだけど、そのことがきっかけで高校をやめなければならなくな
りそうだったんだ。私立だったからね。陸上をやりたくて入ったから、高校をやめるとい
うことは、その頃の僕にとっては生きている意味がないに等しかった」
 甘せんは過去を振り返るように遠くを見ている。ダチョウの目だ。
「高校、やめたんですか」
 僕は立ち入った話にどう応えていいのかわからなかったので、質問をすることで話を繋
いだ。
「高校は、」甘せんはひと呼吸おいて、
「やめないですんだ」と何かを決心する時のように吐く息を交えながら言った。
「全くやる気がなくなった僕を呼び戻してくれたのが二階堂さんだったんだ。後から聞い
たんだけどね、二階堂さんが校長先生にかけあってくれて、それまでも陸上の特待生扱い
で授業料は半額だったんだけど、それを全額無料にしてくれたんだ。『東志生くんを私に任
せてください。必ず全国で1番にします』とおっしゃったそうだ」
 甘せんの声がやや震えた。
 おっちゃんに対して、僕は何の蛹かわからなかったものが、徐々にアゲハ蝶の姿を現し
ていくように感じていた。
「校長先生から聞いたんだ。母と一緒に。母は泣いていた。僕は、多分その時が初めてだ
と思うけれど、自分の歯車が他の多くの人の歯車に噛み合っていくのを感じたんだ。それ
までの僕は足の速いことを鼻にかけていたからね。中学でジュニアオリンピックに出て記
録を塗り替えたんだ。中3のときだ。10秒67だった。それが二階堂さんの目にとまって、
高校のセレクションをパスして推薦で合格したってわけさ。そりゃあ得意になるよな。僕
を中心に世界が回っている気がしたよ。高校を続けられることになってからはそれまで以
上に本気で取り組んだ。二階堂さんのおかげだよ」
 校舎脇の楓や桜の木々を通って吹き上げてきた風がやや冷たかった。
「僕より1秒63も速い……」
 中3の時の記録とは言え、僕がジュニアオリンピックを目指してもいいのだろうかと、
流される木の葉のような自信が水をかぶって沈みそうになった。
「大丈夫だって言っただろう。二階堂さん直伝のトレーニングを続ければもっと伸びるよ。
うちの学校の陸上部が強いのはそれを実践しているからなんだ。しかも小野寺君は1年に
なったばかりだからな。3年間でそれぐらいは短縮できるから自信を持っていいぞ。でも
天狗にはなるなよ」
 僕は甘せんのその後の話を聞きたかったが、さあ戻ろうかという甘せんの言葉に促され
るままに屋上から外階段を下り、校舎に入ったところでお願いしますと言ってわかれた。
 会って2日目なのに自分のことを話してくれたのはおっちゃんとの繋がりがあったから
だろう。僕の心には植物が土を持ち上げて芽を出す時のようなエネルギーが満ちていくよ
うだった。
 
 5月の連休も終わり、クラスのみんなも部活が決まったようだ。僕は陸上部での生活に
も慣れ、先輩とも話ができるようになった。
 僕には特別メニューが施されていた。僕は自分だけが特別視され孤立することを恐れて
いたが、甘せんが僕の記録のことやジュニアオリンピック候補であることなどを部員に説
明してくれたおかげで、表立った波風は立たなかった。
 実際、タイム順に並べると僕は中3の先輩の中にいて、上から3番目に位置していたから、
みんなも納得してくれたのだろうと思う。
 おっちゃんが言うようにスパイクを履いて走ると、走ったその日からタイムは0.5秒縮ま
り標準記録を簡単にクリアしてしまった。僕は今ほぼ時速30キロメートルで走ることがで
きる。
 ボルトは9秒58で走る。時速37キロメートル以上で走れるのだ。どんな感じなんだろう。
周りの景色はどう見えるんだろう。僕は自分の足でどこまで速くなれるのだろう。
 毎日の特別メニューによる練習の話題は瞬く間にクラスに広がった。琉太だった。ホー
ムルームのあと、例のシンポジウムの時に(この会合もひと月もたつともはや睦美絡みと
いうよりも、定例総会のようになっており、世にも珍しい集団をなしていた)
「えーみなさん、今日はここにスーパースターになりそうな人をご紹介します」
 教壇に立った琉太は得意気である。
「みなさんはジュニアオリンピックはご存知でしょうか。水泳は知ってるよ、という人は
いらっしゃるでしょう。でも陸上にもあるのです」
 嫌な予感がした。
「我がクラスにそれに出場する資格を持った男がおるとです」ふざけ始めた。あぁ僕のこ
とだ。なんでまたそんなことを、と思う間もなく、
「さあ、小野寺駿くん。前へどうぞ」
 そう言って、琉太は慇懃に教壇を降りた。みんなは歓声をあげつつ僕に注目、ついで前
に誘うような手拍子が始まった。甘せんの言葉が効いた。僕は未熟な自分に気づいていた。
だからこの場から逃げ出したくなった。琉太が傍に来て言った。
「大丈夫、みんな応援してるって」
 僕は仕方なく教壇に立った。でも、何を言えというのだ。
「あの、駿です」
 げらげら笑って拍手が湧いた。頑張れよ、応援するぞと激励の言葉も飛んできた。頭の
中が渦巻いて何をどう言ったらいいのかわからないまま、
「がんばります」と言って壇を降りた。
 五月雨式にみんなが教室からいなくなったあとで、琉太と2人になった。
「駿、悪かったな。前もって言おうかとも思ったんだけどさ、今流行のサプライズっての
をやってみたかったんだ。みんなには前もって言ってあったのさ」
 流行かどうかはわからないけど、確かに驚いた。
「ジュニアオリンピックに出られる人なんて滅多にいないんだから、応援してもらう価値
があると思ったんだ。盛り上げようと思ってさ」
 いたずらっぽい目で琉太が言った。
「びっくりしたけど、ありがとう。でも、標準記録はクリアしたけどまだ出られると決ま
ったわけじゃないんだ」
「公式記録じゃないってことだろ。来月の大会で出せばいいじゃん。決勝を入れて4回あ
るんだから大丈夫だよ」と言う琉太は僕より詳しい。
 琉太は僕よりも早くジュニアオリンピックを意識していた。選んだ種目は1500メートル
だった。瞬発力で勝負するよりも持久力で競うことを選んだのだ。
 琉太の身長は僕とほぼ同じぐらいだが、体重は10キログラムほど重い。がっちりした体
格がエネルギッシュに見える。ランナー同士のぶつかり合いにはぴったりだ。
 1500メートルの標準記録は4分25秒だが、琉太は1分近く縮める必要があった。100メート
ルにつき4秒ほどだ。努力はもちろんするが、今年のうちにジュニアオリンピック
に出場することは難しいと思っていた。でも、中3までには絶対に出てやるんだという強い
気持ちを持っていた。
「琉太も頑張ろうよ。まだわからないじゃないか」
 なんだか一緒に出場したくなってきた。
「もちろん頑張るさ。でもとりあえず今は駿だ。とにかく標準記録をクリアしてるんだか
ら」
「わかった、頑張るよ。でも琉太、もし今年が無理でも……」
「みなまで言うな。そなたはそなたのなすべきことをされよ」
 時代がかった言い方で、手のひらを立てて前に出しながら琉太はそう言って教室から出
て行った。
 僕は琉太の気持ちが嬉しかった。僕が琉太なら同じことができただろうか。自分のタイ
ムを縮めることに躍起になって、琉太のことを考える余裕なんてなくなるのではないだろ
うか。あるいは、もしかすると琉太のことを妬んだかもしれない。
 琉太がかっこよく見えてきた。
「すげえな、琉太」と呟いてみた。

4.
 
 梅雨入りも例年より10日も早いとテレビで言っていたのに、桜の開花時期とは違い今日
も快晴で陸上部にとってはうれしい空の裏切りだ。
 大会まではあと3週間と少し、僕は甘せんとともに特別メニューをこなし続けていた。
タイムこそ一進一退を繰り返していたが、筋肉や肺活量は入学時に比べると大きな進歩を
見せていた。タイムが心配だと告げると甘せんは、
「駿、自分の体を思い通りにコントロールするまでには思いのほか時間がかかるんだ。自
転車に乗れるようになるまでの練習、あれとおんなじさ。またがって前を向いてペダルを
踏み続ければ進むことは頭で分かっていても、いざ乗ってみるといろんなところからやっ
てくるアンバランスな感じに、体が反応できなくなる。でも、何十回も繰り返すうちに、
考えないでも体がバランスを取るようになる。まるで手足や腰に脳があるようにね。だか
ら心配ないさ」と言う。
 僕は、「昆虫の神経節じゃあるまいし、妙なたとえだよな」とひとりごちた。
 ともかく、そんな風に甘せんは僕の疑問や不安を的確に抑えてくれ、ストレスを軽減し
てくれた。おっちゃんと全く同じ感じだ。
 河川敷までを往復してきた琉太が校門から入ってきた。調子が良さそうだ。琉太は調子
がいい時は右腕を2回時計回りに回す癖がある。さっきもそれをしていた。
 コーナーを回って、僕の練習場所まで近づいてきた。目が合って互いに軽く手を上げて
通り過ぎる。僕はそんなやり取りが何よりも好きだった。
「クールって言うのよ。知らないの? かっこいいことをそう言うの」
 といつか睦美が言った言葉を思い出した。そう、クールなんだ。ぴったりの表現だ。あ
と15分で部活も終わる。今日は家に帰ったあとで琉太を誘ってファストフードに行こう。
 土曜日は朝の涼しいうちから部活がある。相変わらず雨は降る気配がない。自分の役割
を忘れたかのような空模様だ。紫陽花の影が薄いのもそれを恨んでのことだろう。
 大会まであと2週間だ。2時間ほどの練習を終え、いつもなら片付けをして上がるのだが、
今日は久しぶりにおっちゃんが来るとのことだったので、それまで休憩、グラウンド
脇の桜の木の下で休んでいた。
 ふと、校門を見ると制服を着た睦美の姿が目に入った。というよりも、睦美の姿が目に
入ったから校門を見たのかもしれない。
 最近お気に入りのツインテールを左右に揺らしながら颯爽と、真っ直ぐに僕めがけてや
ってくる。何の用だろう。近づくにつれて睦美の顔がはっきりとしてきた。な、な、何の
用だろう。F15イーグルがマッハ2.5で突っ込んで来るのを真正面から見たらこう見える
に違いないというように、睦美はあっという間に僕の前に立ちはだかった。そして、
「これ」
 いきなり目の前に1通の封筒を差し出した。
「な、何」
 それを恐る恐る受け取った。いつもそうだが、前置きのない睦美にはどう反応したらい
いかわからない。
「頼まれたの。手紙。いいい、必ず読むのよ。そんで、必ず返事を書くのよ。わかった?」
 何を怒っているのかわからないが、睦美は確かに怒っていた。
「わかった。わかったけどなんで怒ってるの」
「なんですって、怒ってるですって? このあたしのどこが怒ってるっていうのよ」
 まずい。
「ごめんごめん、日陰で顔がよく見えなかったんだ。わかったよ、読んで返事を書けばい
いんだね」
 とにかく謝ってそれから要求(睦美には依頼という言葉はないのだった)を全面的に受
け入れるのだ。
「そう、返事は今日中に書くのよ。中にメアドが書いてあるから」
「わかった」治まったようだ。
「少しは速くなったの。まさかチンタラやってんじゃないでしょうね。あたしに恥をかか
せないでよ。じゃあね」
 訳のわからないことを言って、カタパルトから飛び去っていった。
 恥をかかせるなって、睦美には関係ないじゃないか。余計なお世話だ。手紙にしてもな
んでよりによって睦美が持ってくるんだ。全くいい迷惑だ。と言ってやりたかった。
 手紙は、ピンク地にミッキーマウスの顔のシルエットが散りばめられている封筒に入っ
ていた。僕は睦美の姿が校門から出ていくのを確かめてから便箋を取り出した。
 便箋は丁寧に折りたたんであった。開いてみると、これもミッキーマウスの形をしてい
る。きっとこの子の持ち物はシャーペンや消しゴムなどの文房具も洋服も靴もベッドカバ
ーもミッキーマウスに違いない。誰からだろう。
 そこには僕の走る姿がかっこいいと書いてあり、毎日ホルンを吹きながらベランダから
見ているとあった。僕の返事と写真をくれとも書いてあった。彼女の名は一条美玖といっ
た。ミクと呼ばれているそうだ。
 僕は顔が火照っているのがわかった。西に沈む太陽より赤いかもしれない。これはもし
かするとコクってるってこと? かっこいいって僕が? 僕は3度その手紙を読み返した。
「ミク」「毎日見てる」「かっこいい」という言葉が頭から離れなくなった。
「みくまいにちみてるかっこいい」そっと口に出してみた。のびきったラーメンみたいに
ふやけた顔をしているに違いなかった。
 全く気にも留めていなかった吹奏楽部の練習の音が、急に大きく聴こえてきた。僕はと
っさに校舎を見た。楽器を持って練習している子が何人か見える。
 あの中にミクっていう子がいるんだ。そう思ったとたん、僕は便箋をたたんで封筒に入
れ、尻のポケットに丁寧に忍ばせた。
(みくまいにちみてるかっこいい)(みくまいにちみてるかっこいい)(みくってどんな
こなんだろう)
 手紙を読むまで女の子を意識したことがなかった。上目遣いでベランダを見ながら、ミ
クという子を探していた。どの子もみんな彼女に見える。僕はホルンの形も音色も知らな
かった。
「おーい」とあの世に行こうとしている僕をこの世に連れ戻すような声がした。
「駿、久しぶりだな」
 手のひらをこちらに向け、おっちゃんは顔中髭だらけにしながらやって来た。
「おっちゃん、こんにちは。お久しぶりです」
 5月の連休に会って以来、おっちゃんは消息がわからなくなっていたのだ。むかしから
年に数回そういうことがあった。僕の家族や近所の大人たちは知っていたのだが、僕には
知らされていなかった。
「タイムはどうだ」
「ときどきだけど11秒7が出せるようになった」
「ほう、じゃあ標準記録はコンスタントに出せるようになったってことかな」
「うん、10回走って7、8回はクリア出来てる」
「だめなときは何がいけねぇんだい」
「スタートでしくじっちゃうんだ」
「どうしくじる?」
「スタートの合図のあとに一瞬だけど、頭を何か黒い矢のようなものが横切るんだ」
 その時のことを思い出しながら言うと、おっちゃんは少しの間空を仰いで、それから、
「駿、おまえ、目ぇつぶってねぇか。しくじるとき、目をつぶってるんじゃないのか」
と言った。すぐに試してみた。おっちゃんがスターターをやってくれた。
「GET SET」で尻を上げ目をつむってみた。パンという音と同時に矢が飛んだ。
 僕の癖が明らかになった。無意識に目をつぶることがあるのだ。そう言えば去年の運動
会でもそうだった。ゴールテープを切ったのを見た覚えがない。
「でも、おっちゃん、なんで目だと思ったの」
「それは僕のおかげだよ。ね、そうですよね、二階堂さん」
 職員室で用事を済ませて戻ってきた甘せんが自慢げに言った。
「お久しぶりです。今回はジャマイカですか?」
「まあな。ボルトを見てきたよ。アメリカにも寄って来た。って、おい、お前のおかげは
ねぇだろ、見抜いたのは俺なんだから」
「駿、実は僕も同じ症状だったんだよ。高2のときだったかな。僕の場合は緊張しすぎた
時のスタートの場面でやっちゃってたんだよな。二階堂さんがスタート時の様子をビデオ
に撮って、体の変化をチェックしてくださったんだ。でも、なかなか見つからなかった。
スタート時は顔が写せないからね」
「どうやってわかったんですか」
 横からおっちゃんが、
「そこは名コーチのカンてやつだな」
 腕を組んで言った。鼻の穴が広がっている。
「カンって、本当に?」
「冗談だよ、駿」
 と甘せん。
「科学的な推論に基づいて実行しただけさ」
 とおっちゃんが言った。
「科学的なスイロン?」
 初めて聞く言葉だった。
「そう、まず俺はこう考えた。スタート時に見えない部分は顔だけだ。見える部分に異常
はない。とすると顔のパーツに問題がありそうだとね」
 おっちゃんの鼻の穴は、これでもかというように、今やビー玉が入りそうである。
「次にそのパーツ、つまり目と鼻と口だな。その3つのうち大きな変化を見せるのは目と
口だ」
 おっちゃんの場合は鼻もだ、と僕は思った。
「だから俺は東志生先生に4つの組み合わせを試してみたんだ。『開ける』を1、『閉じる』
を0と置き換えると分かりやすいぞ」
 おっちゃんは手頃な長さの細枝を拾ってくると、地面に描き始めた。
    目    口
    1    1  ○
    1    0  ○
    0    1  ×
    0    0  ×
「○印はしくじらない場合で×印はしくじる場合だ。つまり、口の開閉とスタートの問題
は無関係だということがわかった。目が原因だということがわかったのはこういう訳だっ
たのさ。十分科学的だろ?」
 そう言いながら、地面の図を足で消す。
「で、駿の場合ももしかしたらそうかなと思ったわけなんだよ」
 おっちゃんの鼻の穴は元に戻っていたが、鼻全体が髭だらけの顔の真ん中で満足そうに
あぐらをかいているように見えた。
 おっちゃんの鼻の穴についてはどう説明するんだろう。随分大きな変化を見せていたの
に。僕はそう思ったが口に出すのはやめにした。原因がはっきりしたのだから、徒らにお
っちゃんの科学的なスイロンというものにつっこみを入れても、それは蛇足になってしま
う。
 甘せんとおっちゃんにさよならを言って琉太を誘ってファストフードに行こうと思った
ら(みくまいにちみてるかっこいい)が始まった。返事を出さないと、と思いファストフ
ード行きは中止にした。

 自転車を玄関の脇に止めドアを開け、ただいまと言った。返事がない。あれっと思って
靴を脱ごうとして気がついた。見慣れない靴が2足ある。リビングの方から女の人たちの
話し声がする。だから「ただいま」が聞こえなかったのだろう。目を引いたのは子どもの
靴だ。真っ赤でぴかぴかですべすべだ。
 誰だろうと思いながら靴を脱ぎリビングに行くと、
「あら、お帰り」
 とは母の声。
「駿ちゃんお帰り」
 と言ったのは叔母の田辺常子とその娘の舞だった。叔母は子どもがいるとは思えないほ
ど洗練された容姿をしている。母の言う美人の部類に入るのだろう。
 舞は小学校6年生で、僕より1つ下だ。髪は前髪を残して全部後ろで結んでいた。目鼻立
ちは叔母と瓜二つだ。白いワンピースが大人びて見えた。3歳からバレエを習っている舞は、
宝塚か劇団季節に入りたいと言っていた。叔母もそんな舞にほだされて、今では一端のマ
ネージャー気取りだ。
「舞ちゃん、おばさんお久しぶりです」
 少し畏まって言った。
「駿ちゃん、1年ぶりかしら、髪の毛伸ばしたのね。今の方がいいわよ。それにしても随
分伸びたわね、何センチ?」
「165だよ」
「じゃあ、学年でも大きい方だわね。ところで、どう? タイムの方は、速くなった?」
「標準記録はクリアしたけど、まだ公式記録じゃないんだ。今度、地区大会に出るからそ
の時決めるつもりなんだ」
「舞ちゃんと常子さんから入学祝いを頂いたのよ。お礼を言いなさい」
 とにかくお礼が気になって仕方がないというように会話の隙をうかがって母が言った。
「あ、どうもありがとう」
「いいのよ、ちょっと遅ればせながらだけどね。気に入ってくれるといいんだけど」
 叔母が舞に目配せをすると、それを合図に母から紙の手提げ袋を受け取って僕に手渡し
てくれた。頬に少し赤みが差していた。
 中にはジャージ上下とランニングシューズの入った箱があった。僕の欲しかった色だ。
タイムが1秒縮まったぐらいうれしかった。
「おばさん、舞ちゃんありがとう」
「舞ったら照れちゃって。駿ちゃんのファンなんだよね」
 舞はますます顔を赤らめて、でもきっぱりと、
「足の速い人が好きなの」
 と言った。
「あら、それならボルトでいいじゃない」とからかい半分で叔母が言うと、
「ママのばか」
 そう言って、テーブルのコーラをストローを抜き取ってグイグイ飲んだ。
 舞が僕の家を訪れたのは、オーディションを受けるついでだった。もちろんミュージカ
ルである。落ちてもいいからたくさん受けて慣れていくのよと叔母は言う。落ちるたびに
心が折れているようでは元々見込みなんてないのだそうだ。
「ショービジネスの世界は厳しいって言うけど、舞ちゃんがんばるのよ。夢なんだから。
今日もしっかりね」
 母は舞を傍に呼んで、軽く肩を抱きながらそう言った。
「はい、ありがとうございます、おばさん」
「舞ちゃん、頑張ってね」
 と僕も言った。オーディションがどれほど厳しいものか想像もできなかったので適当な
言葉が思いつかなかった。
「勇気100倍じゃない、舞」
「ありがと、駿ちゃん」
 と舞は再び顔を朱に染めながら、しかし、きっぱりと言った。
 母が近所で人気の店で買ってきたシフォンケーキを、オレンジペコを飲みながらみんな
で食べた。
 そのうちそろそろオーディションの時間だからと、そそくさと帰り支度を始めた。何度
か経験しているとは言え、やはり緊張は隠せないようだ。
 赤い靴を履いて玄関を出て、見送りに出た僕を振り向いた舞はもう赤くはならなかった。
がんばりまあす、ごちそうさまと言って叔母と駅の方へ歩いて行く。後ろから見た2人の足
の動きが音符のようだと思ったとき、(みくまいにちみてるかっこいい)と僕の知らない
ミクという子が囁いた。
「そうだ、返事を出さなきゃ」と僕はつぶやきながら家に戻り、リビングに置いたままの
バッグと入学祝いの袋を持って2階の自室に入った。
 部屋着に着替えたときふと思い出してパソコンのスイッチを入れた。検索欄に「ホルン 
画像」と入れてエンターキーを押した。表示された項目を選んでクリックするとホルンと
題字が太い字で書かれているページが表示された。真ん中あたりにホルンのカラー写真が
あった。それは金色のラッパで管が複雑に曲がりくねっている。高速道路のインターチェ
ンジのようだ。
 世界で1番難しい金管楽器だと書いてあった。訳があってくねらせたのだろうが難しく
しているのはそのせいかもしれない。音が出るまで時間がかかるような気もした。
 これを彼女は吹いているのだ。どんな音がするんだろう。そう思いながら、パソコンの
スイッチを切った。そして、バッグの内ポケットに移しておいた手紙を取り出してベッド
に横になりながら、今度はゆっくりと読んだ。
 たしかに何度読んでも悪い気はしなかった。でも、ハートのマークが多いなぁ、写真を
くれだなんて、しかもミッキーの隣に飾るだなんてどうかしてると思った。そしてだんだ
ん何だか僕がミッキーマウスになっていくような気がしてきた。彼女が言う「カワイイミ
ッキー」というのと「カッコイイ」というのが同じように思えてきたのだ。
 睦美は今日返事を出せといったが、それは無理だと思った。明日の練習が急に憂鬱にな
った。
 吹奏楽部も練習があるだろうし、ということは今日と同じようにベランダから音が聞こ
えてくるに違いない。睦美はダンス部だからやはり日曜も練習があるはずだ。
「雨になればいいのに」
 呟いて、仰向けに天井を見た。
 考えをまとめようとしているうちに眠ってしまったらしい。目が覚めた時には既に夕方
になっていた。机の上の時計を見ると6時過ぎだった。寝すぎたと思いベッドから下り、
枕元に置いてある手紙と封筒を机の上においた。
「駿、ご飯よ」と階下から母の声がした。
 食欲がなかったけれども明日も練習があるし、父は出張中で祖母は旅行中だったから、
仕方なくリビングに行った。
「舞ちゃん、うまくいったかしら」
「ずいぶん大人っぽくなってたね」
 とそれには答えず僕は言った。
「ホントにね、背も伸びてたしスタイルも良くなって、一生懸命練習してるのね」
「オーディションてそんなに大変なのかな」
「東大に合格するより大変だそうよ」
 比べ方に無理があるなと思いながらも、その厳しさは聞いたことがあるのでそれなりに
想像することができた。
 テレビでは女性アイドルグループの人気投票の進み具合を熱心に伝えるレポーターが映
し出されていた。そう言えば真一も投票したとか言っていた。ジンゴロベエから卒業させ
てくれたのがこのグループだった。
 今ではファンクラブに入り、それだけならいいのだが、例によって僕を誘い、ファンク
ラブ入りをせがんでくるのだ。ファンじゃないから嫌だよと言っても、入ってからファン
になれば良いという訳の分からない理屈は、真一ならではだ。しばらくは逃げ続けなけれ
ばならないなあ、やれやれと思いながらごちそうさまと言った。
「明日は何時から?」
「9時だよ」
「じゃ、朝ごはんは7時でいいわね。明日おばあちゃんが帰ってくるわ」
「何時頃?」
「2時半に着く電車に乗るって」
「迎えに行こうか、明日の部活は午前中で終わるから」
「そうね、それならお願いしようかしら」
 僕はわかったと言って自分の部屋へ行った。それからジャージを着てみようかと思った
が、しばらく考えてやめることにした。せっかくのプレゼントだ、もやもやした気持ちの
ままでは着たくなかった。
 僕は椅子に腰掛け、机の上の手紙を開き、もう一度読んでみた。すると睦美の顔が頭に
浮かんできた。その顔は「今日中に返事を出すのよ」と言っている。
 今日は無理だよとつぶやいて手紙を机の隅に追いやった。それからたまっている宿題を
片付け、風呂に入り、冷たい牛乳を飲んだ。
 寝る前に、僕は東側の窓を向いて手を合わせて、信じたこともないくせに神様に雨乞い
をした。

 目覚ましの音がいきなり朝を告げた。僕は目覚めるためにというよりも、目覚まし時計
を止めるためにベッドから起き上がり、ストップボタンを押し窓際に行ってカーテンを開
けた。
 太陽を出発した光がいつものように8分18秒かけて僕の顔や体を洗いにやってきた。
徐々に目覚めていく、しかしまだぼんやりとした頭で、僕は今日の太陽は意地悪だと思っ
た。
 視界には雲一つないのに昨日の憂鬱な気分が蘇ってきた。そしてふうとため息をついて
リビングに行った。
 朝食は、シリアルに牛乳をかけてフレンチドレッシングのかかったレタスサラダ、それ
とゆで卵とりんごジュースだった。僕は半熟のゆで卵が好きだった。黄身のとろみもさる
ことながら、手に持った時の赤ちゃんの頬のような柔らかさが気に入っていた。
 塩をつけて半分ほどほおばりながら映っているテレビを見た。そこでは昨夜見て知った
女性アイドルの人気投票の結果が大げさに取り上げられていた。
 僕はアイドルには全く興味がなかった。むしろくだらないとさえ思っていた。けれども、
きのうの舞のことを思い出し、この人たちも何度もオーディションに落ちて、それにもめ
げずに諦めなかったからここにいるのだろうかと思った。そう思ってテレビの女の子たち
を見ているうちに僕も同じようなものだという気がしてきた。
 ゆで卵の残りの半分を口に入れると、画面は1番になった子のインタビューに切り替わ
った。聞くともなしに聞いていたが、「たどり着いた人にしか見えない世界を体験できた」
という言葉が僕の心の鍵を外した。
 甘せんはジュニア新記録を出したことがある。おっちゃんは箱根駅伝で優勝したし、甘
せんを1番にしてみせるとも言った。ミクという子は「カッコイイ」と言った。それは「カ
ワイイミッキー」とは全く違う。彼女は僕がジュニアオリンピックに出て活躍することを
期待しているのではないだろうか。僕はコクられたと決め付けていた自分が恥ずかしくな
った。
 「11秒16」この文字が超新星爆発のように僕の頭に煌めいた。甘せんから聞かされたジ
ュニアオリンピックの中1の100メートルの最高タイムだ。その時は聞き流していた。
だが、今は違う。甘せんやおっちゃんが手に入れた1番の世界を僕も見てみたくなったの
だ。
 シリアルをおかわりし、さらにバターを塗ったトースト二枚をりんごジュースで流し込
んだ。テレビは今日の真夏日と熱中症への注意を促していた。
「母さん、今日は水筒を2本持って行くからね。暑くなるんだって」
「麦茶でいいでしょ」
 氷を多めに入れてねと言い、2階に上がって着替え、バッグの中身を確かめてから部屋
を出ようとした。ふっと机の上の手紙が気になって振り向いた。
「メアド……」とだけつぶやいて、そのまま階段を下りリビングで母から水筒を受け取り、
行ってきますと玄関を出た。
 まだ8時前だというのに自転車のサドルは十分に熱を吸収し、それを放出するまでになっ
ていた。いつものようにギアを1番重くして出かけた。上り坂も、あったことすら気づか
ないほどペダルを軽く感じた。
 1年生は上級生より早く出て練習の準備をしなければならない。僕がグラウンドに出た
とき、琉太は自分の分担を終えストレッチを始めていた。おはようと声をかけ合い僕も一
緒にストレッチに付き合った。
「今日は暑くなりますぜ、旦那」
 困ったというふうに眉間にしわを寄せていつもの調子だ。さらに続けて、
「昨日睦美から手紙もらったろ。今時アナログー。隅におけないね全く」
 とわかってるとでも言いたげだ。
「そ、そんなんじゃないんだ。違うんだよ」
 見られていたことを知り僕は慌ててそれを打ち消した。
「何が違うんだ?」
 意外だというような素振りで両手を広げて肩を上げる。
 気を取り直して僕は仕方なく、昨日の睦美の唐突な出現のわけと手紙の要点を話した。
聞き終えた琉太は、
「で、返事はどうすんの。シカトするのか」と言った。
 どうしようかと思ったが少し間を置いて言った。
「いや、メールはよすよ。今日の練習が終わったら直接会おうと思うんだ」
「ホントに? だって顔を知らないんだろ。どうすんの」
 琉太は驚きと好奇心の入り混じった目をしている。
「彼女の楽器はホルンなんだ。だから、ホルンを持っている子を探せばいいと思って」
 琉太は勇気あるぅと言って、それきりストレッチに没頭した。23年生の姿が見え始めて
いた。
 僕はベランダに目をやった。音が聞こえ始めた。練習が終わったら1教室ずつ覗いて行
こう。
 特別メニューが始まるとき、僕は甘せんにどうすれば11秒16を出せるのか聞いてみた。
「やっと本気になったな」
 僕の肩を軽く叩いて言った。
「はい。先生や二階堂さんのようになりたくて」
 甘せんの目を今日はそらさずに真っ直ぐ見ながら言った。甘せんは少しの間目を細めた
が、すぐに真顔に戻った。
「記録は狙って出せるわけじゃない。でも、狙わなければ出る可能性はかなり低くなる。
体と心のコンディションをベストな状態にすることだ。そのために日頃のトレーニングを
積み重ねて自信を得ることが大切なんだ」
 大切だということはわかったが、どうすればいいのかわからない。
「はい、でもどうすればいいんですか」
 と眉間に「困惑」という文字を浮き上がらせて言った。甘せんはにっこり微笑んだ。
「駿、大丈夫だ。そのためのプランはもうできてるんだ。昨日二階堂さんにもオーケーを
いただいた」
 何でもお見通しなんだろうか。それとも偶然だろうか。
「今日はいつものメニューでいく。新メニューは明日からだが、直近の目標は伝えておこ
う。わかっているとは思うけど、まず、地区大会で標準記録を確実にクリアすることだ」
 なんにせよ、甘せんとおっちゃんは僕が本気になったときのことを考えてくれていたの
だ。僕はそう思うと、それだけで新記録を出せそうな気がした。
「はい。頑張ります!」
 自分でも驚くようなハイトーンボイスだった。甘せんも部員たちもみんな僕を見ていた。
僕は何だか不思議な気持ちのまま特別メニューをこなし始めた。
 
 体をクールダウンさせて部室に戻り、顔を洗って汗を拭いた。一足早く戻っていた琉太
が、
「はげみなされ、まろは先に帰るゆえ」
 と僕に耳打ちし、ゆらゆらと扇子で顔をあおぎながら出て行った。僕は呆気にとられな
がら中途半端に右腕をあげ、やはりゆらゆらと手のひらを左右に振った。扇子を持ち歩く
中学1年生なんているもんかと思いながらも、琉太は大人だなと思う。
 部室を出て僕は校舎の中に入っていった。吹奏楽部の活動時間は長い。休日は朝から夕
方までの練習は当たり前で、演奏会や大会が近づくと終了が夜の8時ぐらいになるのだ。
 校舎の中は思いのほか静かだった。くぐもった音が響く程度に。
 僕は二階から探すことにした。端から順に進んで行こうと思い東側の階段に向かった。
途中、体育館への渡り廊下を横切るのだが、そこにさしかかった時に睦美が現われた。太
陽を隠していた雲が去り、急に日が差してきた時に足元から伸びる影のようだった。
「あら、駿。何してるのこんなところで。部活終わったの」
「あ、うん。さっきね。睦美も終わったの」
「ううん、これからお弁当食べて、それから午後練よ」
「そうかダンス部も大変だな。吹奏楽部並だね」
 あっ、と思ったときにはもう遅かった。
「そういえば、あなたメールした? ミクちゃんに」
 光速で反応してきた。僕は浮き足立って、
「い、いや、ま、まだ、だ、だけど」
 と言った。
「何やってんの」
 来た! 
「昨日あれだけきっ・ち・りと言ったでしょ。駿もわかったって言ったわよね。ミクちゃ
んはもんのすごく恥ずかしい気持ちを抑えてわたしに相談しにきたのよ。で、手紙を書い
たらどうかってことになって、どうせ渡すならメアドも教えたほうがいいってなって、じ
ゃあ早いほうがいいからって、でも自分じゃ渡せないって言うから私が渡しに行ったんじ
ゃない。ほんっとにグズなんだから。昔からよね。どうすんの、これから」
 まるでトランペットのトリルのようだ。幼馴染とはいえ、何度経験しても勝てないと思
う。なんだ睦美が書かせたんじゃないか! と言いたかった。世の中には科学では説明で
きないものがあるというが、睦美もその1つであるに違いない。
 黙って逃げるわけにもいかず、ましてや解放されるわけもなく、だからこのままでは埒
があかないと思って、直接会うことにしたと告げた。睦美は僕が彼女に対して無視するつ
もりがないことがわかったとたん、
「でもミクちゃんの顔もわからないのにどうするつもりなの」
 タコが周りに合わせて一瞬で体色を変えるような、あっという間の変身だった。僕は琉
太に言った通り、ホルンを手がかりに探すつもりだったと言った。
「そんな面倒なことしなくてもいいわ。私が連れてったげる」
「え、知ってるの」
「土日は時間が合ったら一緒にご飯食べてんのよ。これから行くとこだったの」
 たなぼただと思ったが睦美と一緒となるとどうなるのか予想がつかない。
「行こ」と言うが早いか睦美はさっさと歩いて行く。僕は足に自信があるくせに気後れし
て何だか申し訳なさそうについて行った。
 階段を上がり2階の廊下に出た。このフロアには1年生の教室が並んでいる。睦美は迷わ
ず廊下の西側の端にある1組の教室に入って行った。
 僕は教室の入口の脇で立ち止まってしまった。ここまで来て初めて心臓の音が聞こえる
ような気がした。
「何してるの、早く来なさいよ」
 睦美の声に引きずられるように教室に入った。足を踏み入れたとたん、
「きゃー、駿くんだ」
 そこには食事をしている3人の女子がいて、僕を見て一斉に叫んだのだ。僕は立ちすく
んでしまった。
「びっくりしたあ。どうしたの、みんなして」と睦美は言った。
「だって、今ちょうど駿くんの話をしてたんだもの」
 髪の長い少女漫画に出てくるような大きな瞳をした子だった。そうだったんだ、そんで
さーと僕が来た訳を睦美は2人に説明した。
「えーそうなの、ミクやるじゃん」
 今度は前髪を眉のあたりで切りそろえた少し小太りの子が言った。
「そんなんじゃないよ。睦美、やめてよね。なんでも言っちゃうんだから」
 少しふくれてそう言ったのがミクだった。メガネが似合ってるなと思いつつも、この場
に馴染めないでいると、睦美が改めて、
「ミク、駿よ」
 と言って立ち上がったミクの背中を軽く押した。ミクは右足を1歩僕の方に出して、そ
れから左足をそろえた。そして、僕を真っ直ぐに見て、
「初めましてミクです。ジュニアオリンピックがんばってね」
「友達になってくださいでしょ」
 睦美はにやけた顔で言った。ミクはとたんに顔を赤らめ、
「もー、睦美のバカ」
 とカタカナで言った。僕は今朝出かける前に用意してきた言葉を言い出せないでいた。
まさかこんな出会いをするとは思いもよらなかった。
「駿!」と睦美。何か言えという合図だ。ここでひるんでは男らしくないと思い、少しか
っこつけて、
「ありがとう、頑張るよ」と言った。
 ミクは小さな声でやったと言って、小さなガッツポーズをした。睦美にうまく誘導され
た気がしたが、彼女と遭わなければむしろどうなっていたかわからない。
 それからと言って、他の2人の名前を聞いて頑張ってねと言われ、月並みな返事をした
だけで、彼女たちの話題はアイドルやファッションに移っていった。
 ひとりミクだけはやはり何か話したそうな素振りを見せていたが、他の3人からすれば
関係ないことだ。それはそれこれはこれ、あなたは今どちら側にいるべきなの、と暗黙の
圧力に抗しきれないのだった。
 彼女たちのおしゃべりは絶え間がない。何だか僕がサッカーの審判になったような気が
してきた。審判が試合を放り出したなんて聞いたこともないが、僕はじゃあねと言った。
 女の子たちは一瞬おしゃべりを中断して僕を見てさよならと言った。それから何事もな
かったかのように先を争うような会話を続けた。僕が教室を出て廊下を歩いていると、な
にがおかしいのか、彼女たちの明るい笑い声が後から追いかけてきた。
 何だか狐につままれたような気がしたが、僕はひとまず安心した。睦美の半ば一方的な
約束によるもやもやは、ミクに直接会ったことで晴れたからだ。後でミクにメールをしよ
う、でも写真はよそう。そう思って自転車にまたがった。

5.
 
 家に着くや、練習したのと胸のつかえが取れたのとで腹がすいていた。ただいまと言う
のももどかしく母にご飯ある? 頂戴と言って、出てきたのはえび天をのせた讃岐うどん
だった。うどん好きな祖母のために作ったと母は言った。
 3時までには家に着くから夕食までのつなぎにはちょうどいい。ご飯を茶碗に一杯付け
足してごちそうさまと言って自分の部屋へ行き、バッグを置いて1階に降りてシャワーを
浴びて、再び自室に戻ってやっと人心地がついた。
 携帯電話とミクからの手紙を手にベッドにうつ伏せになり、アドレスを入力して応援へ
のお礼と、写真は勘弁して欲しいという内容のメールを送った。ミクはまだ部活中だから
返事はすぐには来ないだろう。
「駿、そろそろお願い」と母の声。時計に目をやると2時を過ぎていた。
 祖母の迎えには自転車で行こう。荷台と前かごに荷物を載せれば2人とも楽になる。そ
う思って携帯電話をポケットに入れ、階段を降り、母の自転車の荷台に付いているゴムの
ロープを外して、僕のに取り付けた。
「行ってくるね」
「気をつけて。お願いね」と庭の方から母の声がした。
 駅は僕の家から自転車で五分ほどのところにある。学校までは駅をまたいでさらに10分
ほどかかる。
 僕はこの通りが好きだった。区画整理によって道路も拡張され、駅を越えて学校までほ
ぼ直線だった。道路両側の並木は桜と銀杏が交互に植えられており、特に春先と秋、桜と
紅葉の頃は見ものだった。
 少し蒸し暑かったが不快なほどではない。僕は駅のロータリーに沿って改札口が正面に
見えるところまで行き、そこで祖母を待つことにした。ここからは電車がよく見える。
 ほどなく、駅から到着を知らせるアナウンスが聞こえた。そして、電車が、こんなに速
くて止まれるのかという勢いで僕の視界を横切って行った。しかしみるみるうちに速度が
落ち、2列に分かれて並んでいる客の前にぴたりと止まった。ドアが開いて客がわらわらと
出てきた。親子連れやカップル、小中学生に高校生、腰の曲がった老人もいる。
 祖母は電車が出て行き、改札口を通る人もまばらになった頃に出てきた。荷物は老人が
持つには少し大きい旅行かばんと観光地の名が入った紙袋が3つだった。旅行というよりも
お土産を買いに行ってきたようなものだ。
 僕は自転車に乗ったまま走り寄り、「おばあちゃん、お帰り」と言うと祖母はどこを見て
いたのか、初めて気づいたという顔をして、「ただいま。迎えに来てくれたのかい。ありが
とね、助かるよ」と言いながら荷物を自転車の脇に置いた。
 僕は自転車を降りスタンドを立て、荷物を、特に紙袋を注意深く荷台にくくりつけなが
ら聞いた。
「楽しかった?」
「ああ、そうだねえ。やっぱり温泉が1番だね」
 旅行かばんを前かごの上に置いて、自転車を押しながら祖母の速さに合わせて並んで歩
いた。
 祖母は同じ60代の老人たちに比べるとかなり速く歩く。若い頃陸上をやっていたおか
げだろう。僕もこのまま陸上を続けて年を取ったら祖母のようになるのだろうか。
「駿、タイムは良くなってるのかい」
「うん、標準記録は随分超えられるようになってきた」
「それじゃあジュニアオリンピックの応援に行かなきゃだねえ」
「うん、必ず出るから。今年は横浜でやるんだって」
「横浜ならそんなに遠くないから家族で行けるね」
「うん、優勝を目指してるんだ」
 新記録を目標にしているとは言えなかった。
「ほう、それならなおさらだね。でも、無理して怪我をしないようにするんだよ」
 怪我なんてするもんか。直線を走るだけだ。転んだってたいしたことはないさ、大丈夫
だよ心配しなくてもと思ったが、
「うん、ありがと」と言った。
「おばあちゃんさ、若い頃短距離の選手だったんでしょ」
 いつか聞いてみたかったことだ。
「うん、小さい頃から走るのが好きでね。実業団まで100メートルを走っていたよ」
「ジツギョウダン?」
「そう、中学校の部活のように会社にも陸上部があるんだよ。それがいくつも集まって大
会をするのさ」
「おばあちゃんは速かったの」
「優勝は2回、2位が1回、3位が1回だったかな」
「よく覚えてるね」
「だって、5年しかできなかったからね」
「どうして」
「アキレス腱を切ったんだよ」
 だから、無理するなといったんだ! 祖母はそれがきっかけで走るのをやめ、同じ陸上
部の祖父と結婚した。
「おばあちゃん、お腹すいてない」
「そうだね、少しすいたかなあ。お昼ご飯を早めに済ませたからね」
「母さんが讃岐うどんを作ってたよ」
「ほう、うどんはいいね」と祖母は目を細めながら言った。
 やや西に傾きかけた日が少し和らいだ光を降らせていた。並木の木漏れ日も多くの太陽
の姿を路面に映している。静かなひと時だった。道行く人もその静けさを味わうように心
なしかゆっくりと歩を進めているように見えた。僕はとても幸せだった。
 その日の夕食は祖母の土産話に花が咲いた。若い頃から好きだった1人旅がまたできて
良かった、若返ったようだと言って普段は飲まない日本酒をコップで2杯飲んだ。祖父が
好きな酒だった。
「調子に乗っちゃったね、酔っちゃったよ。駿、腕の振りが肝心だよ。おやすみ」
 少しふらつきながら自室に入っていった。母は片付けをしながら、
「よっぽど楽しかったのね、お酒まで飲んで」と言った。
「駅から帰るときもいつもと同じぐらい速かったよ」
「ホントに元気ね」
 その時、右の太ももに振動を感じた。ポケットの携帯電話が着信を告げたのだ。ミクか
らかもしれない。そう思うと居ても立ってもいられず、僕はごちそうさまと言ってポケッ
トから携帯電話を出しながら2階に上がった。部屋に入り灯りを点け枕を抱え込んでベッド
にうつ伏せになった。
 メールの相手は期待通りにミクからだった。誕生日のプレゼントを開けるような気持ち
で「表示」ボタンを押した。目に飛び込んできたのは夥しい数の真っ赤なハートマークだ
った。もちろん、だからと言って「好き」とか「アイシテル」に直結しないことは僕も知
っていた。数えたら36個もあった。その後の文面は、やはり会いに来てくれたことへのお
礼とジュニアオリンピックへの激励だった。そして、最後の1行は写真はいいです、無理言
ってごめんなさい。じゃまたね。締めは真っ青なハートマーク×36だった。
 ふうとため息をついて携帯電話を閉じた。ミクのことを好きになってはいたが、それは
いわゆる恋しているのとは違うものだった。でも何がどう違うのか、説明できないんだ。

6.
 
 月曜日は昨日までの空梅雨が嘘のように、朝から糸を引くような雨が降りっぱなしだっ
た。練習はだから校舎の廊下や体育館の球技コートの周囲で行われた。琉太はミクのこと
はすっかり忘れたという風で、僕もそれには触れなかった。ただ2階の廊下を走るときベ
ランダが少し気になった。吹奏楽部は雨の日でも濡れない程度ならベランダに出て練習を
していた。おかげで、ホルンの音もわかった。
 雨は木曜まで降ったり止んだりを繰り返した。グラウンドは水はけがいいとは言え、天
候が回復した金曜は休ませなければならなかった。大会まで1週間、土曜日の朝は晴天だっ
た。
 新メニューは延び延びのままやっと今日解禁日を迎えた。この5日間は筋力トレーニング
とランニング、そしてゴムチューブを使ったスタート練習が中心だったから、僕は久し
ぶりに思い切り走りたかった。
「駿、琉太ちょっと」
 始めの挨拶が終わるとすぐ甘せんに呼ばれた。
「今日から全中とジュニアオリンピックに向けて強化練習を行う」
 厳かな言い方だ。
「僕は君たちを少なくとも準決勝までは持っていきたい。そして、そういう決心をした」
 もちろん怒ってはいないが初めて見る塩せんだった。
「異存はないな」
 そう言って交互に僕たちを見た。はいとは言ったが僕は驚きを隠せなかった。琉太もい
つもの琉太ではなく、新しく買ったコーヒーカップを食器棚に並べたような顔をしている。
「先生、俺もですか」
 琉太は怪訝そうな顔でそう言った。
「そうだよ、自主トレの成果が出たな」
 優しい目をして甘せんは言った。
 琉太は入学してから毎朝3キロを欠かさずに走っていたらしい。僕も知らなかった。3年
までには絶対出るんだと言っていたが、2年も早まる可能性が出てきたとは思ってもみなか
ったのだ。
「ありがとうございます」と言った後はわけのわからない記号を発してガッツポーズを3
度繰り返した。
「やりぃ、琉太! 頑張ろうぜ」
「おうよ、駿、2人で天下取りじゃ」
「お、おう」
 合わせはしたが、琉太って本当に13歳なんだろうか。
「おいおい、ふざけてないで。早速取りかかるぞ」
「はい」
 僕たちは気を引き締めて返事をした。
「今までより筋力トレーニングを増やしたことはさっきも言ったけど、実はその中でも特
に上半身を鍛えることを重視したんだ」と言った。
 速く走るのに上半身が関係するのだろうかと思いポカンとしていた。そんな僕の様子に
は構わず甘せんは続けた。
「腕・腹・背中の筋力が強くなれば足の回転が速くなるんだよ」
「どうしてですか」
 琉太が口をはさんできた。
「うん、つまり腕と足は連動してるってことなんだ。腕の振りが速く大きくなれば足がそ
れについてくるんだよ。腕を振らないで走ってみるとよくわかるよな」
 祖母が言ったのはこのことだったのだ。
「それからイメージトレーニングも大切だ。琉太は何センチでもいい、ストライドを大き
くして走ることをイメージするといい。距離が長くなるほど1歩の積み重ねが効いてくる
からな」
「はい、やってみます」
 目が星だったらまるでベテルギウスのようだ。こんなにやる気の漲った琉太を見るのは
初めてだった。
「駿はゴールの5メートル先をゴールだと思って走るんだ。昔のことわざにもあるだろう、
50メートルを半分と思っちゃだめだ。ゴールの1歩手前を半分と思うんだ」
「はい」
 イメージして走るということがどういうことなのかがわかった。
「あっそれから駿、今日から坂ダッシュの回数も追加だ。40メートルを7本な、毎日だぞ」
「あっまだあった。今の、琉太もだ。ただし、100メートルだぞ、7本な」
「先生、聞いていいですか」と琉太が言った。
「何だい」
「全中やジュニアオリンピックで準決勝というのはわかりましたけど、駿はともかく僕は
大丈夫なんですか」
「あっそうか、話す順番が逆だったな。ごめんごめん」
 何だか今日の甘せんはいつもと違う。が、ともかく、先週の日曜日に計った琉太のタイ
ムは県内で3番目に速いものだったらしい。しかも、タイムは10秒以内にひしめいている
ということだ。だからお呼びがかかったというわけだ。琉太のやる気がいや増したのは言
うまでもない。部活が終わって家に帰ったあと、僕らは駅前のファストフードでLサイズ
のコーラで乾杯をした。
 日曜日はアクティブレストだったから琉太と一緒に軽く自主トレをした。
 月曜日。小雨が降ったり止んだりのはっきりしない朝だった。少し寝坊してしまったた
めに、いつもより遅く到着した。あまり濡れないでよかったと思いながら教室に入った。
 女子がいつもと違うざわつきを見せている。琉太がおーいと言って黒板を指差して見て
みろと言う。言われるままに振り向いて驚いた。
 赤いチョークでハートマークが文字を囲んでいて、黄色でおめでとう甘せん、白いチョ
ークで「ご・けっ・こ・ん ひゅー」と書いてある。
「本トかよ」と僕は振り返って琉太に近づきながら言った。
「そうらしいぜ」と琉太は言った。
 情報源はクラス委員の田辺だった。朝のホームルームで配布する書類を取りに職員室に
行ったとき、甘せんが校長先生と話しているのが耳に入ったらしい。田辺の言うことだか
ら信用できるが、それにしても黒板に書いたのは誰だろう。
 女子は女の子が登校してくるたびにヒートアップしている。睦美が来たらどうなるかわ
かったもんじゃないと思って席を見ると、すでに来ているようで机の上にカバンが投げ出
してあった。
 廊下からいくつものピッコロがばらばらに音を出しているような声が聞こえてきた。こ
のスクープが広がりを見せているのだ。
 ちらと廊下の方に目を向けると、トランペットとホルンが並んで歩いている。目で追う
と、教室の入口でじゃあねと言って睦美が戻って来た。睦美は女子のかたまりに走り寄り、
きゃーだのえーだのと言っている。
 各クラスに伝えたのは睦美とミクだった。また、黒板も睦美が言い出して女子が寄って
たかって書いたものらしい。そして、甘せんが教室に入ってきた時の打ち合わせも。
 ホームルームを知らせるチャイムが鳴ったのを合図に廊下や教室が静まり返った。うち
のクラスはともかく、中一のフロア全体が甘せんの反応をうかがっているのだ。聞こえて
くるのは廊下を歩く先生たちのサンダルの音だけだ。どこかのクラスから朝の挨拶が聞こ
えてきた。どこのクラスも廊下側の窓を開けている。
 甘せんがやってきた。期待に胸を膨らませるとはこのことだ。甘せんはいつも通りに入
口の戸を開け、みんなに向かって、
「おはよう、今日は何かへ」
 黒板を見たとたん言葉が途切れた。あっと言って振り向いたその時を待っていたかのよ
うに、「先生おめでとう」そして歓声。廊下を通って他のクラスの生徒たちからもお祝いの
言葉が聞こえてきた。睦美の企画力と行動力には驚かされた。サプライズ大成功だ。
 甘せんは今や赤せんになっていた。ゆで蛸のようだ。指先まで赤い。おそらく全身蛸に
なっているのだろう。後に蛸せん事件と呼ばれるようになった一幕である。
 ほどなく、蛸せんは甘せんに戻ったようで、
「みんなありがとう。だけど、どうしてばれたのかな」
 怪訝な顔でみんなを見た。田辺の件を話すと、
「まずいところを見られたな」
 と頭をかいたが、伝達の早さには甘せんもさすがに驚いていた。睦美たちは互いにVサ
イン。
「先生、相手は誰なんですか」と誰かが聞いた。
「あ、うん、相手は園田響子さんと言うんだ」
 2度びっくりだ。僕は思わず睦美を見た。さすがに睦美も呆気にとられている。琉太に
は以前園田先生のことは話してあったが、小声で、
「あやつ、やりおるわい」と言ってにんまりしている。
 何人かは知っていると思うがそういうわけなんだと言って、記者たちの質問を遮るよう
に一方的に連絡内容を告げてそそくさと教室を出ていった。
 
 火曜日。昨日のことを忘れたかのような甘せんのコーチングだが、時折見せるにやけ顔
は浮かれ気分を隠せないようだった。
 水曜、木曜があっという間に過ぎいよいよ明日が本番だ。
「みんな集合しなさい」
 と甘せんが言った。甘せんの前に整列した僕たちに向かって、
「明日の地区大会は今まで努力してきた成果を示す日だ。自己ベストを更新することを目
標にしてがんばれ」
 と言った。短い言葉だったがそれで十分だった。明日の予定と役割分担をして、いつも
より早目に終了した。
 明日は5時起床だから早く寝ようと思って、両親と祖母の激励を背に階段を上って部屋に
戻った。机の携帯電話が着信を知らせるLEDを点滅させていた。4件のメールが届いてい
た。ミクと睦美と真一と久しぶりに隼人だった。
 ミクのメールは相変わらず36の赤いハートで始まり36の青いハートで終わっていた。結
果が出たらすぐに教えてねと書いてあった。
 真一は珍しく本題を外さない応援メールだったが、やはりファンクラブへの誘いは忘れ
ていなかった。
 隼人は無沙汰の挨拶と、きっと上手くいく、そう決まっているのだという予言めいた内
容だった。
 睦美のはこうだった。
(明日は応援に行ってあげる。たまたま部活がないから予定もないしね。だから、地区大
会なんかで負けるんじゃないわよ)
 僕は睦美のこういうところにも弱い。腹の立つことも多いがくすぐられることもしばし
ばだ。負けないよと呟いて目覚ましをセットして明りを消してベッドに入った。初めての
大会だったが眠りは直ぐにやってきた。
 僕は第5レーンだった。決勝は8人で行われる。スタート位置について5メートル先をイメ
ージする。スターターはおっちゃんだ。スタンドでは祖母が腕の振りが肝心だよと言って
いる。ミクがホルンを抱えて「みくまいにちみてるかっこいい」と呟いている。甘せんは
ダチョウの目をして園田先生と並んで僕を凝視している。ほかの7人の選手はみんな僕より
背が高い。中でも1レーンの子は2メートルはありそうだ。どんな子だろうと顔を見るとボ
ルトだった。ボルトのピッチは4.28で41歩で駆け抜ける、といつの間にか甘せんが隣に立っ
て言った。その時睦美が突然目の前に現れて負けるんじゃないわよと言う。僕はボルトには
敵わないよと言いながら睦美を見た。睦美は怒っていた。「GET SET」周りを見ると
他の選手はスタンバイできている。僕は慌ててスタートラインに両手をついて尻を上げた。
8分18秒前に出発した太陽の光が僕の目に眩しく映った。僕は目をつぶった。そして矢が飛
んだ。
 今朝見た夢を思い出すのは4度目だった。僕は第5レーンのスタートラインに立っている。
1年男子100メートル決勝。標準記録は準決勝で危なげなくクリアできた。ジュニアオリンピ
ック出場決定だ。後は自己ベストを更新するだけだ。
 何度目だろう、思い出してスタンドを見た。やはり睦美は探し出せなかった。来るって言
ってたのに……。
 目をレーンに戻す。僕は、5メートル先、と呟いて腕と足の連動をイメージした。いよい
よだ。僕は足と手の位置を決めて目の前の地面を見た。
「……SET」
 スタートはうまくいった。30メートルは頭を上げないように意識する。ここで加速して50
から60メートルでトップスピードにする。そのことが瞬時に脳裏をよぎる。30メートルを通
過した。頭を上げてゴールを見た。僕の視野に他の選手はいなかった。腕を振った、振った、
振った、振った。エンジンのピストンが頭にひらめいた。完全にスピードに乗ったのがわか
った。残り40メートル。一足ごとにゴールが近づいて見える。僕の視野に他の選手はいない。
5メートル先を見ろ。あと3歩だ。ゴールの瞬間だった。
 減速しながら優勝を確認した。踵を返してゴールを見た。軽いどよめきが起こっているの
に気づいた。甘せんがタオルを持って駆け寄ってくる。会心の笑顔だ。
「ぶっちぎりだったぞ、駿。11秒4だ」
 タオルを受け取って首にかけ両腕を高く上げて空を仰いだ。うれしすぎると声が出ないこ
ともあるんだ。
 甘せんは僕の肩を抱きながら言った。
「これで駿の目標に1歩近づいたな。おめでとう」
「はい、ありがとうございます」と言ったと思う。
 地に足がついていなかった。どこも見ていなかった。興奮していた。
 陸上部の集合場所に近づいてみんなの祝福を受けてスポーツドリンクを飲んでやっと落ち
着いた。何よりも先輩たちが諸手を挙げて褒めてくれたことが嬉しかった。頭や背中を叩か
れたのは痛かったが。
 その時、琉太は1500メートルの決勝のスタート地点にいた。僕に気づいた琉太は軽く右腕
を2度回してみせた。いける。僕も右腕を回してそれに応えた。
 スタートはうまくいった。1周目は互いに様子を見ているようで少しペースが遅い。琉太は
3位だ。いい位置につけている。走りが軽い。右腕は嘘をつかないなと思った。
 2周目に入ると、バックストレートを半ば過ぎたあたりから動きが見えた。全体のペースが
上がったのだ。琉太は順位を維持しながらペースに合わせている。
 正面ゴール手前でもっと早く走れという風に鐘が鳴った。それに煽られるように選手の
ピッチがさらに上がった。琉太は依然として危なげない走りで3位をキープしている。トップ
から最下位までは100メートル以上の開きがあった。
 バックストレートの中間地点で琉太が猛烈なスパートをかけた。見ている僕らにもあっと
いう間の出来事だったから前を走る2人にとっては寝耳に水、えっ嘘だろって感じだったに違
いない。2人は琉太に合わせることができず、スパートをかけたのは2歩も3歩も遅れてからだ
った。焦っているに違いない。僕は琉太の勝ちを確信した。
 琉太は最終コーナーにさしかかる。2位との差がみるみる広がっていく。よほど調子が良か
ったのだろう。琉太は信じられないことに最終コーナーの出口、最後の直線にかかる手前で
右腕をぐるぐると2度回したのだ。後で塩せんに呼ばれたのは言うまでもない。
 結局琉太もぶっちぎりの優勝を果たした。4分45秒だった。
 僕らのところに戻ってきた琉太は全員とハイタッチをして、先輩からはやはり頭や背中を叩
かれ、いてぇいてぇと言いながら僕と並んで腰を掛けた。
「回したね」と僕。
「ああ回したさ」と琉太。そして、
「怒られたー」
 ガッツポーズをして足踏みをしながら笑い合った。
 その後、他の選手の競技の応援をし、表彰式と閉会式を終え市営グラウンドの門前に集まっ
た。
 甘せんは至極機嫌がよかった。多くの選手が自己ベストを更新したことと、県大会出場者数
が歴代1位になったからだ。
「みんなよく頑張った。県大会に出られない3年生は今日で終わりだけれど、今度はしば
らく、陸上にかけてきた努力を受験勉強に向けるんだ。県大会は1ヶ月後だ」
と言って、解散となった。甘せんは飛び跳ねるようにしてそそくさと帰っていった。
 僕は思い出してミクに、次いで母にメールを送った。結局睦美を見つけることはできな
かった。いいところを見せられたのに。
「ファストフード寄ろうぜ」琉太はご機嫌だ。
 僕もそのつもりだったからいつもの店に行くことにした。市営グラウンドは僕らの駅か
ら電車で15分、さらに駅から歩いて20分程のところにあった。園田先生が住んでいる駅だ。
「甘せん、園田先生んとこに行ったんだ」
 僕はにやにやして言った。
「そうであったか、いやはや抜け目がのうござる」
 おどける琉太。
「園田先生は美人か」
「僕にはよくわからないけど、母さん達は美人だって言ってる」
「ふーん。甘せん、今頃園田先生んとこででれでれしてるんだろうな。でれせんだな」
「琉太、それいいな。にやけてたらそう呼ぼう」と言ったときメールの着信があった。ミ
クからだったが後で読むことにした。
 電車に乗って、梅雨時には珍しい、秋空を思わせるような夕焼けを見ながら、明日の天
気を占った。改札口を出てファストフードに行き、コーラのLサイズで乾杯した。琉太が
トイレに立ったときメールの着信があった。今度は母からだった。
(よかったね、お疲れ様。おばあちゃんが喜びすぎてせきこんじゃってモー大変)
 とあった。祖母を喜ばせたことが嬉しかった。トイレから戻ってきた琉太が、
「おい、あそこにいるの睦美たちじゃないか」
 僕の後ろを指差して言った。振り向いてみると、いつからそこにいたのか僕たちの席の
正反対の、入口から1番奥まったところで僕に背を向けてポテトを食べている。つまんで
いる指が見える。ミクと例の吹奏楽部の2人も一緒だ。
 僕と琉太に気がついた睦美を除いた3人が駿くーんと声は出さずに口だけを開けて手を
振っている。恥ずかしかったが琉太がほれほれと言うから仕方なく右手を上げて微笑んで
みた。
3人とも両手を振って大喜びだ。
 睦美は後ろ向きのままサムアップをして腕を上げただけ。ちゃんとレースを見てたわよ
という合図に違いない。
「クールってか」そう言って琉太の方を向いた。
「何が来るって?」
「いや、何でもないよ。そろそろ帰ろうよ」
 そう言って席を立った。琉太は何が来るんだ? とブツブツ言っていたがそれを無視し
て出口に向かった。
 4人の女子はおしゃべりに夢中だったが、ちらと睦美がこちらを見たときに目があった。
すかさず僕はVサインを送った。睦美は僕に向かって目をつぶってべーっと舌を出して、
それからすぐにおしゃべりに戻った。
 そのまま店を出て、じゃまた明日と言って琉太と別れて家に向かった。睦美のリアクシ
ョンの意味はよくわからなかったが、どうしたわけか僕は嬉しかった。  
 そういえばと思って、歩きながらミクからのメールを読んだ。
(ジュニアオリンピック出場おめでとう、すごいねやっぱ。かっこいい! もうみんなに
自慢しちゃうから)
 そしていつものハートマーク。どうして? と思ったが、なんだか面倒になって考えな
いことにした。
 小野寺家に新たな伝説が誕生した。宴の食卓は六人だった。叔母と舞が来ていたのだ。
泊まっていくらしい。
 帰宅すると祖母も含め両家の親たちの興奮たるや年甲斐もなく大はしゃぎである。ジュ
ニアオリンピックの出場は決まったとは言え、まだ県大会もあるし僕より速い人が出てこ
ないとも限らない。
「はしゃぎすぎだよ、みんな」
 たまりかねてそう言うと、
「何言ってるの、舞ちゃんがテレビに出るのよ」
 と言った。僕だけに興奮していたのではなかったのか。
「えっ本当!」
 そう言って舞を見た。舞は涼しい顔で僕に向かってVサインをした。当然でしょって顔
だ。
「舞ったら。連絡が来たときは大泣きしてたくせに」
 叔母がたしなめるように言う。
「なんで言っちゃうのー」
 顔をふくらませて照れを隠す。
「舞ちゃんすごいな。いつ出るの」
「明日、テレビ局に行って詳しい話を聞くのよ」と叔母。
「何に出るの」
「今度子どもミュージカルっていう番組を作るんですって。この間のオーディションがそ
れだったの」
「すごい、すごいよホントに」
「すごいと言えば駿ちゃん、11秒4だっていうじゃない。速いわぁ、自慢だわぁ。ジュニア
オリンピックに出られるんでしょう。ねえお兄さん」
 いきなり振られた父はビールに軽くむせながら、
「おじいちゃんとおばあちゃんの遺伝子だなきっと。俺と母さんはごく普通の運動神経だ
からな」
 とそれでも誇らしげだ。
「あら、私だって捨てたもんじゃないのよ。高校の吹奏楽部ではクラリネットのソロを担
当したんだから」
 ピント外れも甚だしい母である。
 一瞬の間をおいて爆笑の渦。舞なんて笑い転げている。祖母がまたむせ始めた。このま
ま死んでもいいなんて言いながらげほげほやっている。可愛そうだがみんなの笑いをさら
に増幅させてしまった。
 僕は家族の幸せそうな顔を作ったのが自分であることに誇りを感じた。舞もきっとそう
に違いない。
 その夜は、僕には次の日もあるというのに、宴は時計の針が零時を指すまで続けられた。
舞はソファーの上に猫のように丸くなって眠っている。僕は頑張って夢を追っている舞を
認めている自分に気がついた。そしてみんなに自慢しようかなと思った。
(そうか!)
 ミクが言ったのもそういうことだったのか。

7.

 日曜日は日が照ったり陰ったりの天気だった。風がやや強い。叔母と舞に楽しみにして
るよと言って出かけた。ミクにもメールを打とうと思いながら歩道に出ると、向かいの二
階堂と書いてある表札の前で掃き掃除をしているおっちゃんが見えた。風は気にならない
ようだ。
「おっちゃん、おはようございます」
「おう、駿か。おはよう。昨日は大活躍だったそうだな。甘せんから聞いたよ」
「うん、何とか自己ベストが出せたよ」
「そうか、ジュニアオリンピック参加決定だな」
「うん、でも油断しないで頑張る」
「そうだな。ところで、赤井くんの記録も聞いたが、ずいぶん速くなったな」
「琉太は陰の努力家なんだよ」
「そうだってな。今度見に寄らしてもらうよ」
「わかった、琉太にもそう言っとくね」
「おう、頼むぜ。じゃ、今日も頑張ってな」
 行ってきますと言って自転車をこいだ。早く琉太に知らせたかった。
 日曜の朝の歩道はジョギングをしている人が目立つ。思い思いのペースで楽しそうに走
っている人もいれば、苦虫を噛み潰したような顔をして、息を切らせて走っている人もい
る。子どもから老人まで、走るのが好きな人がいて嬉しい。見知らぬ人が同じ世界を共有
している。
 自転車をこぐのももどかしく学校に向かった。急いで部室に入ってミクにメールを送っ
た。早くしないと先輩たちが来てしまう。
 グラウンドに向かう時ホルンの音が聞こえてきた。僕は思わず音のする方に目をやった。
あの下手くそな音は間違いないと思ったが、ミクの姿は認められなかった。少しずつ巧く
なって、コンサートで演奏している姿を見たら、僕も自慢したくなるかもしれない。
 一年生は僕が最後だった。メールで時間を取られてしまった。僕の分担を終え琉太のそ
ばに行った。
「さっき来るときおっちゃんに会ってさ……」
「なにー、あの箱根駅伝の花の2区を走った二階堂さんが俺を見に来てくれるって? そ
んなことがあっていいのか」
「何言ってるんだか。琉太は十分ジュニアオリンピックを狙っていけるタイムを出したん
だぞ」
「そ、そうでござった。でも、めちゃくちゃ嬉しいよ」
「ところでさ、ハナノニクって何」
「えー、駿知らないのか。今まで二階堂さんとどんな付き合いをしてきたんだ?」
「そんなことを言われても、つい1年ほど前までは陸上には全く興味がなかったんだから、
僕にとってはただの気のいいおじさんだったんだよ」
「まったく。うらやましいよ。すぐ前に名ランナーがいるんだからな」
「今ならそう思うよ」
「だろ」
 琉太はそう言って花の二区の説明を始めた。
 箱根駅伝は東京の大手町と芦ノ湖を往復する大学生の大会であること、片道5区間ずつ
に分かれていて2日かけて行われること、それに出場するのがいかに大変であるかという
ことを夢見るように話す琉太は本当に陸上が好きなんだと思う。
「で、その区間の中でも最も距離の長いのが2区で、各チームはここにエースを登場させ
るんだ。序盤の最初の山場と言ってもいいな。だから花の2区って呼ばれるようになった
のさ。二階堂さんはここを走ったんだよ。エースだったんだよ。すげぇよ。しかも優勝し
たんだろ。し、しかも5連覇のうち四年間、1年から花の2区を走ったんだぞ」
「そ、そんなすごい人だったのか」
 鷹が爪を隠す様子が頭に浮かんだ。
「その先を知らないだろ」
 甘せんがいた。話に夢中になっていたから気がつかなかった。
「二階堂さんは大学卒業後、就職をして、実業団の大会で活躍しながらオリンピックに出
たんだ」
「オ、オリンピックー!」
 思わず叫んだ2人だった。
「うん、マラソンに転向した二階堂さんは高速コースに強くてね、上りは苦手だったけど。
ある年のオリンピックの参加資格を手に入れたんだ」
「金メダル、取ったんですか」琉太が勢い込んで言う。
「うん、12位だったな」
 わっとのけぞって驚いた。おっちゃん!
 甘せんは気付いていたようだったが、僕らの後ろからやってきたおっちゃんが、驚かす
から言うなという合図を送っていたらしい。お茶目にも程がある。
「お、おはようございます」
 琉太は緊張を隠せない。
「やあ、赤井くん。今日は君の走りを見に来たよ」
「は、はい。よろしくお願いします」
 今日って言わなかったじゃんかと小声で僕に言う琉太だったが、僕だって今日とは聞い
てない。そうだったのか、風が強いのにわざわざ掃き掃除をしていた理由がわかった。
 甘せんがかつてそうだったように、僕の歯車が周りのたくさんの人の歯車と噛み合い始
めていることがわかってきた。ほんの些細な触れ合いの積み重ね、相手にはそうとわから
ないかもしれない当たり前の気遣い、それが繋がっているということなんだ。
「おっちゃんさ」
「なんだ」
「なんでオリンピックまで出たのに、僕たちや近所の人たちはそれを知らなかったの」
 それを引き受けたのは甘せんだった。
「活躍しないと忘れられちゃうんだよな。出るまでは注目もされるけど、結果が思わしく
ないと見向きもされなくなるからね。二階堂さんの場合は、やはり箱根駅伝の4連覇の原
動力だったことが伝説になってたんだ。世間の目というのはそんなもんだよな」
 セケンノメという語が妙に頭に残った。
「まあまあ甘せん、俺のことはそれくらいにしとこうや」
「あ、甘せんて、二階堂さんまで」
 少し慌てて言った。
「気に入ってるってむっちゃんが言ってたぜ」
 僕が小さい頃から睦美と遊んでいたからよく知っているのだ。おっちゃんは睦美をその
頃からむっちゃんと言って可愛がっていた。
 おっちゃんの視察は琉太にとって大収穫だった。琉太の吸収力も大したものだが、伝説
の人の影響力はすごいものだ。おっちゃんは琉太に見込みありと判断し、県大会までのコ
ーチを買って出た。校長先生はそれだけで琉太の優勝は間違いないと言っていたらしい。
2人は傍から見てもいいコンビだった。

8.

 ミクとは学校で少し話すようになった。そして今日のメールに、ファストフードに行こ
うとあった。
 特別な用事もなかったから3日後の日曜の夕方に店で待ち合わせた。僕は部活の帰りだ
からいつもの制服姿だった。が、ミクは珍しく部活が休みで私服だった。
 母親と渋谷に出掛けた帰りだったことも手伝って、おしゃれに余念がない。左の人差し
指の爪がミッキーの顔になっている。他の爪も上半分が黒で下半分が赤。赤地に2つの黄
色い丸が描いてある。ネックレスにも金色のミッキーがぶら下がっている。メガネの奥に
光る瞳には僕の顔が映っているはずなのに、僕にはそれもミッキーに見えた。
 僕はいつもどおりのコーラを、ミクはオレンジジュースと、二人で食べよと言ってポテ
トを注文した。少しどぎまぎする僕だった。
 トレイを持って、ちょうど壁際にある小さなテーブルが空いたから、そこに向かい合わ
せに腰掛けた。
「今日はタイム計ったの」
「うん、最近は11秒7が平均ぐらい。睦美に言ったらどやされそうだけど。ミクちゃんは
買い物?」
 ミクは睦美の名前が出たときにほんの少し眉をひそめたように見えた。
「ちょっとね、ママの付き合いってとこ。ポテトどうぞ」
 ミクが大人びて見える。
「ママにね、今日駿くんに会うんだって言ったの」
「えっ、あ、そうなんだ」
 親に言うなんて、女の子はみんなそうなのだろうか、僕は困ってしまった。
「そう、そしたらね、あら、初デートねなんて言うのよ。そんなんじゃないって言ったの
に、頑張ってねって、いやんなっちゃう」
 ホルンを吹く唇がストローをオレンジ色に染めている。屈託のないミクの笑顔と合わせ
て、僕の心をざわめかす材料に不足はなかった。そして、僕はミクのどこを見たらいいの
か分からなくなってしまった。
「ねえ、駿くん」
 少し俯きがちの僕を覗き込むようにしてミクが言う。
「なに」
(ミク、眩しいよ)
「付き合ってる子いる?」
 僕はコーラを一気に半分飲んだ。冷たさが胸に広がる。次いで息を吐き出しながら首を
左右に振った。
「本当に! じゃ、私にもチャンスありってことよね」
 ミクの瞳が少女漫画のようになった。同時に僕の前には睦美の顔があった。その顔は何
にやけてんのよと言っているようだった。
「でも」
 少しミクの顔が曇った。
「どうしたの」
「駿くん、睦美と」
「えっ、む睦美は別だよ。って言うか、うーん……」
 どういうわけか慌てていた。ミクは興味深そうに黙って僕を見ている。
「だ、だから気にしなくても。そ、そう、お、幼馴染だから。もう腐れ縁だよ」
 しなくてもいい弁解を止められなかった。
「チャンスがあるってことは分ったわ。ありがと」
 ミクは楽しそうにそう言って、残りのオレンジジュースを飲んだ。それから後の会話は
あまりよく覚えていないほど僕は動揺していた。
 
 それから4日後、木曜の部活の後、ミクは睦美と帰り道を歩いていた。駅前で別れるま
での10分ほどの距離である。
「ミク、今日は早く終わったんだね」
 睦美が言った。
「そうなの、たまにこういうことがあるとうれしくなるよね」
 ミクが言った。と、急に、
「そうそう、駿ったらさ、電信柱に貼ってある『キケンのぼるな』っていうのあるでしょ。
あれをね『キケンの、ぼるな』って読んでたんだって。バカよね、単なる」
 と睦美はおかしくてたまらないというふうに話す。
「あはは、おかしい。何? 『ぼるな』って」
「でしょ、昔からあんのよね、そういうアホなとこ。小5のときにさ、夏休みに花火やろ
うってことになったの」
「うん」
「6時河川敷集合ってことにしたら、もう駿ったら朝の6時に行こうとしたのよ。まぬけで
しょ」
「えー、おっちょこちょいね」
「ほどがあるっつーの、あはは。あっ、そうそう、こないだ駿とファストフードいたでし
ょ。たまたま外から見えたんだけど」
「えっ、あっ、うん、ごめんね」
 ミクは謝った自分を滑稽に思った。
「どうして謝るの? てか、ミクちゃん可愛かったよね。あのスカートの青いのがチョー
素敵だった」
「あーあれね、ロイヤルブルーって言うんだって。ママが選んでくれたの。駿くんとデー
トだからって。私もおしゃれしちゃった」
「でしょ、光ってたもん。それに比べて駿ったら本トにダサイわよね、制服なんて。私ま
で恥ずかしくなっちゃう」
「私、走ってる時の駿くんが1番好きだけど、制服の時もいいって思うわ」
「あら、あんなグズな子のどこがいいの? 確かに足は速いけど」
「付き合ってる子いないって言ってた」
 ポツリと言った。そして、立ち止まった。
「睦美……いいの?」
 2,3歩先に進んだ睦美の背中に向かって言った。睦美にとってそれはどうでもいいこと
なはずだった。だが、実際に耳に飛び込んで来た時の軽い衝撃は少なからず睦美を驚かせ
ていた。
「い、いいのって、い、いいに決まってるじゃない」
 睦美も立ち止まり、そのまま前を向いて言った。
(あ、どうしたの? 何でドキドキするの。まずい、このままじゃ)
 ちょっとしたショックだと思ったが、定点撮影をした何かの芽が花開くまでの映像を連
続再生したときのように、睦美の芽はみるみるうちに膨らみ放っておけなくなってしまっ
た。ミクに体を向け、
「ミク、ごめん、用事思い出した。じゃね。あっ気にしなくていいから」
 と言って踵を返して駅に向かって走る。
「む睦美……」
 ミクはそれ以上言葉が続かなかった。時が止まったように暫く、閑かな時と共にそこに
佇んでいた。
 空にはシュークリームを上から見たような雲がひとつだけ浮いている。上空は風がある
ことがわかった。その雲は右側の同じところから形を成し、左側の同じ部分から消えてい
くのが見えた。
 内部はめまぐるしく入れ替わっているのに、雲は同じ形で同じ場所に浮いている。ミク
にはその雲が睦美に見えてきた。ひとつ頷いて、大きく息を吸い込むと雲に向かって言っ
た。
「やっぱり、無理!」
 ミクの中で止まっていた時が再び動き始めた。

 その頃、僕と琉太はファストフードにいた。他愛もない話はいつものことだった。
「あっ睦美」
 琉太の声に振り向くと睦美が入ってくるところだった。僕たちには目もくれず、真っ直
ぐカウンターを見ている。注文をし出てきたのはコーラだった。
 睦美はそれを受け取るやすかさずストローをくわえ入口に向かい、そのまま出て行くと
思ったが、ぷいと踵を返しゴミ箱に行きストローのついたままの蓋を捨てた。次いで氷を
捨てて空になった紙コップを投げ入れた。そして、ふんと気を吐いて出て行った。
 一部始終を見ていた僕たちは顔を見合わせるのみで暫くポカンとしていた。
「睦美だったよな、今の」
 琉太が漠然と言った。
「あ、ああ確かに」
 僕ですら見たことのない睦美の姿だった。
 と、今度はミクが入ってきた。睦美とは違い、ミクは僕たちを認めるといつものように
微笑んで軽く手を振る。ソフトクリームを右手に持って僕たちの方にやってきた。ピンク
の唇がバニラ味の、とがった、しかし柔らかな部分を少し咥える。琉太の隣に腰掛ける。
「わー、冷たくて美味しい」
「今日は早かったんだね」
 僕が言った。
「うん、時々あるのよね。駿くんたちも?」
「いや、俺たちはいつもこんなもんだよ」
 琉太が言った。
「長々とやっても陸上はいいわけじゃないからね」
 と僕。
「ふーん」
「そうそうさっき睦美が来てさ」
 と、琉太が言った。えっと言う顔をしたミクがいたが、続けてその時の様子を話した。
 ミクは垂れないようにソフトクリーム全体を舐め回しながら聞いている。コーンの部分
だけになるのに時間はかからなかった。そして、駿に微笑みかけて言った。
「駿くん、お母さんが2人いるみたいね」
 どうしてと言う前にじゃあねと言ってコーンのふちをかじりながら行ってしまった。僕
と琉太は狐につままれたような顔をしていたに違いない。
「どういうことでござろう」
 琉太にわからないなら僕にはなおさらだ。

 その夜、ミクからメールがあった。例によって36個ずつのハートに囲まれている。
(駿くん今晩は。今日はいきなりいなくなってごめんねm(_ _)m。私、もう暫くは駿くん
に憧れておくことにしまーす。それと、つかめるまでチャンスはしまっておくことにする
わ。雲に戦いを挑んでも今は無理なのよねー。ホルン頑張るから。じゃ、またね)
 雲が喩えであることは分かったが、何のことやらさっぱり見当がつかない。僕は何だか
勝手に好きになられて、自分も調子に乗ったくせに、理由がわからないままにふられたよ
うな妙な気がしていた。
 今日の睦美は間違いない、何かあったはずだ。が、それを僕とミクとのことと結びつけ
るなんてその時は想像だにできなかった。
 僕はミクに当たり障りのない、そう、大丈夫だよ気にしなくていいからこれからもいい
友達でいようというようなメールを返して自己嫌悪に陥った。
 翌日から暫く練習が思うようにいかなかったし、生活は隙だらけになった。僕がそうな
のか周りが変調したのかわからなかった。タイムは自己平均を下回るようになった。
 スタートの合図を受けて右足を前に、頭ではその指令を出しているのに実際は動き出し
が遅いのだった。いや、そうではない。昨日までは指令と同時に動けたのだ。恐らくその
感覚が正しいのだ。何故ずれるのか分からなかった。
 甘せんは、大丈夫それをスランプというんだと言ってあまり心配していない。琉太は全
面的に甘せんの意見に賛成のようだ。

 その日もしっくりしないまま部活を終え、部室を出て体育館の脇を通って帰ろうとして
いた。琉太は少しやることがあると言って部室に残っている。
「おい、小野寺」
 聞きなれない声に何も言わずに振り向いた。そこには一組の男子、担任が手を焼いてい
るという話は聞いていたが、その2人が立っていた。そのうち向かって右側の子は羽貫諒
(はぬきりょう)と
いって、4月の2週間ほどだが陸上部にいた。
「何?」
 僕は全く無防備に彼らに相対した。羽貫が動きを見せた。僕は突っ立っていた。左目に
稲妻のような光が走った。次いで左の頬に痛みを感じた。僕は転んでいた。自分の身に起
こったことが全く理解できなかった。その瞬間、僕から感情が消えてしまった。ただ、本
能的に防御の姿勢は取っていたように思う。
「お前、最近調子に乗ってんじゃないの、なあ」
 羽貫が隣の子に同意を求めるように言う。
「たしかに。スター気取りで女子に人気だって評判だぜ」
 へらへらという言葉が当てはまる人間に初めて会ったと思った。不思議に恐怖心はなか
ったが、それは同じ学年だからだったのだと思う。
 その言葉を聞いて、僕もやっと事態が飲み込めてきた。同時にそんな不条理に対する怒
りがこみ上げて来た。僕は自分でも驚くほどゆっくり立ち上がった。
「誰が調子に乗って、誰がスター気取りだって?」
 僕の口からそんな台詞が出るとは思ってもみなかった。
「おっ、やる? 2対1だぜ、いいのか?」と隣の子が言った。
 僕は「スター気取り」という言葉に敏感に反応していた。許せなかったのだ。2人は僕
と同じぐらいの身長だった。僕は腕に自信があるわけではなかったが、小さい頃おっちゃ
んに言われたことがあった。
 幼稚園の頃いじめっ子が1人いた。ある日、きっかけは忘れたが、その子に突き飛ばさ
れたことがあった。父には喧嘩はするなと言われていた。だから僕は悔しくて泣いた。
 母と帰る途中、おっちゃんの家の前でおっちゃんに会った。母との挨拶もそこそこに、
おっちゃんはぐずっている僕に言った。
「どうした駿、いじめられたのか」
 たどたどしくはあったが僕は悔しかったことを伝えた。
「そうか、確かに喧嘩はしちゃだめだぞ。でもな、売られた喧嘩は買ってもいいぞ。で、
ここからが大事だ」
 そう言っておっちゃんはしゃがんで僕の両肩を掴んだ。
「喧嘩は度胸だ。怯んだら負けだぞ!」
 意味はよくわからなかったがおっちゃんのドスの効いた声と射るような目と共に僕の記
憶に刻みこまれている
 僕は怯むことなく2人を交互に睨みつけていた。と、羽貫が二発目のパンチを繰り出し
てきた。僕は膝を曲げて腰を落としてそれをやり過ごした。そしてそのまま右肩を羽貫の
へその辺りに入れ、両手で腰を抱えるようにして体をあずけた。
 地面はコンクリートである。タックルをされた形で羽貫が下になって倒れる。背中を強
か打ったらしく、羽貫は素早く僕から離れ暫く咳き込んだ。随分苦しそうである。
 僕は気を抜くことなくもう1人を睨んだ。今の僕の動きは相当俊敏に映ったらしい。明
らかにビビっていた。
「やってやろうか」
 僕はあの時のおっちゃんの真似をするようにドスを効かせて言ってみた。その子が僕か
ら目を逸らした。僕は勝ちを確信した。
「お、おい、行こうぜ」
 2人は予想外の反撃に驚きを隠すこともないまま引き揚げて行く。僕は2人の姿が体育館
の裏側に消えていくまで睨んでいた。姿が見えなくなって初めて興奮している自分に気
づいた。そして大きくため息をついた。
「おーい」
 声のした方を見ると、琉太が小走りに向かってくるのが見える。急に右腕に痛みを感じ
た。見ると、手の甲から肘にかけて数カ所すり傷がある。血が滲んでいた。次いで左腕
の傷にも気付いた。そこに琉太がやって来た。
「大丈夫か? 部室出たらあいつらが向こうに行くのが見えた。で、駿が立ってたってわ
けさ」
「すりむいちゃった。でも勝ったよ」
「1組の極悪コンビだろ。どうしたの一体」
 僕はつけられた因縁を説明した。
「2対1は卑怯でござるな。どうする? 言うか、先生に」
「いや、よすよ」
 僕は余計な心配をかけたくなかったし、何よりも撃退したのだ!
「わかった。でも油断しないでいよう。今度同じことしたら俺もやってやる。2対2だから
さ」
 口の中がしょっぱかった。左の頬の内側を切ったらしい。戻って部室の脇の水道の蛇口
をひねってほこりと血を洗い流しうがいをした。
 いつもの冷静さを取り戻していたが「調子に乗ってる」「スター気取り」という言葉を思
い出すにつけ、ふつふつと熱いものが噴き出しそうになる。琉太と別れ帰り道を急いでい
た時睦美に会った。何もこんな時にと思ったが仕方がない。
「どうしたのその傷!」
(は、早すぎる)
「顔も、左が腫れてる。喧嘩したの? ねえ、どうしたの」
 睦美は恐ろしい程真剣に僕に質問を浴びせる。
「何でもないよ」
 面倒だった。
「だって、両腕赤いじゃない、痛くない? ねえ、大丈夫? 駿ったら」
「何でもないったら! 睦美には関係ないだろ。黙っててくれよ。それに」
 僕は右の頬を左手で抑えて突っ立っていた、涙をいっぱいためた睦美の顔を見ながら。
「駿の馬鹿!」
 睦美は踵を返すと涙も拭かずに駆けて行ってしまった。僕のイライラはその時頂点に達
していた。なぜ睦美にまで殴られなきゃならないんだ。僕がバカって、だいたいおせっか
いすぎる。うざいんだ。お前、俺の何なんだって感じだ、母さんでもあるまいし。
「あ……」
 その時ミクの言葉が蘇った。
(駿くん、お母さんが二人いるみたいね)
 ブーメランに乗せられて投げ出された大人の自分が手元に戻ってきた。僕はミクの言っ
た意味を心の奥底では分かっていたに違いない。だからさっきのように世話を焼きたがる
睦美に腹が立ったのだ。
 傷は大したことはなかったが、家族には喧嘩を売られて勝ったことは伝えた。両親は先
生に報告したほうが良いという。祖母は、そんな卑怯な奴のことは気にする必要はない、
負けたんだからそんな格好悪いことを口外するはずがないし、言い触らしたとしてもみん
な駿の味方をするに決まっている、と言う。
 父は頷きながらも僕の両腕のすりむいた部分と口の中の切れた部分や少し腫れた顔の写
真を撮ることは譲らなかった。
 翌日、甘せんから質問され体育館脇で転んだと答えた。妙な傷の付き方だなと言いなが
らも気をつけるんだぞの一言で済んだ。
 例の2人は欠席だった。元々タクシードライバーとあだ名された2人は、月の半分は確実
に休暇を取っていた。みんなに知られるのが気がかりだったが、何事もなく数日が過ぎ、
いつの間にか普段の生活に戻っていた。

9.
       
 梅雨明けは入りと同じように早かったが、その予報は大外れで5日過ぎてから実は開け
てましたというものだった。7月も3週目を迎えていた。
 月曜日。大会まであと5日だ。朝礼で県大会に出場する選手の壮行会が行われた。ステ
ージに呼ばれたのは陸上部に女子バレー部、ソフトテニス部とバスケットボール部、そし
て野球部だった。これだけの部が県大会に出る年はめったにない大豊作だ。良い報告を待
っていると校長先生は満面の笑みだ。
 僕はステージの上手の端に琉太と並んで立っていた。なんだか雛人形になったような気
がした。僕ら足軽からは、体育館に並んでいるクラスのみんなの顔がよく見えた。
 3組を見た。すぐに睦美と目が合う。何か言いたげな睦美だった。僕は先日のことが気
になっていた。この1週間、口をきいていなかったことも手伝ってすぐに視線をずらした。
壮行会はにわか応援団のエールを受けて終了した。
 その日の帰りのホームルームのあと、シンポジウムが開催された。今回は特別に女子に
も招集をかけた。田辺と睦美が言い出しっぺらしい。田辺は吹奏楽部でオーボエを吹いて
いる。司会が大人びていて上手いと評判だった。
「えー、みなさん、今日お集まりいただいたのは他でもありません。今朝朝礼でも紹介さ
れました、2人のスターを紹介します。なんてったって同じクラスから2人も県大会に出る
のですから、これはすごいことです」
 そんなこと知ってる、早く次いけと誰かがやじる。
「はいはい、では、小野寺駿くん、赤井琉太くんどうぞ」
前に誘われた僕たちは、朝礼の時よりもじもじしていた。
「はい、そういうわけですから、今までは小野寺くんだけだったのですが、今日からは赤
井くんも合わせて応援しようということになったわけです。ささやかではありますがプレ
ゼントを用意しました。それでは佐藤さん、千野さんお願いします」
 睦美にギョッとした僕はともかく、千野に琉太がのけぞるとは思わなかった。千野もい
きなりの指名で自分を指差してキョロキョロしている。千野の名前は瑞子という。幼い頃
からバレエをやっていて顔も体も細く、シャープな印象を与える。
 僕は睦美から、琉太は千野から寄せ書きのしてある色紙を受け取った。クラスのみんな
は、拍手をしながらはやしたてるのだった。
 視線が僕ではないことが分かって琉太を見ると、なんと蛸せんになっているではないか。
千野は真っ赤なバラになっている。それから2人が付き合いだしたのは日を待たず明らか
になったが、そのお膳立てをしたのが睦美だったとは思わなかった。
 
 県大会を翌日に控えていたが、僕はまだスランプが続いていた。一方琉太は絶好調だっ
た。おっちゃんのコーチングがうまくいってるからだし、千野との付き合いも始まったば
かりだ。
 おっちゃんが言うには琉太のレースの駆け引きの才能は並じゃないらしい。中長距離は
スタートからゴールまでの道中、いろいろな思惑にとらわれながら走る。琉太はスパート
のタイミングが絶妙なんだそうだ。地区大会のビデオを見たおっちゃんも、あのタイミン
グを見て「おっ」と言ったそうだ。そしてあの腕回しを見て「なんてこった」とも言った
そうだ。
 僕らを呼んで、おっちゃんが言った。
「琉太、明日は正念場だが優勝しなければならないって考えるんじゃないぞ。十分競える
タイムを出しているけどな。むしろ相手を見ながら自分のストーリーを追うんだ。山場は
きっと来る。腕は回すなよ」
「はい」
 琉太は幾分緊張の面持ちだ。
「駿は優勝をねらえるんだから油断しないでな」
「わ、わかりました。ねらいます」
 そう答えはしたが、心と体はアンバランスなままだった。
 県大会は県営運動公園の陸上競技場で行われる。全天候型のトラックを走れるのだ。市
営グラウンドよりやや遠い。今日の練習は例によって大会前日のため早目に終了した。
 帰りは琉太と自転車を押しながら歩いて帰った。
「でも、優勝したいよな」
「できるよ。おっちゃんだってそう思ってるはずだし。固くなるなってことを言いたかっ
たんだよ」
「だと良いのだが、なにぶん敵が多いのう」
「出た。だからきっと大丈夫だよ」
「何が出て、どう大丈夫なんだ?」
「琉太の時代劇だよ。これが出たら琉太は絶好調ってことだよ」
「そうでござったか。無意識に出ちゃうんだよな」
「無意識、でござるか」
 笑い合って駅前で別れた。自転車をこぎながら明日のレースを想像していた。
 自宅が近づいてきた。と、門の前に睦美がいた。僕たちはかれこれ2週間、口をきいて
いなかった。何だか恥ずかしい気がした。
「や、やあ、どうしたの。中に入ってればよかったのに」
「あ、うん、そうなんだけど」
 後ろで手を組んで脚をクロスさせている。
「何かあったの」
「何かってほどのことじゃないんだけど、ちょっとね」
「ちょっとって、あっそうだ、こないだは色紙ありがとう」
「うん、役目だったから……」
「そうかもしれないけどさ。睦美から受け取る方がうれしいから」
 ごく自然に、気負いもなく言った。
「えっ?」
「それにしても琉太と千野さんを近づける作戦はみごとだったね。みんなも感心してたよ」
「そ、そうなんだ。知らなかった」
「だって、それがきっかけで今じゃラブラブだもんね」
「……き、傷は大丈夫なの?」
「うん、少し跡が残ってるぐらいですっかり治った。元々擦り傷だったしね。うちの中に
入らない? 母さんたちも喜ぶよ。久しぶりだし」
「ううん、いい」
「どうしたの? 睦美らしくないよ」
 睦美はしばらく視線を遠くに投げた。そして、何かを訴えるような目で僕を見て言った。
「明日は部活で応援に行けないけど頑張ってね。じゃ、ね」
 ぷいと背を向けて行ってしまった。
 僕は中途半端なまま、じゃあねと言ったきり見送ることしかできなかった。何の用事だ
ったんだろう。明日の激励なら普段の睦美でいいはずだ。どうしてあんなに歯切れが悪か
ったんだろう。そう考えながらただいまと言って家に入った。
 夕食の時父や母から、ジュニアオリンピックには出られるのだから怪我だけはしないよ
うに頑張れと言われた。祖母なぞはそれを見ないうちは死ねないなんて縁起でもないこと
を言うものだから、本気で気を付けるのはやめようと思ってしまった。ともあれ、明日は
優勝を目指して頑張ると告げて部屋に入った。
 睦美とは久しぶりに話が出来たことでつっかえが取れたような気分だったが、さっきの
様子が頭から離れない。ふと、琉太なら何か言ってくれるかもしれないと思って携帯に電
話した。
「そういうわけなんだけど、琉太どう思う」
 琉太は、落ち着いた話しぶりで言った。
「地区大会の応援に来たのは睦美だけだったし、色紙を渡したのも睦美だったよな」
「だって部活が休みだって言ってたし、色紙だって役目だって」言いかけたのを遮って、
「睦美は先輩にどやされるのを覚悟で部活を休んだんだ」
 そんな、なんでそんなことをと思っていると琉太はさらに畳みかけるように言う。
「ミクの手紙の時もそうだ」
「あれはミクに頼まれたって言ってたんだよ」
「馬鹿だなあ。睦美は誰のためにやったと思ってるんだ」
「それは……」
「駿のためだろう。ミクの時は睦美辛かったろうなあ」
「ミクとはただの友達だよ」
「鈍感だなあ。まだわからないのかよ」
 琉太は呆れていた。
「だから、自分の気持ちがわかったから睦美は決めて、今日来たんじゃないか」
 と続けて言う。
「決めてって何を?」
「お前にコクるためだろ」
「えっ、僕に?」
「そ・う・だ・よ!」
「いや、だって睦美とは小さい頃からの付き合いで」
「だから」
「だから、好きとか嫌いとかじゃなくて」
「なくて?」
「なんていうか、ただの……」
 続かなかった。少し間を置いて琉太が言う。
「駿、ミクのことは好きか」
「さっきも言ったけどただの友達」また琉太が遮った。
「そんなことはわかったよ。そうじゃなくて好きか嫌いかってこと」
「そ、そりゃ好きだけど」
「じゃ、同じ質問。睦美のことは?」
「そんなことわからないよ、ずっと一緒だったから」
 その通りだった。睦美とは年小の頃からだから、かれこれ10年間同じクラスにいたこと
になる。僕は気持ちの整理がつかないでいた。
「睦美も始めはそうだったと思うよ。でもたぶんファストフードで見た日だと思うけど、
駿にしてやってることの意味がわかったんだよ。そう、はじけちゃったんだよ。俺にとっ
てはあのシンポジウムの時がそうだったけど」
「……」
「駿は気づいてないかもしれないけど、睦美はいつも駿のことばかり見てるんだぜ。女子
はみんな知ってるってさ。みずっちが教えてくれたんだ。ミクのこともね」
 琉太は千野瑞子のことをみずっちと呼んでいた。
「わかってやれよ睦美の気持ちをさ。拙者、泣けてくるでござるよ」
 そしてもう言うことはないよと言って電話が切れた。僕はそれでも自分の気持ちを説明
できないでいた。琉太の言うことはよくわかった。でも、僕と睦美は幼馴染の枠を超える
ことはないのだ。
 僕と睦美は親同士の仲の良さもあって、ともすればひとつの大家族ではないかと思うよ
うな付き合いをしてきた。
 今はさすがにそんな時間は取れなくなったが、僕も睦美も互いの親と風呂に入ったり、
休みの日には片方の親が都合が合わなくても一緒に出かけたりしていたのだ。だから、ま
るで双子を共有した家族の体をなしていたと言ってもよかった。
 好きかと聞かれても答えられない理由が、だからそこにあった。僕にとっては、いきな
り目の前にロシア語で書かれた文章を出されて読めと言われたような、そんなわからなさ
だったのだ。だから、睦美がはじけたと言われても、睦美が僕のことを好きなんだと言わ
れても全く現実味がない。この感覚は経験しないとわかってもらえないだろうと思う。琉
太が僕の反応にいらいらするのもわかる。
 僕にとっての睦美の存在は空気のようなものなのかもしれない。
 僕はなかなか眠れなかった。明日は大事な大会だというのに。ただ、だからと言って睦
美や琉太を責める気持ちは全くなかった。むしろ睦美に会いたいと思っていた。会って何
でもいいから話したいと思っていた。メールじゃだめなんだ。目の前に睦美がいて、あの
偉そうな態度でしゃきしゃき話すのがいいのだ。
 大人ならこんな時ウィスキーでも飲むのだろう。大人はいいなと妙なところで羨ましい
と思った。机の上の携帯が目に入った。LEDが点滅している。琉太と話しているときに
でも届いたのだろうが、全く気が付かなかった。ミクと睦美からだった。胸の動悸を感じ
ながら睦美のメールを開けてみた。
(駿、さっきはごめんね。明日は大事な大会があるのに私ったら。反省してマス。どうせ
ジュニアオリンピックに出るなら全勝して出てよね)
 明日は5時に起きるからベッドにはいつもより2時間早く9時には入っていた。まだ10時
だ。早寝の睦美は起きているだろうか。そう思ったが、今返事を出さないと朝まで眠れ
ないような気がした。僕はすぐに返信した。
(僕こそごめん。あの時は酷いことを言っちゃって)
 ずっと気になっていることを書いた。そうとしか書けなかったのだ。いくぶん肩が軽く
なった。ミクのメールを読もうと思った時着信があった。睦美からだった。
(まだ起きてるの! もう寝なさいよ。じゃね)
 体の力が抜けていく気がした。
 僕は大きく深呼吸をして、気を取り直して改めてミクのを開いてみた。いつもの赤いハ
ートマークと青いハートマークたちに挟まれて本文があった。
(吹奏楽部の一年女子で駿くんのファンクラブを結成しました。今、会員は15名でーす。
もっと増やすからね。だから、明日も頑張ってね)
 違った意味で力が抜けていった。知らないうちに神社にでも祀られていくような気がし
た。
 あまり考えすぎると眠れなくなりそうだったから、ありがとうとだけ返事をし携帯電話
を閉じて、暗闇に浮かぶ画面の緑がかった残像が消えていくのを待ってから目を閉じた。

「駿、駿ったら!」
 睦美の声がした。
 近づきながら何度か声をかけていたらしい。僕は琉太と別れた駅からの帰り道、1人で
悶々としていた。すぐそばまでやってきた睦美が、
「メールありがとう。よくやったじゃない」と言った。
 僕は結果を睦美にだけ知らせていた。睦美からの返信に、何時に駅に着くか教えてとあ
ったから六時頃とだけ伝えてあった。
「スタートで大失敗したんだ。しかも肝心の決勝でだよ。今までの練習が無駄になった気
がしたよ」
 もちろん、目をつぶったわけじゃなかった。GET SETの後、あろうことかいきなり
頭の中に「負けたらどうしよう」という言葉がひらめいた。
 そのほんの一瞬間で僕のタイミングが大きくずれたのだ。そして焦りが生じた。挽回し
て何人か抜きはした。でも結局四位だった。
「魔が差したのよ」
 ぽつりと睦美が言った。
「寝不足だったの?」
「どうして」
「……だって、昨日の」
「ああ、あれ。睦美のメールのあとすぐに寝たから大丈夫だったよ」
「それならいいけど……」
「気にしなくていいよ。確かに魔が差したんだよな」
 僕は負けたことを気に病んでいたのではなく、もちろん悔しかったが、あの言葉が閃い
たことに納得したかった。だから魔が差すということばが、今の僕の心を落ち着かせるの
にぴったりだった。
「睦美、何だかすっきりしたよ。ありがとう」
「えっ、私何か言った?」
「睦美、うちに寄ってけよ」
 えっ、何、えっ、えっと言う睦美の手を引いて無理やり僕の家に招き入れた。
 睦美の母親にメールで連絡させて、母もついでに電話して、帰りは僕に送らせるからと
言い、その日は何年かぶりで一緒に夕飯を食べた。
 家族は大喜びで、時々見かけて挨拶まで交わしているくせに、大きくなっただの可愛く
なっただのと誉めそやす。そして、昔話に花を咲かせるのだった。
 僕も睦美も否も応もなくその雰囲気に飲まれてしまった。2人にとって今日はそれが最
も自然な成り行きのように僕には思えた。
「いつだったか駿が、僕は睦美ちゃんをお嫁さんにするって言ったことがあったねえ。あ
れはいくつの時だったっけ」
 祖母が言うと、
「4つですよ。駿の誕生会の時だから」
 すぐに母が答えた。
「ははは、どうだい睦美ちゃん、うちの駿をもらってくれるかい」と父がおどける。
 何てことを! それに逆だろ普通、とつっこむのはやめて睦美を見た。急に振られたも
のだから、
「はい、いえ、えっ、あの」
 と、しどろもどろのまま俯いて耳まで赤く染めてしまった。
「お父さん、何言ってるの! もう中学生なんだから」
 たしなめる母。冗談だよと小声で言いながら決まりが悪いのをごまかすようにビールを
飲む。
「ごめんなさいね、睦美ちゃん。酔っぱらいの言うことだから気にしないでね」
 母は少し三角になった目で父を睨みながら言った。
 八時を潮に睦美を送っていくことにした。さっきはごめんね、これに懲りないでまた遊
びにいらっしゃいと頭を掻きながら言う父に、はいごちそうさまでしたと応え、さよなら
と言って僕と並んで外に出た。
 僕は自転車を出して、乗る? と言うと乗ると言うから落ちないように気をつけてと言
って睦美の家に向けてスタートさせた。
 歩くと15分程の道のりだ。間が持たないと思ったのだ。この辺りは警察のパトロールも
滅多に来ないので時折2人乗りを見かける。
 熱帯夜になるなと思ったが顔や体をなでていく風は気持ちが良かった。しばらく行って
左に大きくカーブしたときのことだ。急に石でも踏んだのだろう自転車が斜めに傾いだ。
「きゃっ」睦美は荷台の縁を掴んでいた両手を咄嗟に僕の腹に回してしがみついてきた。
「だ、大丈夫だよ」
 どきどきしている。
「うん」
 睦美はそう言いながら、ぼ、僕の背中に頭を軽く押し当ててきた。僕の心臓は100メート
ルを走り終えた時以上にばくばく言っている。睦美に悟られたら恥ずかしいと思えば思う
ほど激しくなるようだった。こんな感じは睦美だからなのか、他の女の子でもそうなのか
よくわからなかった。
 2人とも無言のまま自転車は走り続ける。僕がこいでいるはずなのにその実感がない。
間違いなく汗だくなはずだ。睦美、汗がついちゃうよと思うがことばが出なかった。
 睦美も黙っている。とにかく睦美の家に着いたらこの状態が終わる。早くそうしたいと
いう気持ちと、もっとずっと続いて欲しいという気持ちがないまぜになっていた。
 しばらくそのまま走り続け睦美の家の前で自転車を止めた。自転車を降りる時、電車の
中で誰かにちょっと押されて隣の人に触れたという程度だったが睦美の胸のふくらみが背
中に伝わってきた。ほんの一瞬のできごとだったが再び僕を慌てさせるのには十分だった。
 睦美はというと、
「駿、今日は楽しかったよ。韋駄天がこぐ自転車はやっぱり速いね。じゃあね」
 右手を上げていつものようにさっさと、玄関に向かう。僕も、右手を上げてう、うん、
じゃねと言ったがそれは睦美の背中に吸い込まれていった。
 睦美が玄関脇のインターフォンを押して睦美だよと言ってからもう一度振り向いて僕を
見た。その顔は、さっきまで蕾だったのに季節の到来に気がついて開花を急いだ向日葵の
ようだった。
 そして笑顔のまま目をつぶり、口をすぼめ、次いで「い」の形を作った。
 僕は目を丸くしてポカンとしたまま睦美を見ていた。家の明かりがついて鍵の外れる音
がした。睦美は向日葵のままドアを開けた。ドアの向こうに睦美の母親が立っていた。た
だいまと言う睦美にお帰りといったあと、入れ違いに門の前まで歩いて来た。
「駿ちゃんこんばんは、久しぶりね。送ってくれてありがとう」
 僕は、こんばんは、はい、いえ、と言ってお辞儀をした。
「ジュニアオリンピックに出るんでしょう。睦美から聞いたわ。がんばってね。最近は駿
ちゃんのことばかりなのよ全く、他にないのかしらね」
「は、はあ、ありがとうございます」
「今度、うちにもいらっしゃいね」
 はい、おじゃまします、おやすみなさいと言ってドアが締まるのを見て自転車にまたが
った。
 僕はペダルを回転させながら、さっきの背中の感触を思い出していた。1人で乗る自転
車がこんなにも楽だったなんて琉太はもう知ってるんだろうかと思った。
 ドアの前で睦美は確かに好きと言った。あそこでうしやすしと言う理由がどこにある?
(どうする駿、琉太に言われたときと気持ちが全然違ってるぞ)
 声が出てないとは言え面と向かって言われると、全く異なった感情がサイフォンの沸騰
した湯が上昇するようにこみ上げてきた。
 さっきは呆気にとられて僕の心がどこか別の世界に行ってしまったが、今は素直に嬉し
いと思う。そして、睦美を空気のように当たり前の存在だと思ってきたことは、むしろ、
なくてはならないものだということと同じだってことに気がついた。
「僕は睦美が好きなんだ」と口に出して言ってみた。
 その声は軽やかに前進する自転車が起こす熱帯夜の生暖かい風に乗ってどこまでも漂っ
て行くような気がした。
 
 大会2日目。今日も真夏日になるという天気予報通りに暑い。今日は琉太の出る1500メ
ートル決勝が行われる。陸上部の集合場所は正面スタンドの二階だった。
「琉太、今日の調子はどう」
「そうじゃのう……」
「わかった、絶好調だ」
 僕は右腕を回した。
 おう、頑張るぜ、と言いながら琉太も回す。
「駿、気分はどうだ」
 声をかけてきたのは甘せんだった。
「おはようございます。はい、大丈夫です。全中でリベンジします」
「そうか、それならいいが。スタート前に言葉が浮かんだ原因はつかめたのかい」
「はい、魔が差したってことにしました」
「ははは、それはいいことばを見つけたな。その通りだ駿。勝つことに執着しすぎるとそ
ういうことになる。相手を意識しすぎるってことだよな。だから力を発揮するということ
は難しいことなんだ」
「はい、よくわかります」
「俺も今日はそうならないように気をつけます」
 琉太が神妙な顔で言った。
「駿の失敗は今日の琉太のためにあるようなもんだな。今の気持ちを忘れないで全力でや
ってこい」
「御意」
 はははと笑って甘せんが行ってしまった後で琉太が、
「今日の結果がどうでも帰りにファストフードに寄ろうぜ」と言った。
「いいよ。乾杯しようよ」
「よっしゃ、では参るか」
 出陣していった。
 選手は第2コーナーの出口に向かい始めている。1500メートルのスタート位置はそこな
のだ。決勝は琉太を含め12名で行われる。
 琉太は走るたびに記録を更新している。昨日は4分35秒まで自己記録を伸ばした。
おっちゃんが鼻の穴を広げるのも当然だ。おっちゃんは招待席にいるはずだ。
 スタート地点でジオラマの人形のように小さくなった琉太が、アキレス腱を伸ばしたり
膝を屈伸したりしているのが見える。いよいよスタートだ。
 12名の選手が弧状に並んだ。一呼吸おいてスタートが切られた。4周勝負だ。バックスト
レートを一団となって駆けていく。ペースが速い。琉太は中盤にいる。メトロノーム
に合わせるように全員のピッチが揃う時があるのが面白いと思った。正面にさしかかって
きた。縦に広がり始めた。琉太はいつも通りの走りができている。流れるように12名のラ
ンナーが通り過ぎていった。
 2周目3周目は中盤の選手が数名順位を入れ替えた。遅れ始めた選手が4名いた。琉太は
トップとの差を縮めながら4位につけている。
 トップの選手が正面を通過するのに合わせて残り1周を告げる鐘が鳴った。2秒ほど遅れ
て琉太が通り過ぎた。どこでスパートをかけるつもりだろうとそれを楽しみに琉太を目
で追った。第2コーナーで琉太が動きを見せた。早いのではないかと思った。が、2位の選
手を抜いたあとトップの選手のすぐ後ろでペースを戻した。3位以下の選手はスパートを
かけるにも距離が残っていたために、いきなり動いた琉太に惑わされたのかもしれない。
 バックストレートの真ん中辺り。地区大会ではここでスパートをかけて優勝したのだっ
た。だが、今日は違った。トップとの呼吸を合わせるように淡々と走っている。第3コー
ナーに近づいてきた。全員がスパートをかける。琉太も1位の子に合わせてピッチを上げ
た。しかしまだ後ろにぴたりとついたままだ。最終コーナーを回って直線に入った。残り
100メートル。ついに琉太が出た。抜いた。ここでまだ加速する力が残っていたなんて思っ
てもみなかった。走りが力強い。間違いなくストライドが広くなっている。そのまま全力
でゴールに向かう。2位との差は開きこそすれ縮まることはなかった。
 優勝タイムは4分30秒だった。またしても自己ベストの更新だ。なんて呑気なことを言っ
てる時ではない。ジュニアオリンピックに出場が決定したんだ。
 見ると琉太は甘せんと一緒に跳ねている。中学生にもなって琉太は、大の大人の甘せん
も2人して幼児のようだ。琉太は招待席の方を向いてお辞儀をしている。ここからは見えな
いが、おっちゃんの鼻の穴はいかほどだろう。琉太と目が合った。もちろん右腕を回し
合った。
 ほどなくして琉太が戻ってきた。またしてもみんなに肩やら背中やらを叩かれいってぇ
と言いながら隣に腰掛けた。
「やりぃ、すげぇぞ琉太。おめでとう」
「うまくいったんだ。俺のストーリー通りにうまくできたんだよ」と興奮が冷めてない。
「2回ペースを変えたことだろ。最後のスパートはすごかったな」
「直線に入ってからだと当たり前のようにみんなスパートをかけるけど待つことにしたん
だ。一か八かの賭けだったけど直線に入っても思ったよりも伸びてなかったから行けるっ
て思って、あとは死に物狂いだったよ」
「さすがだよ琉太」
 肩をばんばんやっているところへおっちゃんと甘せんがやってきた。
「琉太、やったな。おめでとう。ジュニアオリンピックと全中に出られるぞ」
 おっちゃんは手放しの喜びようで鼻の穴は野放し状態だった。
「さて、次は全中だ。2人とも全国の選手と競うんだ」嬉しそうな甘せんだ。
「はい、がんばります」
「そこでだ。二階堂さんとも話したんだが、2人とも来月の上旬に強化合宿をすることに
した」
「強化合宿……」
 初めての響きだ。何だかスランプなんか吹き飛んでしまうようなものすごい魔力が秘め
られているような感じがした。
「場所は代々木にあるオリンピックセンターだ。東京オリンピックが開かれた時の会場の
1つだ。オリンピックが終わったあと、施設をそのまま残してスポーツ振興に役立てよう
ということになって今に至ってるんだ」
 先生らしい説明だ。
「そこに宿泊して練習は近くのグラウンドでやる。ジュニアオリンピックまでは3ヶ月あ
る。来月の大会は敵を知るいい機会になるぞ。合宿には高校生や大学生もいるからいい勉
強にもなるしな」
 うんうんと頷きながら、
「すごい連中がごろごろいるぞ」
 おっちゃんが言った。
 甘せんはそんな中で1番になったんだよな。
 夏休みを前にして僕と琉太は念願のジュニアオリンピックの出場権を得た。琉太の恋も
実った。でも、僕は睦美の直球を受けたままそれを返していない。面と向かって言う自信
もない。琉太に聞いてみたい気もしたがそれはそれで気が引けた。とりあえずファストフ
ードに行ってから考えよう。
 表彰式を終えて閉会式に出て僕たちは今ファストフードにいる。いつものようにコーラ
のLサイズを頼んで今日は奮発してポテトもLサイズにした。
「えーそれでは赤井琉太くんの優勝と、僕たちのジュニアオリンピック出場を祝して乾
杯!」
 約束通り僕の音頭でささやかな宴が始まった。
「かーっ、うめえ」
 3分の1程を一気に流し込んだ琉太は、容赦のない炭酸の攻撃を喜んでいる。
「至福の時じゃ、のう駿よ」
「うむ、琉太よ、よくやったのう」
 げらげら笑い合った。確かに琉太にとっては至福の時だ。4月から昨日の朝まで毎朝走っ
てきたのだから。その上部活では毎日10キロ前後を走りきったのだ。力のつかない道理
がない。
 俺は才能がないから、その分、量でカバーするしかないんだと言っていた通りになった。
「来月の大会は決勝に残れればそれでいいや」あっさりと言う。
「何言ってんの。表彰台に上がろうよ」
「駿、今日までの俺は出来すぎだよ。たぶん今の俺には精一杯だ。二階堂さんも言ってた
ように全国にはごろごろいるんだよな」
 やはり琉太はすごいと思う。本当に中1とは思えない。自分のことをよく分かってるん
だ。
「まっ、でも俺は2年後に天下を取るからな。がっははは」
「あっ、いた!」
 振り向いたら睦美と千野がいた。
「へへ、呼んどいた」
 僕は沸騰した水の中に入れた温度計のようになった。
 琉太は手招きして2人を呼び寄せ、自分は僕の隣に席を移した。
「琉太優勝おめでとう」
「琉太くんよかったね」
 2人とも手に持ったオレンジジュースをテーブルに置きながら、僕たちと向かい合わせ
に並んで腰掛けた。
「これで駿と2人でジュニアオリンピックに行けるね」
「うん、駿はともかく俺までそうなるなんて夢のようだよ」
「明日は学年中、駿や琉太くんのことで大騒ぎになるね」
「そ、そんなことないよ」耳が熱い。
「そうでござる」
「なるのよ。私たちが言いふらすから。ねー瑞子」
「そうそう、なんたってヒーロー誕生だからね。うちのクラスから二人もだよ。自慢しな
くちゃ」
「そんなもんかのう。ところで小野寺氏、さっきから顔が赤いようだが」
「……」
「睦美殿、何か心当たりでも」
 えっと言った睦美もにわかに蛸せんになった。
「あっそうだ琉太。私本屋さんに用があるんだけど付き合ってくれない」
「いいよ。じゃ行こうか」
 2人はそう言うが早いか席を立ち上がってそそくさと行ってしまった。琉太待てよと言う
間もなかった。
「……」
「……」
 うわあどうしようという言葉が、少なくとも10回は心の中で繰り返された。
「……」
「……」
 携帯電話がメールの着信を知らせた。言い訳するようにちょっとと言って開いてみた。
「何か言ってよ」
 睦美からだった。思わず睦美を見た。目が合った。
「えっ、いや、琉太が……」
 咄嗟には言葉が出てこない。
「ど、どうしたの?」
「いや」
「……」
(駿、言ってしまえ。睦美の気持ちを考えろ。泣けてくるでござる)
 琉太の声が囁いた。そうだここはもう腹を決めるしかない。僕は、思い切った。
「……こ、こないだは、ぼ、僕も……」
「……」
 周りの雑音がどこかに飛んでいってしまった。
 目の前には1輪の向日葵が僕に向いて大きな花を咲かせていた。
「す……き、なんだ」
 そして僕は1匹の蜜蜂になった。
「……ありがと。じゃ、帰るね」
「えっ」
 向日葵が、睦美になった。
「また明日ね」
 蜜蜂は呆気にとられホバリングをしている。
 睦美は飲み残したオレンジジュースを左手に、右手を少し上げてひらひらと振り、発車
した新幹線がその後ろ姿を遠ざけていくように外へ出て行った。
 僕は花を諦めてコーラを飲んだ。まだ溶け切らない氷の入ったそれは十分に冷たく、僕
の気持ちを落ち着かせた。ついさっきのことが何度も蘇ってくる。そのうち何だか大きな
願いを叶えたような思いが心を満たしていった。

10.
   
 夏休みも1週間が過ぎた。今年は特に暑いとの長期予報通り35度前後の最高気温が続いて
いる。熱中症で運ばれた人の数も冗談では済まされないほど連日報道されている。
 僕と睦美、琉太と千野は既に2回も市民プールに行った。部活のあとのクールダウンには
もってこいだった。
 ファストフードの日(僕が琉太にはめられて睦美にコクった日を琉太が名付け、そう呼
ぶことになった)以来、4人で行動する機会が増えていた。
「駿、5日からでしょ、合宿」
「うん、10日までね」
「たった2人で行くの」
「中学生は僕と琉太だけだけど、甘せんが高校生や大学生を連れて来るって言ってたよ」
「駿くんたちどんどんすごくなってくね」
「駿はそうだけど、俺なんかまだまだだよ。全国にはものすごいのがごろごろいるんだか
ら」
「僕だって同じだよ。ここんとこタイムが伸びないんだ。こないだ甘せんが言ってたよ。
調子がいい時ほど気を抜くなって」
「難しいんだね、走るのも」
「みずっちのバレエに比べたら。なあ駿」
「そうそう、なんたって芸術だからね。美しいよねバレエって」
「ホントだよね。私、ダンス部入って初めてわかったもの。自分が好きで踊るのは誰でも
出来るけど、見てる人が唸るのって並じゃないよ」
「たしかにそう。バレエも上手な人はたくさんいるけど、人を感動させられるバレリーナ
はそんなにいないと思う」
「何が違うのかのう」
「でも、ミクは駿と琉太くんの走りが綺麗だって言ってたよ。私もそう思うけど」
 今や、ファンクラブは琉太も入れて「駿琉ファンクラブ」と名がついていた。
「そう、私も綺麗だと思う」
「そ、そうでおじゃるか。なんか調子に乗りそうで怖いなあ」
「うん、僕たちたかが中一なのにね」
「中1には中1の世界があんのよ。関係ないわ。ね千野さん」
「うん」
「ところでさ、合宿なんだけど私たち見に行っていいかな。1日だけでもいいから。応援
てことで。駿、二階堂のおじさんに言ってみてよ。どうせ甘せんはだめって言うに決まっ
てるからさ」
「えー、いいよ恥ずかしい。そんなことしたらバレちゃうじゃんか。おっちゃん、絶対周
りに言いふらすから」
「おじさん、知ってるよ」
「えっ、えー! どうして?」
 あっけらかーんと言い放つ睦美。
「なんだか知らないけど、こないだ道で会った時、『ようむっちゃん、駿とはうまくやって
んのか』って聞かれたから、ピースしながらうんて言っちゃったよ」
 なんてこった。チシャ猫のように笑うおっちゃんが浮かんだ。
「甘せん、最近でれせんだからオーケーって言うんじゃないか。駿、言ってみなよ」
「って琉太、恥ずかしくないのかよ」
「いつでも姫の味方じゃ」
「はい、決まり。駿、頼んだわよ」
「おう、任しとけ」
「勝手言って!」
 と言ったものの、実のところ僕もうれしかったのだ。
 
 いつ聞くんだと言われてもう3日も経つ。なかなか言い出すタイミングを測れないでい
た。琉太は僕の気苦労を察してくれてはいたが、それなら任しとけはないだろうと恨みが
ましい科白の1つも言ってやりたかった。
「駿、喜べ」
 輝かんばかりの笑顔で甘せんがやってきた。
「な、何ですか」
「合宿に園田先生が来るぞ」
「渡りに船じゃ」
 琉太は即座に僕の脇腹を小突いた。
「せ、先生」
 顔が引きつった。
「ん、何だ。うれしくないのか、そんな顔して」
「うれしいですけど……」
「けど何だ?」
「ついでと言ってはなんですが、う、うちのクラスの佐藤さんと千野さんも何日か見に来
たいそうなんですけど」
「けど何だ」
「い、い、いい、いい、いいですか」
「どうしてその2人なんだい」
 って、そっち? こんなに苦労したのに。
「いいじゃないか。なあ」
「わっ!」
「わっ!」
 再びのおっちゃんサプライズ。まったくこの人は。大人なんだか子どもなんだかわから
なくなる。
「誰にでも幸せになる権利があるよな」
「じゃ、お前たちあの子らと」
「遅いな、甘せん。まだまだ担任としては半人前だな」
 少し驚いたあと、清く正しく美しくだぞなんて言うものだから、
「ばかたれ、的外れもいいとこだ」
 とおっちゃんに怒られ、しょげる弟子の滑稽な姿。でも、僕たちはそんな甘せんをイケ
てると思う。
「英雄色を好むってな」
「二階堂さん!」
「おっと、これは失敬」
 舌を出して僕らにウィンクを、したつもりらしい。両目を閉じていた。
「ただし、条件があるぞ」
 やれやれ、先生っていう人たちはどうしてこう生徒いびりが好きなんだろう。
「園田先生と一緒に来て帰ること。それならいいよ」
 予想外の条件だった。
「ありがとうございます」
(やった!)
 園田先生なら睦美たちの両親も安心するだろう。一度に難題が2つも解決した。話がわ
かる甘せんはもっとイケてる。

 合宿初日。集合は朝8時に校門前だった。僕と琉太は20分前に到着した。ワクワクして
いた僕らは互いにつついたり、訳も分からず力比べをしたりしてはしゃいでいた。と、
琉太が動きを止めて向かい合う僕の肩越しに覗き込むようにして言った。
「駿、あいつ……」
 えっと言って振り向くと羽貫が歩いてくる。今日の相棒は父親らしい。目鼻立ちがそっ
くりだ。2人はゆっくりと近づいて来、僕らの前で止まった。そして羽貫は俯いた。
 僕たちはするでもない挨拶をした。茶髪のロングで軽薄そうな、そして意地の悪い口元
をした父親らしい男が言った。
「君が小野寺君かな」
 見下すように腰に手を当てている。
「はい、そうですけど」
「そうか、実はうちの諒がね」
「おーい、おはよう」
 急に心が軽くなった。見ると甘せんが走ってくる。琉太と顔を見合わせた。僕らの前に
着くや羽貫を見て言った。
「おっ、羽貫君久しぶりだな。や、お父さんですか、お早うございます。今日はこれから
2人を連れて合宿なんですが、どうかしましたか」
 羽貫は下を向いている。父親はえっという顔をし軽く頭を傾けたが、目的を思い出した
ように甘せんを見て言った。
「顧問先生ですか、ちょうど良かった。お聞き及びかどうかは知りませんがね、そちらの
小野寺君にうちの諒がひどい怪我を負わされましてね」
 僕は嘘だと言いたかった。羽貫を睨んだ。羽貫は下を向いている。父親はずる賢い笑み
をたたえて続ける。
「腰を打ったんですよ。最も大事な腰骨をね。息子が言うには小野寺君が飛びかかってき
たってね、言うんですよ。なあ諒」
 羽貫は下を向いている。
「駿、本当なのか」
 塩せんは落ち着いた声音で僕に言う。僕は、
「先に殴ってきたのは羽貫くんです」
 と言った。
「適当なこと言ってんじゃねえぞ。お前のタックルで俺の大事な息子はまるっきり元気が
なくなってしまったんだ。あの日、一晩中寝られなかったんだぞ。どうしてくれる」
 いきなり凄んできた。塩せんは身構えることなくさらに落ち着いて言った。僕は甘せん
を凄いと思った。
「分かりました、羽貫さん。僕はこれから校長と小野寺君の保護者に連絡を取ります。よ
ろしいですね」
 そう言って携帯電話で連絡を取った。30分近く、何もしないまま待っている間の何と
永かったこと。暫くして2人がやって来た。
 事情を聞いた僕の父は、内ポケットから携帯電話を出して羽貫の父親に見せながら言っ
た。
「お宅の息子さんが腰を打ったのは確かでしょう。しかし、うちの息子もその前に殴られ
て口の中を切ったんですよ」
 あの時に撮った一連の写真を見せられた羽貫の父親は笑い始めた。
「うちの息子がやったという証拠は何1つねえじゃんか。あんたの息子が大嘘つきかもし
れねえぜ」
「何だと!」
 父も声を荒げる。校長先生がまあまあと割って入る。そして言った。
「で、羽貫さんはどうして欲しいのですか」
「そうさな、小野寺君もこれからがあるし、俺もこれ以上事を大げさにしたくない。学校
内で起こったことでもあるし、教育委員会を訴えようかと思ってね」
 にやけながら言う羽貫の父に困惑する校長先生が何だか哀れに見えた。とは言え、間違
いなく事を大きくしようとしていることは僕らにもわかった。塩せんも僕の父も怒ってい
た。握り締めた拳が震えていた。
「羽貫さん、立ち話も何ですから中でゆっくり話しませんか」
 と校長先生が言った。羽貫はずっと下を向いている。
「ああ、いいよ。こっちは急がないからね」
 そう言って羽貫の父は今は余裕綽綽、怖いものなしの状態だった。
 だがまさか、ここに救世主が現れるなんて誰も思っていなかった。ふと、向こうを見る
と、真一が歩いてくる。雰囲気を察するのに無頓着な彼は僕を見つけると手を振って近づ
いてくる。
「おはよう。あっ校長先生おはようございます。わっ、駿のお父さんまで、おはようござ
います」
 大人たちは苦笑い。この後だった。
「あっ羽貫くん、大丈夫だったんだね。結局あれから学校来なかったから心配しちゃった
よ」
 羽貫はやはり俯いたままだ。塩せんがすかさず言った。
「真野君、どういうことかな。どうして羽貫君が大丈夫かどうかってことを知ってるんだ
い」
 真一はさも楽しそうに説明を始めた。
「デジタルカメラを買ってもらったんです。動画も撮れるんだよ、駿。あの日、メモリを
増やしたからうれしくて校門をうろついて撮影してたんです。そしたら体育館のところで
駿と羽貫くんたちが目に入ったんです」
 真一は写真部に入っていた。部のホームページを立ち上げて動画や写真をアップしてい
た。もちろん顧問の許可を得てからだし、学校に悪い印象を与えるものは公表しない。
「真野君と言ったかな。その時の動画はどうしたのかな」
 校長先生が言った。羽貫の父は鋭い目を真一に向ける。
「ありますよ、ここに」
 その途端、あまりの呆気なさにみんな石仏と化していた。真一は小さなカメラバッグを
肩から下げていた。そこからデジタルカメラを取り出した。
「そんなもんが証拠になるわけねえだろが」
 羽貫の父が凄む。
「いや、羽貫さん、十分証拠になりますよ。あなたがおっしゃる通りなら何も慌てること
ないでしょう」と校長先生は落ち着いたものだ。
 その時羽貫は初めて父親を見上げた。そして、ほんのわずかだが首を左右に振った。そ
してまた俯いた。
 羽貫の父は羽貫の耳元で何か囁いた。羽貫は小さく頷く。その直後、羽貫の父の変わり
身は驚く程早かった。
「おや、どうも息子の勘違いだったようです。よくあることですがね。いやあお騒がせし
ました。小野寺君悪かったな、驚かしちまってさ。折角の合宿の邪魔をしちゃいけない。
さ、諒帰るぞ。それじゃ、これで」
 羽貫の手を引いて帰ろうとする羽貫の父に、僕の父が「おい待ちなさい」と声を掛けた
が、話したのは校長先生だった。羽貫の父はゆっくり振り返る。
「羽貫さん、本来なら恐喝で訴えてもいいんですよ。でも諒君がいる。あなたは自分の子
どもを種にし、してはならないことをやってしまった。しかし、諒君には未来があります。
私はこれを単なる喧嘩として片付けたいと思います。小野寺さん」
 父は校長先生と目を合わせて、それでいいと言うようにゆっくり首を縦に動かした。そ
して羽貫の父を見た。
「小野寺さんも了承してくださった。全ては諒君のためですよ、わかりますね。あなたを
許す気はさらさらないことを肝に銘じてください!」
 羽貫の父は始めこそ悔しい顔をして、怒りのはけ口を探していた。しかし、羽貫が父親
の手を振りほどいて、僕の前にやってきて、深く頭を下げる姿を見て、顔がくしゃくしゃ
になった。
 僅か2週間だったが僕は諒と100メートルを何度か走った。実は諒のタイムも相当良かっ
た。間違いなくライバルになるはずだった。
 羽貫親子は並んで帰って行った。羽貫を見たのはそれが最後だった。どこかは分からな
いが、1週間もしないうちに転校して行った。
 その後全員で真一の動画を見て、羽貫の父の言うことが間違いであることを確認した。
真一のお陰で因縁をつけられることは無くなった。
 僕と父は真一によく礼を言い、校長先生と甘せんにも感謝の気持ちを伝えた。校長先生
は真一に動画のコピーを依頼した。念のためである。
 時刻は既に昼近くになっていた。甘せんはおっちゃんに事の次第を報告している。
「じゃ、行きます僕。撮りたいのがあるから」
 ヒーローは野球部のグラウンドに向かって行った。
 僕の父はすっかり安心した顔で頑張れよと言って会社に戻って行った。
 報告を終えた甘せんは待ってろと言って校長先生と話し始めた。僕は琉太に、
「どうなっちゃうんだろうと思った」
 と言った。
「真一があんなファインプレーをするとはな」
「うん……。羽貫、ずっと下向いてた」
 僕は言った。
「俺もあいつのことを見てたんだ」
 琉太が言った。
「始めからそうだったと思うけど、あいつずっと唇を噛んでたんだよ。時々指を目のあた
りに持ってったのは涙を拭いてたんだと思う」
「でも、羽貫のお父さんも、最後はあんな顔してた。本当はいい人なんだ、きっと」
「だといいよな……うん」
 今さらのように強烈な夏の日差しに気づいた。でも、多分羽貫の涙を乾かすのは光では
なく時だろうと思う。

 戻った甘せんに、さあ仕切り直しだ、行こうと言われ合宿が再開した。僕たちは直接グ
ラウンドに向かった。着いたのは一時半を過ぎており、着替えてピッチに立ったのは2時
になる頃だった。お疲れさんと労うおっちゃんがいつもと違って見えた。
 僕と琉太は時間をかけてストレッチをし、トラックを並んでゆっくり3周した。走って
いるうちに午前中に起きた事件が何ヶ月も前のことのように思えてきた。
「走ってるとさ」
 2周目のバックストレートの真ん中辺りで琉太が言った。
「何?」
「1歩ごとに体中の嫌なことや悪いことが浮き上がるような気がするんだ」
 面白いことを言うなと思った。
「で、それらが汗になって体の外に出てきてさ、流れて地面に吸い込まれたり、蒸発して
空気になったりしてしまう。地球の一部になるんだ」
 僕はひと呼吸の間足を止め、狙いを定めて琉太の後ろから攻撃した。
「カンチョー」
「うひゃー」
「ははは、隙ありでござる」
 何すんだと追いかける琉太を間一髪でかわして逃げる。第4コーナーを回ったところで
塩せんが待ち受けていた。
 初日は軽いメニューで終了、夕食時に一緒に参加している他の4人と顔合わせがあった。
 合宿には僕たちの他に甘せんの教え子だった高1の女子が2人と、甘せんと同じ大学の陸
上部の後輩に当たる男子学生が2人参加していた。2人とも2年だ。
 淡路さんは100メートルと200メートルを走る。身長は甘せんと同じぐらいで髪が短い。
スポーツマンというより板前の方がしっくりくるような顔立ちだ。名前は篤と言った。
 もう一人の学生は堀口岳斗と言って三日月眉に一重で唇が薄く、能舞台でよく見るお面
のようだ。身長は175センチメートル。10000メートルを得意としていた。
 高校生は2人とも1年だった。沢口奈緒と里緒という名で双子だった。身長は僕と同じぐ
らい。ショートカットに紫色のピアスが光っていた。瞳のこげ茶が印象的だ。
 奈緒が100メートル、里緒が200メートルを走る。2人とも可愛かった。3日目に淡路さん
はキュートだよなって言っていた。
 甘せんが明日のメニューを伝えて解散となった。が、おっちゃんが甘せんと僕らに残れ
と言う。おっちゃんと甘せんの向かいに僕と琉太が座った。
 おっちゃんはお茶を淹れ3人に配った。自分は一口すすりながら腰掛ける。そして前置
きなしで話し始めた。
「羽貫智は山登り、そう5区だな、それが得意だった。練習にも真面目に取り組むいい選
手だった。俺が監督をやっていたんだが、箱根には2回出した。2年と3年の時だった。
2年連続の往路優勝はあいつのおかげだと言っても言い過ぎじゃない」
「でも、どうしてあんな風になったんですか」
 甘せんが口を挟む。
「実業団に入って結婚して諒君が生まれた。そのすぐ後だ、奥さんが亡くなったのは。生
後3ヶ月だった。あいつに目をかけていた俺もできるだけバックアップはした。でも、走
ることにも仕事にも情熱を注げなくなっていたんだろう、酒と博打を覚えたんだ。で、会
社を辞めて暴力団とも少し関係があったらしいな、今はわからんが……」
 甘せんは難しい顔をして腕を組んでいる。僕たちは目を白黒させていた。
「あいつもな、本当は走るのが好きな真っ直ぐな男なんだよな。まっ、人生いろいろある
わな……。はい! 終わり。おやすみ」
 そう言うが早いか、おっちゃんは「浪花節だよ人生は」のサビを唸りながら行ってしま
った。甘せんが、
「二階堂さんは本当に親しい人にしか本音を出さないんだ……。さ、寝ろ。明日、持たな
いぞ」と言った。
 僕たちははいとしか言えなかった。ただ、はっきりわかったことがある。おっちゃんは
いつでも僕たちを見てるんだ。

 翌日、昨日のことが嘘のようなおっちゃんの張り切り様だった。
「やっぱ、二階堂さんすげえな」
 琉太が言う。
「うん、得体が知れないよね」
 2日目以降、僕たちは夜が待ち遠しくなるようなメニューを与えられた。ひいひい言い
ながらそれでも何とかそれをこなし、合宿は5日目を終えようとしていた。
 6人は随分いろいろなことを話せるようになった。大食堂で8人で向かい合って腰掛け、
これから夕食だ。他のテーブルにも多くの学生がいる。
「駿君たちってすみにおけないわよね」
「そうそう昨日の彼女、2人ともかわいかった」
 里緒さんと奈緒さんが言った。僕たちは目を白黒させながら食べている物を飲み込むし
かなかった。
「先輩のフィアンセも素敵な女性ですよね」
 淡路さんが羨ましそうだ。
「そりゃそうだ。俺がくっつけたようなもんだからな」
 おっちゃん、鼻が。
「そうなんですか。お見合いですか」
 と堀口さんが意外だと言うように甘せんを見る。
「そうでもしなきゃこの甘せんはだらしがねぇんだよ」
「二階堂さんたら」
 でれせんになっている。
「速い男はもてるんだよな。F1ドライバーだってそうだろ」
「速い女はもてないわよね」
 奈緒が言う。
「そりゃそうだ。普通の男じゃだめだよ。奈緒ちゃん、淡路なんかどうだい」
「二階堂さん! どうしてお茶で酔っちゃうんですか」
 と甘せん。淡路さんも堀口さんのひじ打ちを受けつつも赤ら顔だ。
「んー、遠慮しときます」
 2人で目配せし合って大笑い。
「俺、合宿来てよかったです」
 琉太が真面目くさって言った。みんながどうしたどうしたという体で見つめる。
「堀口さんの走りはすごいです。何から何まですごいっす。奈緒さんと里緒さんもやばい
です。かわいすぎます」
「琉太!」
 琉太にしては神妙だなと思ったら、やはり琉太だった。みんなの爆笑のうちに夕食を終
えた。

 睦美と千野は昨日の昼休みの時に園田先生と一緒に差し入れを持ってやって来た。
「駿君久しぶりね。ジュニアオリンピック出場おめでとう」
「あ、はい。ありがとうございます」
「君は琉太君でしょう。初めまして、おめでとう」
「はい、いつも甘、いえ、佐東先生にはお世話になっています」
 こういう言葉がすらすら出てくるんだから琉太はすごい。
「甘せんでいいのよ。本人も気に入ってるんだから」
「あ、はい、いえ」
 どちらともつかない返事だが、気持ちはわかる。
 睦美と千野は向こうでおっちゃんと甘せんに挨拶をしている。けらけら笑っているとこ
ろを見ると、おっちゃんがまたくだらないことを言ったに違いない。
「千野さんともすぐにお話が出来たわ。相変わらず睦美ちゃんは人を結びつけるのが上手
ね」
「俺もしてやられました」
「千野さんから聞いたわ。よかったじゃない、お似合いよ」
「僕は琉太にやられました」
「俺がしなくてもそのうちこうなったさ」
「そうねぇ、小学校の頃からだものね、睦美ちゃん」
「え、うそ」
「駿君、そういうところが疎いのよね。まっそこが君のいいところでもあるけど」
 降り続く雪が森の木々をみるみる白くしていくような気がした。
「先生、僕たちこれから午後の練習ですけど、何時頃までいるんですか」
「1時間ぐらいかしら。睦美ちゃん達と原宿に行くことにしたの。せがまれちゃったのよ
ね」
 とは言え、うれしそうだ。2人は他の4人とも挨拶を交わしてこちらにやってくる。
「お疲れ様」と言うが早いか、
「先生、かわいいお店検索してくれた」と睦美と千野の眼中にもはや僕たちはなかった。
 琉太を見ると、話が変わっただけなのさ、忘れようと言って飄々としている。
 始めるぞという甘せんの声に引きずられながらしぶしぶ午後の練習にとりかかった。淡
路さんには特にスタートと30メートルまでの加速の方法についてコーチしてもらった。
これには奈緒さんと里緒さんも加わった。10本ほど練習し100メートルを3本走って休憩に
入った。
 その頃合いを見計らったように園田先生を先頭に睦美と今やすっかり園田ファンになっ
た千野が手を振って退場していった。
 そういえば2人とも化粧をしていた。それだけで大人びて眩しかった。原宿で買うもの
といったら洋服やアクセサリーだろうか。想像のできない世界だ。
 休憩の後僕は淡路さんの、琉太は堀口さんの走りを見学した。まだまだ手の届かないレ
ベルだが、その姿を焼き付けてイメージトレーニングに活かすのも練習のうちだというお
っちゃんの言葉が、僕たちをかなり集中させた。差し入れはアイスクリームだった。

 明日は昼食後解散の予定だ。合宿中、僕と琉太はヘトヘトになっていて、夜は夕食後の
散歩を終えると自室に戻ってすぐに眠りに落ちるのだった。好きじゃなかったらこんな練
習誰がするもんかと、この五日間ぶつくさ言っていた僕たちだった。しかし、普通じゃな
いことをこなせていることが嬉しかったのも事実だった。
 最終日。合宿は怪我もなく無事終了した。淡路さんや奈緒さんたちから激励を受け、ジ
ュニアオリンピックの応援に来ることも約束してくれた。明日は休んでいいぞと甘せんに
言われ急に元気づいた僕たちは今日のファストフードを決めた。
 何か魔法のようなものが合宿にはあるような気がしていたが、当然そんなものがあるわ
けもなく、だがやり遂げたという達成感は確かなものとして心と体に刻み込まれた。そし
て、僕はいつの間にかスランプから抜け出していた。

11.
   
 合宿から帰って5日、墓参りは随分過ごしやすい日和だった。墓地を取り囲む木々を通
ってくる風が心地よい。
 亡くなった祖父の思い出を懐かしそうに語りながら墓石を洗う祖母は、もうすぐ行くか
らねなどと恐ろしいことを言って僕を慌てさせた。
「少なくとも100までは生きるから心配ないよ。父さん、それまでは我慢してなよ」
 父は線香に火を移しながら言う。
「まだ来なくていいっておっしゃってるわ」
「どうしてわかるのさ」
 そんなことを言う母に、少し気味の悪さを感じながら聞いた。
「勘よ、女のカン」
 笑いながら言う母に、
「母さんの勘は全くあてにならないからな」
 と父も笑う。
「お父さんのことは私が1番わかってますよ」
 手を合わせたあとで、子どもは黙ってなさいとでも言うように寂しく笑う祖母だった。
 普段は閑静な墓地も、この数日は生きている人の方が多くなるみたいだ。色とりどりの
花や生前の好物を供え、カラスには少しの幸せを分け与えて僕たちもまた来るねと言って
墓地を後にした。
 墓参りをするといつも心がすっきりするのはなぜだろう。お盆の度にそんな気持ちにな
る。
 いつものように帰りは行きつけの鰻屋に寄って、これは祖母のおごりで特上のうな重を
食べて帰った。祖母はうどんと鰻には目がないのだ。
 帰りに駅前のヨーカドーの食品売り場で缶ビール半ダースと祖父の好きだった日本酒を
1升、それから2リットル入りコーラ2本、焼き鳥5人分とポテトチップス2袋、新潟産の柿
の種を1缶、デザートにコーヒーゼリーを買った。父と僕がポーターをやって帰宅。 
 母は休む間もなく夕飯の支度に取りかかる。父はハードディスクデッキの予約を確かめ
る。僕は明日の部活の支度を整える。祖母はひと足早く風呂の準備をし、1番風呂を浴び
ひと寝入り。そうこうしているうちに7時が近づいた。
 今日はもう1つ特別なことがある。いよいよ舞がテレビに出るのだ。先週、叔母から連
絡があった。
 合宿から帰った時は既に家中大騒ぎだった。知り合いという知り合いにメールやら電話
やらでチャンネルと放送日時を伝えては、まあスターだなんてまだまだこれからですわな
んて自分の子でもないのに嬉しそうに謙遜している。父に至ってはサインをもらっときま
すかって、言われた方の迷惑を顧みない。
 どうしてうちの家族はこうもお祭り好きなんだろう。そう思いつつ僕も睦美たちはもち
ろん、ミクや隼人や真一にもメールを送った。
 食卓についてテレビのスイッチを入れ、いつもよりボリュームを上げて待った。画面の
下に録画開始のマークが点いた。父は満足そうだ。いよいよだ。清涼飲料のコマーシャル
に続き煌びやかに番組が始まった。
 MCが出てきた。局の女子アナとお笑い芸人は珍しくなかったが、ゲストに真一の好き
な子がいたから教えてよかったと思った。
 番組は、全国から選ばれたプロのミュージカルスターを目指す小学生が、練習の成果を
発表するというものだった。夏休み特番という一回限りのものだった。劇団季節出身の人
がレッスンをしてくれたらしい。それだけでも舞の喜ぶ顔が目に浮かぶ。
 番組の構成は、出演者の数名にスポットを当て、その子の生活や練習風景、ミュージカ
ルスターを志した理由などを中心に紹介し、演目に入るというものだった。
 舞が出なかったら絶対見ないなと思って家族を見ると、みんな目を潤ませているではな
いか。
「小さいのによく頑張るね」
「お父さんやお母さんも大変だわ」
「常子さんもねぇ」
 僕がジョギングしている人を見て感じたことと同じなんだと思った。それにしてもどの
子の母親も自分の子どもと同じかそれ以上に綺麗に着飾っているのが滑稽だった。それを
母に言うと、
「そりゃそうよ、誰が見てるかわからないんだから」と言う。
 誰が見てるかわかるからじゃないのかなと思った。主役は子どもなのにと思って画面に
目を移すと、舞が笑っていた。
「劇団季節のスターを目指す田辺舞ちゃんに密着」と笑顔の下に文字が踊る。家族がどよ
めいた。
「舞ちゃん、見込みがあるってことじゃないのか」
「そうよきっと!」
 父と母が言った。ナレーションでこの後のショーのヒロインであることが告げられた。
 予定変更である。舞の演技を見たあとで乾杯をするつもりだったが、既に主役と判明し
たのである。早速祝杯をあげた。
 2時間枠で3つの作品をやるのだから1作品についてはせいぜい20分間である。だから山場
を中心に演じられる。その後インタビューやゲストのコメントが入る。
 身内だからという点を差し引いても舞は巧かった。あんなに歌が上手だとは思わなかっ
た。あれほど体がしなやかに動くとは思わなかった。
「はい、緊張したけど上手く出来ました」
 首筋に汗を光らせながら質問に答える舞。ゲストのコメントも気の利いたものだった。 
僕たちは大興奮だった。誇らしいのとうれしいのと感動したのとで心の中はもうてんやわ
んやだ。祖母などは舞が登場してから泣きっぱなしだった。酒を飲んでは鼻をかみ、涙を
拭いては焼き鳥を食べている。
 電話が鳴った。母が廊下に行って話し始めた。
「見たわよ。ほんとに上手だったわ。もうみんな興奮しちゃって、おばあちゃんなんか泣
きっぱなし」
「あら、すごいじゃない。で、どうするの?」
「そうよねぇ、迷うわよね。ご主人とも相談するのがいいわね」
「舞ちゃん! お疲れ様。上手だったわよ。感激しちゃった」
「うん、そうね。みんなで話し合って決めるといいわ。じゃあね」
 母が言うには、いくつかのプロダクションからスカウトが来て子役の話があるというこ
とだった。劇団季節を目指しているのだからまだまだレッスンを続けなければいけないの
だが、芸能界の活動をしながらそうした方がいいのか決めかねているとのことだった。
 そもそもいくつもオーディションを受けている理由がテレビに出ることではなく自分の
実力を測るためなのだが、いざこういうことになると迷ってしまうものらしい。
「夢を大切にしたほうがいいと思うなあ。まだ小6だしな」
 父は言う。
「そうね。でも、近道になるかもしれないわよね」
「テレビなら毎日会えるねえ」と祖母は気が早い。
 その時、睦美からメールが来た。舞への称賛もさることながら、私の駿の活躍も期待し
てるからねという言葉が僕の心臓を貫いた。「私の」って。家族の会話も耳に入らない。舞
の感動もすっ飛んでしまった。
「返事」
 そう呟いて、自室に急いだ。そして、頭に浮かんだ通りに文字を打ち込んだ。
「ぼ……僕の、む……睦美のためにも頑張るよ」送信ボタンを押した。
 こんなメール、後にも先にも絶対ないよな。メールが来た!
「?」
 その晩の夢は睦美がテレビでミュージカルを演じているものだった。

12.
   
 全日本中学校陸上競技選手権大会を縮めて全中という。今日から3日間国立競技場で行
われる。
 あくまでもジュニアオリンピックの前哨戦だぞ、失敗を恐れずに思い切っていけと甘せ
んに言われた。
 僕はすでに決勝進出を決めていた。決勝の顔ぶれは、甘せんに聞いたところ全員がジュ
ニアオリンピック出場者だそうだ。相手の力を試す余裕なんてないが、情報を手に入れる
にはもってこ.いだ。もちろんお互い様だけど。
 琉太は準決勝に出場することになった。すでにスタート位置についている。全員の動き
が止まった。2組目のスタートだ。
 1周目は位置取り争いが厳しく団子状態のまま正面を通過した。県大会とは違いペース
が速い。
 2周目、琉太は5位につけていた。そのまま大きな動きもなく3周目に入った。第1コーナ
ーから第2コーナーにかけてさらにペースが上がり縦に広がりだした。そのとき、するする
っと琉太が出てきてトップに躍り出た。今までにない展開だった。しかし、後続は
みな不気味な感じを漂わせている。琉太の動きに全く影響を受けていなかった。琉太のト
ップはバックストレートでも変わらなかったが、第4コーナーを回ったあたりから差が詰
まってきていた。そのまま正面を通過。
 鐘が鳴った。3位の選手がすぐにスパートをかけ、あっという間に琉太を抜き去った。
結局この選手は最下位になったのだが、他の選手もややペースを上げ琉太を抜きにかかっ
てきた。
 琉太はこれに惑わされてしまった。慌てた様子が僕からでもわかった。リズムが乱れた
のだ。第4コーナーを回って直線に入ったときには琉太は失速気味だった。いつもの伸び
がなかった。残り20メートル付近からゴールまでの間で3人に抜かれ、結局4位でゴールし
た。
 労いの言葉が見つからないまま琉太を迎えたが、案に相違してVサインが飛んできた。
「これが全国だよな。すげえよやっぱ」
 琉太の想像と現実がぴたりと重なった結果だったのだ。おっちゃんや甘せんも同じ評価
をしていたらしく、むしろ決勝が楽しみだとまで言ってくれた。かろうじて決勝には残れ
たのだ。
 ともあれ、僕の心配が無駄に終わってよかった。翌日の決勝のエネルギー補給のために
ファストフードに行ったのは言うまでもない。
 2日目は朝からぐずついた空模様だった。いくら全天候型とは言え雨粒を受けて走るの
は嫌だった。出がけに天気予報を見た。南から張り出してくる高気圧によって早いうちに
晴れると言っていた。
 始発に乗って競技場に着く頃には小降りになり、競技が始まる頃には予報通りすっかり
晴れ上がっていた。フィールドは、朝とはいえ夏の日差しの強さから、随分ムシムシして
いた。琉太は沖縄で生まれて小5の春に僕の隣の学区に転校してきた。
「今日ぐらいの雨なら走っていて気持ちがいいんだよな。しかも俺、蒸し暑い中を走るの
も好きなんだよな。どっちかというと乾燥に弱いんだ。喉がさ」
 1500メートルの決勝はこの湿度の中で行われる。
「いざ」
 そう言って戦場に向かって行った。
 決勝は強豪だらけだ。琉太はタイムでは8番目に位置していた。12名の選手が一斉にスタ
ートを切った。互いに自分のペースを守っているのだろうか、正面を通過する頃には
トップから最後尾までは30メートルの差がついていた。
 琉太は10メートルほど離された位置にいて4人で中位集団を形作っていた。バックストレ
ートで下位集団4人のうち2人がピッチを上げ、第3コーナー付近で琉太たちに追いついたと
ころでペースを戻した。
 トップを快走する選手は中1にしては背が一段と高く170は超えているだろう。ストライ
ドが全く違う。体力もまだまだ余裕がありそうだ。
 鐘が鳴った。トップと琉太の差は10メートル。いい走りだ。4位につけている。順位も
選手同士の距離もほとんど変わらないまま第3コーナーにさしかかった。
 出た。あの時と同じだ。琉太がスパートをかけた。3位の選手はすぐ抜いた。が、トッ
プとの差が5メートルになったとき、前を行く2人もスパートをかける。みるみるうちに離
されていく。同時に、抜いたはずの4位の選手も、また5位と6位の選手もぐんぐん差を詰
め、直線に入ったときは4人が横一列に並んでいた。
 観客の歓声が一段と大きくなる。僕も叫んでいた。
 デッドヒートは最期まで続いた。そして4人がほとんど同時にゴールしたように見えた。
すごいレースだ。
 結局琉太は5位だったが大健闘だ。タイムは4分26秒、自己ベストの更新だ。甘せんは琉
太の肩を抱いて上出来上出来と言いながら戻ってきた。琉太も上気した顔のまま僕
に向かって、
「次は頼むぞ、駿」と言った。
「おう」
 琉太とハイタッチをして集合場所に向かった。
 少し遅れて甘せんが追いかけてきた。
「楽しんで来い」
 ポンと肩をたたいて微笑んでいる。
「はい、行ってきます」
 体が軽くなった気がした。
 スタート地点に着いた。僕は4レーンからのスタートだ。ふとフィールド内を見ると男
子の走り高跳びが行われていた。彼らの助走を見るたびにトムソンガゼルが目に浮かぶが
100メートルのランナーは何に喩えられるだろう。こんな時にそんな考えが浮かぶのも不思
議だった。
 彼方のゴールに目をやった。僕の走るレーンを挟む白線が、決して交わることがないの
に頂点に向かって延びているように見えた。
 50歩勝負だ!
「ON YOUR MARK」
「SET」
「!」
 うまくいった。目の前の赤茶けた路面が瞬時に川となって流れる。前傾のまま30メート
ル。全力で加速。スパイクが路面を後ろに弾く。地球の自転を助けるように。スピード
に乗れた。頭を上げて前を見た。左右の視野の片隅にのみ気配を感じた。さらに加速を続
けた。60メートル付近、互いにここがトップスピードの位置だ。100メートルはスタート
したらためらいも優越もかけひきもない。ひたすら前を向いて進むだけだ。耳を吹きすぎ
ていく風の音だけが聞こえる。僕の手足は昆虫の神経節のように僕の意志に無関心を装っ
て運動を続けている。
 5メートル先を通過したとき、僕はギアをニュートラルに戻した。そのまま惰性で数メ
ートル走り、ジョギング程度のスピードになったあたりで振り向いて計時を見た。11秒3。
危うくガッツポーズをしそうになった。よく見ると追い風2メートルと出ていた。参考記録
だ。
 だが、僕は実際にこのタイムで走ったのだから嬉しくないわけがない。むしろ自己ベス
トを更新する10分の1秒を後押ししてくれた風に感謝だ。
 そういえばと思い、スタンドに目をやった。園田先生と睦美と千野はすぐ見つけられた。
琉太は気づかなかったのか、それどころではなかったのか、小さな横断幕が見えた。「駿琉
ファイト」と書いてある。いつの間に作ったのだろう。
 僕は3人に向かって手を上げた。向こうも気がついたらしく勢いよく手を振ってくれた。
クールに行こう。僕はもう1度手を上げて微笑んだ。
 甘せんと琉太が小走りに近づいてきた。
「やったな駿、全国1だぞ」
 甘せんは握手をしながら言った。
「天下を取りおった」
 喜びがこみ上げてきた。
「先生、みんなのおかげです。ありがとうございます」
 感謝の気持ちが後を追うように胸を満たしていった。
「さあ、次行くぞ次。駿はここがゴールじゃないからな」
 肩を叩きながら甘せんが、それでも笑いが止まらないようだった。
「はい、頑張ります」
「琉太、次は4位以上を目指すぞ」
「はい」
 3人で拳を合わせた。2人に睦美たちの居場所を教え、6人で手を振りあった。僕は飛び跳ね
ていた。やっぱりクールにはなれないや。

 その日のわが家の様子は何度思い返しても笑いがこみ上げてくる。父と母は舞のテレビ
出演のこともあり、世間からはすぐに忘れ去られるとはいえ、まさか身内から2人も有名
人が出るとは思っていなかったらしい。
 元々ジュニアオリンピックに出ることを僕のゴールと考えていたようで、全中に出ると
いっても、それほど価値のあるものだとは思っていなかったようだ。
 ところが、親戚やら知り合いやらに連絡をするにつれ、なかには陸上に詳しい人もいて、
あなたそれはすごいことで滅多にできることじゃない、しかも11秒3なんて並の中1じゃな
いですよなんて言われたものだから、今さらのように、駿、たいしたもんだ、産んで
よかったわあなどと手放しで喜ぶ始末。まったく、知らないということは恐ろしいものだ。
 一通り連絡するところはして、来るところの応対も終えて、いつもの宴が始まったとこ
ろへ持ってきて、チャイムが鳴った。母が、まあ誰かしらと言いながら玄関に行った。
「あらあらあらあら、今晩は」
「いいえ、お邪魔だなんてとんでもないことでございますわ。どうぞお上がりになってく
ださい。駿も喜びますわ」
 母のひっくりがえった声が聞こえた。誰だろうと思う間もなく現れたのはおっちゃんだ
った。思わず立ち上がってお辞儀をして、
「今晩は」と言った。
「お邪魔しますよ。いや、ありがとう。駿、おめでとう。今日は用事で応援に行けなくて
悪かったな。甘せんから聞いたぜ。追い風とは言ってもいい記録だ」
 父にどうぞと椅子を勧められ、僕の向かいの母の席、父のとなりに座りながらそう言っ
た。おっちゃんがうちに来るのは何年ぶりだろう、すぐ真向かいなのに。
「そんなにいい記録なんですか」と父。
「んー全く、勇君にも困ったもんだ。なんにも知らねぇときてる。幸枝さん、だめだよ、
若い頃の話をしておかなくちゃ」
「したけどもさ、夫婦揃って陸上に興味がなくてねえ。こないだ駿には少し話しといたけ
どね」
「そうか、駿も知ってるんだな。そりゃよかった。あっ、そうそう酒持ってきたよ。じい
さんの好きだったやつをさ」
 そう言って母に手渡した。
「あまり飲まねぇのは知ってたけどもさ、今日は祝い酒さ」
「ごちになるよ。ありがとね」
 おっちゃんと話すとき、祖母は話し方が変わる。田舎から出てきた人が帰省するとき、
故郷が近づくにつれて土地の言葉が自然に出てくると聞いたことがある。それと同じよう
なところがおっちゃんにはあるのかもしれない。
 母はつまみやら何やらをおっちゃんの前に並べて、もう一脚椅子を持ってきて祖母と父
に挟まれる格好で腰をかけた。そして2度目の乾杯。
「それにしても1年ちょっとでよくここまでタイムを伸ばしたなあ。俺の目に狂いがなか
ったてぇことよな」
 一気にビールを流し込んだ。鼻にみんなが注目していることにおっちゃんは気付かない。
「本当に二階堂さんのおかげですわ」
 そう言いながら酌をする。
「駿にとっては名伯楽との出会いだったわけだものな。駿、よかったな」
「いや、俺なんかより佐東君の頑張りが大きいな」
「でも、その佐東先生も二階堂さんが育てたわけでしょ。素晴らしいですわ」
 持ち上げる母。
「ま、まあそれはそうだけどさ。まあ、そう言われりゃあね」
 また、ビールを一気に飲み干した。僕が前に言った通りになったから、みんな笑いをこ
らえるのに必死だった。
「あ、いや、おっとっと。次はいよいよ本番だぞ。記録の更新はともかく優勝に最も近い
ところにいるんだからな」
 母の酌を受けながら言う。
「はい、がんばります。でも、2度も勝てるかな」
「なに言ってんだか、仁さんは4回も勝ったんだよ」
 祖母が言った。
「そうそう二階堂さんと佐東先生が見てくださるんだから大丈夫よ」
「信じる者はなんとやらだ」
 みんなすっかり安心している。
 僕も元気を貰ったのをきっかけに、疲れてもいたから、おっちゃんへのお礼とおやすみ
を言って部屋に戻った。いくつかメールが届いていた。
(駿、おめでとう。やると思ってたよ。次が勝負だな。決勝行ったら応援に行くよ。とこ
ろで僕は今、将棋の調子がいいんだ。報告できるように頑張るよ)
 隼人は小学校から将棋が強かった。並の大人では勝てなかった。アマチュア3段の校長
先生をてこずらせるくらいだった。楽しみにしてるよと返信した。
 もう1通は真一からだった。
(秘かに祈ってたんだ、ジンゴロベーに。よかったね。『世界の呪術』っていう本面白いよ。
ちょっと凝ってんだ今。次はもっと強力なパワーを送るからね。あっそれとファンクラブ
の申し込みもよろしくです)
 終わったと思っていたジンゴロベー信仰はまだ続いていたんだ。というよりも別な方向
に発展を見せていた。ひとまずファンクラブはやんわりと断って、もちろんそのおかげと
は思わなかったが、次もよろしく、おてやわらかに頼むよと返信しておいた。真一、やれ
やれだよ。
 夏休みもあと5日で終わる。羽貫とのことは心の枝に引っ掛かっていた。それは深い森
にある大木の、なかなか日の当たらないところにある枝だ。いつか地面に落ちて土に返る
だろうか……。ともかく1学期は走り通しだった。そして琉太と一緒にいい結果が出せた。
睦美とも、そう蜜蜂は向日葵に止まることができた。
 リビングではまだ宴が続いている。母のまあ本当ですの! という間の抜けた声が聞こ
えてきた。盛り上がってるなあと思いながらベッドに入った。そして、あーっと声を出し
ながら伸びをして目を閉じた。

13
   
 2学期は僕の優勝報告で始まった。始業式で琉太とともに名を呼ばれ壇上で全中の結果
を全校生徒に告知された。おーという声と拍手、そして校長先生にお褒めの言葉をいただ
き照れながらクラスの列に戻った。
 帰りのホームルーム後の定例会は、今日から田辺の提案で男女合同の会になり、その第
1回が開かれた。琉太と2人で教壇の前に立たされ、改めての報告と感想を言わされた。
「みんなのおかげだよ、ありがとう」
 心からの思いだった。
「ジュニアオリンピックでも頼むよ」
「決勝に行けよ」
「琉太もな」
 みんなの激励が熱かった。
「スター誕生だ」琉太が言った。
「何言ってんだ、お前もだよ」
「えっ俺も?」
 全国で五番目になったのだから立派なもんだと言われ、琉太としては不本意ながらみん
なの心意気にいたく感動したらしい。目を潤ませる琉太を初めて見た。千野なんて恥ずか
しげもなくもらい泣きしてハンカチで瞼を押さえていた。
「なんだ、まるで夫婦のようじゃん」
 誰かがからかい半分で言った。まずい! と思ったが、遅かった。
「あれ、もうひと組は?」
 そうだそうだとはやしたて、嫌がる睦美と千野を僕らの隣に立たせる。
「おっそろしく早いけど、夫婦誕生!」
 四人はもう全身から火を吹いて灰になりそうだった。
「はいはいみなさん、冗談はこれくらいにしてそろそろお開きにしましょう」
 田辺に感謝だった。どこで覚えたのか一本締めをしてその場を締めてくれた。田辺に手
で合図を送ると2本指で敬礼の格好をしながらウィンクで返してくれた。その仕草がかっ
こよかった。
 部活に向かう廊下でミクに会った。
「駿くん、おめでとう。ところでさ、来月発表会があるんだけど来られる。16日なんだ。
ジュニアオリンピックが近いから無理かもしれないけど一応チケットあげとくね」
 4枚あった。定期演奏会、16時開演と印刷してあった。
「ありがとう、まだわからないけど行くつもりで考えとくね」
 夕方なら部活の時間によっては行けるかもしれない。
「ミクちゃん出るんだろ」
「うん。特にドビュッシーの曲を聴いて欲しいな。とってもいい曲よ」
 ミクの好きな作曲家の楽曲もやるのだ。
「練習の甲斐があったね」
「うん、駿くんたちのおかげだよ」
「え、何で」
「うーん、ホルンは難しくてなかなか思うような音が出なかったの。何度かやめようかと
思ったわ。でも、駿くんたちの練習を毎日見てて気づいたの。できるまで諦めないで繰り
返すことが大事だってこと」
 たしかに僕たちの練習は反復して体に刻み付けるまでが肝だ。
「それから夢を追いかけるってこと。ミクはホルンが上手くなって、先生にホルンがメイ
ンの曲を選んでもらうために頑張ることにしたわ。ファンクラブもその時に作ったの」
 県大会の前日のメールの返信を素っ気なくしてしまったことが今さらのように悔やまれ
た。
「そうかあ、なんだか照れるけどありがとう。がんばってね。琉太にも言っとくよ」
「ファンクラブのみんなも応援してるから。じゃあね」
「うん、そいじゃまた」
 手を振って別れた。
 ミクはミクなりに悩んでいたんだ。もちろん相談されていたら元気づけることはできた
のかもしれない。でもホルンの難しさを全く知らない僕の言葉のどこに説得力があるとい
うのだ、あるわけがない。だから僕らの練習がミクの悩みを解決したと知らされたことは、
新たなやりがいに気づいたとも言えたし、同時に新しい喜びの発見でもあった。
 琉太にミクのことを話した。
「なんか責任感じるなあ。適当になんかできないよな」
 応援してもらうのはうれしかったが、それまで責任を感じたことはなかった。自分の意
志とは関係なく責任というのが生まれるんだ。それは、もしかしたら生まれた時から背負
ってるものなんじゃないだろうか。
「琉太、僕たちベストを尽くせばいいんだよ」
「左様、お主の申すとおり、べすとをな」
 ひらがなで言っても英語は英語なのに。あははと笑いつつも、新たなエネルギーの疼き
を感じながら練習を始めた。
 
 9月25日、その日はまだ残る夏の暑さを感じさせつつも、乾いた風が心地良いよく晴れた
日だった。午後3時に練習を終え、琉太とファストフードに着いたのが3時半。そこから四
方山話に花が咲いてさよならと別れたのが5時だった。自転車に乗ろうとした時、
「駿」
 と呼び止める聞きなれた声は睦美だった。
「あれっどうしたの、部活午後じゃなかったっけ」
「うん、ちょっとね。今日は休んじゃった」
「何かあったの」
 睦美が部活を休んだのは、僕の知る限り地区大会の時だけだ。だから何もないはずがな
いと思った。
「ジュニアオリンピックは21から23だよね」
「そうだけど」
「で、ミクの出る定期演奏会が16日だよね」
「そ、そうだけど」
「行けそう?」
「たぶん大丈夫だと思うよ。甘せんに聞いたらオーケーが出たから」
「よかった、じゃ2人で行けるね」
 いつもなら4人と言うところなのに。
「どうしたの、何があったの」と決めつけて聞いてみた。
「うん、ね、公園行こ」
「い、いいけど」
 学校へ行く道を挟むように駅の反対側に200メートルトラックがすっぽり入るぐらいの
公園がある。周囲には公園を取り囲むように、桜はもちろん四季を楽しませてくれる木々
が植えられている。
 中央は少し膨らませて小さな丘に見える。それを芝が覆っている。直径は30メートルほ
どだ。その丘を小道が一回りし、そこにベンチが点線を描くように置かれている。
 僕たちは真西を向いているベンチを選び、押してきた自転車を脇に停めて並んで腰掛け
た。毎日同じ速さで自転しているのに、秋分の日を過ぎると太陽は沈むのを急ぐように見
える。でも、和らいだ日差しが暖かかった。見える限りのベンチには親子連れやカップル
が座っている。
「……」
「……」
「昼は暑いぐらいだったのに、夕方になると結構涼しいね」
「えっ、あっ、うん、そうだね」
 煮え切らない睦美は2度目だ。さっきから僕は僕なりに睦美にあった出来事を考えてみ
ていた。
 部活を休んだと言ったから先輩と何かあって居づらくなったのだろうかと、その程度の
ことをだ。
「ねえ、駿」
「な、何」
「今頃の北海道って、もう冬?」
 なんだ、どうしたそんなこと知ってるくせにと思いながら、
「いくら北にあるって言ったって紅葉もしないうちに冬ってことはないと思うよ」と言っ
た。
 毎年、桜は南から紅葉は北からその開花と色づきの進み具合を天気予報で伝えているこ
とを知っていた。自信はなかったが、ここ数日まだそんなことは言ってなかったと思う。
「そう、なら行ってもいいかな」
「え、旅行でもするの」
「うん、まっ、ね。ちょっとね」
「へー、いいな。家族みんなで?」
「うん」
「どのあたりに行くの」
「札幌だってさ」
「じゃ、都会だね。食べ物とか美味しいらしいよ、特に秋は。父さんが出張したとき聞い
たことがあるんだ」
「そう」
「うちも旅行に行かないかなあ。もし優勝したら言ってみようかな、北海道に行きたいっ
て」
「そうね」
「で、いつ行くの」
「来月の22日」
「えっ、100メートルの決勝の日だよ。日帰り?」
「うううん」
「学校休むの」
「う、うん。ずっと、ね」
「えっ! ずっとってどういうことさ」
 それまで2人とも西日に向かって話をしていたが、睦美はここで決めたというように僕
に半身を向けて言った。
「パパの転勤が急に決まったの。今までは近くばかりだったけど、今回が最後でだからか
どうかわからないけど遠くになっちゃった」
「なっちゃったって」
 太陽が遠くの山並みの陰に姿を隠した。
「でもね、3年で戻って来られるんだって。たった3年だよ」
「……」
「だから、家はそのままにして借りる人がいたらその間貸すんだって」
 徐々に夕焼けが広がっていく。たなびく雲を染めていく赤やオレンジがやがてあせてい
き、ついには黒に吸い込まれていく様を思い描きながらうつろなまま睦美の声を聞いてい
た。
 どうして睦美んちなんだ、他の人だっているだろうに。いろんなことがうまくいってる
のに。映画やテレビならことが起こる前にそれらしいBGMが流れたり、怪しい雲行きを
演出したりするのだろうが、現実はまさに青天の霹靂だ。
 脇に止めた自転車の後輪に目をやりながら、昨日気づいた時に空気を入れておけばよか
った、なぜそうしなかったんだろうと思った。
 足元を見ると1匹の黒い蟻が右足の登攀を終えたところだった。そして新たな壁に挑戦
するように左足を登り始めた。僕はわざと左足を揺らした。落ちた蟻はそれでも驚く様子
もなくまた挑みかかってくる。僕はまた同じ動作を繰り返した。再び落ちた蟻は何事もな
かったように向きを変え、忙しそうにベンチの下の方に小走りに去っていった。
 竜巻のような現実に立ち向かう術もない。無力感が僕を満たしていた。
「駿、ねぇ駿!」
「うん?」
「聞いてる?」
 睦美は僕に事実を告げたことで気が楽になったようだ。いつもの快活な睦美に戻ってい
た、と思う。
「いつ聞いたの、転勤のこと」
「うーん、1週間前かな」
 そんなに! この7日間、睦美はいつもと変わらない睦美だった。クラスのみんなと笑
い合ったり、4人でファストフードで盛り上がったり、3年生がいなくなったからこれから
2年生の先輩とうまくやらなきゃねなんて言ったりしていた。
「睦美はクールだよ、かっこいいよ」
「でしょ! わたし、宝塚の月組でスターだった天実さんのようになりたいのよね」
 初めて聞いた。僕も彼女なら知っていた。テレビで見る限りあのさっぱりした感じは確
かに睦美っぽいかもしれない。いや睦美が天実っぽいのだ。
「ね、舞ちゃんどうなってんの」
「どうって」
「芸能界に入るとかなんとか言ってたじゃん」
「うん、なんてったかな、とにかくプロダクションと契約するんだって」
「すごーい、スターになれるといいね」
「うん、でも劇団季節が目標らしいから僕にはよくわからないよ」
「ドラマとか出るのよね」
「だと思うよ」
「天実さんと共演するかもだよね」
「わからないけどね」
「もしよ、もしそういうことになったらサインお願いしてくれる」
(さっぱりするにも程があるだろ)
「もしもの時はね、頼んでみるよ」
「やった! 約束だからね。手に入れたら、そしたら」
 ふっと明かりが消えたようだった。
「遠いよね、やっぱ北海道って」
 睦美が頑張った1週間分を僕がこの時間で消化するのは無理がある。でも、ここは何と
かしないとと思った。
「優勝するよ、必ず」
 もちろん確信はなかった。だが、今僕に言えることはそれしかなかったし、睦美に贈る
ことができるのもそれだけだと思った。
「馬の鼻向けって言うんでしょ、それ。ありがとう」
 僕はその言葉を知らなかった。
「うん、あと1ヶ月、死に物狂いでやるよ」
「わかった、楽しみにしてるからね」
 微笑んだ睦美は季節はずれの向日葵になった。いつの間にか空はグレーに変色していた。
何かもっと言わなければならないことがあるはずなのに、何も浮かんでこなかった。
 睦美のバッグから着信音がした。睦美はそれを取り出して話し始めた。
「もしもし、あ、うん、ごめんなさい、ちょっと本屋さんで友達に会って話してたの。う
ん、すぐ帰ります」
 睦美の母親からだった。大人はいつも子どもの都合なんて考えないんだ。
「そろそろ帰らなきゃ」
「送ってくよ」
 2人して公園を出て、人通りが少なくなったあたりで、
「乗る? 空気足りないかもしれないけど」と言った。
「そんなに太ってないしー、でもどうしてもって言うんなら乗ってあげる」
 どうしてもって言わないうちに睦美は後ろにちょこんと座って、早くしてと言うように
自転車を揺らす。
 タイヤを気にしながら2人乗りして睦美の家へ向かった。2人とも無言だった。思い出も、
ましてやこれからのことも言葉にする材料が見当たらなかった。僕はただ、睦美のし
りが気になっていた。
 睦美の家の門の前で自転車を停めようと思っていると、2,30メートル手前で睦美がスト
ップと言った。言う通りにして睦美が降りるのを確かめてから僕も自転車を降りた。す
っと睦美がハンドルを握って立っている僕の前に来た。
「駿」
 反射的に何? と言う前に僕の鼻の頭に睦美のそれがあたった。そして唇と唇も。
 ハンドルを握っていたし、あまりに突然だったからどうしようもなかった。僕は目を見
開いていた。睦美はつぶっていた。睦美の長い睫毛が目に焼き付いた。ほんの一瞬のこと
だったと思う。だが、それは僕の頭を真っ白にするには十分すぎる衝撃だった。唇を離す
やいなや、
「また明日。じゃね」
 とびっきりの笑顔を向けて睦美はそう言って踵を返して駆けていった。
 時が止まった。
 呆けた顔のまま睦美が門を入って消えていくまでその後ろ姿を目で追っていた。それか
ら、機械的に、まるでプログラムに従って動くロボットのように、僕は自転車の向きを変
える。左足でペダルを踏んで少し勢いをつけて右足でサドルをまたいで自転車に乗る。脇
目もふらず前を向いて規則的にペダルを踏む。自宅の門が近づいて来る。
 時が元に戻った。
 そして顔をなでていく風を少し冷たくなったなと思ったことで僕は人間に戻った。自転
車に乗ったまま玄関まで行き、降りて脇に止め鍵をかけて深呼吸をした。
 しばらく突っ立っていた。やがてやっと睦美の唇って柔らかくて冷たいんだと思った。
それから、別れ際の睦美の笑った顔は、僕の知っているどの睦美よりも綺麗だと思った。
 普通に普通にと言い聞かせながら玄関を開けて、いつも通りにただいまと言った。正面
の壁掛け時計は7時半を指していた。
「おかえりなさい、遅かったね。部活のあと何かあったの」
 母もいつも通りだったから少し安心した。
「うん、琉太と来月の大会のことを話してたんだ」
「そう。じゃあ、お父さんは今日は遅いから食べちゃいましょ」
 祖母を呼んで3人で食卓を囲んだ。夕食はカツカレーとコールスロー、それとわかめの
スープだった。旨そうだったがとにかく早く食事を済ませて部屋に戻りたかった。
「そういえば、今日睦美ちゃんのお母さんと会ったわ」
 危うく持っていたスプーンを落としそうになった。安心して損した気分だ。しっかりし
ろよ、普通にだぞ。そう言い聞かせながら次の科白を待った。
 母は毎度のことだという祖母に、
「それが違うのよ」と言う。
「どうかしたのかい」
「転勤なんですって、ご主人」
「いつものことじゃないか、今度はどこ」
「北海道ですって、この時期に急よねえ」
「単身赴任だろ」
「いいえ、今回は家族で行くんですって」
 睦美から聞いたのと同じことを繰り返す母。驚く祖母。ただ黙々と食べ続ける僕。
「ね、駿、随分長いこと一緒だったわよね」
 いきなり僕は不機嫌になった。
「いいじゃん、そんなこと。どうせいなくなるんだから」
「いなくなるったってねえ、3年経ったら戻ってくるんだし。3年ぐらいねぇ」
 母は何を言いたいのだろう。
「遠距離恋愛だっていいじゃない」
 ついにスプーンを落としてしまった。知っていたのだ!
「何慌ててるのよ。いいじゃない睦美ちゃんなら、ねえお母さん」
「そうともさ」
 僕は真っ赤になりながらも、何がいいもんか来月にはいなくなってしまうというのにと
思っていた。
「いつから知ってたの」
「駿が全中で優勝した日に二階堂さんがいらっしゃったでしょう。その時よ、少し驚いた
けど」
 そんなに前から! 犯人はおっちゃんだったか。
「二階堂さんなんか、いい嫁を見つけたよな、なんておっしゃって」
「あのじいさんにも困ったもんだ。まだ中1なのにまあ」
 祖母が呆れたように言う。
 家族には琉太のことを始め、大抵のことは話していたが睦美とのことはなぜだか話せな
いでいた。
 僕は幼馴染のしがらみから解放されて睦美を見ることができるようになったが、家族が
睦美をどのように受け入れているのか推し量ることができなかったからかもしれないし、
女の子と付き合うのが親に対して何か悪いことをしているような気もしていたからかもし
れない。
 だがこの際、開き直っていくのが得策に思えた。うじうじしていても仕方がないし、実
際僕と睦美は付き合っているのだから。
 そう考えたら随分落ち着いてきた。むしろそんなに早くから知っていることが判ってい
たら、さっき玄関前でコンディションを整えなくても済んだのにと、どうでもいいような
ことを後悔した。
「ホントは今日遅くなったのは琉太と一緒だったからじゃないんだ。もちろんいつも通り
ファストフードに寄ったけど、その帰りに睦美と会って転勤のことを聞いたんだ。で、送
って来たってわけ」
「やっぱりね、なんか変だと思ったのよね。駿はすぐにわかるから。ミクちゃんとかいう
子の時もそうだったわよね」
 今度はフォークが落ちた。これが驚かずにいられようか。
「なんで知ってるのさ!」
「だって、部屋に掃除機をかける時に、机の上にどうぞ読んでくださいっていう風に開い
てあったら、そりゃ読んじゃうわよ」
 迂闊だった! 部屋の掃除は自分ですることになっていたが、掃除機かけは他の部屋の
ついでもあって母がすることになっていたのだ。僕はもう恥ずかしさを通り越してまな板
の上の鯉状態で返す言葉もなかった。
「なんにせよ、女の子にモテるってのはいいことよ」
 母がこんなにさばさばしているとは思わなかった。
「じゃ、このまま付き合ってていいの」
「駿、そういうのを野暮って言うんだよ」
 祖母は右手で軽く僕の肩をたたいてしょうがないねぇという素振りで言う。
「そうね、二階堂さんもおっしゃってたけど、こういうところは佐東先生と駿は似てるの
かもね」
「野暮、なところが?」
「気にしなくていいの。真っ直ぐなところが駿の取り柄なんだから」
「そうそう、100メートルも真っ直ぐだからね」
「ま、お母さんたらお上手」
 あははと笑って閑話休題、このカツはおいしい、どこの店、ヨーカドー? へぇいい肉
が入ったんだねと歯も胃も丈夫な祖母はカツをほおばる。母はスープをすする。
 僕がごちそうさまと言って部屋に向かおうとした時母が言った。
「睦美ちゃんちの送別会をやるからね。お父さんどうしの都合も聞かなきゃならないけど、
駿も睦美ちゃんと都合あわせておいてね」
「うん」
 部屋に戻って椅子に腰掛け、背もたれに体をあずけながら頭の後ろで手を組んでため息
をついた。しばらく天井を見ていた。まてよ、僕の部屋は長方形だったんだ。たてより横
がほんの少し長いことに今更ながら気がついた。何年も住んでいるのに……。何年もか、
そう思った。
 母と祖母は長いこと付き合いのある佐藤家の転勤の話をあっさりと受け止めているよう
に見えた。でもそれはそう見えただけなのかもしれない。
 たしかに睦美とのことを知られていたことは結局僕をほっとさせた。が、睦美がいなく
なるという寂しさはそれによってむしろ強くなっていた。
 付き合いだしてまだ2ヶ月だが、睦美を知ったのは物心がついた頃だし、しかも年小か
ら中1まで同じクラスだったのだ。付き合っていなければ転校の話を聞いても幼馴染のま
ま、またねで済むのかもしれない。
 だが、睦美がコクる決心をするずっと前から僕のことを好きだったということを知って
から、僕の睦美への想いはさらに深くなっていた。僕は思った。
 (まだ13歳なんだ。どうしていいかわからないことだってたくさんあるんだ。それが
僕の前に現れる順番を決めるのはもちろん誰でもない。でも僕がこの漫画の作者ならこの
時期に睦美に転校なんてさせるもんか)
 その時ふと、ノックの音がした。
「駿、いいか」
 いつの間に帰宅したのだろう、父の声だった。面倒くさいなと思った。立ち上がってな
あにと言いながらドアを開けた。
「ちょっといいか」
「うん」
 僕はベッドに父は椅子に腰掛けた。いつになく困惑した表情だ。
「睦美ちゃんちのことを聞いたよ」
「しょうがないよ」
「そうだな、仕方のないことだな」
「……」
「父さんたちは駿が睦美ちゃんと付き合うのは大賛成だ。余計なお世話かもしれないけど
な」
「うん、さっきは驚いた」
「ジュニアオリンピックで頑張る理由が1つ増えたな」
「そうだね」
「頑張れよ」
「うん」
「それだけだ」
「うん」
 父は少し微笑んで部屋を出て行った。
 もう13歳なんだ。だって父さんは僕を子ども扱いしなかったじゃないか。僕は父から
自信をもらったような気がした。自信という言葉が適切なのかどうかはわからなかったが、
僕の心のコンパスが回転を止めて進路が決まったのは確かだった。
 僕は琉太にメールを送った。返事はいいよと付け加えて。
 ベッドに入って目をつぶったとき、睦美の唇の感触ではなく長い睫毛がくっきりと蘇っ
てきた。それは左の睫毛だった。指で唇に触ってみてもそれは消えなかった。
 睦美が現れて、たった3年よ、北海道なのと言った。真っ黒な睫毛の1本1本が僕のコンパ
スの針と重なり合い、北海道を指したり3年を指したりするのだった。馬の鼻向けっ
て言うのよと睦美が言ったとき僕は1位でゴールしていた。目の前に大きな向日葵があっ
た。
 
 月曜の朝、教室に入るや琉太が心配そうな顔でやあと言い僕に近づいてきた。
「びっくりしたぞ」
「まあね。でも大丈夫だよ。睦美は?」
 もう来ているだろうと思ったが聞いてみた。
「今みずっちとトイレ行ってる」
 琉太によると、睦美は今朝千野に話したらしい。涙もろい千野はそれを聞いて泣いてし
まったのだそうだ。
「千野は優しいね」
「睦美もな」
 朝のホームルームまであと10分たらずだ。大丈夫かと心配しているところへ2人が戻っ
てきた。睦美と目が合った。僕は微笑みながら千野に目を移した。睦美もにっこりして大
丈夫よというように頷いた。千野は少し目が赤かったが僕と琉太を見て恥ずかしそうにう
つむいた。
 チャイムが鳴った、と同時に甘せんが入ってきた。日直の号令に合わせて挨拶をした。
甘せんは今日の連絡事項を伝えて配布物を配って、ひと呼吸おいて言った。
「最後にみんなに伝えることがある。……佐藤さんが転校することになった」
 驚きの声と机や椅子のガタつく音が入り混じった。
 心配になって睦美を見ると、彼女は大きな目をさらに大きくして真っ直ぐ甘せんを見て
いた。
「お父さんの仕事の関係で札幌に引っ越すことになったんだ。来月の21日まで本校に通っ
て、24日から向こうの学校に行く。短かったけどあと1ヶ月、みんな仲良く頼むぞ」
 甘せんは教室を出る際、睦美を見て軽く頷き、次いで僕に目配せした。頼んだぞ駿と言
われたような気がした。
 この事件は瞬く間に学年中に広がった。昼休みには睦美の周りは入れ代わり立ち代わり
多くの女子が取り囲んだ。何人かは泣いていた。
 睦美はというと終始にこにこしながらいつもの調子だ。ミクがやって来た。ミクも泣い
ていた。睦美と僕を交互に見ながらなにか話している。千野が傍に寄って来てミクの肩を
抱いて言葉をかけた。ミクはうんうんと頷いて涙を拭きながら微笑んだ。
 男子は普段通りに昼休みを過ごしているように見えたが、シマウマの群れが順番に睡眠
をとるようにちらちらと睦美と僕を見ている。それは珍しいものを見たいということより
も、中にはそんな子もいたかもしれないが、むしろ気にかけてくれていると思いたかった。
定例会の積み重ねがそう思わせたに違いない。
 今日の練習は、というよりも今日からの練習は僕の覚悟が違う。僕の中にはジュニアオ
リンピックで優勝した時の姿しかなかった。新記録を出すことよりも一番先にゴールライ
ンを横切ることが最重要だ。
 1本走るごとにタイムを確認し、問題点を僕なりに洗い出して解決のための課題を試み
修正に努めた。甘せんは僕の変化を素早く読み取ってくれ、的確なアドバイスをくれた。
その覚悟は琉太にも伝播したようだった。
「馬の鼻向けじゃ。俺も自己ベストのために頑張る」
 睦美と同じことを言った。意味がわからないままだったから聞いてみた。
「別れる時の贈り物って意味だと思ったなあ」
 それなら僕は昨日睦美からもらった。今度は僕が贈る番だ。プレッシャーを感じないと
言えば嘘になるが今の僕にはそれをはね返すだけの勇気があった。
「琉太、きっと勝つよ」
「負ける理由が見当たらぬ」
 臭い芝居のように握手をして頷き合い、笑った。夕日は雲に隠れて見えなかったが、琉
太、ありがとう。
 今日は真っ直ぐ家に帰った。睦美にメールを送ろうと思ったら向こうからメールの着信
があった。
(もうたーいへん、みんな心配してくれてチョーうれしかった。こんな風になるのなら毎
年転校しようかしら、てへへ。てなわけでわたしは大丈夫だから、駿は練習ガンバ! あ
っそれから22日は駿の優勝を見てから出発することになったわよー)
 まったく! 祖母にそっくりだ。僕は考えていた言葉を頭から消して、クールに行こう
ぜ! と書いて送った。でもその後で両腕を上げてやったーと言った。やれやれだ。

 ジュニアオリンピックを2週間後に控えた金曜日、定例会が開かれた。睦美の送別会だ
った。送別会とは言っても30分足らずのものだったが、睦美はみんなの前では初めてだ
ろう、目を潤ませていた。
 玉砕した男子からのコメントはどれも笑いを誘った。第一犠牲者の琉太のは大爆笑だっ
た。大人しくてなかなか人前で話せない女子の言葉にはみんな感動した。どれも睦美によ
って変われたことに感謝する内容だった。前もって田辺が中心となって、発表者の人選や
練習までしたのだった。
 この会には甘せんも参加してくれたし、驚いたことに校長先生まで顔を出した。定例会
の噂が先生方にも広がったことが理由の一つらしい。2人とも微笑んで頷くばかりだった
が、身内以外の大人に受け入れられるのは嬉しいものだった。
 15日は土曜日だった。送別会なのに僕たち家族は睦美の家に招かれていた。バーベキ
ューパーティーで盛り上がろうというのだった。
 両家合わせて7人、庭に設えたテーブルを取り囲んでワイワイやっていた。全中の結果
を褒められたりジュニアオリンピックの活躍を期待されたりでくすぐったい思いをした。
父や母は札幌のどのあたりに行くのかとか、この際だから3年かけて北海道の観光地を回
ってみてはどうかとかそんな話をしている。
 僕と睦美は並んで腰掛けて、肉や野菜をほおばりながら思い出話を始め、なんやかや勝
手に盛り上がっていた。
 僕たちは、幼い頃互いの庭でプール遊びをしたり花火をしたりしてじゃれ合っていた。
こんなこともあった。僕が飴玉を喉に引っ掛けた時、祖父が僕の両足を持って逆さにして
背中をたたいて出してくれた。それを見ていた睦美がしばらく怖がって祖父に近づかなく
なった。僕の耳にもまだ残っているが、あの時の祖父の大声には驚いた。それだけで飴玉
が出てきそうだった。
「駿のおじいちゃんの顔も怖かった。本当の鬼のようだったわ」
 傍らで聞いていた祖母が笑いながら、
「だから今生きてるんだよ。長生きするよ駿は」
 と言った。
 睦美がエビを食べたいから剥いてと皿に載せて持ってきた。
「何を言ってるの睦美、自分で出来るでしょ」
 睦美の母が軽くたしなめる。
「駿の剥いたのが食べたいの」
 そんなこと言っていいのか、そんな甘えん坊の睦美なんて見たことないぞと思って周り
を見た。
 僕の母と睦美の母は2人して仰け反っている。僕の父は牛肉を半分口から出したまま、
んごと言った。睦美の父はビールを吹き出しながらむせている。1人祖母だけが大声で笑
っていた。
 僕はバーベキューの真っ赤な炭を涼しいとさえ思ったし、2人きりの時でも甘えたこと
を言わなかった睦美がどうして今なんだと思った。
「えっ何? どうしたのみんな」
 全く意に介していない様子の睦美だ。
「睦美!」
 睦美の母が眉を吊り上げて言った。すかさず祖母が割って入る。
「まあまあ、いいじゃないか、子どもの言うことなんだし」
「そうですか、でも、ほんとにはしたない。ごめんなさいね駿ちゃん」
「とんでもない、駿も内心喜んでますから。ほら駿、剥いてあげなさい」
 と僕の父が言うと、睦美の父も言った。
「睦美、それは父さんや母さんのいないところで言って欲しいもんだな」
 はははと笑う二人の父親は寛大というのか鈍いというのか、ともかく変な親事典があっ
たら確実に掲載されるはずだ。
 僕の母はしばらく会えないんだからと言いながら睦美の母にビールをついでいる。
「睦美ちゃん、ずいぶん大人になっちゃって、うちの駿が幼く見えちゃうわ。体だけ大き
くなったって感じ」
 睦美の母は、周りの反応が予想外だったという顔をしていたが、僕の母の言葉を聞いて、
「そんなことないわ。まったく、うちの睦美ときたら、小さい頃からよ。何を言い出すか
しでかすかわからないんですもの」
 と上手くみんなとチューニングができたようだ。でもほとんどのクラスメイトは喜んで
るよおばさん、と言いたかった。
 睦美が僕の脇腹を小突いた。エビを載せた皿を持って、ねえ早くと言っている。黙って
皿を受け取ってエビを剥く。できたよと言って塩を少しふって渡す。まあまあねと言って
もぐもぐやっている。それを見て祖母が笑う。
 季節外れだったが花火をやってお開きとなった。火が怖くて線香花火すら持てなかった
睦美も、今は綺麗ねと言う。
「戻って来たらまたやろうね」
「うん」
「じゃ、指切りしよ」
 と今度は小声で言った。僕たちは家族から見えないようにそっと指切りをした。三年後
またここで会おうね。僕も吐く息に合わせて囁いた。
 翌日、部活の後にミクの出る定期演奏会に行った。クラシックに疎い僕は演奏の出来不
出来は全くわからなかったが指揮者に興味を持った。
 各楽器の奏者は指揮に合わせてパートごとに全く同じ動きをする。指揮者はまるで自分
の手足のように意のままに操っているように見えた。ばらばらな50名ほどの奏者の音をコ
ントロールしていた。随分練習したんだろうなと思った。
 どうして吹奏楽部は練習時間が長いのかミクに聞いたことがある。
「曲が決まったら、個人練習があってその次に楽器ごとのパート練習があるの。それが形
にならないと全体で合わせられないのよね。だから焦ることもあるわ」
 やめたくなったというのもわかる気がした。
 ミクには悪いと思ったが、僕にはホルストの「火星」という曲が耳に残った。睦美にそ
れを言った。
「マーズは軍神の名前よ。今の駿にはぴったりね。負けないでね」
「頑張るよ。頑張る」
 四人で買った花をミクと田辺に渡してファストフードに行った。ここのところ僕たちは
毎日のようにファストフードに行って百円のドリンクで粘っていた。

14.
       
 月曜日に壮行会が開かれた。校長先生は決勝では必ず応援に行くと言ってくれた。
 木曜日。明日はいよいよ本番だ。部活を終えて僕たちはおっちゃんに呼ばれた。
「2人とも夢を叶える時が来たぞ。今までの練習と試合の結果は伊達じゃない。2人の力
が十分に発揮できればどこまで行くかわからないからな」
 いつになくシビアなおっちゃんの様子に僕たちは少し緊張していた。
「あー、それからな、英雄の影にはいつも美女がいたんだ。わははは」
「二階堂さん!」
 すかさず甘せんの突っ込みが入る。僕たちは拍子抜けと同時に苦笑い。おっちゃんは両
腕を腰に当ててうんうん頷いている。
「そ、そういう訳だから駿も琉太も結果は気にしないで精一杯走ってこい」
 甘せんが気を取り直して激励の言葉をくれた。
「はい、頑張ります」
 4人で拳を合わせた。
 大会初日は、秋晴れの中盛大に開会式が行われ各種目が開始された。全中もそうだった
がテレビ局のカメラが目に付いた。優勝するとインタビューが待っている。
 僕と琉太は危なげない走りで準決勝を勝ち抜き2日目の決勝進出を決めた。睦美と千野
は予選から応援に来てくれていた。
 帰りにファストフードに寄った。今日が4人で会える最後の日である。
「駿、調子いいんじゃない?」
「うん、足が軽いんだ」
「睦美、どうしてわかるの? 私、琉太の走りを見てもよくわからない」
「みずっち、睦美は小学校からずっと駿の走りを見てきてるんだぜ。俺たちとは年季が違
うのじゃよ」
 僕はどきっとした。睦美はえへへと言ってオレンジジュースを飲んでいる。
「で、琉太はどうなの?」
「ん、俺か、俺はいつも絶好調だよ。な、駿」
「そう言えば、今まで琉太が不調だって聞いたこともないな」
「だろ、俺の前世はナポレオンかもよ」
「じゃ、その調子で明日も頑張ってね」
 千野がさらりと言った。明日の活躍を約束していつも通りまたねと言って別れた。
 2日目も昨日と同じように大会日和だった。今日は校長先生を始め、園田先生、淡路さ
んや堀口さん、沢口姉妹が来てくれた。約束通りだ。もちろん僕たちの両親もいたし、睦
美の両親まで来ていた。田辺もミクもファンクラブの何人かもいた。クラスメイトも来て
いた。真一も、隼人もいた。横断幕が3枚に増えている。
 僕と琉太はそれを見て、緊張するどころかエネルギーが沸き立ってくるような気がして
いた。
「駿、武者震いが止まらないでござる」
「うん、こんなに来てくれるとは思わなかったよ」
「応援って、すごく力になるな。初めてわかったよ」
「やるしかないよ」
 そう言って右腕を2回回しあって、がっちり握手をした。
 決勝は琉太からだ。既にスタートラインに並んでいる。早くもスタンドからは応援の声
が聞こえている。12名のランナーの動きが止まった。
 綺麗なスタートだ。一段と応援の声が響き渡る。ペースが速い。位置取り争いが激しい。
バックストレートで先になったり後になったりする選手が何人も見える。第4コーナーを
回って正面を通過するところで落ち着いたように見えた。琉太は6位につけている。いつ
もの位置取りだ。琉太はどんな作戦を練っているのだろう。残り3周のストーリーは誰に
もわからない。
「今日はぶっ倒れるまで走るよ。全中の時のあの2人には敵わないけど、差を縮めたいん
だ」
 琉太が今朝言った言葉だ。その通りの展開だった。トップと2位の選手はやはり格が違
う。
 2周目は変化もなく正面を通過。残り2周。バックストレート付近で9位と10位の選手が
8位の選手を抜いた。そのまま正面を通過。
 鐘が鳴る。琉太がさらにペースを上げた。ロングスパートをかけたのだ。5位と4位の選
手は琉太のスパートに刺激されてペースを上げるが、その時には既に琉太は3位になって
いた。始めからペースが速かったこともあって下位の選手はついて来られない。2位との
差はやや縮まったようだが、まだ5メートルはある。バックストレートで2位の選手がスパ
ートをかけた。トップとの差が2メートルほどだったために1位の選手は気づくのが早かっ
た。すぐにペースを変えた。琉太はスピードが落ちていない。4位と5位の選手は団子状態
で琉太との差はやはり2メートルほど。
「直線勝負だ」僕は呟いた。
 琉太が第4コーナーを回り終えた時、2位の選手に遅れが見えた。伸びない。直線に入っ
た時、今度は2人だったが横に並ばれた。残り100メートル。2位の選手は伸びない。どんど
ん差が縮まってくる。声援がすごい。僕も叫んでいた。残り50メートル。トップの選手に
追いつくのは無理だったが、2位の選手にはわからない。再び、ぶっ倒れるまで走るよとい
う声が聞こえたような気がした、と同時に琉太がさらにギアをチェンジした。真一のよう
にオカルトを信じたことはないが、驚いた。1歩ごとに1足分リードし始めた。
みるみるうちに2人を引き離しにかかり、2位との差が縮まっていく。残り20メートル。
「いけるぞ琉太!」
 あと10メートル。並んだ! 2位の選手も抜かれまいと必死だ。
「突っ込め!」歓声に僕の声も飲み込まれそうだった。
 同着に見えた。琉太はゴールした後ふらふらと2,3歩進んで倒れ込もうとしたところを
甘せんに抱きかかえられた。琉太は倒れるまで走りきったのだ。
 結果は3位だった。スタンドから万歳の声が聞こえた。ぜいぜい言わせながら戻って来
た琉太とハイタッチ。
「やったな琉太。自己ベストだぞ」
「し、死ぬかと思った」
 顔が歪んでいたが笑っているのだ。向こうからおっちゃんが走って来る。顔じゅうが鼻
に見えた。
 僕の番がやって来た。応援の声がはっきり聞こえる。睦美の声も聞き分けられる。呼ば
れたようにスタンドを見た。ひとりひとりの顔がわかった。みんなの口が輪ゴムの並んだ
ようだった。横断幕が揺れてない。今日は追い風があっても微々たるものだ。その代わり、
琉太が起こしたハリケーンの勢いが僕を後押ししてくれるはずだ。
 負ける気がしない。以前100メートルのランナーは何に喩えられるのだろうかと思ったが、
一瞬で吹きすぎていく風を僕は今イメージしていた。
 6レーンに立った。既に僕はゴールの向こうにいた。その姿を追っていけばいいだけな
のだ、風になって。
「ON YOUR MARK」
 ゆっくりスターティングブロックに足を合わせる。ほかの選手は全く気にならなかった。
「SET」
 路面を見ているはずなのに僕にはやはりゴールの向こうにいる僕が見える。
 スタート。
 最高だ!
 こんなスタート初めてだ。
 前傾。
 30メートル。
 15歩。
 加速!
 頭を上げる。
 誰もいない。
 加速!
 60メートル。
 トップスピード。
 風!
 あと10歩。
 1,2……
 5,6……
 9!
 僕が待っていた。
 冷静に走ることがあるなんて初めて知った。心臓はどきどき言っているし息も切らして
いるのに頭は妙に冷めているのだ。
 新記録は出せなかった。でも11秒25の自己ベストが出せた。何よりも睦美との約束を果
たせたことが嬉しかった。
 僕はテレビのインタビューもそこそこに、甘せんやおっちゃんにぺこりとお辞儀をして
全速力でスタンドに走った。とにかく睦美と話したかった。スタンドへの階段を上る途中
で声がした。
「駿」
 見上げると睦美が降りて来るところだった。
「睦美」
 立ち止まって睦美を待った。はあはあ言って僕の前に来た。
「ありがとう、駿。かっこよかったよ」
「馬の鼻向けができた」
「うん、とってもいいものを貰ったわ」
「負ける気がしなかったんだ。最高の気分だよ」
「スタートで分かったわ。ぶっちぎりよ、もう最高! ボルトみたいだった」
 あの時もそう言っていた。ためしに聞いてみた。
「僕もなれるかな、ボルトみたいに」
「それは無理」
「だよね」
 思った通りだった。ここで僕は急に睦美を困らせてやることを思いついた。
「ところでさ、北海道でも向日葵は咲くんだよね」
「えっ何、なんのこと」
「蜜蜂の独り言だよ」
 僕は睦美を見て微笑む。睦美は少しきょとんとしていたが、すぐに微笑みを返してくれ
た。へへへとほくそ笑んだ。そして僕の向日葵を心に刻んで、
「じゃ、気をつけて。またね」と言った。
「うん、最後の約束を聞いてくれたらね」
「えっ、何」
(うわー、なんだなんだこの期に及んで逆襲か)
「毎日必ずメールすること。絵文字付きで」
「絵文字付きかあ」ほっと胸をなでおろしながら言った。
「そうよ練習してよね。走るより楽でしょ」
「わ、わかった」
「じゃ、そういうことで」
 そう言うと睦美は右手を差し出した。僕たちは握手をして笑って別れた。それにしても、
睦美は何であんなに握力が強いんだろう。
 その日の夜、小野寺家の祝賀会をやっている最中に睦美から無事到着したとのメールが
届いた。
(飛行機降りたらすぐだと思ってたの。遠いんだもん札幌まで。今日のことは忘れないわ。
ところでしっつもーん。向日葵と蜜蜂って何?)
 僕はにんまりして、
「な・い・しょ」に歯を出して笑っている顔の絵文字を付けて送った。
 戻って来た時に話してあげるよ。
 
エピローグ
       
 睦美は3年後に戻って来た。僕と同じ高校に編入してきたのだ。で、望み通り同じクラ
スになった。
 僕は中3の時に甘せんと同じように新記録を出した。琉太と2人で優勝したのだった。
それはちょっと世間を騒がせた。高校は別々になってしまったが、ファストフードでの交
流は続けていた。互いの目標だったインターハイでの優勝を成し遂げ、大学は2人して甘
せんの後輩になった。その後就職してこれは別々の企業だったが、実業団に入り今に至っ
ている。2人の次の目標をオリンピックにおいて。
 甘せんというあだ名は今も続いている。何度か転勤をし、行く先々の学校で結果を残し
た。奥さん(もちろん園田先生だ)との間に二人の男の子を授かった。中1と中3で上の子
はテニスを下の子は陸上をやっている。将来が楽しみだ。
 羽貫は僕が中3の時に死んだ。麻薬で錯乱した父親に包丁で腹を刺されたと、テレビの
ニュースで知った。そこは賃貸マンションの5階の部屋だったが、父親は羽貫を刺した後
飛び降りて死んだ。僕の心の枝に引っかかっていたものはその時化石になった。
 おっちゃんは羽貫家の親戚を説得して、葬儀委員長に名乗り出た。委員長挨拶でおっち
ゃんは羽貫の父母と羽貫を褒めちぎった。参列者は呆気にとられていた。葬儀を終えた後、
おっちゃんは1人墓に残って、羽貫の父親の墓石に向かって「馬鹿野郎」と言ったそうだ。
 そのおっちゃんは亡くなるまで僕たちに目をかけてくれた。甘せんとのコンビも死ぬま
で続いた。その間、何人もの選手を育てた。僕にとって羨ましい人生を送った数少ない人
になった。
 
 今日はおっちゃんの命日だ。お互いに持っている写真や動画を持ち寄って、墓参りの後
であの頃の思い出を肴に一杯やろうということになっている。おっちゃんにかこつけた同
窓会だ。甘せん夫婦も琉太も千野もクラスのみんなも来る。
「それにしても濃密な時間だったなあ」
 呟いた時、また妻の呼ぶ声がした。少しイライラしている。
「何やってるの? 時間なんだけど。みんな外で待ってるのよ。速く走れるくせにほんっ
とにぐずなんだからいつまでたっても。もー、ねぇ、駿、駿ったら!」
                                       了
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