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第一章 Dahlia
3 ハーブの香る家
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「……はああぁぁぁぁ」
あたたかい湯の中で手足を思い切り伸ばすと、思わず溜め息が漏れた。
まさか、こんな森の奥の、こぢんまりとした「魔法使いの家」に、こんなに広々とした浴室と浴槽があるなんて。
「あんた、真面目な子だねえ。そんな畏まらなくたって、自分の家と同じようにくつろいでいいんだよ。風呂くらい何も気にせずゆっくり入っておいで」
なんて、魔法使いは笑って言っていた。ダリア自身は特別に固くなっているつもりはないし、言葉遣いがわりと丁寧なのも元々のものなのだが、その言葉には有り難く甘えることにした。長いこと森の中を歩いてきてやはり体中が埃っぽく、秋とはいえ汗もかいている。
ちょっと熱い湯の中に浸かると、気持ちまでほぐれたような気がしてさっぱりした。浴室に満たされた、爽やかでなんだか胸がすうっとする香りは、どうやら浴槽に浮かんだ薄い布の小さな袋から漂ってくるようだ。
ダリアが住んでいた小さな村の家々には、こんな広い浴槽や浴室なんてなかった。貧しい農村にとっては水は貴重なものだし、湯を沸かすにも手間がかかる。もっと人の多く豊かな町には公共浴場もあるのかも知れないけれど、それでも庶民は毎日入浴なんてしないだろう。体を拭いて汚れを落としたり、暑ければ行水をしたりするくらいだ。湯船に身を浮かべるなんて、最高の贅沢をしている気分になってきた。
不思議な気分だ。もうすぐ、死んでしまうかも知れないというのに。
「ダリアー、たりないものある?」
脱衣場の向こうのドアが細く空いて、衝立越しにチコリの声がした。
「大丈夫よ。これから上がります」
「まだのんびりしてていいよ。モナ、あしたのしたくっておへやにいっちゃったから。あ、ごはんはさきにじゅんびできてるって」
様子を見に来ただけらしい。ドアがパタンと閉まると、チコリの足音がぱたぱたとリビングに駆けていく。
ご飯の準備、という言葉に改めて空腹を刺激されて、ダリアはざばっと立ち上がった。モナルダが貸してくれた手拭いからも服からもふわっと良い匂いがする。花の香りとはまた違う、よく晴れた昼間の日だまりのような乾いた匂いだった。
居間に戻ると、暖炉の前でチコリが大きな犬と戯れていた。
「あ、ダリア。おふろ、どうだった?」
「とっても気持ちよかったですよ」
「よかった。もうちょっとまっててね。モナ、もうすぐくるとおもうんだけど。おそくなるなら、チィもおふろにはいっちゃえばよかったなあ」
太い三つ編みが乱れるのも構わずに敷物の上でごろんごろんと寝転んで、チコリは少し不服そうに言う。ぶつかられて毛並みをわしゃわしゃと撫でられた犬が、チコリの方を見ながらやれやれと呆れた表情をしているように見えた。
「えっと……チコリちゃん、ですよね。聞いてもいいですか?」
「うん、チィだよ。なに?」
口に出そうとしてみたはいいが、やはり聞きにくい。しばし躊躇ってから、ダリアは思い切って尋ねた。
「魔法使いさんは、チィちゃんのお母さん……なんですか?」
「ううん、ちがうよ」
思った通りの答えが、思った以上に明快に返ってきた。思わずチコリの顔を窺うが、言った本人は何とも思っていないらしい。変わらず犬の尻尾にじゃれついていた。
「ずっと一緒に暮らしているんですか?」
「うん、ずっと。チィはいまいつつだから、ごねんずっといっしょ。あ、モナだけじゃなくて、ソホもアイもずっといっしょだよ」
チコリが手で指し示したので、ソホというのがその大きな土色の犬の名であることは分かった。
「アイって?」
「アイはね、とりなの。ちいさいあおいとり。いまはモナのおつかいにいってていないけど。いつもそとにいることがおおいよ」
犬とじゃれ、小鳥と戯れる幼いチコリの姿はどんなに可愛らしいものだろうと思うと、なんだか微笑ましい。きっとチコリにとっては、親ではないモナルダも、犬のソホも鳥のアイも等しく「家族」なのだろうと思えた。
と、チコリが唐突に顔を曇らせた。
「……ダリアも、チィのこと、かわいそうっていう?」
驚いたダリアを、チコリは真剣な目で見返してくる。だから、ダリアも真剣な顔で、首を横に振った。
「そんなこと思いませんよ。魔法使いさんと森の中に住むなんて、それに家族もいっぱいいて、楽しそうです」
「ほんと? よかった。……あのね、ひとにあうと、よくいわれるんだ。かわいそうねとか、さみしいでしょうって。チィはぜんぜんさみしくないのに。おかあさんとか、おとうさんとか、よくわからないから、いなくてもさみしくないのかな。いっしょにいるひととバイバイするのはさみしいもんね」
たった五歳の子でも、大人が思う以上に色々なことを感じているものだ。
「……魔法使いさんは、いつから『魔法使い』なんだろう」
ダリアはふと呟いた。どうして、モナルダは魔法使いになったんだろう。それに、あの目と髪の色は……
「私が何だって?」
声に振り向くと、廊下の奥から「赤の魔法使い」がこちらへと歩いてくるところだった。
「あ、モナ! もー、おなかすいたよ!」
「はは、ごめんごめん。つい作業に熱が入ってね。さ、ご飯にしようか。ああ、あんたは座って待ってておくれ、お客さんなんだから。それに悪いけど、うちの台所狭いんだよ」
聞こえたはずのダリアの呟きには一切触れぬまま、モナルダはチコリと連れ立って夕食の用意を始める。その様子はとても楽しそうなものだったけれど、チコリの話を聞いてしまったダリアにはモナルダの過去にも暗いものを感じてしまって、なんだか落ち着かなかった。
その日の夕食は、優しい味がした。
あたたかい湯の中で手足を思い切り伸ばすと、思わず溜め息が漏れた。
まさか、こんな森の奥の、こぢんまりとした「魔法使いの家」に、こんなに広々とした浴室と浴槽があるなんて。
「あんた、真面目な子だねえ。そんな畏まらなくたって、自分の家と同じようにくつろいでいいんだよ。風呂くらい何も気にせずゆっくり入っておいで」
なんて、魔法使いは笑って言っていた。ダリア自身は特別に固くなっているつもりはないし、言葉遣いがわりと丁寧なのも元々のものなのだが、その言葉には有り難く甘えることにした。長いこと森の中を歩いてきてやはり体中が埃っぽく、秋とはいえ汗もかいている。
ちょっと熱い湯の中に浸かると、気持ちまでほぐれたような気がしてさっぱりした。浴室に満たされた、爽やかでなんだか胸がすうっとする香りは、どうやら浴槽に浮かんだ薄い布の小さな袋から漂ってくるようだ。
ダリアが住んでいた小さな村の家々には、こんな広い浴槽や浴室なんてなかった。貧しい農村にとっては水は貴重なものだし、湯を沸かすにも手間がかかる。もっと人の多く豊かな町には公共浴場もあるのかも知れないけれど、それでも庶民は毎日入浴なんてしないだろう。体を拭いて汚れを落としたり、暑ければ行水をしたりするくらいだ。湯船に身を浮かべるなんて、最高の贅沢をしている気分になってきた。
不思議な気分だ。もうすぐ、死んでしまうかも知れないというのに。
「ダリアー、たりないものある?」
脱衣場の向こうのドアが細く空いて、衝立越しにチコリの声がした。
「大丈夫よ。これから上がります」
「まだのんびりしてていいよ。モナ、あしたのしたくっておへやにいっちゃったから。あ、ごはんはさきにじゅんびできてるって」
様子を見に来ただけらしい。ドアがパタンと閉まると、チコリの足音がぱたぱたとリビングに駆けていく。
ご飯の準備、という言葉に改めて空腹を刺激されて、ダリアはざばっと立ち上がった。モナルダが貸してくれた手拭いからも服からもふわっと良い匂いがする。花の香りとはまた違う、よく晴れた昼間の日だまりのような乾いた匂いだった。
居間に戻ると、暖炉の前でチコリが大きな犬と戯れていた。
「あ、ダリア。おふろ、どうだった?」
「とっても気持ちよかったですよ」
「よかった。もうちょっとまっててね。モナ、もうすぐくるとおもうんだけど。おそくなるなら、チィもおふろにはいっちゃえばよかったなあ」
太い三つ編みが乱れるのも構わずに敷物の上でごろんごろんと寝転んで、チコリは少し不服そうに言う。ぶつかられて毛並みをわしゃわしゃと撫でられた犬が、チコリの方を見ながらやれやれと呆れた表情をしているように見えた。
「えっと……チコリちゃん、ですよね。聞いてもいいですか?」
「うん、チィだよ。なに?」
口に出そうとしてみたはいいが、やはり聞きにくい。しばし躊躇ってから、ダリアは思い切って尋ねた。
「魔法使いさんは、チィちゃんのお母さん……なんですか?」
「ううん、ちがうよ」
思った通りの答えが、思った以上に明快に返ってきた。思わずチコリの顔を窺うが、言った本人は何とも思っていないらしい。変わらず犬の尻尾にじゃれついていた。
「ずっと一緒に暮らしているんですか?」
「うん、ずっと。チィはいまいつつだから、ごねんずっといっしょ。あ、モナだけじゃなくて、ソホもアイもずっといっしょだよ」
チコリが手で指し示したので、ソホというのがその大きな土色の犬の名であることは分かった。
「アイって?」
「アイはね、とりなの。ちいさいあおいとり。いまはモナのおつかいにいってていないけど。いつもそとにいることがおおいよ」
犬とじゃれ、小鳥と戯れる幼いチコリの姿はどんなに可愛らしいものだろうと思うと、なんだか微笑ましい。きっとチコリにとっては、親ではないモナルダも、犬のソホも鳥のアイも等しく「家族」なのだろうと思えた。
と、チコリが唐突に顔を曇らせた。
「……ダリアも、チィのこと、かわいそうっていう?」
驚いたダリアを、チコリは真剣な目で見返してくる。だから、ダリアも真剣な顔で、首を横に振った。
「そんなこと思いませんよ。魔法使いさんと森の中に住むなんて、それに家族もいっぱいいて、楽しそうです」
「ほんと? よかった。……あのね、ひとにあうと、よくいわれるんだ。かわいそうねとか、さみしいでしょうって。チィはぜんぜんさみしくないのに。おかあさんとか、おとうさんとか、よくわからないから、いなくてもさみしくないのかな。いっしょにいるひととバイバイするのはさみしいもんね」
たった五歳の子でも、大人が思う以上に色々なことを感じているものだ。
「……魔法使いさんは、いつから『魔法使い』なんだろう」
ダリアはふと呟いた。どうして、モナルダは魔法使いになったんだろう。それに、あの目と髪の色は……
「私が何だって?」
声に振り向くと、廊下の奥から「赤の魔法使い」がこちらへと歩いてくるところだった。
「あ、モナ! もー、おなかすいたよ!」
「はは、ごめんごめん。つい作業に熱が入ってね。さ、ご飯にしようか。ああ、あんたは座って待ってておくれ、お客さんなんだから。それに悪いけど、うちの台所狭いんだよ」
聞こえたはずのダリアの呟きには一切触れぬまま、モナルダはチコリと連れ立って夕食の用意を始める。その様子はとても楽しそうなものだったけれど、チコリの話を聞いてしまったダリアにはモナルダの過去にも暗いものを感じてしまって、なんだか落ち着かなかった。
その日の夕食は、優しい味がした。
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