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1 もう一つの実家(前)
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一歩ごとに肩に食い込む輪行袋のベルトを右手で握りしめ、薄茶色い楠の若葉の下をくぐり、少し息切れしながら亜弓は坂を上っていた。手ぶらで歩けば、駅から徒歩数分の距離が、早く着きたいけど着きたくない気持ちもあって、足取りを遅くさせる。もう、何年ぶりになるだろう、確か坂の途中に立派な桜の樹があって、ちょうどこの時期には毎朝高校に行きがてら、お花見気分になれたものだ。
思い出したその瞬間、右手の土手に、まだ年輪の肌目の鮮やかな大きな切り株を見つけてしまい、亜弓は少し上気していたはずの呼吸と脈拍が、すっと引くのを感じた。駅の裏改札の向こうにちらっと見えた桜は、ほとんど満開だったので、久しぶりに訪れる姉の家に向かう途中で、この桜が迎えてくれることを期待していた自分に気が付いて、さらに足と荷物が重くなった。
輪行袋とは、電車などに持ち込んで移動するために、自転車を分解して収納する袋のことである。昔は日本サイクリング協会の会員になった上で、手荷物料金を支払う必要があったが、今はJRを含め、たいていの鉄道会社は誰でも追加料金なしで持ち込める。
亜弓の自転車はカーボン製で、本体重量は七キロほどである。いわゆるママチャリの三分の一程度の軽さなのだが、袋の隙間にヘルメットやシューズ、ボトルやサイクルコンピュータ、スペアチューブやパンク修理時に使うCO2ボンベを入れたサドルバッグなどを詰め込んでいるので、十キロくらいにはなるだろう。重さだけならまだしも、袋の大きさに比して細すぎる肩ひも一本で担いでいるため、一歩ごとに左右に振られて、歩きにくいことこの上ない。駅前で素早く組み立てて、そのまま乗って行けば良かったのかもしれないが、人目が恥ずかしいのと、歩いてすぐの距離だと甘く見ていた。
もっとも、組み立て自体は一向に難しくはない。袋を開けてフレームとホイールを固定した三本のベルクロバンドを解き、サドルとハンドル上面とでフレームを倒立状態にし、前輪と後輪をクイックレバーで装着するだけで、何の工具も要らない。後輪をはめる際に、チェーンをスプロケット(十一段のギア)にうまく乗せないと、手指がオイルで黒く汚れてしまうので、百均で買った薄いナイロン手袋をサドルバッグに入れてある。
坂を上りきると、姉の家はすぐそこである。亜弓がそれまで三年間住んでいた鎌倉は、海も近くて大好きな町だったが、会社を辞めて家賃も払えないし、先のことを決める元気もなかったので、一人暮らしをしている姉を頼って、とりあえず関西に戻ってきたのである。
姉といっても、一緒に生活したのは保育園の頃の二、三年間だけである。父親の違う亜弓は、父(姉にとっては継父)と母が別れて、母に引き取られた。姉は実父方の祖父母が引き取って、理由は分からないがしばらく会えなくなった。亜弓にとっては、大学を出て間もなく母が病死してしまったので、唯一の肉親という感があり、戸籍附票をたどって姉に連絡が取れた時は本当に嬉しかった。それからはSNSで近況を伝え合い、たまに食事を共にする程度の関係が続いていたが、姉も東京に行って戻ってきたり、いろいろあったようで、会うのは数年ぶりだった。
この辺りの住宅街は規制が厳しいようで、高い建物はなく、緑が多い。駅から家までの間は、一軒の商店もなく、自動車の交通量も少ないので、とても静かな環境である。そういえば、姉の住んでいる三階建てのマンションには集合郵便受けはない。一階なので泥棒には気を遣うだろうが、階段を上る必要がないのはありがたかった。
玄関ドア脇の表札は、厚紙にフェルトペンで手書きした簡素なものである。そこには、姉の名字である「雛形」と並べて、亜弓の名字「武智」が記されており、亜弓は姉の心遣いに泣きそうになった。これはいつ書いたのだろう。昨日かもしれないけれど、ずっと前、ひょっとしたら母が亡くなった時かもしれない。でも、そんなことを聞くのはやめよう。
ずっと心の底の方でひっかかっていた迷いが薄らいでいく。表札に堂々と書かれた姉の字に勇気づけられ、亜弓は輪行袋を下に置くことも忘れて、一度大きく息を吸ってから、チャイムを押した。
*
「きゃー、亜弓、久しぶり!大きくなったねえ。長旅お疲れ様、さ、早く入って。あれ、自転車?あなた担いできたの?荷物はそれだけ?うん、宅配便は届いてるから。えー、亜弓、自転車乗るんだぁ。なになに、ロード?どんなやつ、ちょっと見せて。あ、そこに立ってないで上がりなさいよ」
いきなり玄関先で異父姉の陽子からハグされ、矢継ぎ早の質問とハイテンションな歓迎ぶりに面食らったものの、このボケ加減が心地よく、すぐにツッコミの呼吸を思い出せたことで、一気に緊張や不安が解けた。
「大きくなったねって・・・保育園児じゃないんだし。それに陽子の方がわたしより大きいじゃない」
亜弓の身長は一六五センチ、比較的背は高い方だが、陽子はさらに五センチ高い。東京でOLをしている時にスカウトされ、最初ダンスヴォーカルユニットで活動していた。才能や実力は知らないが、売れないままにグループは解散し、陽子は芸能界が嫌になってモデルに転職したらしい。もっとも亜弓から見れば、芸能界もモデル業界も、堅気じゃないというイメージでは同じであったが。
陽子は亜弓がやっとこさ担いできた輪行袋を軽々と持って、部屋の奥に置いた。その時亜弓が目にしたのは、前輪を外してローラー台に固定された群青色のロードバイクと、壁際のスタンドラックに吊されたマットブラックのロードバイクだった。その精悍なフォルムに吸い込まれそうになる。
「あれ、陽子、ロード乗るんだ。え・・・何目指してるの?」
思い出したその瞬間、右手の土手に、まだ年輪の肌目の鮮やかな大きな切り株を見つけてしまい、亜弓は少し上気していたはずの呼吸と脈拍が、すっと引くのを感じた。駅の裏改札の向こうにちらっと見えた桜は、ほとんど満開だったので、久しぶりに訪れる姉の家に向かう途中で、この桜が迎えてくれることを期待していた自分に気が付いて、さらに足と荷物が重くなった。
輪行袋とは、電車などに持ち込んで移動するために、自転車を分解して収納する袋のことである。昔は日本サイクリング協会の会員になった上で、手荷物料金を支払う必要があったが、今はJRを含め、たいていの鉄道会社は誰でも追加料金なしで持ち込める。
亜弓の自転車はカーボン製で、本体重量は七キロほどである。いわゆるママチャリの三分の一程度の軽さなのだが、袋の隙間にヘルメットやシューズ、ボトルやサイクルコンピュータ、スペアチューブやパンク修理時に使うCO2ボンベを入れたサドルバッグなどを詰め込んでいるので、十キロくらいにはなるだろう。重さだけならまだしも、袋の大きさに比して細すぎる肩ひも一本で担いでいるため、一歩ごとに左右に振られて、歩きにくいことこの上ない。駅前で素早く組み立てて、そのまま乗って行けば良かったのかもしれないが、人目が恥ずかしいのと、歩いてすぐの距離だと甘く見ていた。
もっとも、組み立て自体は一向に難しくはない。袋を開けてフレームとホイールを固定した三本のベルクロバンドを解き、サドルとハンドル上面とでフレームを倒立状態にし、前輪と後輪をクイックレバーで装着するだけで、何の工具も要らない。後輪をはめる際に、チェーンをスプロケット(十一段のギア)にうまく乗せないと、手指がオイルで黒く汚れてしまうので、百均で買った薄いナイロン手袋をサドルバッグに入れてある。
坂を上りきると、姉の家はすぐそこである。亜弓がそれまで三年間住んでいた鎌倉は、海も近くて大好きな町だったが、会社を辞めて家賃も払えないし、先のことを決める元気もなかったので、一人暮らしをしている姉を頼って、とりあえず関西に戻ってきたのである。
姉といっても、一緒に生活したのは保育園の頃の二、三年間だけである。父親の違う亜弓は、父(姉にとっては継父)と母が別れて、母に引き取られた。姉は実父方の祖父母が引き取って、理由は分からないがしばらく会えなくなった。亜弓にとっては、大学を出て間もなく母が病死してしまったので、唯一の肉親という感があり、戸籍附票をたどって姉に連絡が取れた時は本当に嬉しかった。それからはSNSで近況を伝え合い、たまに食事を共にする程度の関係が続いていたが、姉も東京に行って戻ってきたり、いろいろあったようで、会うのは数年ぶりだった。
この辺りの住宅街は規制が厳しいようで、高い建物はなく、緑が多い。駅から家までの間は、一軒の商店もなく、自動車の交通量も少ないので、とても静かな環境である。そういえば、姉の住んでいる三階建てのマンションには集合郵便受けはない。一階なので泥棒には気を遣うだろうが、階段を上る必要がないのはありがたかった。
玄関ドア脇の表札は、厚紙にフェルトペンで手書きした簡素なものである。そこには、姉の名字である「雛形」と並べて、亜弓の名字「武智」が記されており、亜弓は姉の心遣いに泣きそうになった。これはいつ書いたのだろう。昨日かもしれないけれど、ずっと前、ひょっとしたら母が亡くなった時かもしれない。でも、そんなことを聞くのはやめよう。
ずっと心の底の方でひっかかっていた迷いが薄らいでいく。表札に堂々と書かれた姉の字に勇気づけられ、亜弓は輪行袋を下に置くことも忘れて、一度大きく息を吸ってから、チャイムを押した。
*
「きゃー、亜弓、久しぶり!大きくなったねえ。長旅お疲れ様、さ、早く入って。あれ、自転車?あなた担いできたの?荷物はそれだけ?うん、宅配便は届いてるから。えー、亜弓、自転車乗るんだぁ。なになに、ロード?どんなやつ、ちょっと見せて。あ、そこに立ってないで上がりなさいよ」
いきなり玄関先で異父姉の陽子からハグされ、矢継ぎ早の質問とハイテンションな歓迎ぶりに面食らったものの、このボケ加減が心地よく、すぐにツッコミの呼吸を思い出せたことで、一気に緊張や不安が解けた。
「大きくなったねって・・・保育園児じゃないんだし。それに陽子の方がわたしより大きいじゃない」
亜弓の身長は一六五センチ、比較的背は高い方だが、陽子はさらに五センチ高い。東京でOLをしている時にスカウトされ、最初ダンスヴォーカルユニットで活動していた。才能や実力は知らないが、売れないままにグループは解散し、陽子は芸能界が嫌になってモデルに転職したらしい。もっとも亜弓から見れば、芸能界もモデル業界も、堅気じゃないというイメージでは同じであったが。
陽子は亜弓がやっとこさ担いできた輪行袋を軽々と持って、部屋の奥に置いた。その時亜弓が目にしたのは、前輪を外してローラー台に固定された群青色のロードバイクと、壁際のスタンドラックに吊されたマットブラックのロードバイクだった。その精悍なフォルムに吸い込まれそうになる。
「あれ、陽子、ロード乗るんだ。え・・・何目指してるの?」
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