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16 勝者はいつもひとり(後)
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世田谷区玉川台、多摩川にほど近い、環八沿いにある出版社の玄関先には、社員が通勤してきたスポーツサイクルがぎっしり並んでいる。ハチケンこと鉢元健一は、それは話が違うと興奮を抑えきれずに、ごま塩ヒゲの編集長に食ってかかっていた。
「だから、前にちゃんと言いましたよね。ジロデイタリアが終わって、ツールドフランスが始まるまでの間は、ぼくは撮影仕事はしませんって。六月二十二日は休みますからって、届けてますよね」
編集長は表情を崩さないままで、本音は見えづらい。
「ああ、聞いてる、多分。だけどね、あの世界一のロードレーサー、クリスチャン・ブルームがだよ、映画のプロモーションか何か知らんけれども、シーズン中に来日するなんて、あり得ないでしょ、普通。このチャンスを逃してどうするの。ライバル誌に独占インタビュー、取られちゃうよ、いいの?」
ブルームにインタビューできるとしたら、自転車ジャーナリストとして一生にあるかないかの栄誉に違いない。だが、編集長の言い方は気に入らない。この雑誌が売れようがライバル誌に出し抜かれようが、自分には関係ない。言うことを聞かないならクビにするぞと言わんばかりだが、むしろ今すぐクビにしてほしい。
「走行中でない選手の写真なんて、ぼくでなくても誰でも撮れるでしょ。それより、千年に一度の奇跡ってスクープの方が、上ネタと思いませんか?」
「ああ、あれね。ネットの掲示板ちらっと見たよ。オレはあんなガセ、はなから信じちゃあいないけどね。じゃあ、キミがもしそのスクープ撮れなかったら、自由契約ってことでもいいかな」
ハチケンは自分を縛っていた鎖から解き放たれたように破顔すると、ありがとうございますっ!と言い残し、編集長室を飛び出した。もう時間がない、何とか亜弓を、あとちょっと走れるように鍛えないと。
*
八王子のマンションで、娘をやっと寝かしつけた田中君世は、旧友の雛形陽子に届けるため、レターパックプラスの宛名書きをしていた。
「多分、これでいけると思うんだけどな。もしダメだったら、どうやって謝ろうかな。まあ、そん時考えればいいか」
*
夏至の日が近づくに連れ、丸瀬紗弥は今まで考えないようにしていた気がかりが、意識に上るようになってきた。メビウス・ロードのミッションを教えてくれた古代史研究ネットサークル「秘すとリアル」の副会長は、研究途中でサークルが内部分裂してしまったので、いくつか分からないままの謎が残っているという。
彼の仮説では、陰陽の気が練れてくるにつれ、時空間のねじれが始まって、よほど自意識を明瞭に保っておかないと、西宮戎神社にたどり着く前に、どこか違う時空に飛ばされてしまう危険があるのだと。紗弥はその点は自信があった。要するに、願い事がブレなければいいのだ。
それよりも、荻原真理子の存在である。美津根さんは優しいし、願い事なんかないって言ってたから、きっとわたしに花を持たせてくれるだろう。でも真理子さんって、まだ会ったこともないし、美津根さんが誘うくらいだから速くて純粋な人なんだろうけれど、それってやっぱり、自分の願い事を叶えるために走るんだよね。わたしへのサービスとかボランティアな訳がないよね。ということは、ゴール前で競り合ったら、絶対わたしが負ける。勝者はたった一人。でも、もう二度と卑怯なことはしないって決めたから、もしそうなったら死ぬ気で頑張るしかない。でも、その結果をわたし自身が受け入れられるんだろうか。
正面から見るとまるで紙飛行機のように薄っぺらいヴェンジを、液体ガラスのコーティング剤で丁寧に磨きながら、とにかく全力を尽くすしかないよね、と自分に言い聞かせた。紗弥のFPTは一七六。美津根に言わせれば、伸びしろ的には二百はあるから、当日成長すれば自然に奇跡も起きるんじゃないかって。そんな一見無責任で楽観的な美津根の予見を、今は信じよう。
「でも、何か気になるな。亜弓さん、まさかとは思うけど・・・」
*
息子への誕生日プレゼントを悩んでいた庭島栄司は、作業場の工具類を片づけながら、夏至の翌日を休みにするかどうか決めかねていた。一日余分に休めば、お土産を買う時間はできる。でも、どっちみち自分が勝つわけだから、その願い事をプレゼントにしてやればいいよな。あんまり大それた願いはしちゃダメなんだよな、こういう場合。でも、今さらゲームってのも何だかなあ。ジュニア用のシクロクロスバイクなんか、どうだろう。よし、それならうちの奥さんも怒らないよな。さて、ベンチプレスしてから寝るか。
*
早朝の庄内川サイクリングロード。集団で疾走するローラー教室の生徒たちは、背後から鬼のように怒号する猛井四郎の叱咤を、むしろ楽しんでいるかのようだった。自転車を降りた途端に、地蔵菩薩のような柔和な態度になる猛井であるが、そちらが虚像なんだろうか。
「くおらああっ、先頭交代したら邪魔にならんようにすぐ下がれ!ほらっ、前になった奴は後ろの奴の命を預かってるんじゃ、ちんたらふらつくな、しっかり走れ!」
クラビクルバンドはまだ外せないが、自転車で飛ばしているとアドレナリンが涌いてきて、痛みはまったくなくなる。これだからやめられない。勝者はいつも一人、それはこのおれしかいない。
「脇本に庭島か、おっさんの野生のパワー、なめんなよ。お前らには絶対ゴールは渡さんわ」
*
「いよいよ明日ね、お天気が良さそうで、本当によかったわ」
陽子はあまり緊張するタイプではないのか、結構脳天気である。あんなに熱心に誘ったくらいだから、間違いなく願い事はあるのだろうが、それが何なのかは、亜弓には見当もつかなかった。
「でもさあ、ひょっとして明日、わたしたち以外にも誰かシークレット・ブルベ、走るのかな」
「うーん、今の時期、アワイチもビワイチも結構多いからね。サイクリストは大勢いるだろうけれど、みんな旗振って走る訳じゃないし、分からないよ」
亜弓は陽子に付き合って体幹トレもローラー台も、そこそこ頑張った感はある。だけど、そもそものモチベーションというか、自分を変えなきゃ、高めなきゃという意識が、忘れることはないものの、放っておくと、すぐ薄くなる。まあ、深く考えずに、イベントとして楽しめたらいいか。
明日は午前二時にハチケンが迎えに来るので、眠くないけど、もう寝ようと言っていた時、突然陽子のスマホが鳴った。
「陽子さん、おれです。ごめん、ちょっと足を骨折しちゃって、一緒には走れなくなった」
「だから、前にちゃんと言いましたよね。ジロデイタリアが終わって、ツールドフランスが始まるまでの間は、ぼくは撮影仕事はしませんって。六月二十二日は休みますからって、届けてますよね」
編集長は表情を崩さないままで、本音は見えづらい。
「ああ、聞いてる、多分。だけどね、あの世界一のロードレーサー、クリスチャン・ブルームがだよ、映画のプロモーションか何か知らんけれども、シーズン中に来日するなんて、あり得ないでしょ、普通。このチャンスを逃してどうするの。ライバル誌に独占インタビュー、取られちゃうよ、いいの?」
ブルームにインタビューできるとしたら、自転車ジャーナリストとして一生にあるかないかの栄誉に違いない。だが、編集長の言い方は気に入らない。この雑誌が売れようがライバル誌に出し抜かれようが、自分には関係ない。言うことを聞かないならクビにするぞと言わんばかりだが、むしろ今すぐクビにしてほしい。
「走行中でない選手の写真なんて、ぼくでなくても誰でも撮れるでしょ。それより、千年に一度の奇跡ってスクープの方が、上ネタと思いませんか?」
「ああ、あれね。ネットの掲示板ちらっと見たよ。オレはあんなガセ、はなから信じちゃあいないけどね。じゃあ、キミがもしそのスクープ撮れなかったら、自由契約ってことでもいいかな」
ハチケンは自分を縛っていた鎖から解き放たれたように破顔すると、ありがとうございますっ!と言い残し、編集長室を飛び出した。もう時間がない、何とか亜弓を、あとちょっと走れるように鍛えないと。
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八王子のマンションで、娘をやっと寝かしつけた田中君世は、旧友の雛形陽子に届けるため、レターパックプラスの宛名書きをしていた。
「多分、これでいけると思うんだけどな。もしダメだったら、どうやって謝ろうかな。まあ、そん時考えればいいか」
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夏至の日が近づくに連れ、丸瀬紗弥は今まで考えないようにしていた気がかりが、意識に上るようになってきた。メビウス・ロードのミッションを教えてくれた古代史研究ネットサークル「秘すとリアル」の副会長は、研究途中でサークルが内部分裂してしまったので、いくつか分からないままの謎が残っているという。
彼の仮説では、陰陽の気が練れてくるにつれ、時空間のねじれが始まって、よほど自意識を明瞭に保っておかないと、西宮戎神社にたどり着く前に、どこか違う時空に飛ばされてしまう危険があるのだと。紗弥はその点は自信があった。要するに、願い事がブレなければいいのだ。
それよりも、荻原真理子の存在である。美津根さんは優しいし、願い事なんかないって言ってたから、きっとわたしに花を持たせてくれるだろう。でも真理子さんって、まだ会ったこともないし、美津根さんが誘うくらいだから速くて純粋な人なんだろうけれど、それってやっぱり、自分の願い事を叶えるために走るんだよね。わたしへのサービスとかボランティアな訳がないよね。ということは、ゴール前で競り合ったら、絶対わたしが負ける。勝者はたった一人。でも、もう二度と卑怯なことはしないって決めたから、もしそうなったら死ぬ気で頑張るしかない。でも、その結果をわたし自身が受け入れられるんだろうか。
正面から見るとまるで紙飛行機のように薄っぺらいヴェンジを、液体ガラスのコーティング剤で丁寧に磨きながら、とにかく全力を尽くすしかないよね、と自分に言い聞かせた。紗弥のFPTは一七六。美津根に言わせれば、伸びしろ的には二百はあるから、当日成長すれば自然に奇跡も起きるんじゃないかって。そんな一見無責任で楽観的な美津根の予見を、今は信じよう。
「でも、何か気になるな。亜弓さん、まさかとは思うけど・・・」
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息子への誕生日プレゼントを悩んでいた庭島栄司は、作業場の工具類を片づけながら、夏至の翌日を休みにするかどうか決めかねていた。一日余分に休めば、お土産を買う時間はできる。でも、どっちみち自分が勝つわけだから、その願い事をプレゼントにしてやればいいよな。あんまり大それた願いはしちゃダメなんだよな、こういう場合。でも、今さらゲームってのも何だかなあ。ジュニア用のシクロクロスバイクなんか、どうだろう。よし、それならうちの奥さんも怒らないよな。さて、ベンチプレスしてから寝るか。
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早朝の庄内川サイクリングロード。集団で疾走するローラー教室の生徒たちは、背後から鬼のように怒号する猛井四郎の叱咤を、むしろ楽しんでいるかのようだった。自転車を降りた途端に、地蔵菩薩のような柔和な態度になる猛井であるが、そちらが虚像なんだろうか。
「くおらああっ、先頭交代したら邪魔にならんようにすぐ下がれ!ほらっ、前になった奴は後ろの奴の命を預かってるんじゃ、ちんたらふらつくな、しっかり走れ!」
クラビクルバンドはまだ外せないが、自転車で飛ばしているとアドレナリンが涌いてきて、痛みはまったくなくなる。これだからやめられない。勝者はいつも一人、それはこのおれしかいない。
「脇本に庭島か、おっさんの野生のパワー、なめんなよ。お前らには絶対ゴールは渡さんわ」
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「いよいよ明日ね、お天気が良さそうで、本当によかったわ」
陽子はあまり緊張するタイプではないのか、結構脳天気である。あんなに熱心に誘ったくらいだから、間違いなく願い事はあるのだろうが、それが何なのかは、亜弓には見当もつかなかった。
「でもさあ、ひょっとして明日、わたしたち以外にも誰かシークレット・ブルベ、走るのかな」
「うーん、今の時期、アワイチもビワイチも結構多いからね。サイクリストは大勢いるだろうけれど、みんな旗振って走る訳じゃないし、分からないよ」
亜弓は陽子に付き合って体幹トレもローラー台も、そこそこ頑張った感はある。だけど、そもそものモチベーションというか、自分を変えなきゃ、高めなきゃという意識が、忘れることはないものの、放っておくと、すぐ薄くなる。まあ、深く考えずに、イベントとして楽しめたらいいか。
明日は午前二時にハチケンが迎えに来るので、眠くないけど、もう寝ようと言っていた時、突然陽子のスマホが鳴った。
「陽子さん、おれです。ごめん、ちょっと足を骨折しちゃって、一緒には走れなくなった」
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