メビウス・ロード

武智亜弓

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46 オーブの共鳴(後)

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 毎年一月の十日戎大祭が済むのを待って、西宮神社では江戸時代から続く走り参りの神事として、福男選びが行われる。午前六時の開門の前には、毎年五千人を超える足自慢が集結する。
 赤門から本殿まで、二百三十メートル。一番早く着いた者が一番福。三番福までには蝦夷の御神像や面額などが、淡路島のえびす舞人形から贈られる。
 参加者は男性に限らないが、記録に残る限り、女性が三番福までを獲ったことは一度もなく、慣例上、福男と呼ばれている。一番福を勝ち取るための標準タイムは二十七秒。
 メグがブルバードから降りたその時、目の前を、白と黒のレーシングジャージの女性が駆けだした。今日、朝から何度か抜いたり抜かれたりした。この人も大事な願い事を届けに行くんだろうな。わたしの願いと、どっちが大事とかじゃない。わたしは、シホさんと、ミドリちゃんと、わたしのために、今できることに全力を尽くすだけ。背中を押してね、お願い。すると背後から平井の野太い声が届く。
「木が邪魔になったら、左に回れ!」
           *
 エリーゼの極めてタイトなコクピット内では、靴を履き替えるようなスペースはまったくない。赤門の奥にけげんそうな顔でたたずむ権宮司に、意味不明な愛想笑いを向けた脇本は、どうにかスニーカーに履き替えると、前方を裸足でトテトテと走るメグを視界に捉えた。赤門からダッシュして、すぐに右カーブ。直線の後に左カーブ。その先に、審判の楠と呼ばれるクスノキが立ちはだかる。
 すまんなあ、お嬢ちゃん。ここは情けをかける場面とちゃうねん。野郎が走っとったら、背後からタックルかましたるところやけど、そんな必要もないわ。左の石畳の方は遠回りやろうが。アホやなあ。こっちの方が早いで。ほな、お先に。
 クスノキの右手に抜ければ、砂利道だが、最短距離。緩やかな石段を六段、大股で斜めに駆け上がれば拝殿に着く、脇本は、クスノキの右手から一直線に石段に向かう。石畳が砂利になった瞬間。あっ膝が・・・と思った時、目の前にはクスノキの葉から漏れる、薄暮の空が広がっていた。あれ?滑ってしもうたんか。岩田のスニーカー、底がすり減っとるやないか。ちゃんとしたやつ、今度買ってやらなあかんな。よりによって、こんな肝心な時に。滑るのはギャグだけでええのにな。
           *
 亜弓は軽く目を閉じ、息を全部吐き出す。指先に神経を集中させ、アサギのマイクロラチェットバックルを外し、行ってきますのあいさつ代わりに、ヘルメットを閃太郎に軽く放った。閃太郎は、何事もないように左手一本で受け取ると、右親指を亜弓に向けて立てた。
 米プラザを出発するときに、陽子が渡してくれて、靴は履き替えた。純白の皮に漆喰模様が浮かぶタイガーアリー。関西に戻る前に鎌倉で買ったもので、ロードバイクに出会わなければ、里山ハイキングやジョギングに使おうと思っていた。
 背中のポケットには、濡れて文字の判別さえつかない御朱印帳、陽子から受け取った分と二冊を折りたたんで入れてある。それと、ロードバイクのベルとして換装していた、気のストレージコンバーター、オイリュクスのCリング。陽気のシルバー、陰気のブラック、そして太極のブラスの三つ。これら、奇跡を起こすための鍵となるオーブもすべて入っている。
 スタートの号砲は鳴らない。既に始まっている。背後を振り返っている暇はない。行くよ、祐二。
 祐二がいなくなった本当の理由なんて、誰にも分からない。分かったような顔して言ってほしくない。でも、きっとわたしのせいだ。あの時、もっと優しくしてあげてたら。あの時、わたしが時間を気にして先に帰らなければ。あの時、淋しげな横顔にもっと寄り添えていたら・・・
 そんな自責の思いがどんどん重くなって、寝られなくなり、ご飯が食べられなくなって、仕事に行けなくなり、今がいつか、ここがどこかさえ曖昧になって、気が付いたら病院のベッドで、陽子が傍にいてくれたんだ。
 いつ退院したのか、いつ職場に戻ったのかさえ覚えてない。わたしは、祐二がいなくなった現実に耐えられなくて、そんな世界で生きていたくなくて、思い出すたびに辛くて、無意識に忘れようとして、本当に忘れてしまっていた。それはわたしの抜け殻。でも、そんな時間もきっと必要だった。
 祐二がいなくなっても、世界は何も変わらない。わたしの中に埋められない穴が開いても、世の中のみんなには、何の関係もない。ただの日常の小さな小さなニュースのひとつ。わたしがどれだけ落ち込んで泣いていても、社交辞令のなぐさめ一言と引き替えに、すぐに忘れ去られてしまう。
 そうじゃないよね、祐二。あなたと関わった人たち。わたしとか、紗弥ちゃんや、閃太郎くん、みんなそれぞれ、自分だけの祐二を抱えて生きている。あなたと出逢えたから、今も、これからも、あなたと一緒に生きようと思える。祐二、ほら、神殿に着いたよ。お日様が沈む前に、間に合ったよ。
           *
 もう六年も前になるのか。高校三年最後の夏。兵庫県高校女子二百メートル予選で二十四秒二六を叩き出し、さらに走り幅跳び六メートル四十五センチという二つの県記録をマークした紗弥であるが、オートバイに乗り出してからは、ろくにエクササイズもしておらず、体はなまりきっていた。
 しかし、わずか二ヶ月余りとはいえ、ロードバイクを乗りこなすためにしっかりトレーニングはしてきた。いざという時は今しかない。明日なんかどうなってもいい。足は動く。走り方は、体が覚えていてくれるはず。
 左側に傾いた木の根本に転がっていた、ピンクのジャージを着た男を飛び越えた。左側から大回りしてくる女の子を、石段前で抜いた。目の前には亜弓が、石段を一段飛ばしで上っている。甘い。ここはジャンプでしょ。一段目の直前、絶好のポイントで、右足を思い切り振り上げながら、利き足の左で踏み切る。両足で着地して、一歩、二歩目で拝殿にたどり着いたと同時に、亜弓に並んだ。
           *
 拝殿の賽銭箱に、濡れたままの御朱印帳と、オイリュクスのCリングを三つ並べる。亜弓がアンカーのハンドルバーに付けていたリングは、米プラザで陽子から受け取った時には確かに真鍮色、新品の十円玉のようなブラスだった。それが今、いつの間にか白金色、プラチナに変化している。シルバーとブラックのリングに微かに触れて、キーンという、高く澄んだ金属音がいつまでも消えずに小さく響き、すうっと溶けて入り込んでくる。わたしのいのち。祐二のいのちと、共鳴してるよ。
 祐二と過ごした短い日々は、思い出なんかじゃない。祐二は遠い空から見守ってるんじゃない。わたしがこの世界からいなくなってから、再会できるんじゃない。
「神様、これからもずっと、祐二と一緒に居られますように」
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