偽りの恋が溶かした氷の仮面

空見原 禄乃

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仮面が剥がれる時

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金曜日の夜七時。会社の前に滑り込んできた黒い高級車は、街灯の光を受けて艶やかに輝いていた。助手席のドアが内側から開き、革張りシートから漂う高級感に気圧されそうになる。

「シートベルト」

短い指示に従いながら、車内に満ちる柑橘系の香りに包まれた。これが蓮の日常の匂いなのだと思うと、住む世界の違いを改めて実感する。

「今夜は取引先のパーティーがある」

ハンドルを握る蓮の横顔が、信号待ちの赤い光に照らされた。その表情には、いつもと違う緊張が見て取れる。

「急な話ですまない」

「大丈夫です……が急に私が言って大丈夫でしょうか」

「あぁ、ちょうどいい練習になる」

そう言いながらも、ハンドルを握る手に力が入っているのが分かった。

「後部座席にドレスも用意した。会場で着替えるといい」

振り返ると、高級ブランドのロゴが入った紙袋。金色の文字が車内灯を反射している。

「いつの間に……」

「昨日、用意した」

サイズまで把握されていることにはさすがに驚きを隠せなかった。

ホテルのスイートルーム。天井まで届く窓からは、宝石を散りばめたような夜景が広がっていた。

「一時間後にロビーで」

蓮はそう言い残して部屋を出て行った。

紙袋から取り出したのは、深い紺色のシルクドレス。手に取ると、なめらかな生地が指の間を流れていく。シンプルでありながら、計算され尽くしたカッティングが美しかった。

そして――――なぜ私の好みが分かったのだろう。

メイクを直し、髪をアップにまとめる。普段のナチュラルメイクとは違い、今夜は少し華やかに。鏡に映る自分が、別人のように見えた。


約束の時間にロビーへ降りると、ソファで待つ蓮の姿があった。

タキシード姿の彼は、息を呑むほど美しかった。普段のビジネススーツとは違う、フォーマルな装いが醸し出す気品。広い肩幅が作る完璧なシルエット。

私に気づいた蓮の動きが、一瞬止まった。

黒い瞳が、ゆっくりと私を捉える。その視線に全身が熱を帯びていくのを感じた。

「似合っている」

低く呟かれた言葉に、頬が燃えるように熱くなる。蓮が立ち上がり、ごく自然に腕を差し出した。その腕に手を添えると、タキシードの生地越しに筋肉の隆起を感じる。


パーティー会場は、すでに華やかな雰囲気に包まれていた。シャンデリアの光がグラスに反射し、弦楽四重奏の調べが優雅に響いている。

場違いな場所に来てしまった――そんな不安が胸をよぎった瞬間、耳元で囁き声がした。

「俺だけを見ていればいい」

吐息が耳朶に触れ、全身に甘い震えが走る。不思議と、その言葉だけで緊張が和らいでいった。

「氷室くん、お久しぶり」

初老の紳士が笑顔で近づいてきた。

「山田社長、ご無沙汰しています」

社交辞令を交わす間、蓮の手が自然に私の腰に回された。ドレスの薄い生地越しに、大きな手のひらの温度を感じる。腰のくびれに沿うようにフィットする手の形に、息が詰まりそうになった。

「素敵なお連れですね」

「恋人です」

きっぱりとした宣言。その響きが、胸の奥で反響する。

その後も次々と人が寄ってきたが、蓮は一時も私から離れなかった。耳元で相手の説明をしてくれる度に、彼の吐息と低い声が鼓膜を震わせる。

「疲れたか?」

人波が途切れた時の問いかけに、つい本音が出そうになった。

「少し外の空気を吸いに行こう」


テラスに出ると、冷たい夜風が火照った肌を冷ましてくれた。手すりに手をつき、深呼吸をする。

「すまない」

隣に立った蓮の呟きに、振り返った。

「急にこんな場所に連れてきて」

「いえ、貴重な経験ですした」

本心だった。普通なら一生縁のない世界を垣間見られたのだから。

「日菜子」

真剣な表情でこちらを見る蓮。夜風が前髪を揺らし、普段は見えない額が露わになる。その無防備な姿に、胸が高鳴った。

「もし、嫌だったら――」

「あら、氷室さん」

背後からの声に振り返ると、真っ赤なドレスの女性が立っていた。大胆に開いた胸元と妖艶な笑みが、危険な香りを漂わせている。

「お久しぶり。今日もお一人?」

値踏みするような視線を向けられ、本能的に身構えた。

「彼女だ」

さっきよりも強く、まるで所有を主張するように蓮が私を引き寄せる。

「あら、そう」

女性の顔に不快感が滲んだ。

「でも、ダンスくらいはいいでしょう?昔のよしみで」

蓮の腕に手を伸ばそうとした、その瞬間――

「触るな」

今まで聞いたことのない、氷のような声が響いた。

振り向いた蓮の表情に、息を呑んだ。普段の無表情とは違う、怒りに満ちた険しい顔。黒い瞳が冷たく女性を射抜いている。

「今は彼女と付き合っている」

低く、威圧的な宣言。空気が凍りついたように感じた。

女性は一瞬怯んだが、すぐに余裕を取り戻した。

「だから今は君とは踊れない」

蓮は私を抱き寄せた。背中に回された腕が、逃げ場を奪う。

耳元で囁かれた言葉に、全身が震えた。これは演技?それとも――

女性が去った後、蓮は人混みを縫うように歩き始めた。その足取りは速く、ついていくのがやっとだった。やがて人気のないバルコニーに出ると、手すりに両手をついた。

肩が上下している。怒りが収まらないのか、それとも――

「蓮?」

恐る恐る声をかけると、ゆっくりと振り返った。その表情を見て、言葉を失った。

苦しそうな、困惑したような、そんな顔をしていた。

「すまない。取り乱した」

「守ってくれて、ありがとうございました」

素直に礼を言うと、蓮の目が見開かれた。

「守った?」

「はい」

言いかけて口を閉じた。あの女性との関係を詮索する権利は、私にはない。

「違う」

蓮は首を横に振った。

「俺は、ただ……」

言葉を探すように視線を彷徨わせた後、意を決したように私を見据えた。

「君を他の人間に触れさせたくなかった」

心臓が大きく跳ねた。

「すまない。忘れてくれ」

自嘲的な笑みを浮かべる蓮に、胸が締め付けられた。

「恋人の振りをしてもらっているだけなのに」

そうだ。これは演技。でも、なぜこんなに苦しいのだろう。


パーティーも終盤、ダンスタイムが始まった。ムーディーな照明の中、甘い旋律が流れ始める。

「踊れるか?」

首を横に振ると、蓮は優しく手を取った。

「基本だけ教える。俺に任せて」

ダンスフロアの端で、蓮のリードに身を委ねる。最初はぎこちなかったが、彼の導きが的確で、次第にリズムに乗れるようになった。

「上手い。さすがだ」

褒められて顔を上げると、蓮と目が合った。

ダンスの姿勢が作る、危険な距離。黒い瞳にライトが反射してきらめいている。形の良い唇が、すぐそこにある。

「日菜子」

名前を呼ばれて、我に返った。いつの間にか、蓮の顔に見入っていたらしい。

「もっと俺に任せてくれ」

腰の手に力が込められ、逃げることができなくなった。見つめ合ったまま、音楽に身を任せる。

蓮の表情が、少しずつ変化していく。硬さが取れ、目が優しくなり、口元が緩む。初めて見る、素の表情かもしれない。

「今夜の君は、本当に綺麗だ」

呟きが、胸に突き刺さった。

距離が縮まる。吐息が触れ合いそうなほど、近い。このまま――

音楽が終わり、拍手が響いた。現実に引き戻され、慌てて離れようとしたが、蓮の腕が許してくれない。

「もう少し、このままで」

切なげな声に、胸が痛んだ。


帰りの車中は、重い沈黙に包まれていた。

「疲れただろう」

心配そうな問いかけに、素直に頷いた。慣れないヒールと緊張で、全身が悲鳴を上げている。

「すまない」

「でも、はい。楽しかったです」

本心だった。蓮の新しい一面を見られたことが、何より嬉しかった。

信号で車が止まった。

「さっきのは、忘れてくれ。明日で、この関係も終わりだ」

当たり前のことなのに、その言葉が鋭く胸を刺した。


会社の前で車を降りる時、蓮が小さく微笑んだ。初めて見る、心からの笑顔。優しくて、温かくて、少し寂しげな笑顔だった。

「おやすみ、日菜子」

「おやすみなさい、蓮」

名前を呼ぶと、笑顔が深くなった。

家に帰り、ドレスを脱ぎながら今夜の出来事を反芻する。「彼女は俺のものだ」という宣言。ダンスの時の、あの瞳。

ベッドに潜り込んでも、興奮が収まらない。

明日で終わり。分かっている。でも、胸の奥で何かが壊れそうな音がした。

枕に顔を埋めて、自分の不思議な環境に必死に蓋をした。
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