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第1章:求められた結婚のはずが
しおりを挟む私の名前はクレア・ローランド。
王国有数の名門貴族、ローランド公爵家の令嬢として生まれた。家の伝統と格式はとてつもなく重く、それは幼少期から私を取り巻いていた世界に大きな影響を与えていた。しかし、そんな環境を重荷と感じたことは一度もない。どこへ行っても憧れのまなざしを向けられ、周囲の誰もが私に敬意を払ってくれる。もちろん、それには公爵家としての誇りや立場を示すための厳しい作法や勉学が日々課せられていたが、私はそれを自然に受け入れていた。むしろ、幼い頃からの躾は、私にとって当たり前の習慣となっていたのだ。
髪を結い上げる召使いの手のやさしさ、朝食のために用意される銀のカトラリーの光沢、食卓には常に最高級の茶葉で淹れられた紅茶——。日常のすべてが『公爵家の令嬢』という身分にふさわしいものであり、私はそこに何の違和感も持たなかった。それはまるで、何百年も前から変わらぬ風景の中に自分が溶け込んでいるかのような感覚でもあった。
私の父はローランド公爵。王国の政治に深く関わり、王家からも強い信頼を得ている人物であり、同時に騎士団を支援する最高顧問の一人でもあった。ローランド公爵は、その冷静な判断力と公平な人柄で慕われており、特に騎士団の若手を育成する面においては右に出る者がいないほど手腕を発揮している。
母もまた、気品と優雅さを兼ね備えた女性であり、王族主催の舞踏会などでは常に一目置かれる存在だった。そんな両親のもとで育った私は、当然ながら自分も将来は王家や貴族社会で重要な役割を担うのだろうと信じて疑わなかった。実際、私は幼い頃から父の仕事ぶりを少しでも学ぼうと、隙があれば執務室に顔を出しては、訪問者とのやりとりや、書類の扱い方などを興味深く見ていたものだ。
そして私が十代の頃になると、自然と「この家の令嬢にはふさわしい結婚相手を見つけなくてはならない」という空気が周囲から流れ始めた。自分で言うのも憚られるが、それなりに恵まれた容姿もあってか、いくつもの家から縁談の話が舞い込んだ。けれど、どの縁談も私の心を揺さぶるものではなく、なんとなく“決め手”を感じられなかった。そのたびに両親は「焦る必要はないわ」「本当に納得できる相手を見つけることが大切よ」と言って、私の気持ちを尊重してくれた。
私自身も、ただ家同士の打算や利害関係だけで結婚するような形は避けたいと思っていた。もちろん貴族社会では政略結婚は珍しいことではない。それどころか、それが当たり前だとも言える。けれど、私はできるなら愛情や尊敬といった感情を大切にできる相手と結婚したかった。それがわがままだと知りながらも、心のどこかで夢を見ていたのである。
そんなある日、父からこう切り出されたのだ。
「クレア、あのギルバート・ウェインのこと、どう思う?」
ギルバート・ウェイン——それは当時、王国の騎士団で頭角を現しはじめていた男爵家の次男の名前だった。男爵家というと公爵家に比べれば家格ははるかに下になるが、だからといって私が彼を見下すようなことは一切なかった。そもそも貴族と言っても多種多様、家格や爵位によって立場が異なるのは当たり前のことだが、父のように有能な若者を正当に評価する気風の中で育った私にとっては、地位よりも個人の力量のほうが重要に思えていた。
「ギルバート・ウェイン……確か、騎士団の若手でかなり実績を積んでいる方でしたよね」
「そうだ。私の管轄する部署に在籍しているが、なかなか見どころのある男だよ。若くして小隊長を任されている。騎士としての腕前もさることながら、判断力や行動力も素晴らしい」
父はそう言いながら、少し誇らしげに微笑んだ。どうやら“自慢の部下”とでも言いたげだった。父の管轄する部署、つまり騎士団と公爵家のパイプを円滑にする役割を担う特務隊のような立ち位置に、ギルバートは所属していると聞いたことがある。
「王国の防衛や内政に貢献できる有能な騎士は貴重だ。そして、ギルバートは特に今後の活躍が期待されている。……クレア、お前も知ってのとおり、貴族の家同士の結びつきはお互いの利益になる場合が多い。でも、ただそれだけではなく、あの若者にはしっかりとした志がある。お前のように心が強く、正しい道を貫く女性とならば、うまくやっていけるのではないかと思うんだよ」
父は私の目を覗き込むようにして言った。言葉の端々に、ギルバートという人物への信頼がにじみ出ている。
確かに、騎士団の内部でも「ギルバートはこれからの王国を担う人材だ」「貴族の令嬢との縁組を望んでいる」という噂は耳にしていた。そうした噂が真実だとすれば、私とギルバートの結婚は政治的にも悪い話ではない。
だが、私は少しだけ胸がざわつくのを感じた。
「もし私がギルバート様をお慕いできなければ、父様は無理に結婚を進めることはしないのでしょう?」
「もちろんだ。お前が嫌がる結婚を押しつけるつもりはない。ただ、会ってみる価値はあると思うのだよ。彼は真面目で努力家だし、何よりお前のことをとても高く評価している。お前の人柄を直接知って、そして……」
言葉の最後は少し曖昧な言い回しだったが、父が何を言わんとしているのかはわかった。ギルバートが“ローランド公爵の娘”という肩書きだけでなく、私自身を見てくれているかもしれないということだ。
それなら、私も彼を一度自分の目で確かめてみたい。そう思った。もしもそこで、彼が心から私を望んでくれるなら、私も前向きに考えられるかもしれない。貴族の令嬢として生まれた以上、結婚には家同士の利害や地位の釣り合いが必ず関わってくる。だが、それらをすべて拒否していては一生独身で終わることになってしまうだろう。
「わかりました。いちどお話をしてみたいと思います」
私がそう告げると、父は明るい顔になってうなずいた。
「そうか。よかった。では、近いうちに公爵家で茶会を開こう。そこにギルバートを招くとしよう」
こうして私は、噂に聞くだけだったギルバート・ウェインと直接顔を合わせることになったのだ。
そして数日後、父の執務室兼応接室の一角で、私は初めてギルバートと面会した。
彼は長身痩躯というよりは、どちらかというとがっしりとした体格をしており、その整った顔立ちは騎士団の武勲と名誉を象徴するような凛々しさがあった。髪は濃い茶色で短めに整えられており、瞳の色は少し明るいブラウン。控えめながらも堂々とした立ち振る舞いは、確かに「騎士団のエリート」と称されるにふさわしい印象を受けた。
最初に挨拶を交わした際、ギルバートは私に向かって深々と頭を下げた。
「はじめまして、ローランド公爵令嬢。お会いできる日を心待ちにしておりました。私はギルバート・ウェインと申します」
礼儀正しく穏やかな声。その礼節を重んじる所作や言葉遣いには好感が持てた。こちらも微笑みながら返礼する。
「クレア・ローランドと申します。お噂は以前から父や騎士団の方々から伺っておりました。今日はお時間をいただきありがとうございます」
彼はやや緊張した面持ちを見せながら、それでも不自然にならないように、なるべく落ち着いた様子を装っているようだった。その姿を見て、私はほんの少し胸がときめくのを感じる。私のことを知っていて、それも一定の好意や尊敬を持ってくれている人に会うのは、悪い気分ではなかった。
父の用意した席に互いに腰を下ろし、しばし会話が始まる。紅茶と菓子を前にして、騎士団の任務や最近の王都での出来事などの世間話が交わされた。
「先日の魔物騒ぎでは、ギルバート様の部隊が最前線に立って対応されたと聞きました。大変な状況だったのではありませんか?」
「ああ、あれは……確かに困難な状況でした。ですが、周りの隊員たちがよく協力してくれましたし、私も全力を尽くすことができました。そのおかげで被害が最小限に抑えられたのだと思います」
ギルバートは謙遜しながらも、自分の行動を客観的に捉えているようだった。表彰されてもおかしくないほどの偉業を成し遂げた若手騎士だと聞いていたが、そのわりには鼻にかけるところがまったくない。落ち着いていて真面目、そしてひたすら努力を惜しまないタイプの人間に見えた。
「あなたの働きには、父もとても感心しておりましたよ。これからの王国を背負って立つ若者だと、いつも言っております」
私がそう伝えると、ギルバートは少し照れくさそうに笑った。
「ローランド公爵は私のような者にも公平に機会を与えてくださいますし、まるで父親のように見守ってくださるのです。騎士団で働いていて、あれほど心強いことはありません」
その言葉を聞きながら、私も思わずうれしくなる。父が評価している相手は、こうして本人も父を慕い、尊敬してくれている。きっと父にとっても、ギルバートのような若者の成長を支えるのは喜びの一つなのだろう。
そこからさらに話が進んでいくうちに、ギルバートの人柄は私の想像以上に誠実そうに思えた。なにより、彼は政治や出世ばかりを気にするようなそぶりを一切見せない。むしろ、騎士としての責務に誇りを感じ、そのために日々鍛錬に励んでいる印象が強かった。私はそこに、理想的な騎士の姿を重ねる。
「これからも精進を続け、いつかローランド公爵……いえ、王国全体にとってより大きな貢献ができるようになりたいと考えています」
ギルバートがそう語るのを聞きながら、私は静かに頷いた。もし本当に彼がそういう信念を持っているのなら、私としても応援したい気持ちが湧いてくる。
——そして、その日の茶会の終わり際に、ギルバートははっきりと私に言ったのだ。
「クレア・ローランド様。私はあなたを心から敬愛しています。もしよろしければ、私と結婚を前提にしたお付き合いをしていただけないでしょうか?」
これは、私にとって初めての“真面目な”求婚でもあった。もちろん、過去に縁談を示唆する場面はいくつかあったが、こうして本人から直接的に言葉をもらったのは初めてだったのである。
私は戸惑いながらも、心の内で確かなときめきを感じていた。ギルバートは真摯で、礼儀正しく、そして何より“人として”尊敬できる部分を持っている。もし彼と結婚したら、私は誇りを持って彼の妻になれるかもしれない。
「……はい。私も、あなたのお人柄にとても好感を抱いています。突然のことでまだ驚いていますが、私でよければ……よろしくお願いいたします」
そう返したときのギルバートの表情は、少年のように輝いていた。私は心の中で小さく息をつきながら、これが私の幸せの始まりなのだと、ほのかな期待を抱いたのである。
それから私たちは、お互いの気持ちを確かめ合うように何度か会う機会を持った。とはいえ、騎士団の任務に忙しいギルバートと、公爵家の行事や社交界での仕事が多い私とでは、なかなか頻繁に会うことも難しい。それでも、彼が書いてくれる手紙にはまめに目を通し、私も返事を書き送った。
手紙の文面はどれも真面目で誠実なもので、そこに彼の人柄が表れているようだった。「今は遠征任務で少し離れた地域にいます」「ここの住民は大変困窮していて、私たちも何とか力になれないか考えています」「帰還したらまたお会いしたい」など、騎士団としての活動状況が綴られた手紙は読み物としても興味深く、私は毎回楽しみにしていた。彼の活躍を知るにつれて、ますます彼が頼もしく感じられるし、そんな男性に想いを寄せられている自分の幸運をも感じるのだった。
数ヶ月後、父や母も含めた両家の話し合いはとんとん拍子に進み、私とギルバートは正式に婚約することとなった。ギルバートの家柄は男爵家であるが、彼が騎士団での功績を重ねるに連れ、将来的にはより高い地位を与えられるだろうと言われている。そうなれば、貴族社会の中でも十分に認められる立場になる。
それに、私の父——ローランド公爵が彼を強く後押ししている以上、余程の失態を犯さないかぎり彼の出世は約束されたようなものだ。私としても、いずれはそうした力を得たギルバートと共に、王国のために尽力できる立場になれると思えば、明るい未来が想像できた。
「クレア、本当にいい相手と巡り会えたようだな」
母は少し感慨深げに、そう微笑んでくれた。父も「お前が幸せなら、私としても嬉しい限りだ」と言い、温かく私を見守ってくれている。
私も幸せだった。今までは“貴族の令嬢”として世間から脚光を浴びてきたが、その注目には多少のプレッシャーも伴っていた。そんな私を、“一人の女性”として大切に想ってくれるギルバートの存在は、いわば私の新しい拠り所のように感じたのだ。
そして、婚約からさらに数ヶ月後、私たちは盛大な結婚式を挙げた。会場は王都でも有数の大聖堂。王家からも多くの来賓が訪れ、ローランド公爵家にとっても祝福ムードに包まれた一大行事となった。華やかに着飾った来賓たちは、口々に私たちを祝ってくれ、父の威光もあってか式自体は大成功だった。
私の着た純白のウエディングドレスは、胸元や裾に繊細なレースがあしらわれ、まるで絵画から抜け出してきたかのような気品があった。ギルバートも騎士団の正装に袖を通し、誇らしげに私の隣に並んでくれる。神官の前で誓いの言葉を交わしたとき、私は胸の奥が熱くなり、目頭が少しだけ潤んだ。
「愛している、クレア。生涯をかけて君を大切にすると誓う」
ギルバートのまっすぐな瞳を見つめながら、私も小さく頷き、そしてこう返した。
「私も……あなたと生きていきたい。どうか末永くよろしくお願いします」
その言葉を受けて、周囲の参列者たちからは大きな拍手がわき起こった。そうして私たちは、王国中が羨むような祝福のうちに夫婦となったのだ。
ところが——。
結婚式後、新婚生活が始まってからの数週間で、私はある“違和感”に気づきはじめた。
式の翌日からギルバートは妙に忙しそうにしており、私と二人きりで過ごす時間がほとんどなかったのだ。騎士団の仕事が立て込んでいるのかと思い、最初のうちは何も疑わなかった。しかし、夜になっても彼が帰らないことが続いたり、仮に屋敷に戻ったとしても「疲れているから」と言って自分の部屋に閉じこもってしまうことが多い。
結婚直後というのは、本来なら新婚夫婦が一番幸せを感じられる時期だろう。少なくとも、私はそう信じていた。だが、私たちの間には夫婦らしい触れ合いや会話の時間がほとんど訪れない。せいぜい朝に食事の席で顔を合わせ、挨拶を交わす程度だ。
「……ギルバート様は、お忙しいのかしら」
口に出してみても、私の心に広がる不安は消えてくれない。私の実家であるローランド公爵家は、広大な敷地を誇るが、私はギルバートとの結婚を機に、王都の中心部にある彼の……正確には男爵家の“邸”に住むことになっていた。もっとも、ギルバートは次男なので、本家の屋敷とは別に小規模な屋敷が割り当てられているという形だ。その屋敷自体は決して広くはないが、彼の地位や俸給を考えれば十分立派なもので、召使いや使用人も十数人ほど雇われている。
侍女に様子を尋ねても、「騎士団からの緊急の呼び出しがあったそうです」「夜間警備の任務があるとのことで、しばらくは遅くなるようです」などと言われるだけ。最初のうちはそれを信じていたが、不安は日に日に増していった。
新婚生活の初夜すら、一緒に過ごさなかった。
たった一日だけなら、どうにか心の整理もつけられる。けれど、それが何日も、何週間も続けば、誰だっておかしいと思うに違いない。私としては、公爵家の名に泥を塗るわけにはいかないという考えもあり、大きな問題として騒ぎ立てるのは避けたかったが、それでも夫婦の問題をいつまでも放置するわけにもいかなかった。
「ねえ、ギルバート様。何か悩み事があるなら、私に話してもらえませんか?」
ある夜、ようやく屋敷に戻ってきた彼に声をかけた。私はリビングのソファで待っていたのだ。テーブルの上には、使用人が用意してくれた温かい紅茶が湯気を立てている。
ギルバートは私の言葉に、ほんの少しだけ表情を曇らせた。
「……いや、何も問題はない。むしろ、君には迷惑をかけっぱなしで申し訳ないと思っているよ」
そう言いながら、彼は私の隣ではなく、少し離れた椅子に腰かけた。夫婦の距離感としては、あまりに不自然だと思うくらいに。
「公爵家のお嬢様が、こんな貧相な屋敷で窮屈じゃないかと心配してるんだ。もっとゆったりした生活に慣れているだろうから」
「私はそんなこと気にしていません。むしろ、二人で新しい家庭を作っていくという実感を得られて、うれしいんです。だから……」
そこでいったん言葉を切り、私は意を決して続けた。
「だから、本当に何かあったら遠慮なく言ってほしい。私、あなたのためにできることがあるなら力になりたいんです」
それは、新妻としての精一杯の気遣いであり、本心だった。だが、ギルバートは疲れた顔のまま、そっけなく答えるだけだった。
「ありがとう。でも、いまは俺の仕事が立て込んでいるだけだから。それ以上でも以下でもない」
私がどんなに言葉を尽くしても、彼は深く語ろうとはしない。結婚前にはあれほど熱心に想いを伝えてくれたのに、まるで別人と話しているかのようにすら感じられた。
その夜、私は自室へ戻った後もなかなか眠れなかった。新婚生活がこんな形で始まるなんて、私は想像すらしていなかったのだ。
そして私は、とうとう運命を変える出来事に遭遇する。
ある日、ギルバートの書斎の一角を整理するよう頼まれたときのことだった。私も多少の事務作業は慣れていたので、彼の仕事を手伝うつもりで書類の山を丁寧に分類していた。そこには騎士団の報告書や軍備に関する書類、王都での警備計画などが混在しており、扱いには慎重を要するものも多かった。
だが、その中に、明らかに公的なものではない手紙を見つけてしまったのだ。
「これは……」
最初は無意識に手に取っただけだったが、その封筒には封印もなく、半分ほど口が開いていた。その差し出し人の名は「リリアン」となっている。私は聞き覚えのない名前だった。
何気なく、中を取り出してみる。すると、そこには信じられないような言葉が綴られていた。
「——私たちの愛が揺らぐことはないわ。あなたは私と一緒になるために、あの公爵令嬢との結婚を利用したんだから」
「……早く彼女と縁を切れるように、あなたの出世を私も手助けする。私たちがこの王国で出世していくためには、彼女が必要だものね。あなたは我慢していて偉いわ」
私は頭が真っ白になった。
手紙には、もっと具体的な言葉も書かれていた。結婚前から二人が愛人関係にあったこと、そして彼女がギルバートの出世を支援する形で繋がっていたこと。私との結婚はあくまで“ローランド公爵家”という強大な後ろ盾を手に入れるための手段にすぎないということ——。
すべてが書面に残されている。隠しようもない証拠だった。
「嘘……。嘘、でしょう……?」
私は震える手で、その手紙を何度も読み返す。そこに書かれている内容が現実だとは到底思えなかった。ギルバートが私を“出世の道具”にしていた? それでいて、結婚前から別の女性と深く結びついていた?
結婚してから一度も夫婦としての愛を感じられなかった理由が、これですべて繋がったと言っていいのかもしれない。私の存在は、彼にとって“手段”であり、“利用価値”のある道具にすぎなかったのだ。
思わず、その場にへたり込みそうになる。けれど、なんとか踏みとどまった。胸の奥に押し寄せる怒りと悲しみがぐちゃぐちゃに混ざり合い、頭が痛いほどだ。私はその手紙をしっかりと握りしめ、ギルバートを問い詰めることを決心した。
書斎から勢いよく出て、ちょうど廊下を歩いていた執事に尋ねる。
「ギルバート様は今、どこにいらっしゃるの?」
「……少し前に外出されましたが、もう少ししたらお戻りになるかと」
「そう。ありがとう」
声が震えるのを抑えながら答えて、私はリビングへ向かった。そこでギルバートの帰りを待ち、直接手紙を突きつけて問いただそう——もう、それしかないと感じたからだ。
そして数時間後、夜の帳がおりて少し経った頃。ギルバートは屋敷に戻ってきた。私がリビングで待ち構えていることに気づくと、怪訝そうな表情をする。
「どうした? こんな夜更けに」
「……これを、見つけたの」
言いながら、私はあの手紙を彼の前に突き出した。ギルバートは最初こそ「何のことだ?」と言ったが、差出人の名に気づいた瞬間、目を見開いた。
「リリアンって、誰? 何が書いてあるか、あなたは知っているわよね」
私の声は抑えきれない感情で震えている。ギルバートはあからさまに動揺し、目を泳がせたが、すぐに開き直ったように私から手紙をひったくる。
「……勝手に人の手紙を読むとは、いい度胸だな」
「あなたが出しっぱなしにしていたのよ。私だって好きで読んだわけじゃない。でも……あなたの本心を知ってしまった以上、黙っているわけにはいかないわ」
そう言うと、ギルバートは舌打ち混じりにため息をついた。まるで「余計なことをしてくれた」という風に。
「……クレア、そういうことだよ。言わなくてもわかるだろう? 俺は、ローランド公爵の後ろ盾が欲しかった。お前はそれに最適だったんだ。だから結婚した。それだけだ」
そのあまりにも露骨な物言いに、私は言葉を失う。ギルバートは私を見据えながら続けた。
「リリアンは、俺が結婚する前からの仲だ。お前と違って、俺にとって本当に必要な女性だ。けど、騎士団で出世するには公爵家の支援が必要不可欠だった。それでお前と結婚したわけだが……まぁ、そこに愛情なんてものは存在しない。悪かったな」
彼の口調には反省や後悔の色はまるでなかった。ただ、私を道具として扱っていたことを開き直っているだけ。それが、私の心に致命的な痛みを与える。
「……あなたは、私との婚約前……いえ、もっと前からずっとリリアンという人と……?」
「そうだ。公爵令嬢に求婚するなんて高望みかと思ったが、まさかお前が受け入れてくれるとはな。おかげで俺は近いうちに大きな地位を得られるだろうし、リリアンとも安定した暮らしができる。そういう算段だ」
私はその言葉を聞いて、自分の中で何かが決定的に壊れたのを感じた。心臓の奥から熱いものがこみ上げ、目頭がじわりと熱くなる。
これまで私が信じていたギルバートの“誠実な姿”や“騎士としての高潔な精神”は、すべて嘘だったのか。あの結婚式で誓われた愛の言葉も……全部嘘。私は、偽りの言葉に心を奪われ、自分の未来を預けてしまった。
激しい怒りがこみ上げると同時に、慟哭に似た悲しみが胸を打つ。でも、私は泣かない。こんな男のために涙を流す価値などない——そう理性が告げていた。
だからこそ、私は一拍置いてから、はっきりと口を開いた。
「離縁を求めます」
すると、ギルバートは鼻で笑う。まるで私を侮蔑するかのように。
「ふん。離縁? お前、正気か? 離縁されたら俺はおしまいだ。ローランド公爵の娘を追い出した男……そんなの、誰も評価しなくなる。だから認めるわけがないだろう」
私はその笑い声に、背筋が震える嫌悪感を覚えた。それを表に出さないよう、ぎゅっと拳を握りしめる。
「私には、あなたとの結婚を続ける意味がない。それに……もういいの。私はあなたの家を出ることにします」
言い捨てて、私は部屋を後にした。ギルバートが何か言う気配はあったが、もう耳に入ってこない。私はさっさと自室へ戻り、最低限の荷物だけをまとめ始める。公爵家の資産は山ほどあるが、ギルバートの屋敷に持ち込んだ私物はさほど多くはない。ドレスや宝石もあるが、今はそんなものどうでもいい。それより早くここを出たい。その一心だった。
屋敷の使用人たちは私の突然の行動に驚いていたが、私の表情を見て何かを察したのか、引き止める者はいなかった。私は侍女に少しだけ話し、「一晩だけ私をこのままにしてほしい」と頼んだ。朝になったら荷物と共に出て行く、と。
そして、その夜。私はほとんど眠れぬまま、夜明けと共に馬車を手配し、ギルバートの屋敷を後にした。——向かう先は、私が生まれ育ったローランド公爵家の邸。もうそこへ帰るしかなかった。
もしギルバートが本気で私を引き止めるなら、何かしら行動を起こしていただろう。だが、彼は動かなかった。私が屋敷を出る頃に姿を見せることさえなかった。結婚してからまだ数週間だというのに……こんなにも簡単に離れ離れになるなんて。
私は馬車の中で窓から差し込む朝日の眩しさを恨めしそうに見つめながら、自分の境遇を嘆いた。結婚の幸せに満ち溢れたはずの新婚生活は、たった数週間でこんな形で終わりを迎えてしまったのだ。人はこれを「破綻」あるいは「裏切り」と呼ぶだろう。私は今、そのど真ん中に立たされている。
——私の人生はいったい、どうなってしまうの?
そんな問いだけが頭を巡る。けれど、どれだけ考えても答えなんて見つからない。私が今できることは、まず実家の公爵家に戻り、両親にすべてを打ち明けること。それ以外に道はなかった。
そうして、私はかつて暮らした公爵家の大門を再びくぐることとなった。
中庭を抜け、玄関ホールへ足を踏み入れると、懐かしい光景が目の前に広がる。美しく磨かれた大理石の床、高々とした天井の装飾、そして壁際には歴代のローランド公爵の肖像画が並んでいる。幼い頃は毎日のように目にしていた光景だったが、こうして数週間ぶりに見ると、まるで以前とは違う世界のように感じる。
使用人たちが驚きながらも恭しく出迎えてくれ、その中の一人が私の母を呼びに行ってくれた。少しすると、母が慌ただしい足音で姿を見せる。
「クレア……!? どうしたの、こんな朝早く……」
顔を合わせるなり、母は言葉を失った。何かがあったことを直感的に理解したのだろう。私は無理に笑おうとしたが、こみ上げる感情に耐えきれず、涙があふれそうになる。
「……ごめんなさい、母様。少し、少しだけ……今は何も聞かないで」
私がそう言うと、母は何も言わず、静かに私を抱きしめてくれた。その優しい温もりに触れた瞬間、張り詰めていたものが一気に崩れ落ちそうになる。私は震える唇を噛みしめながら、母の胸に顔を埋めた。
「大丈夫よ。落ち着くまでゆっくりしていなさい。私も父様も、あなたの味方だから」
母の声は穏やかで、まるで幼い頃に戻ったような安心感を与えてくれる。私はその言葉に救われる思いだった。まだ詳しい事情を何も話していないのに、母はただ私の気持ちに寄り添ってくれる。そんな母の存在がありがたく、尊く感じられた。
そしてこのあと、私は少しだけ落ち着きを取り戻したところで、母と父にこれまでのいきさつをすべて打ち明けることになるのだ。ギルバートと結婚してからの数週間で何が起きたのか、どうして私は彼の家を出ることを決意したのか。その説明に、どれほどの苦痛が伴うかは想像に難くない。
しかし、伝えなければ始まらない。私の心は既に限界に近かった。両親に背中を押してもらわなければ、私はもう一歩も前に進めない。深い悲しみと怒りを抱えながら、私はこの公爵家で新たな決断をすることとなる——。
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