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第2章:新たな出会いと再起
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侯爵家令嬢シェラの婚約破棄は、一夜のうちに屋敷の中を暗い空気で満たした。シェラ自身も衝撃から完全には立ち直れず、夜を迎えても眠れないまま過ごしていた。思い返すだけで胸が軋む。涙が乾いては湧き出してくる。アレクシスの声、ミレイアの嘲笑、そして両親の取り乱した様子……。それらが脳裏を駆け巡り、瞼を閉じても眠りは遠かった。
しかし、夜は明ける。翌朝、窓から差し込む陽の光が、彼女の目蓋に重く覆い被さるようにして意識を覚醒させた。まだ寝不足のまま、シェラはベッドの端に腰かける。鏡に映る自分の顔は、目元が赤く腫れ、唇の血色も悪い。しかし、それでもここで塞ぎ込んでいては何も始まらない――夜通し泣き暮らしたわずかな隙間から、そんな声が聞こえてくるような気がした。
ゆっくりと立ち上がり、ドレッサーの前へ。侍女のメアリーを呼び、いつも通り身支度を整えてもらう。寝乱れた髪を丁寧に梳かしてもらううちに、心も少しずつ落ち着きを取り戻していった。メアリーは気を遣うように口数を少なくしながらも、いつも通りにきちんと仕事をこなしてくれる。そのことにシェラは深く感謝した。今の自分には、当たり前の日常すら息苦しく感じるからこそ、変わらぬ仕草で接してくれるメアリーの存在が温かい。
「お嬢様、今日はいかがお過ごしになりますか?」 髪を結い終えたメアリーが、遠慮がちに尋ねる。シェラは少し考えたあと、意を決したように言った。 「父と母に話があるの。昨夜のうちに心を決めたわ。まずは、私の今後について話し合わないと」
そう、婚約破棄を言い渡されたからといって、ただ座して落ち込んでいるわけにはいかない。これからの自分の生き方を、自分で決めなければならないのだ。シェラはまだ悲しみも屈辱感も拭いきれないまま、それでも足を前に進める。侍女のメアリーに扉を開けてもらい、廊下を進んでいくと、使用人たちが皆どこか息を潜めているように感じられた。
階段を下り、昨夜も話し合いが行われた応接室へと入る。すると、そこには朝食後のコーヒーを片手に、重苦しい顔でソファに沈んでいる父と母の姿があった。母は目尻が赤くなっており、昨夜あまり眠れなかったのだろう。父もまた、侯爵としての威厳を保とうとしているのか、表情を険しくしているが、その目はどこか焦点が定まっていない。
「失礼します……おはようございます、父上、母上」 シェラがそう挨拶すると、二人ははっと顔を上げた。母はすぐさま駆け寄り、シェラの両手を握る。 「シェラ、少しは眠れたの? 顔色が悪いわ……大丈夫?」 「ええ……まだ少しぼんやりしているけれど、気をしっかり持っているつもりよ」
言葉を交わすうちに、母の手の温もりにほっとする。父もシェラに向き合い、低く呻くような声を出した。 「すまない、シェラ……まさか、公爵家がこんな非常識な真似をするとは……。父として、不甲斐ない限りだ」
どこか自責の念を含んだ言葉に、シェラはかぶりを振った。無理もない。父はアレクシスとの縁組みによって、将来的に両家の利益を強固にする意図があったはずだ。それが、まさかこんな形で破談になるなど、誰も予想していなかっただろう。 「父上、気に病まないで。悪いのはあちらですもの。私たちの落ち度ではありません」 「だが……お前のこれからを考えると、放ってはおけない。貴族の娘が婚約破棄となれば、次の縁談にも支障が出るかもしれん。ましてや、あちらは公爵家。スキャンダルの広がり方も想像以上だろう」
父は苦渋に満ちた表情を浮かべながら、再びソファに沈んだ。母も同様に言葉少なだ。シェラは二人を前にして、今こそ自分がしっかりしなければと思う。この親子三人が同じ方向を向かなければ、侯爵家は混乱する一方だ。
「私は……」 シェラが言いかけたところで、急に扉がノックされ、執事が静かに姿を見せる。 「侯爵様、少々お耳に入れたいことがございます。公爵家からの使いが早朝に参りまして、こちらに書簡を預かっております」 「なに? こんなにも早く?」
父は執事から差し出された書簡を受け取ると、慌てて中身に目を通す。母とシェラは息を呑み、その反応を待ちわびるように見つめる。父の表情は一読しただけで険しく歪んだ。 「……ふざけている……っ!」 父は震える手で紙を握りしめ、再びソファに投げ出す。
「なんて書いてあるの?」 母が恐る恐る問いかけると、父は低い声で書簡の内容を要約する。 「要するに『公爵家の嫡男アレクシスは、正当な恋愛感情に基づき従妹のミレイア嬢を選んだ。よって、シェラ嬢との婚約は無効とする。もしも何か異議申し立てがあるのであれば、しかるべき手続きをとり、法廷にでも持ち込めばいい』……だと」
あまりに一方的で傲慢な宣言だった。大きな家柄であることを盾に、婚約破棄を押し付けてきたのみならず、まるで「抗うなら抗ってみろ」と言わんばかりの挑発までもが含まれている。母は言葉を失い、シェラもまた怒りよりも呆れが先に立つ。
――本当に、ここまであからさまに破談を突きつけてくるとは。
思い返せば、アレクシスはそれほど冷酷な人物ではなかったはずだ。それが今や、飼い犬が手の平を返すかのごとく豹変している。この背後には、ミレイアが関わっているのは間違いないだろう。しかし、その真意を突き止める術は今のところない。
「父上、母上……」 シェラは声を落ち着かせて言った。 「私は、もうこの婚約破棄を受け入れて構いません。抗議したところで、向こうが聞く耳を持つとは思えませんし、これ以上、醜い争いに巻き込まれても仕方がないわ」 「し、しかし……シェラ。お前がそれでいいのか? お前はあの男を――」 「……好きだったのかもしれない。でも、彼の本心が私ではないというなら、仕方がないと思います。無理やり継続したところで、不幸が続くだけですもの」
そう口にすると、シェラの中に僅かな寂しさと、確かな決意が生まれた。思えば、結婚を機に領地をしっかり守り抜く夢や、アレクシスとともに未来を築いていくという希望があった。だが、そのすべてが崩れ去った今、彼女にはもう未練すら重荷になりつつあった。
「ただし……一つだけ願いがあります」 「願い……?」 父が訝しげに眉をひそめる。シェラは、まっすぐ父の目を見据えた。 「侯爵家に生まれた私にも、領地経営に参加する権利を与えてほしいのです。これまでは政略結婚が前提だったから、深く関わる機会はなかったけれど、父上や母上を少しでもお助けしたい」
この言葉に、母は驚いたように目を瞬かせる。父も想定外だったのか、少し考えてから口を開いた。 「……なるほど。確かに今後は、公爵家との縁が途絶えることを考えれば、我が家だけで自立していく必要がある。しかし、お前にその覚悟はあるのか?」 「はい。幸い、私は子供の頃から領地を回って住民の方々と触れ合うのが好きでした。あの頃はただの遊びに近い感覚だったけれど、こうなった今、自分に何ができるか探したいんです」
シェラの瞳に揺るぎない意志が宿っているのを見て、父はしばらく黙考した末、ひとつ息をついた。 「わかった。お前の気持ち、受け入れよう。……だが、何かあった時はすぐに相談しなさい。何があっても、お前は私たちの大切な娘だ。いいな?」 「ありがとう、父上」
こうして、シェラは婚約破棄のスキャンダルの只中にいながら、早速自分の足で立ち上がるための第一歩を踏み出すことにした。
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翌日、シェラは領地視察の準備を整えていた。もともと領地へ赴くのは父や弟、あるいは執事などの役目であったが、今回はシェラ自ら立候補したのだ。
朝早くから馬車を用意し、数名の護衛とともに出立する。侯爵家の領地は都市部から少し離れた所にあり、自然豊かな土地が広がっている。子供の頃は毎年のように両親と一緒に訪れていたが、大人になってからは疎遠になっていた場所でもある。
馬車の窓から外を眺めると、街道沿いに広がる田畑や牧草地が一面に広がっていた。遠くには牧夫が牛を追う姿が見え、ちらほらと集落が点在している。シェラはそののどかな風景にどこか懐かしさを覚えると同時に、これが自分の守るべき土地なのだと改めて胸に刻んだ。
やがて視界に、小さな村が見えてきた。馬車から降り、護衛を伴って歩を進めると、住民たちが訝しげな表情を浮かべる。見慣れない美しいドレス姿の女性――どうやらすぐに「お嬢様がいらした」と分かったようで、村長と思しき初老の男性が慌てて駆け寄ってきた。
「こ、これは失礼しました。侯爵家のお嬢様がわざわざお越しくださるとは……。ご挨拶が遅れまして、私、この村の村長を務めております、エドガーと申します」 「ご丁寧にありがとうございます、エドガーさん。私、シェラと申します。今日は父に代わり、領地の様子を学びたいと考えて参りました」
シェラは慣れないながらも、できるだけ柔らかい笑みを浮かべて応える。すると、周囲にいた数名の村人も、安堵したように彼女の周りに集まってくる。村には貴族や役人が訪れること自体がそう多くはないため、やはり少し警戒されているのだろうとシェラは推測した。
「そ、そうでしたか。それでは、村の案内をさせていただきますね。こちらへどうぞ……」 エドガーが先導すると、シェラたちは村の中を歩きながら話を聞くことにした。ここでは小麦の栽培と酪農が中心で、特に酪農は周辺の街に牛乳やチーズを出荷しているという。村の規模は小さいが、その分、住民たちが協力して生計を立てているそうだ。
歩を進めるうちに、道端で遊んでいる子供たちの姿が見えた。母親らしき女性たちが目を光らせているが、子供たちは貴族の馬車や衣装に興味津々のようだ。中にはシェラに手を振ってくる子もいる。シェラはそれに微笑み返し、胸が温かくなるのを感じた。
――こんなに穏やかな生活が営まれているのに、私の心はあの婚約破棄で乱されっぱなし。けれど……。
シェラは自分の中でスイッチが入るのを感じる。アレクシスのことを考えれば腹立たしさや苦しさが湧いてくるが、同時に、こうして人々と触れ合ううちに「守るべきものがある」という感覚を得られているのだ。自分がやるべきことは、この領地を安定させ、住民たちが安心して暮らせるようにすること。それが、侯爵家令嬢としての使命であり、今のシェラにとって自分を支える意義でもあった。
「ところでエドガーさん、この村で何か困っていることや、私たちに相談したいことなどはありませんか?」 シェラが尋ねると、エドガーは少し首を傾げてから答えた。 「そうですね……最近、貴族や商人が立ち寄る街道のほうで、盗賊被害がちらほら出ていると聞きます。うちの村は今のところ被害に遭ってはいませんが、もう少し警備を強化できると安心なのですが……」 「盗賊……なるほど。確かに街道が荒れれば、出荷する酪農製品にも支障が出ますね」
シェラは護衛をしている騎士の一人に意見を求める。騎士によれば、最近、各地で小規模な盗賊団が活発化しているとのこと。国としての取り締まりも進めているが、なにぶん人手不足の面が否めないらしい。シェラはその話を聞きながら、何とか自分たちの領地を守る手立てを考えようとする。
――私にできることは、どれほどあるのだろう。
そう自問しつつも、ここで引き下がるわけにはいかない。少なくとも、盗賊の脅威を減らすために、父へ報告して領地の騎士団を村の巡回に回す提案をしよう。いや、そもそもこの村自体が小さいなら、うまく近隣の村と連携して自衛を強化できないだろうか――シェラの頭の中には、普段ならあまり浮かばないようなアイデアが次々と湧いてきた。
「ご協力、ありがとうございます、シェラお嬢様」 エドガーは深々と頭を下げる。シェラは微笑んで応えた。 「いえ、こちらこそ。せっかくお話を聞かせてもらったのだから、解決に向けて動きたいと思います」
結局、シェラはこの村に半日ほど滞在してから、次の集落へ向かうことにした。じっくり時間をかけて村の人々の話を聞き、家畜小屋や畑、井戸の設備なども見学する。初めての本格的な領地視察にも関わらず、彼女は驚くほど積極的に動いていた。
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やがて夕方、再び馬車に揺られながら帰路へつく頃には、シェラは心地よい疲労感に包まれていた。婚約破棄のショックはまだ消えてはいないが、その思いを紛らわせるように一日を駆け回った結果、多少なりとも前向きな気力を得られたと言えるかもしれない。
そして、シェラは窓の外に広がる夕陽を見つめながら、ふと遠い昔の思い出に触れる。――そういえば、幼い頃、一度だけここで偶然に出会った少年がいた。名前は確か……アレスト、といっただろうか。
あれはまだシェラが十歳くらいのとき。父に連れられて領地を回っていた最中、ちょっと目を離したすきに森の奥へ迷い込んでしまった。そこで転んで足を痛め、途方に暮れていたシェラを助けてくれたのが、金色の髪をした少年――アレストだった。
アレストは当時からどこか気品があり、年上の子供とは思えない落ち着きを持っていた。彼はシェラを背負って森から抜け出し、侯爵家の従者に引き合わせてくれたのだ。何度もお礼を言おうとしたが、彼はわずかに微笑んで首を振ると、どこへともなく去っていった。
後日、その少年が王太子――すなわちこの国の第一王子であると噂で耳にしたときは驚いた。あのときは、なぜ王太子がこんな辺境の森にいたのか、詳細はわからない。ただ、シェラの中では「王太子アレスト=金色の髪の少年」という記憶が鮮烈に残っている。
――結局、それ以来彼に会うことはなかった。社交界で名前を見かけることはあっても、実際に話をする機会はなかったから。
そんなことを思い出しているうちに、馬車は屋敷に到着する。城下に近い豪壮な建物を背に、使用人たちが出迎えてくれた。シェラはほっと息を吐き、やや疲れた体を引きずるようにして玄関へと向かう。
そこへ、妙に晴れやかな表情をしたミレイアが姿を現した。華やかなオレンジのドレスをまとい、きらびやかな宝石をさりげなく身に着けている。いつものこととはいえ、何とも浮かれた雰囲気だ。だが、彼女がその装いで待ち伏せでもするように玄関ホールに立っているのを見ると、嫌な予感しかしない。
「ごきげんよう、シェラ。領地視察とやら、ご苦労様ね。こんな日にわざわざ泥臭い仕事なんて、ご立派だわ」 心底皮肉めいた声に、シェラは軽く溜息をついた。彼女が何を言わんとしているのかは、だいたい察しがつく。しかし、ここで感情を爆発させても意味がない。
「ええ、私には大切な使命だから。……それで何か用?」 シェラが極力冷静に応じると、ミレイアは不敵な笑みを浮かべる。 「そうね、わざわざ知らせようか迷ったのだけれど……アレクシス様とのことで、話があるから明日、私の部屋に来てちょうだいな。時間はあなたの都合に合わせるわ」
名前を聞くだけで心が痛む。だが、ミレイアの誘いに乗らず無視するわけにもいかない。シェラは苦い表情を隠せないまま、わずかに首を縦に振る。 「……わかったわ。明日、伺う」 「ああ、そう。それでいいわ。では、またね」
まるで勝者が敗者に通告をするような態度。婚約破棄を勝ち取った喜びを隠しもせずに、あからさまに見せつけてくる。悔しいが、この場でどうこう言っても仕方がない。シェラは足早にその場を立ち去り、深い息をつく。
視察で少しだけ晴れやかになった気持ちが、またどんよりと曇り始めているのを感じてしまう。
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翌日、シェラは予定通りミレイアの部屋を訪れた。部屋に入ると、豪華な調度品の数々が目に飛び込む。元々、ミレイアは貴族の出身だが、両親を失い、親族であるシェラの家に引き取られた立場。にもかかわらず、こうして厚遇を受けているのは、彼女の愛想の良さや社交能力の高さがあったからだろう。
だが、一時は姉妹のように育った仲だというのに、今の二人の間には冷たい空気しか流れていない。
「まあ、わざわざ来てくれたのね。座ったら?」 ミレイアはソファの向かいを手で示す。シェラは控えめに腰を下ろし、その視線をしっかりと受け止める。 「それで、話って何かしら?」
ミレイアはカップに口をつけ、優雅に紅茶を飲む。一拍置いた後、彼女は唇を上品に拭いながら口を開いた。 「あなたには申し訳ないけれど、アレクシス様と私は結婚をするつもりなの。公にはまだ発表していないけれど、そう遠くない未来に式を挙げると思うわ」 わざわざ宣言するとは、あまりのあからさまさにシェラの胸が痛んだ。しかし、感情的になっては彼女の思う壺だ。シェラは努めて平静を保ち、「そう……」とだけ答える。
「それでね、その結婚式に、あなたを招待するべきかどうか悩んでいるの。いちおう同居人だし、従妹でもあるでしょう?」 挑発的な言葉。シェラは唇を噛むが、すぐに冷静に問い返す。 「私を招待するかどうかは、あなたとアレクシスの自由よ。私を侮辱するためにわざわざ呼ぶなら、丁重にお断りするわ」 「あら、まあ……強がりを言って。あなたが当日どんな表情をするか、ちょっと見てみたい気もするんだけど」
その悪意に満ちた言葉に、シェラは内心うんざりする。やはり、これが彼女の本性なのだろうか。かつての無邪気なミレイアはどこへ消えたのか。
しかし、その時、ミレイアの表情が不意に変わった。どこか憂いを帯びたような、複雑な色が混ざり合っている。
「……でも、本当にそれだけが理由じゃないの。ねえ、シェラ。あなたは侯爵家の令嬢でありながら、昔から目立たずに生きてきたでしょう? 私がいなければ、あなたが社交界で人気を博せたかもしれない。だけど実際には、地味で目立たないお人形さんみたいに扱われていたわ」
言葉の端々に棘が混ざるが、どこか自嘲じみた響きがある。シェラはまっすぐミレイアの瞳を見つめ、問いかける。 「何が言いたいの?」 「私ね、あなたを妬んでいたのよ。親を失った私をこの屋敷で受け入れてくれて、何不自由なく育ててくれた。それはありがたいと思っている。でも、あなただけが『本物の令嬢』として扱われて、将来は公爵家との縁組みまで決まって……。私がいくら社交界で賞賛を浴びても、正式な後ろ盾がない限り、本当の意味での地位は得られない」
ミレイアの言葉に、シェラは胸の奥がずきりと疼いた。まさか彼女がそんな思いを抱えていたとは。確かに、シェラは侯爵家の正当な血筋であり、ミレイアはあくまで引き取られた身。いかに社交界での評判が高かろうとも、「代わりの令嬢」に過ぎないと見られていたのかもしれない。
「だから、あなたが羨ましかった。そして、あのアレクシス様があなたの婚約者だなんて、なおさら認められなかったのよ。私のほうがきれいで、社交術にも長けているのに、なぜあなたが……ってね」 そう吐き捨てるように言うミレイアの瞳は、どこか悲痛にも見えた。その感情が正しいかどうかはわからない。ただ、彼女なりに苦しんでいたのも事実だろう。
しかし、それでも。彼女がシェラを裏切り、アレクシスを奪った行為が正当化されるわけではない。シェラはしっかりと感情を抑え、静かに言った。 「……そう。あなたの苦しみはわかったわ。でも、私を傷つけた事実は変わらないし、あなたがアレクシスと結婚しようがしまいが、私の人生はもう別の道を歩き始めているの」 「別の道、ね……。いいわ。じゃあ、思う存分やりなさいな。どうせあなたがどこまでできるか、私は見届けさせてもらうわ」
ミレイアは最後に挑発的な笑みを浮かべると、シェラを解放するように手を振った。その目には、まだ拭いきれない嫉妬と憎悪が混ざっているように思える。シェラは振り返らず、早足に部屋を後にした。
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部屋を出ると、廊下にいたメアリーが心配そうに声をかける。 「お嬢様……大丈夫ですか?」 「ええ、平気よ。少し疲れただけ」
本当は、どっと疲労感が襲ってきている。ミレイアの言葉を聞き、彼女の抱えていた劣等感や嫉妬心に触れた今、シェラの心は複雑だ。過去に戻ってどうにかできる話ではないし、彼女が選んだ行動を受け止めるしかないのだろう。
(でも、私は……もう、失うものはない。公爵家の婚約も、彼女との友情も)
シェラはそう自分に言い聞かせる。大切なのは、今とこれからだ。失ったものを数えるより、残されたものや、新たに手に入れるべきものを見つめていくほうが建設的だろう。
すると、ちょうどそこへ父が用事を伝えにやってきたらしい。急ぎ足でこちらへ向かってくる姿が見えた。
「シェラ、少し話があるのだが……よろしいか?」 「ええ、もちろん」
父はシェラを廊下の一角へ呼び寄せ、声を潜める。 「実は、王宮から急な要請があってな。王太子殿下が、近々この辺りの領地視察を計画しているらしい。そこで、我が家に立ち寄りたいとのお話をいただいたのだ」 「王太子……!」
シェラの脳裏に、あの金色の髪の少年――アレストの姿がはっきりと蘇る。ずいぶん前の出来事だから、彼が今どう成長しているかは想像もつかないが、あのときの優しい眼差しを彼女は今でも覚えている。
「どうやら、この領地の状況を視察し、必要があれば国として支援する意向があるらしい。公爵家との婚約破棄の件も、もしかすると耳に入っている可能性がある。なにぶん急なことで対応に戸惑っているのだが……シェラ、お前が案内役として同行する気はないか?」 「私が……?」
驚きと緊張が同時に込み上げる。まさか王太子の視察を補佐する役目を、父が自分に託そうとは思っていなかった。確かに、先日の領地視察で多少の知識は得られたが、それでも高貴なる王太子を迎えるとなれば、気後れしてしまうのも無理はない。
「本来なら、私や執事が案内するべきなのだが、アレスト殿下(王太子)は『若い人の意見を聞きたい』と仰っているそうだ。お前が積極的に領地経営に関わりたいというのなら、絶好の機会だと思うが……どうだ?」 父の言葉に、シェラは心臓の鼓動が高まるのを感じる。これほどの大役を任されるのは重圧もあるが、同時に大きなチャンスだ。
「……やらせていただきます。もし私でよければ、ぜひ王太子殿下に領地を案内したいわ」 「そうか。助かる。実際、私も忙しいし、お前の視点から殿下に話をするのは有意義かもしれん。何か困ったことがあればすぐに言いなさい」
王太子――アレスト。かつて森で出会い、幼いシェラを助けてくれた少年。その姿と、今の王太子が同じ人物なのかどうかは定かではない。だが、心のどこかで彼に再会したいという思いも確かにある。
思いがけず膨らむ期待と、一方で婚約破棄の話が広まりつつあるという恐れ。シェラはそれを抱えながら、王太子来訪の準備に向けて日々を過ごすことになるのだった。
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こうして、シェラの日常は激変し始める。婚約破棄によって自分を見失いかけた彼女だが、領地視察を通して「守るべきもの」を再認識し、さらに王太子アレストの来訪という大きな転機と出会う運命が待ち受けていた。
自分を捨てたアレクシスとミレイアへの怒りと悲しみを抱えながらも、シェラの心は少しずつ前を向こうとしている。過去の幸せを嘆くのではなく、未来の可能性を信じて。
この先、王太子との再会は彼女の運命をどのように塗り替えていくのか――シェラ自身もまだ知る由もない。けれど、婚約破棄という絶望の中から這い上がろうとする彼女の瞳には、確かな輝きが宿り始めていた。
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しかし、夜は明ける。翌朝、窓から差し込む陽の光が、彼女の目蓋に重く覆い被さるようにして意識を覚醒させた。まだ寝不足のまま、シェラはベッドの端に腰かける。鏡に映る自分の顔は、目元が赤く腫れ、唇の血色も悪い。しかし、それでもここで塞ぎ込んでいては何も始まらない――夜通し泣き暮らしたわずかな隙間から、そんな声が聞こえてくるような気がした。
ゆっくりと立ち上がり、ドレッサーの前へ。侍女のメアリーを呼び、いつも通り身支度を整えてもらう。寝乱れた髪を丁寧に梳かしてもらううちに、心も少しずつ落ち着きを取り戻していった。メアリーは気を遣うように口数を少なくしながらも、いつも通りにきちんと仕事をこなしてくれる。そのことにシェラは深く感謝した。今の自分には、当たり前の日常すら息苦しく感じるからこそ、変わらぬ仕草で接してくれるメアリーの存在が温かい。
「お嬢様、今日はいかがお過ごしになりますか?」 髪を結い終えたメアリーが、遠慮がちに尋ねる。シェラは少し考えたあと、意を決したように言った。 「父と母に話があるの。昨夜のうちに心を決めたわ。まずは、私の今後について話し合わないと」
そう、婚約破棄を言い渡されたからといって、ただ座して落ち込んでいるわけにはいかない。これからの自分の生き方を、自分で決めなければならないのだ。シェラはまだ悲しみも屈辱感も拭いきれないまま、それでも足を前に進める。侍女のメアリーに扉を開けてもらい、廊下を進んでいくと、使用人たちが皆どこか息を潜めているように感じられた。
階段を下り、昨夜も話し合いが行われた応接室へと入る。すると、そこには朝食後のコーヒーを片手に、重苦しい顔でソファに沈んでいる父と母の姿があった。母は目尻が赤くなっており、昨夜あまり眠れなかったのだろう。父もまた、侯爵としての威厳を保とうとしているのか、表情を険しくしているが、その目はどこか焦点が定まっていない。
「失礼します……おはようございます、父上、母上」 シェラがそう挨拶すると、二人ははっと顔を上げた。母はすぐさま駆け寄り、シェラの両手を握る。 「シェラ、少しは眠れたの? 顔色が悪いわ……大丈夫?」 「ええ……まだ少しぼんやりしているけれど、気をしっかり持っているつもりよ」
言葉を交わすうちに、母の手の温もりにほっとする。父もシェラに向き合い、低く呻くような声を出した。 「すまない、シェラ……まさか、公爵家がこんな非常識な真似をするとは……。父として、不甲斐ない限りだ」
どこか自責の念を含んだ言葉に、シェラはかぶりを振った。無理もない。父はアレクシスとの縁組みによって、将来的に両家の利益を強固にする意図があったはずだ。それが、まさかこんな形で破談になるなど、誰も予想していなかっただろう。 「父上、気に病まないで。悪いのはあちらですもの。私たちの落ち度ではありません」 「だが……お前のこれからを考えると、放ってはおけない。貴族の娘が婚約破棄となれば、次の縁談にも支障が出るかもしれん。ましてや、あちらは公爵家。スキャンダルの広がり方も想像以上だろう」
父は苦渋に満ちた表情を浮かべながら、再びソファに沈んだ。母も同様に言葉少なだ。シェラは二人を前にして、今こそ自分がしっかりしなければと思う。この親子三人が同じ方向を向かなければ、侯爵家は混乱する一方だ。
「私は……」 シェラが言いかけたところで、急に扉がノックされ、執事が静かに姿を見せる。 「侯爵様、少々お耳に入れたいことがございます。公爵家からの使いが早朝に参りまして、こちらに書簡を預かっております」 「なに? こんなにも早く?」
父は執事から差し出された書簡を受け取ると、慌てて中身に目を通す。母とシェラは息を呑み、その反応を待ちわびるように見つめる。父の表情は一読しただけで険しく歪んだ。 「……ふざけている……っ!」 父は震える手で紙を握りしめ、再びソファに投げ出す。
「なんて書いてあるの?」 母が恐る恐る問いかけると、父は低い声で書簡の内容を要約する。 「要するに『公爵家の嫡男アレクシスは、正当な恋愛感情に基づき従妹のミレイア嬢を選んだ。よって、シェラ嬢との婚約は無効とする。もしも何か異議申し立てがあるのであれば、しかるべき手続きをとり、法廷にでも持ち込めばいい』……だと」
あまりに一方的で傲慢な宣言だった。大きな家柄であることを盾に、婚約破棄を押し付けてきたのみならず、まるで「抗うなら抗ってみろ」と言わんばかりの挑発までもが含まれている。母は言葉を失い、シェラもまた怒りよりも呆れが先に立つ。
――本当に、ここまであからさまに破談を突きつけてくるとは。
思い返せば、アレクシスはそれほど冷酷な人物ではなかったはずだ。それが今や、飼い犬が手の平を返すかのごとく豹変している。この背後には、ミレイアが関わっているのは間違いないだろう。しかし、その真意を突き止める術は今のところない。
「父上、母上……」 シェラは声を落ち着かせて言った。 「私は、もうこの婚約破棄を受け入れて構いません。抗議したところで、向こうが聞く耳を持つとは思えませんし、これ以上、醜い争いに巻き込まれても仕方がないわ」 「し、しかし……シェラ。お前がそれでいいのか? お前はあの男を――」 「……好きだったのかもしれない。でも、彼の本心が私ではないというなら、仕方がないと思います。無理やり継続したところで、不幸が続くだけですもの」
そう口にすると、シェラの中に僅かな寂しさと、確かな決意が生まれた。思えば、結婚を機に領地をしっかり守り抜く夢や、アレクシスとともに未来を築いていくという希望があった。だが、そのすべてが崩れ去った今、彼女にはもう未練すら重荷になりつつあった。
「ただし……一つだけ願いがあります」 「願い……?」 父が訝しげに眉をひそめる。シェラは、まっすぐ父の目を見据えた。 「侯爵家に生まれた私にも、領地経営に参加する権利を与えてほしいのです。これまでは政略結婚が前提だったから、深く関わる機会はなかったけれど、父上や母上を少しでもお助けしたい」
この言葉に、母は驚いたように目を瞬かせる。父も想定外だったのか、少し考えてから口を開いた。 「……なるほど。確かに今後は、公爵家との縁が途絶えることを考えれば、我が家だけで自立していく必要がある。しかし、お前にその覚悟はあるのか?」 「はい。幸い、私は子供の頃から領地を回って住民の方々と触れ合うのが好きでした。あの頃はただの遊びに近い感覚だったけれど、こうなった今、自分に何ができるか探したいんです」
シェラの瞳に揺るぎない意志が宿っているのを見て、父はしばらく黙考した末、ひとつ息をついた。 「わかった。お前の気持ち、受け入れよう。……だが、何かあった時はすぐに相談しなさい。何があっても、お前は私たちの大切な娘だ。いいな?」 「ありがとう、父上」
こうして、シェラは婚約破棄のスキャンダルの只中にいながら、早速自分の足で立ち上がるための第一歩を踏み出すことにした。
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翌日、シェラは領地視察の準備を整えていた。もともと領地へ赴くのは父や弟、あるいは執事などの役目であったが、今回はシェラ自ら立候補したのだ。
朝早くから馬車を用意し、数名の護衛とともに出立する。侯爵家の領地は都市部から少し離れた所にあり、自然豊かな土地が広がっている。子供の頃は毎年のように両親と一緒に訪れていたが、大人になってからは疎遠になっていた場所でもある。
馬車の窓から外を眺めると、街道沿いに広がる田畑や牧草地が一面に広がっていた。遠くには牧夫が牛を追う姿が見え、ちらほらと集落が点在している。シェラはそののどかな風景にどこか懐かしさを覚えると同時に、これが自分の守るべき土地なのだと改めて胸に刻んだ。
やがて視界に、小さな村が見えてきた。馬車から降り、護衛を伴って歩を進めると、住民たちが訝しげな表情を浮かべる。見慣れない美しいドレス姿の女性――どうやらすぐに「お嬢様がいらした」と分かったようで、村長と思しき初老の男性が慌てて駆け寄ってきた。
「こ、これは失礼しました。侯爵家のお嬢様がわざわざお越しくださるとは……。ご挨拶が遅れまして、私、この村の村長を務めております、エドガーと申します」 「ご丁寧にありがとうございます、エドガーさん。私、シェラと申します。今日は父に代わり、領地の様子を学びたいと考えて参りました」
シェラは慣れないながらも、できるだけ柔らかい笑みを浮かべて応える。すると、周囲にいた数名の村人も、安堵したように彼女の周りに集まってくる。村には貴族や役人が訪れること自体がそう多くはないため、やはり少し警戒されているのだろうとシェラは推測した。
「そ、そうでしたか。それでは、村の案内をさせていただきますね。こちらへどうぞ……」 エドガーが先導すると、シェラたちは村の中を歩きながら話を聞くことにした。ここでは小麦の栽培と酪農が中心で、特に酪農は周辺の街に牛乳やチーズを出荷しているという。村の規模は小さいが、その分、住民たちが協力して生計を立てているそうだ。
歩を進めるうちに、道端で遊んでいる子供たちの姿が見えた。母親らしき女性たちが目を光らせているが、子供たちは貴族の馬車や衣装に興味津々のようだ。中にはシェラに手を振ってくる子もいる。シェラはそれに微笑み返し、胸が温かくなるのを感じた。
――こんなに穏やかな生活が営まれているのに、私の心はあの婚約破棄で乱されっぱなし。けれど……。
シェラは自分の中でスイッチが入るのを感じる。アレクシスのことを考えれば腹立たしさや苦しさが湧いてくるが、同時に、こうして人々と触れ合ううちに「守るべきものがある」という感覚を得られているのだ。自分がやるべきことは、この領地を安定させ、住民たちが安心して暮らせるようにすること。それが、侯爵家令嬢としての使命であり、今のシェラにとって自分を支える意義でもあった。
「ところでエドガーさん、この村で何か困っていることや、私たちに相談したいことなどはありませんか?」 シェラが尋ねると、エドガーは少し首を傾げてから答えた。 「そうですね……最近、貴族や商人が立ち寄る街道のほうで、盗賊被害がちらほら出ていると聞きます。うちの村は今のところ被害に遭ってはいませんが、もう少し警備を強化できると安心なのですが……」 「盗賊……なるほど。確かに街道が荒れれば、出荷する酪農製品にも支障が出ますね」
シェラは護衛をしている騎士の一人に意見を求める。騎士によれば、最近、各地で小規模な盗賊団が活発化しているとのこと。国としての取り締まりも進めているが、なにぶん人手不足の面が否めないらしい。シェラはその話を聞きながら、何とか自分たちの領地を守る手立てを考えようとする。
――私にできることは、どれほどあるのだろう。
そう自問しつつも、ここで引き下がるわけにはいかない。少なくとも、盗賊の脅威を減らすために、父へ報告して領地の騎士団を村の巡回に回す提案をしよう。いや、そもそもこの村自体が小さいなら、うまく近隣の村と連携して自衛を強化できないだろうか――シェラの頭の中には、普段ならあまり浮かばないようなアイデアが次々と湧いてきた。
「ご協力、ありがとうございます、シェラお嬢様」 エドガーは深々と頭を下げる。シェラは微笑んで応えた。 「いえ、こちらこそ。せっかくお話を聞かせてもらったのだから、解決に向けて動きたいと思います」
結局、シェラはこの村に半日ほど滞在してから、次の集落へ向かうことにした。じっくり時間をかけて村の人々の話を聞き、家畜小屋や畑、井戸の設備なども見学する。初めての本格的な領地視察にも関わらず、彼女は驚くほど積極的に動いていた。
---
やがて夕方、再び馬車に揺られながら帰路へつく頃には、シェラは心地よい疲労感に包まれていた。婚約破棄のショックはまだ消えてはいないが、その思いを紛らわせるように一日を駆け回った結果、多少なりとも前向きな気力を得られたと言えるかもしれない。
そして、シェラは窓の外に広がる夕陽を見つめながら、ふと遠い昔の思い出に触れる。――そういえば、幼い頃、一度だけここで偶然に出会った少年がいた。名前は確か……アレスト、といっただろうか。
あれはまだシェラが十歳くらいのとき。父に連れられて領地を回っていた最中、ちょっと目を離したすきに森の奥へ迷い込んでしまった。そこで転んで足を痛め、途方に暮れていたシェラを助けてくれたのが、金色の髪をした少年――アレストだった。
アレストは当時からどこか気品があり、年上の子供とは思えない落ち着きを持っていた。彼はシェラを背負って森から抜け出し、侯爵家の従者に引き合わせてくれたのだ。何度もお礼を言おうとしたが、彼はわずかに微笑んで首を振ると、どこへともなく去っていった。
後日、その少年が王太子――すなわちこの国の第一王子であると噂で耳にしたときは驚いた。あのときは、なぜ王太子がこんな辺境の森にいたのか、詳細はわからない。ただ、シェラの中では「王太子アレスト=金色の髪の少年」という記憶が鮮烈に残っている。
――結局、それ以来彼に会うことはなかった。社交界で名前を見かけることはあっても、実際に話をする機会はなかったから。
そんなことを思い出しているうちに、馬車は屋敷に到着する。城下に近い豪壮な建物を背に、使用人たちが出迎えてくれた。シェラはほっと息を吐き、やや疲れた体を引きずるようにして玄関へと向かう。
そこへ、妙に晴れやかな表情をしたミレイアが姿を現した。華やかなオレンジのドレスをまとい、きらびやかな宝石をさりげなく身に着けている。いつものこととはいえ、何とも浮かれた雰囲気だ。だが、彼女がその装いで待ち伏せでもするように玄関ホールに立っているのを見ると、嫌な予感しかしない。
「ごきげんよう、シェラ。領地視察とやら、ご苦労様ね。こんな日にわざわざ泥臭い仕事なんて、ご立派だわ」 心底皮肉めいた声に、シェラは軽く溜息をついた。彼女が何を言わんとしているのかは、だいたい察しがつく。しかし、ここで感情を爆発させても意味がない。
「ええ、私には大切な使命だから。……それで何か用?」 シェラが極力冷静に応じると、ミレイアは不敵な笑みを浮かべる。 「そうね、わざわざ知らせようか迷ったのだけれど……アレクシス様とのことで、話があるから明日、私の部屋に来てちょうだいな。時間はあなたの都合に合わせるわ」
名前を聞くだけで心が痛む。だが、ミレイアの誘いに乗らず無視するわけにもいかない。シェラは苦い表情を隠せないまま、わずかに首を縦に振る。 「……わかったわ。明日、伺う」 「ああ、そう。それでいいわ。では、またね」
まるで勝者が敗者に通告をするような態度。婚約破棄を勝ち取った喜びを隠しもせずに、あからさまに見せつけてくる。悔しいが、この場でどうこう言っても仕方がない。シェラは足早にその場を立ち去り、深い息をつく。
視察で少しだけ晴れやかになった気持ちが、またどんよりと曇り始めているのを感じてしまう。
---
翌日、シェラは予定通りミレイアの部屋を訪れた。部屋に入ると、豪華な調度品の数々が目に飛び込む。元々、ミレイアは貴族の出身だが、両親を失い、親族であるシェラの家に引き取られた立場。にもかかわらず、こうして厚遇を受けているのは、彼女の愛想の良さや社交能力の高さがあったからだろう。
だが、一時は姉妹のように育った仲だというのに、今の二人の間には冷たい空気しか流れていない。
「まあ、わざわざ来てくれたのね。座ったら?」 ミレイアはソファの向かいを手で示す。シェラは控えめに腰を下ろし、その視線をしっかりと受け止める。 「それで、話って何かしら?」
ミレイアはカップに口をつけ、優雅に紅茶を飲む。一拍置いた後、彼女は唇を上品に拭いながら口を開いた。 「あなたには申し訳ないけれど、アレクシス様と私は結婚をするつもりなの。公にはまだ発表していないけれど、そう遠くない未来に式を挙げると思うわ」 わざわざ宣言するとは、あまりのあからさまさにシェラの胸が痛んだ。しかし、感情的になっては彼女の思う壺だ。シェラは努めて平静を保ち、「そう……」とだけ答える。
「それでね、その結婚式に、あなたを招待するべきかどうか悩んでいるの。いちおう同居人だし、従妹でもあるでしょう?」 挑発的な言葉。シェラは唇を噛むが、すぐに冷静に問い返す。 「私を招待するかどうかは、あなたとアレクシスの自由よ。私を侮辱するためにわざわざ呼ぶなら、丁重にお断りするわ」 「あら、まあ……強がりを言って。あなたが当日どんな表情をするか、ちょっと見てみたい気もするんだけど」
その悪意に満ちた言葉に、シェラは内心うんざりする。やはり、これが彼女の本性なのだろうか。かつての無邪気なミレイアはどこへ消えたのか。
しかし、その時、ミレイアの表情が不意に変わった。どこか憂いを帯びたような、複雑な色が混ざり合っている。
「……でも、本当にそれだけが理由じゃないの。ねえ、シェラ。あなたは侯爵家の令嬢でありながら、昔から目立たずに生きてきたでしょう? 私がいなければ、あなたが社交界で人気を博せたかもしれない。だけど実際には、地味で目立たないお人形さんみたいに扱われていたわ」
言葉の端々に棘が混ざるが、どこか自嘲じみた響きがある。シェラはまっすぐミレイアの瞳を見つめ、問いかける。 「何が言いたいの?」 「私ね、あなたを妬んでいたのよ。親を失った私をこの屋敷で受け入れてくれて、何不自由なく育ててくれた。それはありがたいと思っている。でも、あなただけが『本物の令嬢』として扱われて、将来は公爵家との縁組みまで決まって……。私がいくら社交界で賞賛を浴びても、正式な後ろ盾がない限り、本当の意味での地位は得られない」
ミレイアの言葉に、シェラは胸の奥がずきりと疼いた。まさか彼女がそんな思いを抱えていたとは。確かに、シェラは侯爵家の正当な血筋であり、ミレイアはあくまで引き取られた身。いかに社交界での評判が高かろうとも、「代わりの令嬢」に過ぎないと見られていたのかもしれない。
「だから、あなたが羨ましかった。そして、あのアレクシス様があなたの婚約者だなんて、なおさら認められなかったのよ。私のほうがきれいで、社交術にも長けているのに、なぜあなたが……ってね」 そう吐き捨てるように言うミレイアの瞳は、どこか悲痛にも見えた。その感情が正しいかどうかはわからない。ただ、彼女なりに苦しんでいたのも事実だろう。
しかし、それでも。彼女がシェラを裏切り、アレクシスを奪った行為が正当化されるわけではない。シェラはしっかりと感情を抑え、静かに言った。 「……そう。あなたの苦しみはわかったわ。でも、私を傷つけた事実は変わらないし、あなたがアレクシスと結婚しようがしまいが、私の人生はもう別の道を歩き始めているの」 「別の道、ね……。いいわ。じゃあ、思う存分やりなさいな。どうせあなたがどこまでできるか、私は見届けさせてもらうわ」
ミレイアは最後に挑発的な笑みを浮かべると、シェラを解放するように手を振った。その目には、まだ拭いきれない嫉妬と憎悪が混ざっているように思える。シェラは振り返らず、早足に部屋を後にした。
---
部屋を出ると、廊下にいたメアリーが心配そうに声をかける。 「お嬢様……大丈夫ですか?」 「ええ、平気よ。少し疲れただけ」
本当は、どっと疲労感が襲ってきている。ミレイアの言葉を聞き、彼女の抱えていた劣等感や嫉妬心に触れた今、シェラの心は複雑だ。過去に戻ってどうにかできる話ではないし、彼女が選んだ行動を受け止めるしかないのだろう。
(でも、私は……もう、失うものはない。公爵家の婚約も、彼女との友情も)
シェラはそう自分に言い聞かせる。大切なのは、今とこれからだ。失ったものを数えるより、残されたものや、新たに手に入れるべきものを見つめていくほうが建設的だろう。
すると、ちょうどそこへ父が用事を伝えにやってきたらしい。急ぎ足でこちらへ向かってくる姿が見えた。
「シェラ、少し話があるのだが……よろしいか?」 「ええ、もちろん」
父はシェラを廊下の一角へ呼び寄せ、声を潜める。 「実は、王宮から急な要請があってな。王太子殿下が、近々この辺りの領地視察を計画しているらしい。そこで、我が家に立ち寄りたいとのお話をいただいたのだ」 「王太子……!」
シェラの脳裏に、あの金色の髪の少年――アレストの姿がはっきりと蘇る。ずいぶん前の出来事だから、彼が今どう成長しているかは想像もつかないが、あのときの優しい眼差しを彼女は今でも覚えている。
「どうやら、この領地の状況を視察し、必要があれば国として支援する意向があるらしい。公爵家との婚約破棄の件も、もしかすると耳に入っている可能性がある。なにぶん急なことで対応に戸惑っているのだが……シェラ、お前が案内役として同行する気はないか?」 「私が……?」
驚きと緊張が同時に込み上げる。まさか王太子の視察を補佐する役目を、父が自分に託そうとは思っていなかった。確かに、先日の領地視察で多少の知識は得られたが、それでも高貴なる王太子を迎えるとなれば、気後れしてしまうのも無理はない。
「本来なら、私や執事が案内するべきなのだが、アレスト殿下(王太子)は『若い人の意見を聞きたい』と仰っているそうだ。お前が積極的に領地経営に関わりたいというのなら、絶好の機会だと思うが……どうだ?」 父の言葉に、シェラは心臓の鼓動が高まるのを感じる。これほどの大役を任されるのは重圧もあるが、同時に大きなチャンスだ。
「……やらせていただきます。もし私でよければ、ぜひ王太子殿下に領地を案内したいわ」 「そうか。助かる。実際、私も忙しいし、お前の視点から殿下に話をするのは有意義かもしれん。何か困ったことがあればすぐに言いなさい」
王太子――アレスト。かつて森で出会い、幼いシェラを助けてくれた少年。その姿と、今の王太子が同じ人物なのかどうかは定かではない。だが、心のどこかで彼に再会したいという思いも確かにある。
思いがけず膨らむ期待と、一方で婚約破棄の話が広まりつつあるという恐れ。シェラはそれを抱えながら、王太子来訪の準備に向けて日々を過ごすことになるのだった。
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こうして、シェラの日常は激変し始める。婚約破棄によって自分を見失いかけた彼女だが、領地視察を通して「守るべきもの」を再認識し、さらに王太子アレストの来訪という大きな転機と出会う運命が待ち受けていた。
自分を捨てたアレクシスとミレイアへの怒りと悲しみを抱えながらも、シェラの心は少しずつ前を向こうとしている。過去の幸せを嘆くのではなく、未来の可能性を信じて。
この先、王太子との再会は彼女の運命をどのように塗り替えていくのか――シェラ自身もまだ知る由もない。けれど、婚約破棄という絶望の中から這い上がろうとする彼女の瞳には、確かな輝きが宿り始めていた。
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