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33話 それを、何と呼ぶか(後)

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「っ……ユリエス、君が王族としてその娘の面倒を見ろ! 私は忙しいので失礼する!」


 走るような速足で出て行った彼の意志から怯えて逃げているのは明らかだったけれど、顔だけは引き締めて威厳のある国王のような様子であったのが逆に滑稽だった。見栄を張らなければならない上の立場の人間というのも大変そうではある。しかし同情は全くできない。どちらかといえばちょっとスッキリした。
 浮かべていた家具をとりあえず、元々の位置に戻していく。椅子の脚やらベッドの柱やらが壊れているので全く元通りにはできなかったけれど。……ちょっと反省した。


『とりあえずこれで一件落着ですね。宿に帰りましょうか』

「……君、せっかく写した手記のことを忘れていないか? 写した紙はどこにやったんだ?」

『あ。……えーと、鞄に入れた気がします』


 呆れたように言われて思い出した。もう覚悟も決めてしまったし色々あって写した手記のことが頭から抜けていたのだ。
 そういえばこの部屋で確認すると言っていたのにぼんやりしていて鞄にしまったような気がする。おかげで部屋中に紙が散れることも破けることもなかったので結果的によかったとは思うが。
 鞄から念写した紙の束を取り出して、改めてそれを読む。ひとまず私が読んでからユーリに伝えるつもりだ。

 そこに書かれていたのはこの世界に呼び出された女性の人生の記録。しかし手紙ともいえる内容だった。手記自体は随分古めかしかったので結構昔の事なのだろう。それでも、彼女の身に起きたことは自分と重なる部分が多かった。
 異世界の違う文化に、価値観に戸惑ったこと。異国でも色に対する意識は似たようなものだったらしく、色が薄いと虐げられる人と親しくなったこと。……そしてその人と結婚して子供が生まれ、この地で最後まで生きていくと決めたことが書かれていた。


[私は神宮司真といいます。これは私と同じように、日本、もしくは地球からこの世界に召喚された後の世の誰かに宛てたものです。私は元の世界に戻る方法が分からず、この世界で生きることになりました。こちらは元の世界と違うことも多く、戸惑うことも多いけれど幸せに暮らしています。これを読んでいるあなたがこの世界を不安に思っているなら、少しでもその心の支えになれればと――]


 この書き手はどうやらこの世界で幸せになれたようだ。だからこの世界に来て不安になっているとしたら、心配しなくても大丈夫だと優しく語り掛ける文章だった。色んな事件に巻き込まれたりして結構波乱万丈な人生だったようだが、老年となってこれを書いた時には少なくとも幸せな人生だったと思えている。……念写ではなく、手記の実物に触れてサイコメトリーをしてみたかった。
 物体に宿った思念を読み取るその能力なら、この人がどんな様子なのか目に浮かんだだろう。温かい文だったから、きっと本当に幸せだったのだろうけど。


(元の世界に戻る方法は分からずじまいだけど、読めてよかった。……うん、私も自分の選択が間違いじゃないって思えてきた)


 この手記の内容は異国に召喚された同国の人間の人生録であり、元の世界に戻る手がかりはなかったことをユーリに伝えた。
 それを聞いた彼は――ほっと、安心したような感情を発して。その後酷く自分を責め始めた。


『ユーリさん? どうしたんですか?』

「……すまない。こんなつもりは……」


 片手で顔を覆った彼は、唇を噛んでいる。手記を読む間は文字に集中したかったので精神感応は切っていて、その間ユーリが何を考えていたかは知らない。ただ、この手記に私が元の世界へ帰る手がかりがあるか否か、固唾を飲んで見守っている様子ではあった。
 結果、この手記に世界の渡り方は書かれていない。元の世界に戻る手がかりはなかった。それを聞いた途端、ユーリの緊張は解けた。……安心してしまったのだ。私がまだ、帰ることはないと――手がかりが見つからなくてほっとしてしまった、そんな自分を『最低だ』と責めている。
 そこで私は、自分の意思をまだ伝えていなかったことに気づいた。


『ユーリさん、私、帰らないことに決めました』

「…………何?」

『ユーリさんがたくさん我慢して、頑張って協力してくれたのにごめんなさい。でも、帰らないと決めました』



 元の世界へ戻るのが、正しいのは分かっている。けれどもう、私の心がそれを明確に拒絶した。きっと、彼と離れて元の世界に戻ったら、私の力はまた暴走してしまう。
 私はユーリの傍に居たい。彼がそれを望んでくれるから、それに応えたいというだけではなくて。私も彼と過ごす心地よい時間の中で生きていきたい。


(ユーリさんのいない世界では、私は多分もう……まともでいられない)


 私はもう、私の感情を自分で抑えられない。暴走したら自分を止めることのできない爆弾のような存在だ。この世界にとって完全な異物だが、元の世界に帰っても危険な存在になってしまった。
 この世界に、好きな人が出来てしまったから。私の心を乱す彼が二つの世界を合わせても唯一、私を止められる人なのだ。
 ユーリは驚いた顔で私を見つめている。私の感情は、精神感応でちゃんと伝わっているはずだけれど。……でも、言葉でも伝えるべきだろう。


「ユーリアス……ん? ちょっと違うかな……ゆぅりあす……」

「……ユゥリアス」

「ユゥリアス。あ、分かった……よし」


 この世界の発音には慣れないし、最後に聞いたのが二か月も前だったから上手く呼べない私を見かねてお手本のようにユーリが自分の名を口にする。私が何をしようとしているのかは分かっていないが、混乱しながらもどこかで期待するような、それでいて不安でいるような、そんな気持ちで、心臓の鼓動も早くなっているようだ。
 夕日色の瞳を真っ直ぐに見つめながら、想いを声にする。


「ユゥリアス、好きエシディ


 この世界の誰も、家族ですら呼ばない彼の本当の名前を呼びたかった。その名を呼んで、こちらの世界の言葉で気持ちを伝えたかった。きっとこの名を呼べるのは私だけだから。私だけに許された告白だと思うから。
 ユーリは私の人生で初めてできた友人。けれどこの感情は友情だけではすまないものだ。だから「友愛アシディ」ではなく「恋愛エシディ」の意味で好意を口にした。セルカに間違って使った言葉とは違う。これは本物の好意だと確信している。


「…………ハルカ、それは友人に向ける言葉ではない。……間違って、いないのか?」

『間違ってません。私のこれは、ユーリさんとはだいぶ違いますけど……でも、恋愛感情だと思います。伝わってま、すか……』


 夕日色の瞳にどんどん涙がたまっていくことに驚いた。彼が発する感情に悲しみなどないのに、何故泣かせてしまったのか分からずに固まっていると、ユーリは今まで見た中で一番柔らかく、ふわりと笑って見せた。


「君の好意は、くすぐったいな」


 人は、嬉しすぎても泣くらしい。笑いながら涙をこぼすその姿は、幸福に満ちていて。私もつられて笑った。



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