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十話 見えない世界

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 予想通り良く晴れた日の朝、料理人が作った軽食をバスケットに詰めて意気揚々と家を出た。とはいえ集合場所までは馬車で送られる。今日はジファール領北西にある二股に分かれた穏やかな流れの川までやってきた。街からは離れているため他に人の姿は見当たらない。
 御者に前回と同じくらいの時間に迎えに来てもらうように頼み、馬車の姿が見えなくなったところでティタニアスが空から現れる。


「ごきげんよう、ニア」

「ああ、オフィリア。……今日はこんなに早く貴女に会えて嬉しい」


 ティタニアスは柔らかい表情で笑いかけてきた。昼にはまだ一刻ほどの時間が残っているので前回の外出よりも数時間早く待ち合わせていることになる。私も夜に言葉を交わすだけでは物足りなく感じていたし、長く過ごしたいと思ったからこの時間帯に約束をしたのだ。


「この前は午後からだったものね。……今日はお昼に軽食も用意したのよ」

「人間の食べ物か? 妖精の中には好む者も多いからな、興味がある。……少し歩くので荷物は俺が持とう」


 機嫌よく揺れていた尻尾と羽を仕舞い、銀の仮面をつけたティタニアスがバスケットをそっと私の手から取っていった。指先一つ触れないように気を付けていることが可笑しいような、けれど少し寂しいような。


「今日は妖精の小道を使わないのね」

「あれは人間の世界の狭間にある歪んだ空間だからな。それに、妖精の世界の入り口はあちらこちらにある。道順を守れば誰でも入れるので時々人間が迷いこむこともあるが……」


 妖精の世界へ行くには目に見えないルートを辿る必要がある。例えば角を四回同じ方向に曲がってから逆に歩き出したり、ある木の幹の周りを七周してから進んだり、通常なら取らない行動をする必要があるため余程の偶然が重ならない限りは道を知っている者しか入れない。
 迷い込んでくる人間は妖精の悪戯に遭っているかとてつもなく運が悪いかのどちらかであるという。

(……確かにこれは、知らないと分からないわ)

 ティタニアスの案内に従って河原を歩いているが、先程から進んだり戻ったりを繰り返していてすでにどういう順番で歩いたのか分からなくなっていた。道順を間違えたらやり直しとなるらしいので決して彼の言葉を聞き逃さないようにしなければならない。


「よし、あとはこの川に向かって進むだけだ」

「……川に?」

「ああ。そうすればあちら側に行ける」


 穏やかな流れとはいえ川は川。入れば服が水を吸い、動けなくなってしまうのではないだろうか。そう考えて足を止めた私に気づかないまま、ティタニアスが川に向かって一歩踏み出した。
 途端、その姿が忽然と消えてしまう。先ほどまで目の前にあった背中が消えてしまったことに焦り、驚き、その名を大きな声で呼びながら私も川へと足を踏み入れた。……はずだった。


「オフィリア? ……どうしたんだ?」


 不思議そうにこちらを振り返るティタニアスと、その向こうに広がる鮮やかな橙色の花畑。私は確かに川へ足を踏み出したはずだが冷たい水の感触はなく、柔らかな土を踏みしめている感覚が伝わってくる。振り返って見ればそこには先程の河原はなく、ただ若葉の草原が広がっていた。


「……突然、ニアの姿が消えてしまったから驚いて」

「ああ……世界を渡ったからな。見えなくて当然だ」


 私はいまだ騒めく己の胸をなだめようと手を置いた。驚き焦り、そしてとても不安になったのだ。何をそんなに不安に思ったのか。それはおそらく、ティタニアスが消えてしまったことに対して恐怖を覚えたからだ。自分の世界からティタニアスと言う存在が突然消えてしまう、そんな恐怖を。

(ニアが居なくなってしまったら……嫌だわ。とても嫌)

 ほんの一瞬見えなくなっただけだ。けれど、私は妖精のことを知らない。ティタニアスの家も知らないし、彼が私の元へ赴いてくれなければ会いに行くこともできない。連絡手段も持っていない。彼が突然消えてしまったら私は、彼を探すことができないのだと気づいてしまった。


「ねぇ、ニア……私」

「それは人間の食べ物かい?」


 その声は耳のすぐ傍から聞こえてきた。驚いてそちらを向くと、小さな妖精が私の顔の横を飛んでいて驚く私ににこりと笑いかけてくる。
 鮮やかな橙色の髪と目をした、手の平サイズの妖精だ。ダリアの花を帽子のように被っているので、ダリアの妖精なのかもしれない。


「よかったら一つ分けて欲しいんだ。代わりに世界樹の種をあげるから」

「……花の妖精か。オフィリア、これは妖精の取引だ。好きにしたらいい」

「たくさんあるから私は構わないけれど……」


 軽食の入ったバスケットはティタニアスが持っている。彼が差し出すそれから一つスコーンを取り出して花の妖精に向き直った。振り向いた瞬間は不安げにティタニアスの方をちらちらと見ていたが、私の手にあるものを見ると目を輝かせて飛びついてくる。


「ありがとう! これであの子に僕の姿が見えるかも!」

「……あの子?」

「うん、人間の友達さ。でも僕のことが見えなくなっちゃったみたいだからね。竜が居るから迷ったけど声かけてよかったよ! じゃあこれ、お礼ね!」


 頭の花の中からクルミのような種を取り出し、私の手の平にそれを置くと自分と左程変わらない大きさのスコーンを抱えてどこかへ飛んで行った。
 あまり状況が飲み込めないためティタニアスの顔を見上げる。彼は妖精が立ち去った方角を眺めていたが私の視線に気づくと首を傾げた。


「どうしたんだ?」

「いえ……見えなくなるってどういうことなのかしらと思って」

「ああ……人間も子供の内は妖精が見える、という者がいるらしい。それが成長するとある日突然見えなくなる」


 幼い子が見えない友人と遊ぶという話は耳にしたことがある。それは大人に見えない妖精と遊んでいるのだという。人間が好きな妖精は自分の姿を見ることができる相手を見つけると仲良くしたくなるものだ。しかし、相手が幼子であった場合は急な別れが訪れることもある。
 昨日まで普通に遊んでいた友人が見えなくなる。妖精にとっては、目の前に立っているのに気づいてもらえなくなる。人間の方がいくら探しても見えなくなってしまったものは見つけられない。やがてもう二度と会えないことに気づき、諦めることになる。


「妖精が人間の食べ物を口にすると見えない人間にも姿が見えることがあるからな。……先程の妖精はそれを期待したんだろう」

「そう……会えるといいけれど」


 妖精が私に残していった種を見つめる。世界樹の種、と言っていたが使い道はよく分からない。とりあえずポケットにしまっておいた。
 ある日突然、大切な友人の世界から自分が消えてしまうというのは、どんな気分だろう。自分を探す友人に声をかけても気付いてもらえず、別れを告げることさえできないのは――想像するだけで悲しい。

(……私が家族に見えなくなることもあるのかしら)

 人間の食事を続けていれば人に見えるままで居られるのだろうか。妖精の世界へ行くことを最近はよく考えるけれど、家族に自分が見えなくなる可能性は考えたことがなかった。不安になってティタニアスに尋ねてみる。


「妖精の食べ物だけを長期間食べ続ければ見えなくなるだろうが……時々にでも人間の食べ物を摂っていれば完全に見えなくなるということはないだろうな」

「……よかった」


 それならいつか――ティタニアスへ嫁入りすることがあっても、リリアンナが望んでいるように顔を見せにくることができるだろう。
 そうしてふと、自分が彼との結婚について考える機会が増えたことに気づいて驚いた。恋仲でもないのに気が早すぎないかと少々気恥ずかしくなる。……それだけティタニアスに惹かれているという証拠なのかもしれない。


「……もう辺りに妖精の気配はないな」

「そんなことが分かるの?」

「ああ。俺は耳がいいからな。見えない場所に居ても妖精の羽音や息遣いが聞こえる。噂話をしていれば聞く気がなくても聞こえてしまう」


 それは番以外と関われない竜が情報を得るために生まれ持つ性質の一つなのかもしれない。妖精というものは大抵お喋り好きで、様々な情報が“噂”として巡っているらしい。妖精の世界の大きな出来事はどれだけ離れていようと大抵の妖精が知っている、と思った方がいいのだとか。


「それにしても……これをつけていると他の妖精も近づいてくるんだな。俺に話しかけることはないだろうが」


 そう言いながら銀の仮面を外したティタニアスは小さく息を吐いた。仕舞っていた翼や尾も再び姿を現したが、濃紺の尾は垂れ下がっていて少し元気がないように見える。


「……妖精たちは貴方の目に怯えてしまうのよね」

「ああ、そうだ。だから目が合う前に逃げられることがほとんどだったんだがな。こんな目がなければ……と思っても仕方がないが」


 赤色が揺らめきながら変化していく彼の瞳の力に、他の者は皆恐れを抱いてしまう。そのせいで誰と関わることが出来なかった彼が私と出会うまでの時間を思うと苦しくなる。妖精たちと、そして彼自身に嫌われている焔の瞳。


「私は好きよ、ニアの瞳。ずっと見つめていたいくらい素敵。出会った時からそう思っているわ」


 けれど私にとってはとても美しく好ましい瞳だ。嘘がなく澄み渡っている赤。他の誰も持っていない、ティタニアスだけの色。
 竜の目は彼を苦しめ続けてきたものだろう。それを嫌いにならないでほしいとは思っても、言えない。だからせめて、私が彼の瞳を愛おしく思う事だけは伝えたかった。少なくともここに一人、その瞳を愛する者が居るのだと。


「……オフィリア。貴女にそういうことを言われると俺は……落ち着かない」

「ふふ……喜んでくれてはいるのよね」


 分かりやすい彼の尾が赤紫色に染まりながら振られ、脚に当たっては音を立てているのだから。こうして好意を伝えることは彼にとっても悪いことではないはずだ。
 それに、彼の目を見て言葉にすれば嘘がないこともしっかりと伝わるだろう。少しでも彼自身が、彼を嫌いにならないでいてくれないか、と思う。友人であれ家族であれ、大事な相手が自分自身を責める姿というのは見ている方も辛くなるものだ。


「……嬉しくは思っている。俺もオフィリアの瞳が……好き、だ」

「………………言われる方は本当に落ち着かない気持ちになるのね」
 

 なんだか体の中に熱が巡るようでくすぐったくて落ち着かない。二人で数秒無言になった後、ティタニアスが小さく「行こう」と口にして歩き出したため私もそのあとに続いた。
 目的の花畑はすでに見えている。視界いっぱいに広がる鮮やかな橙色の花だ。近くで見てみると何枚もの花びらが重なっている丸い花で、妖精の世界独特のものなのか見たことのない品種である。


「この花は一日の内に何度も色が変わるので見ていて飽きないと思う」

「まあ、不思議ね。どんな色に変わっていくのかしら……楽しみだわ」

「ああ。……それを待つ間、オフィリアとたくさん話ができるのではないかと思って、ここを選んだ」


 色が移ろう花なんてとても興味深い。その変化を楽しみながら大事な友人と親交を深めることができる。それは、とても贅沢な時間の使い方なのではないだろうか。


「とても素敵な時間が過ごせそう。……連れてきてくれてありがとう、ニア」


 今、私の心が弾んでいるのは初めて見る美しい光景を前にした風の妖精としての性質だろうか。それとも、隣で柔らかく笑ってくれる焔の瞳の竜のおかげだろうか。……どちらにせよ、ティタニアスが与えてくれた喜びには違いなかった。

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