迷宮事件奇譚

もんしろ蝶子

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第十三話 『運命の赤い本』1

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 ある晴れた日の昼下がり。一人の男が書斎で机に向かって何かを一心不乱に書いていた。小説だ。それも自分の身に起こった不思議な体験を記した小説だった。

 彼はこの小説をノンフィクションとしてあるサイトに投稿した。それが話題となり、彼のネット小説は書籍化して、来年映画化するという。

 けれど、作者の男はもうどこにも居ない。彼はこの本を書いた後、あちこちに痕跡を残したまま姿を消したからだ。小説に出て来るヒロインと共に……。
 

 伊織は読んでいた本を閉じて小さなため息を落とした。最近巷で流行っているから読んでみろと楓が貸してくれたのだが、どうにも息苦しさが拭えない。

 伊織はシャツの前のボタンを一つ外してもう一度、今度は大きく息を吸い込んだ。

「どうしたー? ため息なんかついて珍しい」
「あ、町田さん。いえね、楓から借りた本読んでるんですけど、どうにも息苦しいと言いますか……」
「なんだ? 『タイムトラベル』? ああ、今流行りの奴か。来年映画化するんだろ? なんか凄いドラマチックだって聞いたぞ」
「ドラマチック!? いえいえ、内容結構とんでもないですよ! 何て言うか……描写がグロイんですよね……」

 内容自体で言えばもしかしたらドラマチックなのかもしれないが、細かい描写が辛すぎて伊織は既にギブアップ寸前だった。

「へぇ。作者、もう亡くなってんだろ?」
「そういう事になってますね。ただ……本当の所はどうなんでしょうか……」
「どういう意味だ?」
「あ、いえね。この本の最後がとても意味深な感じで終わってるんですよ。もしもこれが本当にノンフィクションだったとしたら、作者はもしかしたら今もどこかでヒロインと一緒に生きてるのかもしれません」

 途中の描写があまりにも怖すぎて思わず最後だけ先に読んだ伊織である。それを町田に伝えると、町田は顔を輝かせて言った。

「それ、次の号に載せようか。話題性もあるし、何よりうち向けだろ?」
「えー……まぁ、やるだけやってみますけど……」

 何となく気の乗らない伊織の肩を軽く叩いて、町田は自分のデスクに戻って行ってしまった。

 何となく嫌だなというだけで仕事は断れない。仕方なく伊織は、怖いのを我慢して最後まで本を読む事にしたのだった。

 それから数日後、伊織は不思議な体験をする事になる。

 毎夜、小説の主人公と同じような体験をするようになったのだ。そしてそのせいで重度の寝不足に陥ってしまった。

 最初はただ疲れが溜まりすぎて眠れないのだろうと楽観的に考えていたのだが、それが半月ほど続いた頃、昼間でも幻覚を見るようになり、いよいよ現実か夢かの見境がなくなってきた所にクリストファーとエドワードから連絡があった。

『イオ、最近姿を見せませんが大丈夫ですか? 桜さんから聞いたのですが、何か困った事になっていませんか?』
『おい、イオリ。楓から聞いたぞ。お前、何かまた巻き込まれてるみたいだな』

 と。

 どうやら最近の伊織の行動をおかしく思った双子の妹達が揃ってクリストファーとエドワードに連絡をしてくれたらしいのだ。出来た妹達だ。

 気遣ってくれた事を嬉しく思いながらも、伊織は二人にその時は『大丈夫です』と返したのだが――。


 週末、とうとう起き上がれなくなってしまった伊織は、申し訳ないと思いつつもベッドでうつ伏せたまま二人に電話で事情を話した。

 それからしばらくして玄関が騒がしくなったので耳を澄ますと、楓と桜の声に続いてエドワードとクリストファーの声が聞こえてくる。

「起き上がれない? 桜さん、何か気付いた事は?」
「私にも見えない。でも、何か居ると思う……クリスさん、お兄ちゃんを助けてあげて」
「私があんな本読ませたからだ……噂なんて嘘だって思ってたのに……どうしよう、お兄ちゃん死んじゃったらどうしよう!」
「泣くな、大丈夫だ。ちゃんと助ける。それで、原因は分かってるのか?」
「多分、あの赤い本。お兄ちゃん、きっと主人公の追体験してると思う。あの本にはそういう噂がある」
「……どんな本なんですか?」

 怪訝そうなクリストファーの声が聞こえた所で、伊織はどうにかベッドから這い出して玄関まで辿り着いた。

 そんな伊織を見てクリストファーとエドワードはあからさまに眉根を寄せ、妹達は泣きそうな顔をしている。

「おいお前、瀕死じゃないか。一体なにがあったんだ」
「イオ、その本を見せてください。あと桜さん、楓さん、私にその本にまつわる噂を教えてくださいますか?」
「分かった。すぐに持ってくる。お兄ちゃん、部屋入るね。あと何か少しでもちゃんと食べて」
「私、ノートパソコン持ってくる! まとめサイトに本の噂全部載ってるの!」

 妹達はそう言ってそれぞれの部屋に散っていった。

「……すみません、お手を煩わせて……今、お茶淹れるんで……」

 そう言って二人をリビングに案内しようと思うが、体が言う事をきかない。ぐったりした伊織を抱きかかえたのはエドワードだ。

「動くな、安静にしてろ。今回の件、お前はこれ以上関わるな」
「そ、そういう訳には……」
「いいえ、エドの言う通りです。後は私達で解明しますので」

 そう言ってクリストファーが伊織の目をそっと手で覆ってきた。すると途端に何故か眠くなり、伊織の意識はそこで途絶えた。
 

「お、おいお前何したんだ⁉」
「見ての通り眠らせました。イオは今、極度の睡眠不足のようなので」

 クリストファーが言うと、エドワードは腕の中でぐったりと動かなくなった伊織をソファに転がして、楓と桜を待つ。

 しばらく待っていると桜と楓がお茶とお菓子を持ってリビングにやってきた。

「お待たせしました。これが問題のサイトです!」
「クリスさん、これが問題の本。あと、お茶とお菓子はオルガニカのだよ」
「ああ、いつも気遣ってくれてありがとうございます。いただきます」

 そう言って美味しそうにお茶を飲むクリストファーに、エドワードはオルガニカのお菓子を開けながら言う。
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