探偵事務所のドアを開けたら、そこには可愛い柴犬がいました。

とらお。

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神隠しの怪

006

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「おはようございます、お兄さん」

 くああ、と眠そうにあくびをしながら、テーブルの上で猫らしく丸まった彼はそう言った。
 途端、手のひらから洗ったばかりのガラスのコップが滑り落ちていく。
 あ、割れる。
 そう思って思わず目を瞑ってしまったが数秒経ってもガラスが砕け散る音はしない。
 恐る恐る目を開けてみると、床に転がっているミケと目が合った。
 どうやらキャッチしてくれたらしく可愛らしい肉球でコップを挟むようにして持っている。

「にゃははぁ。驚かせてしまってすいやせん」

 出来事が重なりすぎて言葉も出せずに居るとミケは器用にコップを持ったままテーブルによじ登り、そっと置いた。

「ありゃ? おにいさーん?」

 目の前でぱたぱたと手……いや、前足を振られ、やっと思考が追いついてくる。

「あ、えと……ミケ、さん」
「"ミケさん"だなんてそんな。ミケでいいですよう。堅苦しいのはあんまり好きじゃなくってねえ。敬語もいりませんよ」

 そう言い、目を細めるミケ。

「ところでお兄さん、顔色が良くありませんねえ。あっしの登場、そんなに怖かったですかい?」
「いくらなんでも自分しかいないはずの空間で他人の声が急にしたらびっくりするよ……」
「にゃは。そりゃ失礼しました。でもお兄さん、妖怪相手にアポを取れってのもそれはそれで暴君じゃないですか?」

 そうかもしれないけど……。
 でも、正直心臓に悪いのでやめてもらいたいものだ。

「ところで……えっと、どうしてうちに?」

 すると彼は毛づくろいをしながら耳を揺らす。

「そうそう、迎えに来たんですよう。旦那からお兄さんを連れてくるよう言われたもんで」
「そ、そうなんだ。何の用だろう」
「さあ。でも昨日ずっと調べていたようですからきっと弟さんのことじゃないですかい?」

 え……昨日の今日で、もうなにかわかったってこと……?

「とりあえず向かいたいところですが……お兄さん、なにやら顔色が優れませんねえ。大丈夫ですかい?」
「え?」
「目の下、ひどい隈ですえ。体調が良くないのならまた後日に……」

 ミケの言葉に僕は慌てて首を振り、大丈夫、と添えた。
 しかしミケは納得していないようで少し怪訝そうな表情を浮かべる。

「大丈夫ったって……そんな真っ青な顔で嘘はいけませんよ、お兄さん」

 どこか真剣な面持ちの彼。
 心配してくれるのは有り難いが、自分には休んでいる時間なんてない。

「眠れないのはいつものことなんだ。あいつがいなくなったあの日から」

 するとミケはまたなにか言いかけたが……飲み込んだらしく、そうですか、と零した。

「お兄さん、一つだけ約束してほしいんですが」
「ん?」
「人間ってぇのは案外簡単にぽっくりと死んじまうもんなんです。だから……自分のことも大事にしてやってくだせえ」

 二又の尾がゆらりと揺れる。
 彼のその声色は、無理やり"普通"を装っているような気がしたけれど、結局彼に返す言葉は見つからずただ小さくそっと頷いた。

 ◆ ◇ ◆ ◇

「さて、そんじゃあ旦那のとこに行くとしますか。ちゃんとついてきてくださいね、お兄さん」

 そう言いながらミケは脇にあった路地裏にするりと入っていく。
 人一人がギリギリ入れるくらいの狭さに一瞬戸惑ったが、意を決して体をそっと路地裏に滑り込ませた。

「あの……ほ、本当にこんなところ通れば着くの? 昨日はこんなところ通ってないんだけど……」

 昨日はずっと俯いていたので記憶が定かではないけれど、時折こちらを振り向きながら意気揚々と前を行くミケの背にそう問いかける。

「彼方には同じ道を行けばたどり着くというわけじゃあ無いんですよ。今日はどこで口を開けているかわからないんです」
「え? じゃあどうやって……」
「あっし等は元々あっちの住人なんで、なんとなくわかるんですよ。ま、とりあえずあっしに着いてきてくれれば大丈夫ですえ」

 本当かなぁ……。
 それにしても段々ミケと会話をすることに違和感を感じなくなっている自分が怖い。
 慣れってすごいなあ。

「まあ普通の人間はあっしを追いかけたとしても彼方には辿り着けないですがね。まあでもお兄さんなら大丈夫でしょう。一度自力で来ているわけですし」

 と、やや不安なことを言われてから約数十分後。
 やっぱりどうやって辿り着いたのか定かではないが、気がついたときには目の前にはあの探偵事務所があった。
 ふいと振り向くと、昨日も見たばかりの特徴のない十字路がいくつも並んでいる。

「ほい到着っと」

 言うが早いか、ミケは事務所のドアノブに飛びつき、器用に扉を開けた。
 すたすたと中に入っていく彼に続いて恐る恐る事務所内に足を踏み入れる。
 ドアの上部に設置された鈴が、からころと鳴いた。

「おや、いらっしゃい。随分早いね」

 書物が溢れ、コーヒーの香りで満たされた空間の中、脚立の一番上でおすわりをしているバディが出迎えてくれる。
 どうやら本棚をいじっていたらしい彼は両手に持っていた本を器用に本棚に戻すと、軽い足取りで床まで降りてきた。

「ちょっと待っていてくれ、いま飲み物を出すよ。コーヒーでいいかい?」
「旦那ァ、あっしはミルクで頼みますえ」
「はいはい。わかっているよ、少し待っていなさい」

 少し呆れたようなバディが事務所の奥に消えていくのをただ見送る。
 なにか手伝おうかと思ったが、勝手に室内を動き回るのも忍びなくてとりあえずその場に立ち尽くすしているとミケがくすくすと笑った。

「お兄さん、真面目ですねぇ」

 ミケはというと呆然と立ち尽くすこちらを後目にソファの上にふんぞり返りっている。
 妖怪どころか野生の猫でもここまで無警戒じゃないと思うけど……。
 人んちでヘソ天って。
 無防備に晒されたミケのお腹に顔を埋めたい衝動と密かに戦っていると、奥からかちゃかちゃと音がして、次いで事務所の奥からカップが三つ乗ったトレーを背中に乗せたバディが戻ってきた。

「すまないが茜、受け取ってくれるかな?」
「は、はい」

 見慣れない光景にたじろぎながらも、彼の背中からトレーを受け取りテーブルに乗せる。
 てか、カップには飲み物が並々入ってるのに一滴も溢れてない。
 トレーには他にも角砂糖が入った瓶と、ミルクが入った小さなポット、黄金色の液体が入った小瓶が乗っていた。
 よくこれ背中に乗せて運んできたな……えげつないバランス感覚だ。

「お? 旦那ァ、それ金色堂の蜂蜜ですかい?」
「そうだよ。自由に使いなさい」
「本当ですかい?! 太っ腹ァ! じゃあ遠慮なく……」
「流石に限度は考えなさいね? お前いま一瓶丸々行こうとしやがったな?」
「じょ、冗談ですよぅ。怒らんでくださいな、旦那ァ」

 ふう、と小さくため息を付いたバディとふいに目が合う。

「茜? 座っていいんだよ?」
「あ、えと……はい……」

 座るタイミングを見失っていたので声を掛けてもらえて正直助かった。
 お言葉に甘えてそっとソファに腰掛ける。

「お兄さんお兄さん、コーヒーにはダンゼン、この金色堂の蜂蜜がオススメですえ! ぜひとも入れてみてくだせえ!」
「う、うん……」

 金色堂って、この蜂蜜のメーカーの名前かな?
 ミケに言われるまま瓶を手にとって見ると、瓶の底に貼られた上品なラベルにはシンプルに"金色堂"とだけ記されていた。

「金色堂かあ。どの辺にあるお店なんですか? 聞いたこと無いなあ」
「そりゃそうでしょう。金色堂は此方側にある店なんですから」

 ほかほかと湯気の立つミルクをティーカップから飲んでいたミケが、舌なめずりをしながらそう言う。

「それって、つまり……?」
「ええ。現世の食品じゃありやせん。基本的にあっし等には現世の食い物は合わないんですよ」

 塩っ辛くていけねえや、と呟くミケ。
 そんな彼にブラックコーヒーを啜ったバディがくすりと笑った。

「私は結構好きだけれどね。チープで体に悪そうな味がクセになるよ」
「旦那は物好きですねえ。あァ、そうだ、お兄さん。金色堂は蜂蜜だけじゃなくって蜂蜜を使った甘味も取り扱っているんですよ。これがまた絶品でしてね、ぜひ今度一緒に行きやしょう。ね、旦那」
「ミケにしては良いことを言うね。是非行こう、茜」

 蜂蜜を使った甘味かぁ……。
 ほんのりと甘くて優しい香りがするコーヒーを啜りながらほっと一息つく。

「そういえば……お店があるってことは金品のやり取りがあるってことですよね? こっちの世界って通貨はどうなっているんですか? 物々交換とか?」

 ふと、今朝浮かんだ疑問を投げかけてみた。

「普通に日本円だよ」

 バディがコーヒーを啜りながらなんてことなさそうに言ったその言葉に、体が強ばる。
 日本円……?
 ってことは、依頼料が発生するってこと、だよね?

「はは。もしかして君の顔色があまり良くないのは依頼料について考えていたからかい?」

 からからと笑いながらどんぴしゃで言い当てられて思わず肩が震えた。
 すると彼はカップをソーサーに置いて、やはり楽しそうに笑いながら頬杖をつく。

「安心しなさい。確かに物品に関しては日本円でやり取りしているけれど、君たちのように無いと困るものではないんだ」

 ないと困るものじゃない……?
 どういうことだろう。

「現世はお金がないと食品を変えず飢餓になる。住むところがなければ病に罹る。医者にかかるにもお金が必要……つまり君たちは生命維持のために通貨を使っているよね。でも此方の世界の住民にはそもそも死という概念がない。別に食べなくても住むところがなくても困らないんだ」
「むしろ旦那みたいに一箇所に住処を構えて留まってる方が珍しいんですよ、お兄さん。大体はあっしみたいにその辺ふらふらしてるやつらばっかりなんですから」
「私が探偵業をしているのも殆ど趣味のようなものだ。一生懸命働いて弟くんを養っている若者からお金を巻き上げるなんてことはしないから、安心して頼ってくれて良いんだ。ね?」

 こて、と首を傾げるバディ。
 彼の言葉にずっと肩に乗っかっていたお守りのようなものが降りたような気がすると同時に、折角労力を割いてくれているのに何もお返しできない自分が悔しい。
 せめてなにか手伝えたら良いんだけど。
 ……それにしてもさっきからずっと、収まりきっていない舌がちょっとだけ出ているのがすごく気になる。
 こうしてみると本当に普通の柴犬にしか見えないなあ。
 仮に道ですれ違ったとしてもまさかその可愛らしい牙の隙間から、初老を迎えたような渋いダンディボイスが出てくるなんて夢にも思わないだろう。

「さてと、本題に入ろうか」

 ぐい、とコーヒーを飲み干した彼は小さく舌舐めずりをした後、どこからか手帳とペンを取り出した。
 ぱらぱらと手帳をめくっている彼は白紙のページに辿り着いたらしくペンをを握りこちらをじいと見る。
 ……器用という言葉で片付けられる範囲はとっくに超えているなあ、なんてぼんやり思いながら真剣な彼の眼差しに居住まいを正した。
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