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強がるぐらいには、あなたをちゃんと好きでしたのよ
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2日目の朝。
日が登る寸前にアルベルトは部屋へ戻ってきた。
大きなベッドが軋むのをぼんやりと確認して、オルビアは体を起こした。
「なんだ、起きていたのか」
「……今しがた」
「全く、離れがたかったよ。この結婚をなくしてしまえればいいのにね」
そんな事を、冗談でもなく本気で言っているアルベルトに、ため息をつかない人間はいないだろう。
いくら冷めきっているとは言え、いつかは閨を共にして子を成さなければならない。
それを了解しているのだろうか?
「君との間で子どもなど出来もしないのに、この結婚は本当に国の利益しか生まない」
「……え?」
──今、何と言ったの? 子は作らないということ?
「え?って……だってそうだろう? 愛してもいない人と子どもを作っても、僕はその子どもを愛する自信がない。それなら、クラリスとの間に出来た子どもを嫡男として育てた方がいいに決まってる」
「………わたくしに、クラリスとの子どもを育てろとでも?」
──まさか、そんな事が出来るはず ……
ヒヤリと、体温が下がった気がした。
本当に下がっているのかは分からないが、心臓の拍動音を耳の内側で感じながら、アルベルトの次の言葉を待った。
「そんなまさか! あり得ないだろう」
そんな事思ってもいないと、驚いた表情で否定したアルベルトに、ホッと胸を撫で下ろしたのは一瞬の事で、次に発せられた言葉を、しっかりと理解して納得するには時間がかかった。
ピチョン──・・
浴槽に張られた温かな乳白色の湯に浸かりながら、流れる涙が枯れるのを待った。
寝室手前の小部屋で朝の紅茶の準備をしていたグラハムに、湯浴みをすることを伝えた時にはもう涙が頬を伝ってしまっていた。
一瞬驚いた様子だったグラハムが、直ぐにナフキンを手渡して浴室の準備をしてくれる。
寝室を出るまで、涙が流れなかったのはオルビアのプライドのお陰だろう。
いや、あそこで涙を流して、彼にすがれば事態は変わったかも───いや、変わらない可能性の方が高かっただろうとオルビアは考え直して、太陽の匂いがするナフキンで目元を拭った。
それから直ぐに、グラハムが準備を整えて戻って来るとオルビアは直ぐに浴室にこもった。
入れ違いに、寝室からグラハムを呼ぶ声が聞こえた。恐らくアルベルトが自分の支度と今日の予定を確認するのに呼んだのだろう。
浴室の扉をコンコンとノックしたグラハムが「お嬢様、ごゆっくりとなさっていてください。コルジャック様が出掛けてから、お呼び致します故」と、優しい掠れた声がして、溜め込んでいた感情がぐわっと溢れて零れた。
グラハムは、淑女として社交界にデビューしたオルビアを未だに“お嬢様”と幼いときと同じ様に呼ぶ。
それを良しとしているのは、グラハムがオルビアと2人だけの時にそう呼ぶからだ。
──今日の予定、何だったかしら。……あぁ、そうだわ。后妃様方とのお茶会なのだったわ。
午後からは予定が空いていたし、少しお庭を歩かせてもらえないかしら。
パシャっと顔を湯の中に浸けて、もう涙が出ないことを期待した。
コンコン
「お嬢様」
「ん、はい?」
「アルベルト様が殿下に呼ばれて出ていきました。殿下の側用人から“昨夜の件と今後の事で”との要件だそうで」
「…(まぁ、早々にバレたのね。それなら、今晩はユスファリム様の所へは行けないかもしれないのね…)」
「恐らく、後でお嬢様にも話があると呼び出しがあるかと」
グラハムの声に「そうね。ありがとう」と落ち着いた声で返事をした。
くよくよしていられない。オルビアはペチンペチンと軽く自身の頬を叩いて、落ち込む心を何とかしゃんとさせた。
・ ◆ ・ ◆ ・ ◆ ・
「アルベルト、私は何度か貴方に聞いたことがあったな」
「……」
呼ばれて来てみれば、恐ろしく怖い顔をしたクリストファーと悲しさを目に映した妻のレイチェルが、蒼白なアルベルトと向き合っていた。
──あぁ、悲惨だわ。自業自得とはいえ、まさか初日にバレるだなんて。アルベルトってば、随分とうつつを抜かしていたのね。
オルビアは呆れて物も言えないが、この場を何とか切り上げなければ、后妃との茶会に遅れてしまう。
「何事ですの? お兄様」
「オルビア、お前は私と父上に嘘を……ついたのか?」
クリストファーは、威厳を残しつつも、心配とオルビアを気遣う表情をちらつかせている。
あぁ、兄が可哀想なわたくしに哀しそうにしている。
でも、本当に可哀想なのかしら?
『可哀想に見えるんじゃないかしら?』
『まぁ、だって私の国じゃ婚約者に愛想つかされるのは…』
『そうね。あの国じゃ、結婚は生涯ですもの。添い遂げるはずの方から愛を向けられないのは』
『端から見れば十分可哀想に見えるわ。……貴女だって、そんなご夫人の噂を聞いたら可哀想だって思っていたじゃないの』
過去の『私たち』がそう言う。
確かにそうね。とオルビアはいつもよりも冷静な自分が居ることに、いつから自分は冷めてしまったのか。と考えた。
「…嘘はついていませんのよ? だって、わたくし達の間に愛があって、アルベルト様がわたくしを裏切った…というわけでは御座いませんもの。それに──(これくらいの仕返しは、許して頂きたいものね)」
オルビアはチラリとアルベルトに視線をやった。
横にいたアルベルトを見れば、次にオルビアの言う事が何なのか…察したのか額に微かに汗をかいている。
「…オルビア、始めから愛はなかったと?」
「愛……というよりも、ただの情があったのかもしれませんね。だから、旧知の仲のアルベルトとなら結婚も良いかもしれないと思ったのです。お互いに恋慕う方も居ませんでしたし……その時は」
敢えて最後を強調して、少しの間を置いた。クリストファーが何か言おうと、開きかけた口を遮る様にオルビアが次を続けた。
気丈に話していなければ、崩れてしまいそうな心を保つために。
「でも、アルベルト様にはもうクラリスが居ますでしょう? だから、彼はわたくしとの間に子を成すつもりも、夫婦てしての関わりを持つつもりもないのですって。5年は、おとなしく夫婦で居ることにしたそうですのよ?」
「……5年?」
その年月に反応したのは、クリストファーの妻、レイチェルだった。
小さく可愛らしい口元を、さっと両手で隠したかと思うと、みるみる目に涙を溜め込んだ。小さく顔を振って、震えている。
アルベルトの顔はどんどん血色を悪くさせ、冷や汗の量も随分と増えている。
「……レイチェル? どうしたんだ」
「そんな……何て酷い事をっ?! この国に残されるルビアの事を考えたのですかっ?!」
「レイッ?!」
聞いたこともない声を上げて、何て非道な男だと、レイチェルがアルベルトを罵っている。
しかも、我を忘れているのか、プライベートの時にだけ呼ぶ、オルビアの愛称で彼女を呼んでしまっている。
レイチェルの慌てぶりに、クリストファーは身を乗り出して罵る彼女の肩に手を添えて、心配そうにしている。
──あぁ、本当に仲がいいのだわ。お二人とも……羨ましい。
「お兄様、アルベルトはね、わたくしとは白紙婚をするつもりなんですって」
「白、しこん? それは、何………まさかっ??! 何をバカなっ! 我が国にそんな法律はないっ」
「えぇ、ですから……5年したらアルベルト様達は彼のお母様の国へ亡命するおつもりなのですって! ……あら、これは秘密なのだったかしら?」
すっとぼけた様にアルベルトを見れば、勇ましく堂々としたいつもの凛々しい殿方は何処かへ消えてしまったらしい。
今朝がた、部屋に戻ってきたアルベルトがオルビアに伝えた事を、そのままクリストファーたちに上品で美しい笑みを携えて伝えた。
オルビア達の国ルアンヌでは、貴族間の結婚は国と神への生涯の誓いだ。何があろうとも、これは絶対に揺るがされることはない。それは、政治的効力や国家間の親交の為に設けられる婚約が殆どだからだ。だからこそ、パートナーの不貞は国に対する裏切り行為にも等しい。
バレれば、それなりの罰がくだることもある。だが、そういうこともあるというだけの話で、そのほとんどは恐らく噂と楽しいゴシップとして、淑女の茶会で出される菓子と同じ扱いだ。
お喋りに花の咲く菓子なら、噂で終わらせればいい。
普通ならば、後で本人たちにだけきついお灸を添えて、最後は当人同士でかたをつければいい。
だが、今回のアルベルトとクラリスの計画は、茶菓子で終わらせられるようなレベルのかわいい話ではない。
亡命するということは、他国にとってメリットのある何かがなければいけない。
しかもアルベルトの母親は第二王女。現国王の孫だ。そんな人物が亡命するなど、何のメリットがあるのか。
しかも、自国に残ることになる婚約者を置き去りにして。
「……誰が手引きする? そもそも、そんなことが許される程、我が国が甘いと思っているのか!」
「それ、は……あれは、そんな方法もあるかもしれないと言う話で…オルビア様を裏切るつもりなど…」
そんな言い訳をしているアルベルトに、オルビアの情がさぁっと冷えていく。
硬派で、照れ屋で、生真面目で、誠実だった彼に、淡く恋をした時期もあった。彼との婚約が決まったとき、アルベルトは確かに言ったのだ。
「わたくし、真っ直ぐで不器用な方だけどお優しかった元婚約者を慕っておりましたの。自分の心情も貫けぬ、へっぴり腰の殿方は存じ上げませんわ」
『自分は、他の殿方たちと違って…貴女に、その、あ、愛など……口には出来ないだろうが…簡単に曲がる心は持っていないつもりだ』
オルビアの記憶の中にいる、思慮深く誠実だった頃のアルベルトが甦る。
照れたように伏せ目気味のアルベルトが、婚約が決まった日にオルビアに言った言葉は、前世の『私たち』の記憶で荒んだ心情を支え、冷えきっていた未来を照らしてくれた。
この人なら、私は今度こそ。そう思ったから、彼女なりに出来る限りの手を使って、彼のためになる事をしてきたつもりだった。
確かに恋をしていた。オルビアはその時の気持ちすら、なかった事にはしたくないのだ。
「ルビア……」
「最後にどうするかくらい、しっかりとお決めなさい。……アル、何とも思っていない相手のわたくしに、自分勝手に尻拭い等させないで下さいませね」
何も反論出来ないのか、アルベルトがギュッと手の色が変わるほどに拳を握っている。
恐らくだが、残されたオルビアのあとの顛末など頭にないほど、彼の頭はお花畑だったのだろう。
しかも、オルビアを愛する国王とクリストファーがどう出るかも、その頭の中にはなかったのだ。
「…まさか、貴方は自分が次期国王に成り代わろう等と思っているわけではありませんよね?」
少し冷静さを取り戻したレイチェルが、震えた声で発した言葉に、アルベルトの拳が微かに動いた。
それを確認したオルビアは、信じられないと大きなため息をついた。
「何を言っている…王位継承権は既にジョルディ殿下に渡されているはずだろう」
「……ジョルディ殿下は、今はとても元気ですが、幼い頃は病弱だったのです。それを理由に、次期国王が揺るぎないものではないと、不穏な噂をたてる者もいます。もちろんそんなことをおじいさまが許すはずがありません。おじいさまは、叔父様の宝を無下になどしません! 誰に唆されたかは聞きませんが、アルベルト……国を出た貴方の母がアナカビアに介入することは出来ません。……冷静になれば、分かることでしょうに……」
アルベルトは、下唇をきゅっと小さく噛み締めている。
親交も深いアナカビアは、少々ややこしい事態になっていた。
数年前、王位を継いだ28歳の王は36歳の時に突如原因不明の急死を遂げた。まだ8歳だった前国王の息子ジョルディを国王にするのは無謀にも近いとなり、やむ無く隠居していた現国王が復帰した。だが、現国王も既に65を越えるために、いつどうなるのかも怪しいと言われている。
次期国王のジョルディは、現在10歳。今は国王に付いて、帝王学を学びながらその準備をしている。そのジョルディも幼い頃は熱で臥せることも多く、死の淵をさ迷ったのは1度や2度ではない。
だからか、彼が国王になっても長く続かないのでは? と在らぬ噂をたてる貴族も少なくないのだ。
だが、例えそうだったとしてもアルベルトに王位継承権は渡らない。
親交の深い国の皇女との婚約を蹴って、不倫した上に国に対して裏切り行為まで働く男だ。
そんな男を、国王になど誰が推挙するだろうか。彼の母が、現国王の娘で第二皇女であったとしても、国を出て嫁いだ娘にそれほど影響力はない。
前の冷静なアルベルトなら、そこまで考えが至ったはずなのに……と、オルビアは冷め続けた気持ちをどうやり過ごそうかと思案していると、アシュラン帝国の従者が茶会の案内に訪れた事で、重苦しかった空気を一度切れることになった。
日が登る寸前にアルベルトは部屋へ戻ってきた。
大きなベッドが軋むのをぼんやりと確認して、オルビアは体を起こした。
「なんだ、起きていたのか」
「……今しがた」
「全く、離れがたかったよ。この結婚をなくしてしまえればいいのにね」
そんな事を、冗談でもなく本気で言っているアルベルトに、ため息をつかない人間はいないだろう。
いくら冷めきっているとは言え、いつかは閨を共にして子を成さなければならない。
それを了解しているのだろうか?
「君との間で子どもなど出来もしないのに、この結婚は本当に国の利益しか生まない」
「……え?」
──今、何と言ったの? 子は作らないということ?
「え?って……だってそうだろう? 愛してもいない人と子どもを作っても、僕はその子どもを愛する自信がない。それなら、クラリスとの間に出来た子どもを嫡男として育てた方がいいに決まってる」
「………わたくしに、クラリスとの子どもを育てろとでも?」
──まさか、そんな事が出来るはず ……
ヒヤリと、体温が下がった気がした。
本当に下がっているのかは分からないが、心臓の拍動音を耳の内側で感じながら、アルベルトの次の言葉を待った。
「そんなまさか! あり得ないだろう」
そんな事思ってもいないと、驚いた表情で否定したアルベルトに、ホッと胸を撫で下ろしたのは一瞬の事で、次に発せられた言葉を、しっかりと理解して納得するには時間がかかった。
ピチョン──・・
浴槽に張られた温かな乳白色の湯に浸かりながら、流れる涙が枯れるのを待った。
寝室手前の小部屋で朝の紅茶の準備をしていたグラハムに、湯浴みをすることを伝えた時にはもう涙が頬を伝ってしまっていた。
一瞬驚いた様子だったグラハムが、直ぐにナフキンを手渡して浴室の準備をしてくれる。
寝室を出るまで、涙が流れなかったのはオルビアのプライドのお陰だろう。
いや、あそこで涙を流して、彼にすがれば事態は変わったかも───いや、変わらない可能性の方が高かっただろうとオルビアは考え直して、太陽の匂いがするナフキンで目元を拭った。
それから直ぐに、グラハムが準備を整えて戻って来るとオルビアは直ぐに浴室にこもった。
入れ違いに、寝室からグラハムを呼ぶ声が聞こえた。恐らくアルベルトが自分の支度と今日の予定を確認するのに呼んだのだろう。
浴室の扉をコンコンとノックしたグラハムが「お嬢様、ごゆっくりとなさっていてください。コルジャック様が出掛けてから、お呼び致します故」と、優しい掠れた声がして、溜め込んでいた感情がぐわっと溢れて零れた。
グラハムは、淑女として社交界にデビューしたオルビアを未だに“お嬢様”と幼いときと同じ様に呼ぶ。
それを良しとしているのは、グラハムがオルビアと2人だけの時にそう呼ぶからだ。
──今日の予定、何だったかしら。……あぁ、そうだわ。后妃様方とのお茶会なのだったわ。
午後からは予定が空いていたし、少しお庭を歩かせてもらえないかしら。
パシャっと顔を湯の中に浸けて、もう涙が出ないことを期待した。
コンコン
「お嬢様」
「ん、はい?」
「アルベルト様が殿下に呼ばれて出ていきました。殿下の側用人から“昨夜の件と今後の事で”との要件だそうで」
「…(まぁ、早々にバレたのね。それなら、今晩はユスファリム様の所へは行けないかもしれないのね…)」
「恐らく、後でお嬢様にも話があると呼び出しがあるかと」
グラハムの声に「そうね。ありがとう」と落ち着いた声で返事をした。
くよくよしていられない。オルビアはペチンペチンと軽く自身の頬を叩いて、落ち込む心を何とかしゃんとさせた。
・ ◆ ・ ◆ ・ ◆ ・
「アルベルト、私は何度か貴方に聞いたことがあったな」
「……」
呼ばれて来てみれば、恐ろしく怖い顔をしたクリストファーと悲しさを目に映した妻のレイチェルが、蒼白なアルベルトと向き合っていた。
──あぁ、悲惨だわ。自業自得とはいえ、まさか初日にバレるだなんて。アルベルトってば、随分とうつつを抜かしていたのね。
オルビアは呆れて物も言えないが、この場を何とか切り上げなければ、后妃との茶会に遅れてしまう。
「何事ですの? お兄様」
「オルビア、お前は私と父上に嘘を……ついたのか?」
クリストファーは、威厳を残しつつも、心配とオルビアを気遣う表情をちらつかせている。
あぁ、兄が可哀想なわたくしに哀しそうにしている。
でも、本当に可哀想なのかしら?
『可哀想に見えるんじゃないかしら?』
『まぁ、だって私の国じゃ婚約者に愛想つかされるのは…』
『そうね。あの国じゃ、結婚は生涯ですもの。添い遂げるはずの方から愛を向けられないのは』
『端から見れば十分可哀想に見えるわ。……貴女だって、そんなご夫人の噂を聞いたら可哀想だって思っていたじゃないの』
過去の『私たち』がそう言う。
確かにそうね。とオルビアはいつもよりも冷静な自分が居ることに、いつから自分は冷めてしまったのか。と考えた。
「…嘘はついていませんのよ? だって、わたくし達の間に愛があって、アルベルト様がわたくしを裏切った…というわけでは御座いませんもの。それに──(これくらいの仕返しは、許して頂きたいものね)」
オルビアはチラリとアルベルトに視線をやった。
横にいたアルベルトを見れば、次にオルビアの言う事が何なのか…察したのか額に微かに汗をかいている。
「…オルビア、始めから愛はなかったと?」
「愛……というよりも、ただの情があったのかもしれませんね。だから、旧知の仲のアルベルトとなら結婚も良いかもしれないと思ったのです。お互いに恋慕う方も居ませんでしたし……その時は」
敢えて最後を強調して、少しの間を置いた。クリストファーが何か言おうと、開きかけた口を遮る様にオルビアが次を続けた。
気丈に話していなければ、崩れてしまいそうな心を保つために。
「でも、アルベルト様にはもうクラリスが居ますでしょう? だから、彼はわたくしとの間に子を成すつもりも、夫婦てしての関わりを持つつもりもないのですって。5年は、おとなしく夫婦で居ることにしたそうですのよ?」
「……5年?」
その年月に反応したのは、クリストファーの妻、レイチェルだった。
小さく可愛らしい口元を、さっと両手で隠したかと思うと、みるみる目に涙を溜め込んだ。小さく顔を振って、震えている。
アルベルトの顔はどんどん血色を悪くさせ、冷や汗の量も随分と増えている。
「……レイチェル? どうしたんだ」
「そんな……何て酷い事をっ?! この国に残されるルビアの事を考えたのですかっ?!」
「レイッ?!」
聞いたこともない声を上げて、何て非道な男だと、レイチェルがアルベルトを罵っている。
しかも、我を忘れているのか、プライベートの時にだけ呼ぶ、オルビアの愛称で彼女を呼んでしまっている。
レイチェルの慌てぶりに、クリストファーは身を乗り出して罵る彼女の肩に手を添えて、心配そうにしている。
──あぁ、本当に仲がいいのだわ。お二人とも……羨ましい。
「お兄様、アルベルトはね、わたくしとは白紙婚をするつもりなんですって」
「白、しこん? それは、何………まさかっ??! 何をバカなっ! 我が国にそんな法律はないっ」
「えぇ、ですから……5年したらアルベルト様達は彼のお母様の国へ亡命するおつもりなのですって! ……あら、これは秘密なのだったかしら?」
すっとぼけた様にアルベルトを見れば、勇ましく堂々としたいつもの凛々しい殿方は何処かへ消えてしまったらしい。
今朝がた、部屋に戻ってきたアルベルトがオルビアに伝えた事を、そのままクリストファーたちに上品で美しい笑みを携えて伝えた。
オルビア達の国ルアンヌでは、貴族間の結婚は国と神への生涯の誓いだ。何があろうとも、これは絶対に揺るがされることはない。それは、政治的効力や国家間の親交の為に設けられる婚約が殆どだからだ。だからこそ、パートナーの不貞は国に対する裏切り行為にも等しい。
バレれば、それなりの罰がくだることもある。だが、そういうこともあるというだけの話で、そのほとんどは恐らく噂と楽しいゴシップとして、淑女の茶会で出される菓子と同じ扱いだ。
お喋りに花の咲く菓子なら、噂で終わらせればいい。
普通ならば、後で本人たちにだけきついお灸を添えて、最後は当人同士でかたをつければいい。
だが、今回のアルベルトとクラリスの計画は、茶菓子で終わらせられるようなレベルのかわいい話ではない。
亡命するということは、他国にとってメリットのある何かがなければいけない。
しかもアルベルトの母親は第二王女。現国王の孫だ。そんな人物が亡命するなど、何のメリットがあるのか。
しかも、自国に残ることになる婚約者を置き去りにして。
「……誰が手引きする? そもそも、そんなことが許される程、我が国が甘いと思っているのか!」
「それ、は……あれは、そんな方法もあるかもしれないと言う話で…オルビア様を裏切るつもりなど…」
そんな言い訳をしているアルベルトに、オルビアの情がさぁっと冷えていく。
硬派で、照れ屋で、生真面目で、誠実だった彼に、淡く恋をした時期もあった。彼との婚約が決まったとき、アルベルトは確かに言ったのだ。
「わたくし、真っ直ぐで不器用な方だけどお優しかった元婚約者を慕っておりましたの。自分の心情も貫けぬ、へっぴり腰の殿方は存じ上げませんわ」
『自分は、他の殿方たちと違って…貴女に、その、あ、愛など……口には出来ないだろうが…簡単に曲がる心は持っていないつもりだ』
オルビアの記憶の中にいる、思慮深く誠実だった頃のアルベルトが甦る。
照れたように伏せ目気味のアルベルトが、婚約が決まった日にオルビアに言った言葉は、前世の『私たち』の記憶で荒んだ心情を支え、冷えきっていた未来を照らしてくれた。
この人なら、私は今度こそ。そう思ったから、彼女なりに出来る限りの手を使って、彼のためになる事をしてきたつもりだった。
確かに恋をしていた。オルビアはその時の気持ちすら、なかった事にはしたくないのだ。
「ルビア……」
「最後にどうするかくらい、しっかりとお決めなさい。……アル、何とも思っていない相手のわたくしに、自分勝手に尻拭い等させないで下さいませね」
何も反論出来ないのか、アルベルトがギュッと手の色が変わるほどに拳を握っている。
恐らくだが、残されたオルビアのあとの顛末など頭にないほど、彼の頭はお花畑だったのだろう。
しかも、オルビアを愛する国王とクリストファーがどう出るかも、その頭の中にはなかったのだ。
「…まさか、貴方は自分が次期国王に成り代わろう等と思っているわけではありませんよね?」
少し冷静さを取り戻したレイチェルが、震えた声で発した言葉に、アルベルトの拳が微かに動いた。
それを確認したオルビアは、信じられないと大きなため息をついた。
「何を言っている…王位継承権は既にジョルディ殿下に渡されているはずだろう」
「……ジョルディ殿下は、今はとても元気ですが、幼い頃は病弱だったのです。それを理由に、次期国王が揺るぎないものではないと、不穏な噂をたてる者もいます。もちろんそんなことをおじいさまが許すはずがありません。おじいさまは、叔父様の宝を無下になどしません! 誰に唆されたかは聞きませんが、アルベルト……国を出た貴方の母がアナカビアに介入することは出来ません。……冷静になれば、分かることでしょうに……」
アルベルトは、下唇をきゅっと小さく噛み締めている。
親交も深いアナカビアは、少々ややこしい事態になっていた。
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だからか、彼が国王になっても長く続かないのでは? と在らぬ噂をたてる貴族も少なくないのだ。
だが、例えそうだったとしてもアルベルトに王位継承権は渡らない。
親交の深い国の皇女との婚約を蹴って、不倫した上に国に対して裏切り行為まで働く男だ。
そんな男を、国王になど誰が推挙するだろうか。彼の母が、現国王の娘で第二皇女であったとしても、国を出て嫁いだ娘にそれほど影響力はない。
前の冷静なアルベルトなら、そこまで考えが至ったはずなのに……と、オルビアは冷め続けた気持ちをどうやり過ごそうかと思案していると、アシュラン帝国の従者が茶会の案内に訪れた事で、重苦しかった空気を一度切れることになった。
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誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
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