丞相を継ぐ者 諸葛亮の法に抗い、諸葛亮の情を支えた一人の友の物語。

こくせんや

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第一部 街亭の戦い

9話 匠兵 壁の青龍は命の水を運び 白き理は泥を澄んだ希望に変える

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【荒野の晩餐】

銅鑼どらの残響が荒野の風に吸われ、隊列がようやく停止した。 太陽はすでに西の稜線に没し、空は不吉な紫色に濁り始めている。初めて戦場に向かう兵卒の若者は、感覚の失せた脚を引きずり、指定された野営場所へとたどり着いた。

「座るな! 先にかまどだ!」

 伍長の怒声が飛ぶ。若者は土塊つちくれのようにその場へ崩れ落ちたい誘惑を、歯を食いしばってねじ伏せた。行軍が終わっても、休息が始まるわけではない。むしろ、ここからが「生存」のための、敵のいない戦いだった。

若者は手分けして枯れ木と乾いた牛糞を探し回った。この一帯は草木が乏しく、手頃な燃料を見つけるだけで一刻(約30分)近くを空費した。薄暗がりの中、棘のある灌木を素手で折り、乾ききった獣の糞を袋に詰めて戻る頃には、手は傷だらけになっていた。

次は穴掘りだ。 硬く踏み固められた地面に、小刀と手鍬で「かまど(釜の下の空間)」を穿つ。煙を逃がすための横穴と、釜を据えるための縦穴。
「水はどうした、まだか!」 遠くの水場へ向かった仲間が戻らない。水がなければ、火もただの熱さに過ぎない。暗闇の中、水汲み係の足音が聞こえるまで、残る四人はただ虚ろな目で、掘りかけの黒い穴を見つめて待つしかなかった。

ようやく水が届き、火打石が火花を散らす。 湿気った枯れ草が燻り、目に染みる煙を上げながら、頼りない火種が生まれた。だが、ここからが最も長い「忍耐」の時間だった。 釜の中の水は、微弱な火力ではなかなか沸騰しない。岩肌の地では、途中から火で熱せされた石を鍋に投入し調理にかかる時間を短くするが、ここ桟道の上では都合よく小石すらないのだ。鍋底から立つわずかな気泡の音が、若者の空っぽの胃袋を嘲笑うかのように響く。

ほどなく湯が沸き、河原の小石のようなほしいいを投入する。 だが、すぐには食べられない。芯まで乾燥しきった粟粒は、煮え湯の中で十分に踊らせ、ふやかさなければ、とても人間の顎では噛み砕けないのだ。 ――まだか。まだ食えぬのか。
伍長が棒で釜の中をかき回す水音だけが、静寂に響く。

「今日は少し多めに戻そう。明日は峠越えだ」 

伍長がそう言いながら、釜の湯の中に糒を投げ込む。カサカサと乾いた音を立てて湯に沈む粒を見つめながら、若者は唾を飲み込んだ。
 煮え湯の熱で糒が戻るのを待つ間、若者は強烈な睡魔と戦っていた。瞼が落ちそうになるたびに、飢えが胃壁を鷲掴みにして彼を現実に引き戻す。 最後に、虎の子の「豉(し)」の欠片が投入される。塩気の匂いが立ち上ったとき、すでに日が落ち始めていた。

「できたぞ。器を出せ」

配られたのは、どろりと濁った茶色のあつもの(スープ。おかゆ)だった。 若者は木椀に口をつける。熱い液体が喉を通り過ぎると、強烈な豉の塩気が舌を刺激し、身体の芯まで染み渡っていく。具といえば、ふやけて形を失った粟と、筋張った野草だけだ。 だが、一日中汗を流し、塩分を渇望していた身体にとって、この豉の塩辛さは、故郷の祭りで食べた羊の炙り肉にも勝る極上の味だった。

行軍停止から、優に二刻(約一時間)を超える。 震える手でそれを口に運ぶ若者にとって、その一匙にありつくまでの労苦こそが、この粥を王侯の美酒にも勝る味に変えていた。
「……生き返るな」 隣の若い兵が、ふやけた粟を噛み締めながら呟く。 若者もまた、泥のような汁をすすった。これが終われば、また硬い地面で眠り、夜明けとともに歩き出す。

【夕立】

無情な雷鳴と共に、天が裂けたような突然の豪雨が降り注いだ。 「火を守れ! みのを被せろ!」 伍長が叫び、自身の粗末な蓑を使って釜を覆い隠そうとする。だが、横殴りの雨は容赦なく竈の穴へと流れ込んだ。 ジュウゥゥ……という悲鳴のような音を立てて、苦労して起こした火種が黒い炭へと変わっていく。立ち上るのは白い蒸気と、濡れた犬のような臭いだけだ。

「……駄目です。薪までぐしょ濡れだ」 若者は泥まみれの手で濡れた木片を握りしめ、力なく首を振った。 疲労と寒さで、若者の歯の根がカチカチと鳴る。
釜の中には、雨水で増量された汁はぬるい。

 「火は諦めろ。……そのまま食うんだ」
 伍長の声がした。もはや命令というより、諦めの独り言に近かった。
若者は震える手で、汁をすくい上げた。 口に入れると、冷気が歯に染みる。強烈な塩辛さが口の中に広がるが、身体は温まらない。むしろ、冷たい食事は胃袋から体温を奪っていくようだ。
雨は止む気配がない。今夜はこの冷たく濡れた桟道の橋の上で、眠るしかないのかもしれない。若者は天を仰いだが、雨粒が目を打つだけで、星などどこにも見えなかった。

【絶壁の青龍】

ごうごうと、地鳴りのような音が足元の板隙から響いてくる。 数百尺の断崖の下、漢水の支流が白波を立てて渦巻いている音だ。だが、兵卒の若者にとって、その水音は救いではなく、焦熱地獄の亡者が聞く天上の歌に等しかった。

「……水だ。水が見えるのに」

若者は乾いてひび割れた唇を舌で探った。ざらついた舌は革のように硬く、喉は焼き火箸を突っ込まれたように痛む。 腰の水筒は、昨日の昼に底をついた。岩肌にへばりつく苔を舐めても、焼け石に水。数刻前、耐えきれずに崖下へ桶を下ろそうとした若兵がいたが、吹き荒れる谷風に煽られ、桶は岩壁に叩きつけられて木っ端微塵になった。残されたのは、手の中の千切れた麻縄と、より深まった絶望だけだった。

行軍は遅々として進まない。狭隘な桟道で十万の兵がひしめき合えば、一寸進むのにも刻を費やす。 意識が飛びかけた、その時だ。

「どいてくれ。仕事にならん」

背後から、低く、しかし通りの良い声がした。 若者が虚ろな目で振り返ると、異様な一団が隊列の隙間を縫うように現れた。 彼らは槍も剣も持っていない。代わりに、背中には山のような青竹の束を、腰にはのみなた、麻縄の束を下げている。

匠兵。蜀軍が誇る工兵の一隊だ。青竹は桟道の補強に、仮設の足場に、そして水管にと様々な工作に使用される。

彼らは偉ぶる様子もなく、かといって兵卒たちに労りの言葉をかけるでもない。ただ、目の前の「岩」だけを見つめていた。 彼らは桟道の一角、岩盤がわずかに抉れ、上部の黒ずんだ苔から水滴が滲んでいる場所を見つけると、無言で荷を下ろした。

「頭(かしら)、あそこだ。高いぞ」 「構わん。繋げ」

短いやり取りの後、二人の匠兵が猿のような身軽さで垂直の岩壁を登り始めた。命綱は腰の麻縄一本。足場などない。岩のわずかな窪みに爪先をかけ、指の力だけで身体を引き上げていく。 見守る若者たちのほうが、足のすくむ思いだった。一歩間違えば、下の激流へ真っ逆さまだ。

桟道に残った者たちは、背負ってきた青竹を鉈で割り始めた。

パーン、パーン。

乾ききった渓谷に、竹を割る快活な音が響き渡る。同時に、周囲に瑞々しい青竹の香りが漂った。それは埃と汗と絶望の臭いに満ちたこの場所において、あまりに鮮烈な「生」の匂いだった。

彼らは割った竹の節を鑿で削り落とし、麻縄と松脂を使って器用に繋ぎ合わせていく。見る間に、長い長い青色の「管」が出来上がった。 岩壁を登った二人が、頭上の岩の割れ目――人の手など届かぬ湧き水の出口に、その管の先端を強引に差し込む。

「よし、通せ!」

合図と共に、管が固定される。

一瞬の静寂。

やがて、カポ、カポ……という乾いた音が竹筒の中を走り抜けたかと思うと、その音はサラサラという水音へと変わった。

桟道に突き出した竹の先端から、細い、しかし途切れることのない清冽な水が、弧を描いて流れ落ちた。

「水だ……! 水が出たぞ!」

若者をはじめ、兵士たちが歓声を上げて殺到した。我先にと兜や革袋を差し出す。 だが、次の瞬間、彼らの表情が凍りついた。

竹筒から吐き出されたのは、清冽な岩清水ではなかった。 それは黄土をたっぷりと含んだ、どろりと濁った泥水だった。

「なんだこれは……泥じゃないか!」
「……これを飲めと言うのか」

兵卒の若者は、配給された椀の中身を睨みつけた。 茶色く濁り、腐った木の根と土の臭いが鼻をつく。口に含めば、ジャリという嫌な音と共に、泥の粒子が歯の間に入り込む。 だが、飲まなければ脱水で死ぬ。飲めば腹を下して動けなくなり、置いていかれて死ぬ。 進退窮まった若者の耳に静かに足音が近づいてきた。

【白い幻術】

「どけ。水師の仕事だ」

現れたのは、匠兵の中でも特に水質管理を任された小隊だった。 彼らの仕事は、飲水の選別。彼らは煤けた顔をした他の兵とは違い、口元を布で覆い、手には奇妙な革袋を提げている。彼らは兵士たちが遠巻きに見守る中、泥水の溜まった水瓶の前に立った。

「酷い濁りだな。……『白礬はくいし』を準備しろ」 「了解」

水師の長と思しき男が革袋から取り出したのは、透き通った白い結晶の塊――明礬ミョウバンだった。 彼はそれを拳大の石で丁寧に粉末状に砕くと、躊躇なく泥水の瓶へと投入した。さらに、持参した長い棒で、ゆっくりと、しかし一定のリズムで瓶の中を撹拌し始める。

「何をしているんだ? 泥に石の粉を混ぜて、何になる」 若者が訝しげに呟くが、水師は答えない。 しばらく混ぜた後、水師の長は棒を止め、短く告げた。 「しばし待て。触れるなよ」

静寂が洞窟を支配する。 半刻(約15分)ほどが過ぎた頃だろうか。 若者は、目を疑った。

「おい……見ろ」 「色が、変わっていくぞ」

茶色く濁っていた液体の中で、奇妙な現象が起きていた。 白い粉が泥の粒子を次々と捕まえ、大きな綿雪のような塊となって、瓶の底へと沈んでいくのだ。 泥が沈むにつれ、上層に残された液体は、魔法のように透明度を増していく。

やがて、瓶の中は完全に二層に分かれた。 底には分厚いヘドロの層。そしてその上には、鏡のように澄み渡った「水」が湛えられていた。
水師は慎重に柄杓を入れ、上澄みだけをすくい取ると、若者の目の前に差し出した。 「飲んでみろ」
若者は恐る恐る口をつけた。 泥の臭いは消えている。微かに渋みのような、鉱物特有の味が舌に残るが、それは不快なものではなく、むしろ清潔さを感じさせる味だった。喉を通る感触は滑らかで、泥のざらつきなど微塵もない。

「……飲める。綺麗な水だ!」 
若者が叫ぶと、周囲の兵士たちから歓声が上がった。 「なっ、幻術かよ!」 

興奮する兵士たちを他所に、工兵の班長は淡々と次の瓶へと向かった。 

「魔法などではない。これは丞相より授かった『理(ことわり)』だ」 
彼は背中で語る。 
「泥は泥、水は水。あるべき場所へ分けたに過ぎん。水を、上澄みを使うんだ。……さあ、次の瓶を持ってこい」
灰色の絶壁を這うように設置された、長い青竹の管。その先の桶に、水師の振り撒く白い粉が、松明の光を受けて輝く。それはまるで一匹の青龍のようだった。


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古来より中国では竹は足場に配管に様々に応用されおり、古国時代の伝説上の君主 有巣氏の発明と言われます。現代のアルミや鉄の鋼管より数倍軽く数倍早く施工できます。欠点は安全性が経験でしかわからないということでしょうか。

ミョウバンは古来より、水の浄化、殺菌に用いられていたと言われています。アルミニウムを含むので、決して体に良くはありません。感染症による疫病になるよりマシという水です。

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