丞相を継ぐ者 諸葛亮の法に抗い、諸葛亮の情を支えた一人の友の物語。

こくせんや

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第一部 街亭の戦い

11話 拾糞兵 泥の手は熱き命の欠片を拾い 猛将の喝采は戦友の誇りを灯す

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【糒】

ガリリ、とまた硬い音が口の中で響いた。 生煮えの粟は、噛めば噛むほど顎を疲れさせ、味のない砂をすり潰しているような惨めさを兵士たちに突きつける。

「……こんな生米、豚のエサにもなりやしねぇ」

隣に座る若い兵が、堪えきれずに椀を地面に叩きつけそうになった、その時だ。
「――豚のエサとは随分と豪勢だな」

闇の底から、地を這うような太い声が響いた。
兵士たちが弾かれたように顔を上げると、そこには甲冑の上から厚手の戦袍を羽織った巨影が立っていた。 それは蜀軍の誰もが知る、魏延将軍だった。大きな髭を蓄えたその顔には、数え切れぬほどの刀傷が刻まれている。

若兵が恐怖に震え上がり、慌てて平伏しようとするのを、魏延は太い手で制した。
 「よい。音を立てるなと言ったはずだ。座っていろ」
 魏延は音もなく若兵の前に屈み込むと、地面に置かれた椀を拾い上げた。泥のついた太い指が、中身の半煮えの粥をすくい上げる。

「将軍、それは……まだ煮えておりません。腹を壊します」
若兵が思わず止めようとしたが、魏延は構わずその指を口に含み、ガリガリと音を立てて咀嚼した。顔色一つ変えず、喉仏を鳴らして飲み込む。

「……硬いな。確かに石のようだ」
魏延は短くそう言うと、鋭い眼光で若兵を見下ろした。

「だがな、小僧。故郷の柔らかい飯を食って死んだ奴は五万といるが、この硬い飯を食って生き延びた奴もここにいる」
 魏延は自身の分厚い胸板をドン、と叩いた。
「戦場で火を惜しむのは、臆病だからではない。貴様らが家に帰るまで、その首を繋いでおくためだ。生の粟で腹が痛むのと、喉に矢を受けて死ぬのと、どちらがマシだ?」
若兵は青ざめた顔で、首を横に振る。 
「わ、わかりました……申し訳ございません」

魏延は厳しい表情を少しだけ崩し、懐から小さな布包みを取り出した。
「よく噛め。三十回噛めば、生米も甘くなる。……ほら、これを使え」 放り投げられたのは、ひとかけらの「乾姜(干した生姜)」だった。

「欠片を齧りながら食え。腹が温まる。腹痛の薬代わりだ」 それだけ言い残すと、魏延は再び闇の中へと消えていった。背中のマントが、夜風に重たげに揺れる。
残された若兵は、震える手で生姜を齧り、涙を拭いながら再び硬い粥を口に運んだ。 また、自身の椀に向き直る。 口の中の砂利のような粟は相変わらず硬い。だが、不思議と先ほどまでの絶望的な冷たさは消えていた。 

「……三十回、か」 
顎が痛くなるほど強く、強く噛み締めた。老いた虎が生き抜いてきたその歳月を、若者が自らの血肉に変えるかのように。

【糞】

そこは、飛鳥さえも翼を休める場所を持たぬ、絶壁の只中だった。
岩肌にへばりつくように伸びる蜀の桟道。上下左右、視界を埋めるのは岩と空のみ。
煮炊きに必要な薪となる灌木一本すら、この岩牢には生えていない。あるのは、骨まで凍らせる岩風と、先行した騎兵隊が残した痕跡だけだ。

「おい、寄るな。臭いが移る」 
行軍停止の直後、若い兵が鼻と口を袖で覆い、露骨に顔をしかめた。 
彼が追い払おうとしたのは、背丈ほどもある竹籠を背負い、地面を睨んで歩く数人の小柄な兵たちだった。

衣服は泥と排泄物で変色し、風下に立てば鼻腔を塞ぎたくなるほどの異臭を放っている。
彼らは隊列の最底辺、「拾糞しゅうふん兵」。 
先行する軍馬が道に落とした糞を拾い集める。
戦うことも許されず、ただ他者の排泄物を漁る彼らの姿は、血気盛んな若兵にとって侮蔑の対象でしかなかった。

「あっちへ行け。飯が不味くなる」 若兵が足裏を見せ、小兵の一人を蹴散らそうとした、その時だ。

「――その飯は、どうやって炊くつもりだ?」

背後から、岩盤が擦れ合うような低い声が響いた。 若兵が強張った顔で振り返ると、蜀軍きっての猛将、魏延将軍が、またもや巨岩のような威圧感で佇んでいる。
魏延は無言のまま、萎縮する小兵の籠へ太い腕を突っ込むと、中から乾いた馬糞の塊を一つ、無造作に掴み出した。

「うっ……将軍、何をご不浄な」
若兵が悲鳴じみた声を上げるが、魏延は眉一つ動かさない。
カサカサに乾いたその塊は、草を食む馬の消化しきれなかった繊維の集積であり、この不毛の地においては、薪よりも火持ちの良い極上の燃料となる。
魏延は、その乾いた塊を、若兵の鼻先へと突きつけた。

「不浄だと? よく嗅いでみろ。これはただの草の成れの果てだ」 「し、しかし……」 「薪など一本も拾えぬこの桟道で、貴様のその冷え切った生米を、誰が粥に変えてくれる? 誰が貴様の凍えた手足を温める?」

魏延は掴んでいた塊を、若兵の手のひらに力任せに握らせた。

「彼らが腰を屈め、地を這いずり回って集めたこれがなければ、今夜、貴様らは生の粟を齧り、凍えて死ぬのだ。彼らが拾い集めているのは糞ではない。貴様らが明日生きるための『熱』だ」

一喝が、峡谷の風よりも重く若兵の胸を打った。 若兵は顔を赤くし、手の中にある軽く乾いた塊を見つめたまま、言葉を失う。

その時、突風が桟道を吹き抜けた。
拾糞兵の一人が、不意に隊列を離れ、欄干さえ朽ち落ちた断崖の縁へと歩み寄った。そこには、風に飛ばされかけたひとかけらの馬糞が転がっていた。
一歩踏み外せば千尋の谷底へ落ちる。だが、その兵は躊躇わなかった。無言で身を乗り出し、震える手でそれを掴み取ると、大事そうに籠へと放り込んだのだ。 彼は顔色一つ変えず、また黙々と次の獲物を探し始めた。
魏延は、その光景を若兵に見せつけるように顎をしゃくった。

「見たか。あの一欠片を拾うために、彼は命を賭けた。貴様が敵に槍を突き出すのと、彼が風の中で燃料を掴むのと、そこに何の貴賤がある?」
魏延は、呆然とする若兵の肩を放し、汚れた服の拾糞兵たちの前に進み出た。そして、あろうことか、その薄汚れた一人の肩を、両手で強く鷲掴みにしたのである。

「我らは敵と戦う。だが、お前たちは『寒さ』という敵と戦っているのだな」 魏延の古傷だらけの顔がニィと歪み、獰猛な笑みを浮かべた。

「誇るがいい。お前たちもまた、俺の自慢の兵だ。共に、長安まで行くぞ」
魏延の言葉に、薄汚れた兵たちの目が潤み、こらえきれずに嗚咽が漏れた。 誰からも顧みられず、蔑まれ続けてきた彼らにとって、将軍からの「戦友どうし」という承認は、何よりの報奨であった。 魏延は、彼らの籠を、その分厚い手でバン、と叩いた。

「良い乾き具合だ。これだけあれば、火は保つ。……胸を張れ。お前たちが運んでいるのは、命だ」
 やがて夜の帳が下りる頃。 岩陰で起こされた焚き火は、牧草が燻るような独特の匂いを漂わせながら、力強く燃え上がった。 釜の湯が沸く音を聞きながら、若兵は炎の中にくべられる燃料を、そしてそれを運んできた者たちの背中を、もう二度と嘲笑うことはできなかった。


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生煮えの汁をすすり、うんこを掴む魏延。魏延は厳しくも優しい鬼軍曹なイメージです。

なお、乾いた馬糞は、薪よりも簡単に火がつき、その重量あたりの熱量は薪よりも多いそうです。森林のない草原、現代のモンゴルにおいても、都市部では石炭なども利用されていますが、伝統的な遊牧生活の中では、馬糞は循環型の生活を支える貴重なエネルギー源であり続けています。



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