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第一部 街亭の戦い
14話 岐山到達 険しき峰を抜け夕陽の野に立ち 無言の凱歌は静寂に満つ
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【静寂の稜線】
それからの日々は、薄氷の上を歩むような緊張の連続であった。
時には荷のバランスを崩しかけた兵を厳しく叱責し、時には乾いた喉を潤す水を分け与え、私は「規律」と「士気」という、相反する二本の綱を極限まで張り続けた。
その道中で、私はある悟りを得ていた。
私の情熱は、馬謖や孔明殿が語るような「天下国家」という巨大な絵図にはない。私の魂が震えるのは、目の前で『方寸』を背負う兵卒一人の呼吸と、彼らが担う規格化された荷の重さに対してなのだ、と。
彼らが倒れず、木牛の車輪が回り続けること。その事実を積み重ねることだけが、私の義であった。
一ヶ月近く。蜀軍八万の隊列は、秦嶺の険しい山道を、尽きることのない茶色の帯となって這い続けた。
その間、兵站が断絶する悪夢に何度うなされたか知れない。だが、事前の布石と、現場での迅速な修正、そして何よりも兵士たちの泥にまみれた足裏によって、我々の「計算」は一寸たりとも狂うことはなかった。
そして、ある日の黄昏時。
私は前線近くで、不意に視界が開けるのを感じた。
眼前を塞いでいた秦嶺の山脈が途切れ、眼下になだらかな稜線と、夕陽に赤く染められた広大な平野が広がっていたのである。
「長史。……抜けました。岐山です」
報告に来た斥候の声は、興奮を押し殺して震えていた。
私は馬上で目を細めた。
蜀の赤土とは違う、乾いた黄土の色。吹き抜ける風には、湿った山の匂いではなく、麦と乾いた土埃の匂いが混じっている。
魏の風だ。その乾いた感触が、この困難な行軍が妄想ではなく、ついに物理的な「形」を成したことを教えてくれた。
【方寸の城塞】
周囲を見渡す。
魏軍の狼煙は上がっていない。敵の斥候の影もない。
まるで、我々という巨大な鉄塊が、ただの風や霧であったかのように、敵はこの侵入に全く気づいていないのだ。
「……届いたか」
私は誰に言うともなく、低く呟いた。
兵站を預かる私にとって、この無傷かつ隠密の到着こそが、敵の首級を挙げること以上の勝利であった。
胸の内で沸き上がる熱を、私は冷徹な職務意識で蓋をする。ここで気を緩めれば、全てが水泡に帰す。
私は背後に控える匠兵たちへ、以前より定めていた「最後の命令」を下した。
「匠兵。これより予定通り、余剰の『方寸』を用い、桟道と岐山の間に全軍が野営できる陣と倉を速やかに構築せよ。……今後の侵攻において、万が一不慮の事態となった時、ここが我らの最後の砦となる」
「御意!」
匠兵たちが散開する。
通常、数万の軍が野営地を築くとなれば、森を切り拓く斧の音、杭を打つ槌の音、そして工夫たちの怒号が山々に響き渡る。それは敵に「我らはここにいる」と教えるようなものだ。
だが、私の軍は違う。
カコッ、カコッ、ガコッ。
響いてくるのは、乾いた硬質な音のみ。
木を切る音もなければ、杭を打つ音もない。
兵たちが背負ってきた「空箱」と、木牛から降ろされた「予備の箱」が、匠兵たちの手によって煉瓦のように積み上げられ、枘(ほぞ)を噛み合わせて結合されていく。
わずか一刻。
あちこちに、二尺の箱が整然と積まれた強固な防壁と、物資を守る倉が出現した。
それは魔法ではなく、私が設計し、彼らが運び続けた「規格」という理(ことわり)の結晶であった。
【無音の凱歌】
完成した茶色の城塞を見上げ、私は静かに頷いた。
「全軍に伝えよ。これより横陣にて部隊展開。輜重隊は計画通り移動せよ。ただし、一切の勝鬨を禁ずる。物音一つ立てるな。この静寂こそが、我らの勝利への道だ」
私は長史だ。感傷に浸る時間はない。この岐山の麓に、十万の軍勢が魏軍と対峙できる拠点を、音もなく完成させねばならない。
振り返ると、兵士たちの顔には、極限の疲労と共に、奇妙なほど穏やかな達成感が浮かんでいた。
彼らは背中の荷を降ろし、自分たちが運んできた箱が「城」となって自分たちを守る様を、誇らしげに見つめている。
彼らは無言のまま、私の目を見つめ返してくる。
私は馬上で姿勢を正し、彼らに向かって静かに、しかし深く拱手した。大勢の兵士がそれに応える。
(よくやった。皆、よく耐え抜いた)
言葉にはしなかった。
だが、その一瞬の視線の交錯だけで、我々の間にはいかなる言葉よりも雄弁な「義」が通ったと感じた。
一人の落伍者もなく、箱一つ失うことなく、この絶望的な山越えを完遂したこと。
これこそが、私の静かなる完勝であった。
----------あとがき----------
我らが行軍長史・向朗の仕事は、ここまでで半分達成したようなものです。
約400kmの山中の行軍。静岡から新潟までの山間ルートを10万人が、コンビニも旅館も使わず歩きつづけるような感覚ですね。色々想像して書いてみましたが、実際もっとヤバい行軍だったことでしょう。
それからの日々は、薄氷の上を歩むような緊張の連続であった。
時には荷のバランスを崩しかけた兵を厳しく叱責し、時には乾いた喉を潤す水を分け与え、私は「規律」と「士気」という、相反する二本の綱を極限まで張り続けた。
その道中で、私はある悟りを得ていた。
私の情熱は、馬謖や孔明殿が語るような「天下国家」という巨大な絵図にはない。私の魂が震えるのは、目の前で『方寸』を背負う兵卒一人の呼吸と、彼らが担う規格化された荷の重さに対してなのだ、と。
彼らが倒れず、木牛の車輪が回り続けること。その事実を積み重ねることだけが、私の義であった。
一ヶ月近く。蜀軍八万の隊列は、秦嶺の険しい山道を、尽きることのない茶色の帯となって這い続けた。
その間、兵站が断絶する悪夢に何度うなされたか知れない。だが、事前の布石と、現場での迅速な修正、そして何よりも兵士たちの泥にまみれた足裏によって、我々の「計算」は一寸たりとも狂うことはなかった。
そして、ある日の黄昏時。
私は前線近くで、不意に視界が開けるのを感じた。
眼前を塞いでいた秦嶺の山脈が途切れ、眼下になだらかな稜線と、夕陽に赤く染められた広大な平野が広がっていたのである。
「長史。……抜けました。岐山です」
報告に来た斥候の声は、興奮を押し殺して震えていた。
私は馬上で目を細めた。
蜀の赤土とは違う、乾いた黄土の色。吹き抜ける風には、湿った山の匂いではなく、麦と乾いた土埃の匂いが混じっている。
魏の風だ。その乾いた感触が、この困難な行軍が妄想ではなく、ついに物理的な「形」を成したことを教えてくれた。
【方寸の城塞】
周囲を見渡す。
魏軍の狼煙は上がっていない。敵の斥候の影もない。
まるで、我々という巨大な鉄塊が、ただの風や霧であったかのように、敵はこの侵入に全く気づいていないのだ。
「……届いたか」
私は誰に言うともなく、低く呟いた。
兵站を預かる私にとって、この無傷かつ隠密の到着こそが、敵の首級を挙げること以上の勝利であった。
胸の内で沸き上がる熱を、私は冷徹な職務意識で蓋をする。ここで気を緩めれば、全てが水泡に帰す。
私は背後に控える匠兵たちへ、以前より定めていた「最後の命令」を下した。
「匠兵。これより予定通り、余剰の『方寸』を用い、桟道と岐山の間に全軍が野営できる陣と倉を速やかに構築せよ。……今後の侵攻において、万が一不慮の事態となった時、ここが我らの最後の砦となる」
「御意!」
匠兵たちが散開する。
通常、数万の軍が野営地を築くとなれば、森を切り拓く斧の音、杭を打つ槌の音、そして工夫たちの怒号が山々に響き渡る。それは敵に「我らはここにいる」と教えるようなものだ。
だが、私の軍は違う。
カコッ、カコッ、ガコッ。
響いてくるのは、乾いた硬質な音のみ。
木を切る音もなければ、杭を打つ音もない。
兵たちが背負ってきた「空箱」と、木牛から降ろされた「予備の箱」が、匠兵たちの手によって煉瓦のように積み上げられ、枘(ほぞ)を噛み合わせて結合されていく。
わずか一刻。
あちこちに、二尺の箱が整然と積まれた強固な防壁と、物資を守る倉が出現した。
それは魔法ではなく、私が設計し、彼らが運び続けた「規格」という理(ことわり)の結晶であった。
【無音の凱歌】
完成した茶色の城塞を見上げ、私は静かに頷いた。
「全軍に伝えよ。これより横陣にて部隊展開。輜重隊は計画通り移動せよ。ただし、一切の勝鬨を禁ずる。物音一つ立てるな。この静寂こそが、我らの勝利への道だ」
私は長史だ。感傷に浸る時間はない。この岐山の麓に、十万の軍勢が魏軍と対峙できる拠点を、音もなく完成させねばならない。
振り返ると、兵士たちの顔には、極限の疲労と共に、奇妙なほど穏やかな達成感が浮かんでいた。
彼らは背中の荷を降ろし、自分たちが運んできた箱が「城」となって自分たちを守る様を、誇らしげに見つめている。
彼らは無言のまま、私の目を見つめ返してくる。
私は馬上で姿勢を正し、彼らに向かって静かに、しかし深く拱手した。大勢の兵士がそれに応える。
(よくやった。皆、よく耐え抜いた)
言葉にはしなかった。
だが、その一瞬の視線の交錯だけで、我々の間にはいかなる言葉よりも雄弁な「義」が通ったと感じた。
一人の落伍者もなく、箱一つ失うことなく、この絶望的な山越えを完遂したこと。
これこそが、私の静かなる完勝であった。
----------あとがき----------
我らが行軍長史・向朗の仕事は、ここまでで半分達成したようなものです。
約400kmの山中の行軍。静岡から新潟までの山間ルートを10万人が、コンビニも旅館も使わず歩きつづけるような感覚ですね。色々想像して書いてみましたが、実際もっとヤバい行軍だったことでしょう。
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