丞相を継ぐ者 諸葛亮の法に抗い、諸葛亮の情を支えた一人の友の物語。

こくせんや

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第一部 街亭の戦い

23話 熱狂と破滅 描かれた絵図は熱狂に満ちて 狂気の速度が運命を狂わす

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​【嵐の前の静謐】

​ その日、冀県城の本陣には、奇妙なほど静かで、しかし濃密な熱気が澱のように溜まっていた。

 それは、勝鬨を上げるような粗野な騒ぎではない。巨大な石垣を築く際、最後の一つとなる巨石が、計算通りにぴたりと嵌まり込む瞬間を待つような、息詰まるような達成感の予兆であった。

​ 私は執務室の窓を開け、前庭を見下ろす。

 夕闇が迫る中、篝火の炎が赤々と燃え上がっている。その光の下で、無数の兵士たちが黙々と出撃の準備を整えていた。

 翌朝未明、いよいよ魏延率いる精鋭騎兵八千が、ここ冀県城を発つ。
 目指すは、渭水沿いの険しい狭道。そこを電撃的に駆け抜け、魏軍の背後にある要衝・箕谷への奇襲を敢行する手筈となっていた。

​「……研ぎ澄まされているな」

​ 私は独りごちた。
 将兵たちが愛馬の毛並みを整え、槍の穂先を研ぐ音が、風に乗って微かに聞こえてくる。
 彼らの背中からは、長年の雌伏の時を終わらせ、敵の喉元を喰いちぎらんとする獣の殺気が立ち昇っていた。

 魏延という猛将の「熱」が、将兵に伝播しているのだ。理屈ではない。彼らは明日、歴史を変える戦いに出るのだという確信に震えている。
​ 私は窓を閉め、振り返った。

 そこには、もう一つの戦場――「静寂の戦場」が広がっている。

​「向朗長史。各方面より、定時連絡が入っております」

​ 副官の姚伷が、うず高く積まれた木簡の山から顔を上げ、報告を読み上げた。その声は弾んでいる。
​「天水郡の領民、漢中への移住順調に進んでおります。各行(ギルド)の協力もあり、混乱はありません」
「西方、隴西郡太守・遊楚より、降伏の使者が到着。あと数日で受け入れ可能です」
「北方、高翔将軍の軍勢、武威にて魏の徐邈を牽制。敵兵力の分散に成功しております」

​ 吉報。吉報。また吉報。

 長史の執務室には、勝利という名の「数字」が積み上げられていた。

​「素晴らしい……。まるで、あらかじめ決められていたかのようですな」
​ もう一人の副官、楊顒が、筆を走らせながら感嘆の声を漏らした。

 彼らの筆は、踊るように滑らかだ。連日の激務による疲労さえも、今は心地よい高揚感の一部となっていた。

​ 丞相・諸葛亮が脳内で描いた壮大な絵図面。
 それが今、現実という大地の上に、寸分の狂いもなく焼き付けられていく。

 天水、南安、安定の三郡は我らの手に落ち、涼州の民心も我らにある。そして明日、魏延の刃が魏の脇腹を突き刺せば、長安への道は決定的に開かれる。

 私たちは、その歴史的な奇跡に立ち会い、それを支えているのだという陶酔が、そこにはあった。

​「……ああ。すべては計算通りだ」

​ 私もまた、その「静かなる熱狂」に浸っていた。
 兵站は血管のように脈打ち、最前線へ血液(物資)を送り届けている。滞りはない。完璧だ。

 懸念していた街亭の馬謖からも、数日前には「布陣完了、要害を占拠し、魏軍を迎え撃つ準備万端なり」という力強い報告が届いていた。

​(勝てる。……この歯車の回転が止まらぬ限り、漢室再興は夢物語ではない)

​ 私は震える手で茶を啜り、高鳴る鼓動を鎮めようとした。
 茶の湯気に、希望の香りが混じっている気がした。
 この完璧な秩序こそが、丞相の作り出した「法」の音色なのだと、私は信じて疑わなかった。

​【崩壊の足音】

​ その精緻な音色が、不協和音を奏でることもなく、唐突な轟音と共に砕け散ったのは、陽が完全に西の山に沈み、夜の帳が下りた頃であった。

​ ガタガタッ!!

​ 本陣の入り口が騒がしくなり、制止する衛兵の声と共に、一人の伝令兵が転がり込んできた。
 その姿を見た瞬間、室内の熱気は一瞬にして凍結した。

​ 砕けた鎧。泥と乾いた血にまみれた身体。

 何より、その顔に張り付いた表情は、通常の報告者のそれではなく、地獄の蓋を開けて中を見てきた亡者のそれであった。
 彼は肩で息をし、焦点の定まらない目で私たちを見た。

​「……み、水……」

​ 姚伷が慌てて水差しを持って駆け寄り、兵士に飲ませる。
 兵士はむせ返りながらも水を飲み干すと、私の前に這いずり、肺から絞り出すような声で叫んだ。

​「ほう、報告……! が、街亭より急報ッ!!」

​ 私は弾かれたように立ち上がった。
 背筋を、冷たい氷柱で下から上へと撫で上げられたような悪寒が走る。
 街亭だと? 定時連絡は済んでいるはずだ。なぜ、このような恰好の伝令が来る?

​「申せ! 何があった!」
​ 私の怒声に、伝令兵は震えながら、信じがたい事実を吐き出した。

​「街亭の馬謖参軍の陣に、突如、魏の大軍が現れました! その数、およそ一万! 先鋒の旗印は……魏の左将軍・張郃!!」

「……なんだと?」

​ 私の口から漏れたのは、意味を成さない空気の塊だった。
 カタン。
 楊顒が持っていた筆を取り落とし、乾いた音が凍りついた室内に響き渡った。

​「張郃だと……? 馬鹿なことを言うな!」
​ 私は机を叩き、叫んだ。

 感情ではなく、理性がその報告を拒絶した。
​「魏の主力である張郃軍は、荊州方面に駐屯しているはずだ! 仮に我らが岐山に現れたという急報を受け、直後に出陣したとしても、大軍を率いてこれほど早く街亭に到達することは、距離と時間の物理法則に反する!」

​ 私は壁の地図を指差した。
 洛陽から長安、そして街亭。その距離は千里を超える。
​「ただ進むにしてもあと一ヶ月、輜重を伴う大軍ならば、後二ヶ月は要する距離だ!」

​ それに、行軍には準備がいる。一万の兵を動かす食料、矢、牛馬の手配。それらを一日二日で確保できるものではない。
 歩兵と輜重隊を伴う行軍速度の限界を、兵站を司る私は誰よりも熟知しているのだ。

​「誤報ではないのか!? 斥候の見間違いであろう!」
「間違いございません! 街亭の目前に迫る『張』の旗、砂塵を上げて迫る騎兵の群れ……。間違いなく、魏の主力です!」

​ 伝令兵の悲痛な叫びが、私の希望的観測を粉々に打ち砕いた。

​【理外の進軍】

​ 私は椅子に力なく座り込んだ。
 頭の中で、高速で計算が行われる。
 距離。時間。速度。物資。
 ……合わない。どう計算しても、数字が合わない。

 物理的にあり得ない速度だ。彼らは空でも飛んだというのか?

​(……まさか)

​ 私の脳裏に、一つの恐るべき可能性が閃いた。
 それは、兵站を預かる者として、最も忌避すべき、そして最も恐れるべき「禁じ手」であった。

​(輜重を……捨てたか?)

​ 通常の行軍ではない。
 食料も、予備の武器も、野幕(テント)も、炊事具も。
 進軍速度を落とす全ての「重り」を捨て、軽騎兵のみで、不眠不休、昼夜兼行の強行軍を行ったとしか考えられない。

​ だが、それは自殺行為だ。
 一万の軍勢が、補給を持たずに敵地へ飛び込むなど、兵法以前の狂気だ。一日でも補給が滞れば、軍は自壊する。

 もし、彼らがそんな真似をして生き延びられるとしたら、方法は一つしかない。

​ ――現地調達。
 いや、自国内での「略奪」だ。

​ 魏の領内を通行する際、沿道の都市や村々から、強権的に食料と馬を徴発し、使い潰しながら進んできたのだ。

 だが、それには国家としての絶対的な確約が必要だ。一将軍が勝手にやれば、それは反乱でしかない。

​(……魏帝・曹叡は、宿老とはいえ、張郃という一将軍に、どれほどの特権を与えたというのか?)

​ 私は戦慄した。
 皇帝が全てを許可し、沿道の全ての城に対し、軍需物資を無尽蔵に供出させ、民を犠牲にしてでも速度を稼ぐ権限。それを張郃に与えたというのか。
仮節か。いや使持節としてもそのような権限はない。

 あり得ない。
 それは、国家としての体面を捨てた、なりふり構わぬ狂気だ。
​ 我々が緻密に計算し、積み上げてきた「一ヶ月の猶予」という安全は、魏帝の常軌を逸した決断と張郃の脚力によって、瞬時に消滅させられたのだ。

​【崩れゆく絵図面】

​「……まずい」

​ 姚伷が、青ざめた顔で呻いた。

​「もし、馬謖参軍が……この『理外の速度』を想定していなかったとしたら?」

​ その言葉に、全員の顔色が変わった。
 馬謖は才気溢れる男だ。だが、彼は兵法書を愛し、理詰めを好む。

 「敵は大軍ゆえ、輜重を伴い、足並みを揃えて来るはずだ」
 「まだ到着まで日がある」
 そう、常識的に判断していたとしたら?
​ もし、彼が「敵はまだ来ない」と高を括って慢心したその瞬間に、想定外の速度で現れた死神・張郃と鉢合わせたら?

​ 私は軍略の機微には疎い。戦場でどう陣を張るべきか、どう敵を迎え撃つべきか、その具体的な戦術までは分からぬ。
 だが、分かる。
 前提となる「時間」が狂えば、そこから導き出される結果が「破綻」であることくらいは。

​ 我々が方寸や木牛流馬を用い常識離れした進軍が出来たように、魏でも何かしらの策があったとして不思議ではない。

 敵もまた、我々の想像を超える「理外」の手を打ってきた。
 そしてその「手」は、今まさに無防備な我々の喉元に突きつけられている。

​「姚伷! 直ちに丞相へ報告を!軍議を開く!」

「魏延将軍の出撃は!? どうしますか!?」
​ 楊顒が叫び、室内は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

 だが、私は動けなかった。
 指先が冷たく痺れている。
​ 間に合わない。
 この伝令がここに着いたということは、事態はすでに数日前に起きているのだ。

 今頃、街亭では――。

​ 私の脳裏に、あの自信満々な馬謖の顔が浮かんだ。
 そして、その背後に迫る、張郃という巨大な影。
 兵站という血管が、無残に引き裂かれる光景。

​(……終わる。すべてが)

 たった一つの「速度」という暴力の前に、砂上の楼閣のように崩れ去ろうとしていた。

​ 最悪の予感が、私の心臓を冷たい手で握り潰そうとしていた。
 窓の外では、何も知らぬ兵士たちの、明日の出陣を祝う勝鬨の声が、虚しく夜空に響いていた。
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