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第二回講義その3 一八九年の危機。地政学・漢の「腹」にある病巣
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【知の脱出・一八九年の大脱出】
(向朗は、古びた地図の「頴川」と「荊州」の間に、一本の太い線を引いた)
「さて、次は『人の移動』について話そうか。 時は中平六年(一八九年)。霊帝陛下が崩御された、あの運命の年のことだ。
まず、ここ。天下の学問所と呼ばれた頴川。 ここには秩序という名の『蓋』があった。名君・黄琬殿だ。彼が睨みを利かせている間、乱世の毒気も頴川までは届かなんだ。 だが、その黄琬殿が中央へ召喚された時――蓋は外れた。 頴川は、董卓という魔王や、野盗という狼の群れの前に、丸裸で放り出されたのだよ。
賢人たちは、鼻が利く。 彼らは悟ったのだ。『ここはもう、知性を育める土地ではない』とな」
(向朗は、ポンと地図上の荊州を叩く)
「そこで彼らが何をしたか。 籠城か? 否。 徹底抗戦か? 否。 彼らが選んだのは、南への集団移住――生き残るための『大脱出』だ。 当時の荊州刺史・劉表殿は、動乱を避けて知識人を保護する『安きの地』を用意していたからな。
だが、ただ逃げたのではないぞ。ここが重要だ。 司馬徽(しばき)先生を中心に、諸葛亮の親族、石韜、そして徐福……彼らはただの難民ではない。私兵を雇い、一族郎党を守るための『武装した隊列』を組み、危険地帯である南陽を強行突破して、襄陽へと渡ったのだ。
これはな、単なる引っ越しではない。荊州という新しい倉庫への、国家の頭脳たる『知の移植』そのものだったのだよ」
(向朗は懐かしそうに目を細め、一人の名を口にする)
「その中で、ある若者が一つの決断をした。 徐福(じょふく)。 彼は、新しい身分証に、自ら筆を執ってこう記した。
……『徐庶(じょしょ)』と。
福(さいわい)を求める過去を捨て、ただの人、庶民(庶)として泥にまみれて生きる。 それは、彼なりの『知の再出発』への決意表明だったのだろうな。」
【遠き熱い思い出】
「さて、まとめに入ろうか」
私は筆を置き、教壇に手をついて生徒たちを真っ直ぐに見据えた。
「兵站とは、単に米や矢を運ぶことではない。それは『秩序』という名の命脈を保つための物理的な裏付けなのだ。一八九年の葛陂(かつは)において、黄琬(こうえん)が『州牧』として権限を統合したのは、バラバラだった行政と軍事の補給線を一本の鋼に鍛え直すためであった。兵站が一本化されたとき、初めて国家は癌細胞(賊)を封じ込める免疫力を手にしたが、時の皇帝、霊帝が崩御という緊急事態で全てが破綻した」
私は黒板の大きな矢印――頴川から荊州へ向かう大移動を指差した。
「そして一八九年、賢者たちが南を目指したのは、兵站システムが崩壊し、知性を維持するための『物理的基盤』が消滅したからだ。本を読む灯火の油も、思索を支える食糧も、安全な寝所も、すべては安定した物流の上にしか存在し得ない。兵站学的に見れば、文明とは『守り抜かれた供給網』の別名なのだよ」
【暴かれた「解像度」の正体】
教室が静まり返る中、最前列で筆を動かしていた姚伷(ようちゅう)が、ふと手を止めた。彼は黒板の図と、私の顔を交互に見比べ、怪訝そうな声を上げた。
「……長史、やはり、おかしいですよ。その、解像度が」
「ん? 何がかな、姚伷」
「先ほどのお話……督郵・賈仁(かじん)などという人物は誰も知りません。また徐福(徐庶)の復讐にが全身に塗った白亜。なぜ白塗りであったと知っているのですか。そして、あの汚職を暴いた『書記官の学生』が感じた、数字の歪みへの嫌悪感。あまりにも生々しすぎます。まるで、その場にいて見てきたかのような……」
楊顒(ようぎょう)も身を乗り出して頷く。
「左様です。歴史書には『白亜の鬼』などという記述はありません。それに、向朗長史……貴方もまた、司馬徽先生の門下生でしたよね。もしや、その計画を立てた『書記官の学生』というのは――」
「まさか、長史ご自身なのですか!?」
姜維殿がガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。窓際の魏延も、いつの間にか刀を拭く手を止め、鋭い眼光をこちらに向けている。
【遠き日の熱き思い出】
私は一瞬呆気に取られたが、やがてこらえきれずに、しわがれた笑い声を上げた。
「カカカ! ……いやはや、鋭い若者たちじゃな。さて、書記官の学生とはだれであったかの?」
私は窓の外、遠く北にある中原の空を仰ぎ見た。
「遠き日であった。あの日、ただ法が踏みにじられるのが我慢ならなかった。理(ことわり)がねじ曲げられるのを正したかった。……それだけのために、知恵の限りを尽くして、州牧黄琬も、葛陂の賊もペテンにかけ、完全犯罪を仕掛けたんじゃ」
「やっぱり……! あの大軍師・徐庶と、曹操の天才・郭嘉、そしてわが蜀の古狸が、同じ卓で悪巧みを……!」
姜維殿の目が少年のように輝き、姚伷と楊顒も興奮に顔を紅潮させている。彼らにとって、目の前の老いた実務家が、伝説の「白亜の鬼」の演出家であったという事実は、どんな兵法書よりも心を揺さぶったようであった。
その時、教室の扉が静かに開いた。
「……向朗殿。教え子たちに余計な『毒』を盛りすぎではありませんか」
ゆったりと羽扇を揺らしながら入ってきたのは、丞相・諸葛亮であった。 「丞相!」 生徒たちが一斉に起立し、居住まいを正す。
諸葛亮は、板壁に残された「徐庶」の名を愛おしそうに見つめた。それから私を見て、かつての隆中(りゅうちゅう)での日々を懐かしむように目を細める。
「過去の種が、今の花を咲かせるのです。泥にまみれた根を知らねば、花を愛でることはできませぬ。貴殿が歩んだあの泥道こそが、今の蜀漢を支える兵站の礎(いしずえ)となっているのですからな」
「……恐縮であります、丞相」
私が深々と頭を下げると、諸葛亮は微かに微笑んだ。
「さて、今日の講義はここまでとしましょう」
しかし、いつもならすぐに立ち去る諸葛亮が、すっと羽扇で私の前を塞いだ。
「ですが、このままでは教え子たちが混乱したままです。……向兄(しょうけい)。貴方がその時何をなし、何をなさなかったのか。話していただきますよ」
そこへ、魏延もニヤニヤと笑みを浮かべて近づいてきた。
「へっ。爺さん、若い頃何を企んでいたんだ?」
「企む? ……間違えていた数字を、正しい値に書き直しただけだ」
私は、悪戯を見つけられた子供のような顔で、彼らを見返した。
「……知りたいか?」
----------あとがき----------
なんの話ですって?
「……知りたいか?」
第3部
『落ちこぼれ侠客と神算の事務屋。三国志の英雄たちが「ドン引き」した、たった一夜の復讐譚 徐庶と向朗の完全犯罪』
が開始となります。
史書に記載されている徐庶についての一節
「徐庶。元の名は徐福。家は貧しく、若くして任侠と撃剣を好んだ。中平六年(189年)に人のために仇討ちを行い捕らえられるも、仲間の名は明かすことはなく、処刑される直前、仲間たちの手によって救出された。その後、襄陽に移り住み。学問に励んだ」
を元にした小説となります。
アルファポリスはタイトル画が登録出来ますので、別登録と致します。
引き続き読んでいただけると幸いです。
「……知りたいか?」読んでみたい方、感想、レビュー、Xにて情報をだしていますのでそちらもよろしくです。
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(向朗は、古びた地図の「頴川」と「荊州」の間に、一本の太い線を引いた)
「さて、次は『人の移動』について話そうか。 時は中平六年(一八九年)。霊帝陛下が崩御された、あの運命の年のことだ。
まず、ここ。天下の学問所と呼ばれた頴川。 ここには秩序という名の『蓋』があった。名君・黄琬殿だ。彼が睨みを利かせている間、乱世の毒気も頴川までは届かなんだ。 だが、その黄琬殿が中央へ召喚された時――蓋は外れた。 頴川は、董卓という魔王や、野盗という狼の群れの前に、丸裸で放り出されたのだよ。
賢人たちは、鼻が利く。 彼らは悟ったのだ。『ここはもう、知性を育める土地ではない』とな」
(向朗は、ポンと地図上の荊州を叩く)
「そこで彼らが何をしたか。 籠城か? 否。 徹底抗戦か? 否。 彼らが選んだのは、南への集団移住――生き残るための『大脱出』だ。 当時の荊州刺史・劉表殿は、動乱を避けて知識人を保護する『安きの地』を用意していたからな。
だが、ただ逃げたのではないぞ。ここが重要だ。 司馬徽(しばき)先生を中心に、諸葛亮の親族、石韜、そして徐福……彼らはただの難民ではない。私兵を雇い、一族郎党を守るための『武装した隊列』を組み、危険地帯である南陽を強行突破して、襄陽へと渡ったのだ。
これはな、単なる引っ越しではない。荊州という新しい倉庫への、国家の頭脳たる『知の移植』そのものだったのだよ」
(向朗は懐かしそうに目を細め、一人の名を口にする)
「その中で、ある若者が一つの決断をした。 徐福(じょふく)。 彼は、新しい身分証に、自ら筆を執ってこう記した。
……『徐庶(じょしょ)』と。
福(さいわい)を求める過去を捨て、ただの人、庶民(庶)として泥にまみれて生きる。 それは、彼なりの『知の再出発』への決意表明だったのだろうな。」
【遠き熱い思い出】
「さて、まとめに入ろうか」
私は筆を置き、教壇に手をついて生徒たちを真っ直ぐに見据えた。
「兵站とは、単に米や矢を運ぶことではない。それは『秩序』という名の命脈を保つための物理的な裏付けなのだ。一八九年の葛陂(かつは)において、黄琬(こうえん)が『州牧』として権限を統合したのは、バラバラだった行政と軍事の補給線を一本の鋼に鍛え直すためであった。兵站が一本化されたとき、初めて国家は癌細胞(賊)を封じ込める免疫力を手にしたが、時の皇帝、霊帝が崩御という緊急事態で全てが破綻した」
私は黒板の大きな矢印――頴川から荊州へ向かう大移動を指差した。
「そして一八九年、賢者たちが南を目指したのは、兵站システムが崩壊し、知性を維持するための『物理的基盤』が消滅したからだ。本を読む灯火の油も、思索を支える食糧も、安全な寝所も、すべては安定した物流の上にしか存在し得ない。兵站学的に見れば、文明とは『守り抜かれた供給網』の別名なのだよ」
【暴かれた「解像度」の正体】
教室が静まり返る中、最前列で筆を動かしていた姚伷(ようちゅう)が、ふと手を止めた。彼は黒板の図と、私の顔を交互に見比べ、怪訝そうな声を上げた。
「……長史、やはり、おかしいですよ。その、解像度が」
「ん? 何がかな、姚伷」
「先ほどのお話……督郵・賈仁(かじん)などという人物は誰も知りません。また徐福(徐庶)の復讐にが全身に塗った白亜。なぜ白塗りであったと知っているのですか。そして、あの汚職を暴いた『書記官の学生』が感じた、数字の歪みへの嫌悪感。あまりにも生々しすぎます。まるで、その場にいて見てきたかのような……」
楊顒(ようぎょう)も身を乗り出して頷く。
「左様です。歴史書には『白亜の鬼』などという記述はありません。それに、向朗長史……貴方もまた、司馬徽先生の門下生でしたよね。もしや、その計画を立てた『書記官の学生』というのは――」
「まさか、長史ご自身なのですか!?」
姜維殿がガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。窓際の魏延も、いつの間にか刀を拭く手を止め、鋭い眼光をこちらに向けている。
【遠き日の熱き思い出】
私は一瞬呆気に取られたが、やがてこらえきれずに、しわがれた笑い声を上げた。
「カカカ! ……いやはや、鋭い若者たちじゃな。さて、書記官の学生とはだれであったかの?」
私は窓の外、遠く北にある中原の空を仰ぎ見た。
「遠き日であった。あの日、ただ法が踏みにじられるのが我慢ならなかった。理(ことわり)がねじ曲げられるのを正したかった。……それだけのために、知恵の限りを尽くして、州牧黄琬も、葛陂の賊もペテンにかけ、完全犯罪を仕掛けたんじゃ」
「やっぱり……! あの大軍師・徐庶と、曹操の天才・郭嘉、そしてわが蜀の古狸が、同じ卓で悪巧みを……!」
姜維殿の目が少年のように輝き、姚伷と楊顒も興奮に顔を紅潮させている。彼らにとって、目の前の老いた実務家が、伝説の「白亜の鬼」の演出家であったという事実は、どんな兵法書よりも心を揺さぶったようであった。
その時、教室の扉が静かに開いた。
「……向朗殿。教え子たちに余計な『毒』を盛りすぎではありませんか」
ゆったりと羽扇を揺らしながら入ってきたのは、丞相・諸葛亮であった。 「丞相!」 生徒たちが一斉に起立し、居住まいを正す。
諸葛亮は、板壁に残された「徐庶」の名を愛おしそうに見つめた。それから私を見て、かつての隆中(りゅうちゅう)での日々を懐かしむように目を細める。
「過去の種が、今の花を咲かせるのです。泥にまみれた根を知らねば、花を愛でることはできませぬ。貴殿が歩んだあの泥道こそが、今の蜀漢を支える兵站の礎(いしずえ)となっているのですからな」
「……恐縮であります、丞相」
私が深々と頭を下げると、諸葛亮は微かに微笑んだ。
「さて、今日の講義はここまでとしましょう」
しかし、いつもならすぐに立ち去る諸葛亮が、すっと羽扇で私の前を塞いだ。
「ですが、このままでは教え子たちが混乱したままです。……向兄(しょうけい)。貴方がその時何をなし、何をなさなかったのか。話していただきますよ」
そこへ、魏延もニヤニヤと笑みを浮かべて近づいてきた。
「へっ。爺さん、若い頃何を企んでいたんだ?」
「企む? ……間違えていた数字を、正しい値に書き直しただけだ」
私は、悪戯を見つけられた子供のような顔で、彼らを見返した。
「……知りたいか?」
----------あとがき----------
なんの話ですって?
「……知りたいか?」
第3部
『落ちこぼれ侠客と神算の事務屋。三国志の英雄たちが「ドン引き」した、たった一夜の復讐譚 徐庶と向朗の完全犯罪』
が開始となります。
史書に記載されている徐庶についての一節
「徐庶。元の名は徐福。家は貧しく、若くして任侠と撃剣を好んだ。中平六年(189年)に人のために仇討ちを行い捕らえられるも、仲間の名は明かすことはなく、処刑される直前、仲間たちの手によって救出された。その後、襄陽に移り住み。学問に励んだ」
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