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第1話 憂鬱な書記官その1/4
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1.文書庫の賢者
「あー……めんどくさい」
太守府の敷地内、北東の隅にある文書庫。そこは、陽光の届かない陰気な空間だった。天井まで積み上げられた木簡と竹簡、そして黴(かび)臭い紙の山が迷路のように連なり、空気中には舞い上がった埃が白く漂っている。その書類の塔に埋もれるようにして、一人の青年が死んだ魚のような目で呟いた。
向朗、字は巨達。
二十代半ばの彼は、南方の荊州・襄陽から、学問の都である潁川へ遊学に来ている学生だ。本来なら、高名な司馬徽(水鏡)先生の下で経書を紐解き、天下国家を論じているはずの身である。だが、実家からの仕送りだけでは遊興費……もとい、高価な書籍代が心もとないため、こうして郡の役所で「臨時雇いの書記」の傭書(アルバイト)をしているのである。
「なんで僕、高い志を持って留学してきたはずなのに、こんな埃まみれの部屋で、他人の計算ミスを修正してるんだろう。……帰りたい。平和で温暖な襄陽に帰って、一日中昼寝がしたい」
向朗は虚ろな目で、手元の木簡に筆を走らせていた。
周囲の机では、正規の書記官たちが忙しなく働いているふりをしている。彼らは出世のために上役への追従に忙しく、あるいは賄賂の計算に余念がなく、肝心の実務がおろそかになっている。
向朗は出世や賄賂とは無関係にただ傭書(アルバイト)代を稼げるのであればと、彼らが三日かけて作る報告書を、向朗は半日で仕上げていた。
彼の特技は「速読」と「暗算」だ。常人なら日が暮れるまでかかる兵糧の出納記録を、彼は茶を一杯飲む間に検算し、清書することができる。数字の羅列を見れば、それが意味する物理的な情景――荷車の数、麦の重さ、移動距離――が瞬時に脳内に浮かび上がるのだ。
その稀有な能力ゆえに、この職場では便利な道具として重宝されすぎていた。
バンッ!
静寂を破り、文書庫の扉が乱暴に開かれた。入ってきたのは、向朗の直属の上司である主簿(事務官)の陳梁だ。小太りで、脂ぎった顔には常に卑屈な笑みと傲慢さが同居している、典型的な小役人である。
陳梁は、抱えていた木簡の束を、向朗の机にドサリと崩れ落ちるように置いた。
舞い上がる埃に、向朗は顔をしかめて咳き込む。
「うわっ、埃が……。主簿殿、少しは丁寧に扱ってくださいよ」
「文句を言うな!眠そうにしているお前が悪いんだ!」
陳梁は唾を飛ばしながら捲し立てた。
「督郵の賈仁様から、今月の『対・葛陂黄巾討伐兵糧報告書』が届いた。最優先で処理しろ。明日の朝までにな!」
「……主簿殿。これ、本来は正規の官吏がやる仕事ですよね?内容量から見て、三日分はある。僕、ただの傭書(バイト)の書生なんですけど。時給に見合いませんよ」
「うるさい!お前は字が綺麗で計算が速いからな!李旻太守も報告を待っておられる。頼んだぞ!」
言うだけ言って、陳梁は逃げるように去っていった。
面倒な仕事を押し付けた安堵感からか、その背中は軽やかだった。
「はあ……」向朗は深いため息をつくと、観念して木簡の束を手に取った。木簡には、ずしりとした重みがある。
それは、民の血税の重みであるはずだった。
「督郵・賈仁、か。いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの『討伐の英雄』様だもんなあ」
賈仁。地域の治安維持と監察を担う督郵という地位にありながら、私財を投じて兵糧を集め、前線に送り続けている篤志家。その献身的な姿勢は、州牧の黄琬や潁川太守の李旻からも絶大な信頼を得ている。街を歩けば、民衆が彼を拝むほどの人気ぶりだ。
向朗は筆を墨に浸し、新たな竹簡を広げた。
「どれどれ、英雄様の華麗なる兵站記録とやらを拝見しますか」
最初は、機械的に数字を右から左へ移していた。麦三千石、輸送用荷車五十両、人足百名。出発日、到着日、損耗率。さらさらと筆が走る。向朗の脳内では、算盤ソロバンを弾く音が鳴り響いている。だが、十枚目まで進んだとき、向朗の手がピタリと止まった。
「…………」
向朗の細められた目が、木簡の数字を凝視する。眠たげだった彼の瞳から、「事務屋」の倦怠が消え、冷徹な「狩人」の光が宿った。筆先から落ちた墨が、木簡の上に黒い染みを作る。
「……綺麗すぎる」
向朗は独りごちた。
数字が、美しすぎるのだ。
帳簿とは、本来泥臭いものである。
自然との闘いだ。突然の雨で麦が腐ることもある。車軸が折れて到着が遅れることもある。鼠に食われることもあれば、腹を空かせた人足が盗み食いすることもある。だから、生の記録というものは、必ず不規則な誤差(ノイズ)を含む。でこぼこしていて、整理しにくいのが当然なのだ。
だが、賈仁の報告書にはそれがない。輸送中の「損失」として計上されている麦の量が、毎回多少の違いがあれど「全積載量の三割」前後で推移している。
『賊の襲撃を受けた』『川が増水した』『山道で荷崩れした』というもっともらしい理由は備考欄にびっしりと書かれているが、結果としての数字が、あまりにも統計的に整いすぎているのだ。
向朗は目を閉じ、頭の中で潁川の地図を展開し、脳内で暗算を始めた。
(……三月五日。この日の天気は雨。潁川北部の土壌は粘土質だ。荷車五十台が、予定時刻通りに到着できるはずがない。泥濘んだ車軸の摩擦を考えれば、少なくとも、もう二時間の遅延が生じるはずだ。なのに、記録上は定刻到着?)
(……四月二日。平地での行軍と、山岳部での行軍で、麦の減耗率が一律三歩五厘(3.5%)?自然に綺麗に割り切れるはずがない。摩擦も、疲労も無視した数字だ)
カッ、と目を開く。
(これは『記録』じゃない。『創作』だ。……しかも、頭のいい奴が、机の上で辻褄を合わせた空想だ)
向朗は筆を置いた。
結論は一つ。賈仁は、徴発した兵糧の約三割を、最初から輸送せずに横領している。
いや、単なる横領ならまだマシだ。
「襲撃」を偽装しているということは、その消えた物資はどこへ行った?討伐対象である賊に奪われたことになっている物資が、実際には賊の手に渡っていなかったとしたら?あるいは、逆に「手渡して」いたとしたら?
背筋に冷たいものが走った。もし後者なら、それは汚職ではない。
利敵行為であり、国家への反逆だ。賈仁は、賊を討伐するふりをしながら、実際には賊に餌を与えて太らせ、その危機を利用して自分の地位を高めている自作自演(マッチポンプ)を行っているのではないか?
「……うわあ、めんどくさい」
向朗は頭を抱えた。
気づいてしまった。
この平和に見える潁川の統治という血管に、致死性の毒がドロドロと流れていることに。だが、彼は正義の味方ではない。ただの貧乏学生だ。これを告発すればどうなる?証拠は自分の頭の中の計算だけ。相手は民衆の英雄にして、太守の信頼厚い督郵。握りつぶされるのがオチだ。下手をすれば消される。
「やめた。見なかったことにしよう。僕の仕事は清書だ。告発じゃない。これに関わったら、間違いなく死人が出る」
向朗は感情を殺し、再び筆を動かし始めた。
数字の嘘を、そのまま綺麗な嘘として書き写すために。
だが、筆先は微かに震えていた。自分の手が、汚れたシステムの一部になったような不快感が拭えなかった。
「あー……めんどくさい」
太守府の敷地内、北東の隅にある文書庫。そこは、陽光の届かない陰気な空間だった。天井まで積み上げられた木簡と竹簡、そして黴(かび)臭い紙の山が迷路のように連なり、空気中には舞い上がった埃が白く漂っている。その書類の塔に埋もれるようにして、一人の青年が死んだ魚のような目で呟いた。
向朗、字は巨達。
二十代半ばの彼は、南方の荊州・襄陽から、学問の都である潁川へ遊学に来ている学生だ。本来なら、高名な司馬徽(水鏡)先生の下で経書を紐解き、天下国家を論じているはずの身である。だが、実家からの仕送りだけでは遊興費……もとい、高価な書籍代が心もとないため、こうして郡の役所で「臨時雇いの書記」の傭書(アルバイト)をしているのである。
「なんで僕、高い志を持って留学してきたはずなのに、こんな埃まみれの部屋で、他人の計算ミスを修正してるんだろう。……帰りたい。平和で温暖な襄陽に帰って、一日中昼寝がしたい」
向朗は虚ろな目で、手元の木簡に筆を走らせていた。
周囲の机では、正規の書記官たちが忙しなく働いているふりをしている。彼らは出世のために上役への追従に忙しく、あるいは賄賂の計算に余念がなく、肝心の実務がおろそかになっている。
向朗は出世や賄賂とは無関係にただ傭書(アルバイト)代を稼げるのであればと、彼らが三日かけて作る報告書を、向朗は半日で仕上げていた。
彼の特技は「速読」と「暗算」だ。常人なら日が暮れるまでかかる兵糧の出納記録を、彼は茶を一杯飲む間に検算し、清書することができる。数字の羅列を見れば、それが意味する物理的な情景――荷車の数、麦の重さ、移動距離――が瞬時に脳内に浮かび上がるのだ。
その稀有な能力ゆえに、この職場では便利な道具として重宝されすぎていた。
バンッ!
静寂を破り、文書庫の扉が乱暴に開かれた。入ってきたのは、向朗の直属の上司である主簿(事務官)の陳梁だ。小太りで、脂ぎった顔には常に卑屈な笑みと傲慢さが同居している、典型的な小役人である。
陳梁は、抱えていた木簡の束を、向朗の机にドサリと崩れ落ちるように置いた。
舞い上がる埃に、向朗は顔をしかめて咳き込む。
「うわっ、埃が……。主簿殿、少しは丁寧に扱ってくださいよ」
「文句を言うな!眠そうにしているお前が悪いんだ!」
陳梁は唾を飛ばしながら捲し立てた。
「督郵の賈仁様から、今月の『対・葛陂黄巾討伐兵糧報告書』が届いた。最優先で処理しろ。明日の朝までにな!」
「……主簿殿。これ、本来は正規の官吏がやる仕事ですよね?内容量から見て、三日分はある。僕、ただの傭書(バイト)の書生なんですけど。時給に見合いませんよ」
「うるさい!お前は字が綺麗で計算が速いからな!李旻太守も報告を待っておられる。頼んだぞ!」
言うだけ言って、陳梁は逃げるように去っていった。
面倒な仕事を押し付けた安堵感からか、その背中は軽やかだった。
「はあ……」向朗は深いため息をつくと、観念して木簡の束を手に取った。木簡には、ずしりとした重みがある。
それは、民の血税の重みであるはずだった。
「督郵・賈仁、か。いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの『討伐の英雄』様だもんなあ」
賈仁。地域の治安維持と監察を担う督郵という地位にありながら、私財を投じて兵糧を集め、前線に送り続けている篤志家。その献身的な姿勢は、州牧の黄琬や潁川太守の李旻からも絶大な信頼を得ている。街を歩けば、民衆が彼を拝むほどの人気ぶりだ。
向朗は筆を墨に浸し、新たな竹簡を広げた。
「どれどれ、英雄様の華麗なる兵站記録とやらを拝見しますか」
最初は、機械的に数字を右から左へ移していた。麦三千石、輸送用荷車五十両、人足百名。出発日、到着日、損耗率。さらさらと筆が走る。向朗の脳内では、算盤ソロバンを弾く音が鳴り響いている。だが、十枚目まで進んだとき、向朗の手がピタリと止まった。
「…………」
向朗の細められた目が、木簡の数字を凝視する。眠たげだった彼の瞳から、「事務屋」の倦怠が消え、冷徹な「狩人」の光が宿った。筆先から落ちた墨が、木簡の上に黒い染みを作る。
「……綺麗すぎる」
向朗は独りごちた。
数字が、美しすぎるのだ。
帳簿とは、本来泥臭いものである。
自然との闘いだ。突然の雨で麦が腐ることもある。車軸が折れて到着が遅れることもある。鼠に食われることもあれば、腹を空かせた人足が盗み食いすることもある。だから、生の記録というものは、必ず不規則な誤差(ノイズ)を含む。でこぼこしていて、整理しにくいのが当然なのだ。
だが、賈仁の報告書にはそれがない。輸送中の「損失」として計上されている麦の量が、毎回多少の違いがあれど「全積載量の三割」前後で推移している。
『賊の襲撃を受けた』『川が増水した』『山道で荷崩れした』というもっともらしい理由は備考欄にびっしりと書かれているが、結果としての数字が、あまりにも統計的に整いすぎているのだ。
向朗は目を閉じ、頭の中で潁川の地図を展開し、脳内で暗算を始めた。
(……三月五日。この日の天気は雨。潁川北部の土壌は粘土質だ。荷車五十台が、予定時刻通りに到着できるはずがない。泥濘んだ車軸の摩擦を考えれば、少なくとも、もう二時間の遅延が生じるはずだ。なのに、記録上は定刻到着?)
(……四月二日。平地での行軍と、山岳部での行軍で、麦の減耗率が一律三歩五厘(3.5%)?自然に綺麗に割り切れるはずがない。摩擦も、疲労も無視した数字だ)
カッ、と目を開く。
(これは『記録』じゃない。『創作』だ。……しかも、頭のいい奴が、机の上で辻褄を合わせた空想だ)
向朗は筆を置いた。
結論は一つ。賈仁は、徴発した兵糧の約三割を、最初から輸送せずに横領している。
いや、単なる横領ならまだマシだ。
「襲撃」を偽装しているということは、その消えた物資はどこへ行った?討伐対象である賊に奪われたことになっている物資が、実際には賊の手に渡っていなかったとしたら?あるいは、逆に「手渡して」いたとしたら?
背筋に冷たいものが走った。もし後者なら、それは汚職ではない。
利敵行為であり、国家への反逆だ。賈仁は、賊を討伐するふりをしながら、実際には賊に餌を与えて太らせ、その危機を利用して自分の地位を高めている自作自演(マッチポンプ)を行っているのではないか?
「……うわあ、めんどくさい」
向朗は頭を抱えた。
気づいてしまった。
この平和に見える潁川の統治という血管に、致死性の毒がドロドロと流れていることに。だが、彼は正義の味方ではない。ただの貧乏学生だ。これを告発すればどうなる?証拠は自分の頭の中の計算だけ。相手は民衆の英雄にして、太守の信頼厚い督郵。握りつぶされるのがオチだ。下手をすれば消される。
「やめた。見なかったことにしよう。僕の仕事は清書だ。告発じゃない。これに関わったら、間違いなく死人が出る」
向朗は感情を殺し、再び筆を動かし始めた。
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