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第2話 市場の侠、計算の理その5/5
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5.酔龍軒の誓い
街外れにある安酒場「酔龍軒(すいりゅうけん)」。かつては名店だったらしいが、今は看板の「龍」の字も剥げ落ち、労働者や貧乏学生が管を巻く掃き溜めのような場所だ。店内は饐(す)えた油と安酒の強烈な臭い、そして酔客たちの熱気で満ちていた。薄暗い店内の隅、油で汚れた卓を囲む四人の若者の姿があった。
「なるほど。徐福くん、君は運が良かったな。向朗がいなければ、今頃は牢屋の中で『不審死』扱いだ」
呆れたように笑いながら杯を干すのは、石韜(せきとう)、字は広元。
向朗の学問所での友人であり、常に物事を法と現実の側面から冷静に分析する秀才だ。真面目そうな外見だが、その目は鋭く世の中の矛盾を見据えている。
「全くだ。あの王という商人は、バックに督郵がついているという噂だぞ。下手をすれば向朗まで消されていた。……君、よくあんな無茶な舞台に上がったね」
そう言って炒り豆(ナッツ)を齧るのは、孟建(もうけん)、字は公威。
人当たりが良く、この街の裏情報に通じる情報通だ。彼もまた、学問所の仲間であり、腐敗した漢の現状に鬱屈を抱える同志だった。
「うるせえな。結果的に勝ったんだからいいだろう」
徐福は悪態をつきながら、濁り酒を一気に煽った。初対面の石韜や孟建とも、不思議と馬が合った。
彼らは、徐福のみすぼらしい身なりや出自を鼻にかけず、むしろその野性的な「侠気」を面白がってくれた。ここには、表通りのような欺瞞も差別もない。
「それにしても」石韜が向朗を見る。
「お前が他人のトラブルに首を突っ込むとはな。『めんどくさい』が口癖の男が」
「……計算が合わなかっただけだよ。あの秤の誤差は、美しくなかった」
向朗は不貞腐れたように答え、ちびりと酒を舐めた。
嘘ではない。だが、それだけではないことも、自分自身が一番よく分かっていた。昨日、路地裏で見た徐福の目。あの、理不尽に対する純粋で真っ直ぐな怒りの光が、向朗の中にある「何か」を刺激したのだ。計算ずくで生きてきた自分の人生に、強烈なノイズが走った瞬間だった。
徐福は、そんな向朗をじっと見ていた。
今日の出来事が頭から離れない。自分の武力は無力だった。だが、向朗の知力は世界を動かした。もし、自分の剣に、向朗のような「頭脳」があれば、柳安を救えるかもしれない。この腐った潁川に風穴を開けられるかもしれない。自分に足りないものが、目の前に座っている。
徐福は、自分の手酌で杯に酒をなみなみと注ぐと、それをドン、と向朗の前に置いた。
「……頼みがある」
徐福の真剣な眼差しに、場の空気が変わる。石韜と孟建も、笑うのをやめて徐福を見た。酒場の喧騒が、彼らの周りだけ遠のいたようだった。
「教えてくれ。文字と、計算と、その『考え方』ってやつを。……俺は学がねえ。腕っぷしだけじゃ何も守れねえって、今日思い知らされた」
徐福は頭を下げた。プライドの高い彼が、初めて他人に頭を下げた瞬間だった。それは敗北の証ではない。この世界を動かす「理(ことわり)」を知りたいという、純粋な渇望の証だった。
「俺の剣に、あんたの知恵を貸してくれ。そうすりゃ、俺はもっと強くなれる。……あんたらが描く図面を、俺がこの剣で切り開く。そういう関係になりてえ」
向朗は、目の前の揺れる酒面を見つめた。
面倒だ。間違いなく面倒なことになる。この男と関われば、ただの事務屋ではいられなくなる。平穏な日々は終わり、泥と血にまみれた道へ引きずり込まれるだろう。
だが、悪い気はしなかった。「文字」と「算術」。そして「論理」。自分にとっては、役人として世渡りをするための、退屈で手垢のついた道具に過ぎない。
だが、この男は違った。それらこそが、暴力だけでは決して届かない「強さ」の本質だと見抜き、渇望しているのだ。ただの事務処理だと思っていた自分の知識が、この男にとっては、世界を切り拓くための未知なる「力」に見えている。
その真っ直ぐな瞳が、向朗の胸の奥にある、埃をかぶっていた種火に触れた気がした。
「……高いよ、僕の授業料は」
向朗は溜息混じりに言い、徐福が注いだ杯を手に取った。口元に、微かな笑みが浮かぶ。それは、悪戯を企む子供のような、あるいは未知の実験を楽しむ学者のような笑みだった。
「だが、今日のところは……この安酒一杯を君が奢ってくれれば、それでいい。知恵には酒で返す。対等な取引だろ。……それで手を打とう」
徐福が顔を上げ、ニヤリと笑った。少年のような、屈託のない笑顔だった。
「へっ。安いもんだ」
それは、後に天下を揺るがすことになる「最強の共犯者たち」の、ささやかな結成の合図だった。酔龍軒の梁の上で、剥げかけた龍の絵が、楽しげに二人を見下ろしているようだった。
街外れにある安酒場「酔龍軒(すいりゅうけん)」。かつては名店だったらしいが、今は看板の「龍」の字も剥げ落ち、労働者や貧乏学生が管を巻く掃き溜めのような場所だ。店内は饐(す)えた油と安酒の強烈な臭い、そして酔客たちの熱気で満ちていた。薄暗い店内の隅、油で汚れた卓を囲む四人の若者の姿があった。
「なるほど。徐福くん、君は運が良かったな。向朗がいなければ、今頃は牢屋の中で『不審死』扱いだ」
呆れたように笑いながら杯を干すのは、石韜(せきとう)、字は広元。
向朗の学問所での友人であり、常に物事を法と現実の側面から冷静に分析する秀才だ。真面目そうな外見だが、その目は鋭く世の中の矛盾を見据えている。
「全くだ。あの王という商人は、バックに督郵がついているという噂だぞ。下手をすれば向朗まで消されていた。……君、よくあんな無茶な舞台に上がったね」
そう言って炒り豆(ナッツ)を齧るのは、孟建(もうけん)、字は公威。
人当たりが良く、この街の裏情報に通じる情報通だ。彼もまた、学問所の仲間であり、腐敗した漢の現状に鬱屈を抱える同志だった。
「うるせえな。結果的に勝ったんだからいいだろう」
徐福は悪態をつきながら、濁り酒を一気に煽った。初対面の石韜や孟建とも、不思議と馬が合った。
彼らは、徐福のみすぼらしい身なりや出自を鼻にかけず、むしろその野性的な「侠気」を面白がってくれた。ここには、表通りのような欺瞞も差別もない。
「それにしても」石韜が向朗を見る。
「お前が他人のトラブルに首を突っ込むとはな。『めんどくさい』が口癖の男が」
「……計算が合わなかっただけだよ。あの秤の誤差は、美しくなかった」
向朗は不貞腐れたように答え、ちびりと酒を舐めた。
嘘ではない。だが、それだけではないことも、自分自身が一番よく分かっていた。昨日、路地裏で見た徐福の目。あの、理不尽に対する純粋で真っ直ぐな怒りの光が、向朗の中にある「何か」を刺激したのだ。計算ずくで生きてきた自分の人生に、強烈なノイズが走った瞬間だった。
徐福は、そんな向朗をじっと見ていた。
今日の出来事が頭から離れない。自分の武力は無力だった。だが、向朗の知力は世界を動かした。もし、自分の剣に、向朗のような「頭脳」があれば、柳安を救えるかもしれない。この腐った潁川に風穴を開けられるかもしれない。自分に足りないものが、目の前に座っている。
徐福は、自分の手酌で杯に酒をなみなみと注ぐと、それをドン、と向朗の前に置いた。
「……頼みがある」
徐福の真剣な眼差しに、場の空気が変わる。石韜と孟建も、笑うのをやめて徐福を見た。酒場の喧騒が、彼らの周りだけ遠のいたようだった。
「教えてくれ。文字と、計算と、その『考え方』ってやつを。……俺は学がねえ。腕っぷしだけじゃ何も守れねえって、今日思い知らされた」
徐福は頭を下げた。プライドの高い彼が、初めて他人に頭を下げた瞬間だった。それは敗北の証ではない。この世界を動かす「理(ことわり)」を知りたいという、純粋な渇望の証だった。
「俺の剣に、あんたの知恵を貸してくれ。そうすりゃ、俺はもっと強くなれる。……あんたらが描く図面を、俺がこの剣で切り開く。そういう関係になりてえ」
向朗は、目の前の揺れる酒面を見つめた。
面倒だ。間違いなく面倒なことになる。この男と関われば、ただの事務屋ではいられなくなる。平穏な日々は終わり、泥と血にまみれた道へ引きずり込まれるだろう。
だが、悪い気はしなかった。「文字」と「算術」。そして「論理」。自分にとっては、役人として世渡りをするための、退屈で手垢のついた道具に過ぎない。
だが、この男は違った。それらこそが、暴力だけでは決して届かない「強さ」の本質だと見抜き、渇望しているのだ。ただの事務処理だと思っていた自分の知識が、この男にとっては、世界を切り拓くための未知なる「力」に見えている。
その真っ直ぐな瞳が、向朗の胸の奥にある、埃をかぶっていた種火に触れた気がした。
「……高いよ、僕の授業料は」
向朗は溜息混じりに言い、徐福が注いだ杯を手に取った。口元に、微かな笑みが浮かぶ。それは、悪戯を企む子供のような、あるいは未知の実験を楽しむ学者のような笑みだった。
「だが、今日のところは……この安酒一杯を君が奢ってくれれば、それでいい。知恵には酒で返す。対等な取引だろ。……それで手を打とう」
徐福が顔を上げ、ニヤリと笑った。少年のような、屈託のない笑顔だった。
「へっ。安いもんだ」
それは、後に天下を揺るがすことになる「最強の共犯者たち」の、ささやかな結成の合図だった。酔龍軒の梁の上で、剥げかけた龍の絵が、楽しげに二人を見下ろしているようだった。
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