落ちこぼれ剣客と神算の事務屋。三国志の英雄たちが「ドン引き」した、たった一夜の復讐譚 徐庶と向朗の完全犯罪

こくせんや

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第8話 徐庶の仇討ち 1/7

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1.腐臭漂う街

陽翟の空は、重く垂れ込めた鉛色の雲に覆われていた。
湿った風が路地を吹き抜け、市場の至る所に貼られた手配書を、カサカサと力なく揺らしている。
だが、今のこの街を支配しているのは、官憲への恐怖ではなかった。もっと粘り気のある、澱(よど)んだ熱狂が街の底に溜まっていた。

「……おい、昨夜も出たらしいぞ」
「柳安の祟りだよ。あの賈仁(かじん)の館の周りに、青い火が……」
「いよいよ、報いを受ける時が来たんだ」

すれ違う人々は、声を潜めながらも、その瞳には奇妙な色が宿っている。
李譔(りせん)たちが撒いた「怪談」という名の毒は、沈殿するように民衆の意識の奥深くまで浸透していた。
人々は幽霊を恐れているのではない。
自分たちが成し得ない「強者への復讐」を、超自然的な力が肩代わりしてくれるのを、固唾を呑んで待っているのだ。

そんな異様な静寂の中を、一台の馬車が静かに進んでいた。

装飾は質素だが、車体の造りは堅牢で格式高い。潁川に立ち寄った治書御史(じしょぎょし)、司馬防の一行である。
馬車の窓から、一人の少年が外を眺めていた。
司馬防の次男、司馬懿(仲達)。
まだ十歳にも満たないが、その白皙(はくせき)の顔には、年齢にそぐわぬ静謐な知性が漂っていた。

「……仲達、何をそんなに黙って見ている」

対面に座る父・司馬防が、厳めしい顔で問いかけた。
司馬懿は視線を外に向けたまま、淡々と、しかし一点の曇りもない声で答えた。

「……皆、嘘(うそ)を待っています」
「嘘だと?」
「はい。幽霊という嘘、祟りという嘘……。自分たちの不満に『正義』という名前をつけてくれる、誰かの嘘を待っている。……死にゆく木に群がる虫のように、この街は、壊れる瞬間の甘い蜜の匂いがします」

司馬防は、息子のあまりに冷徹な例えに言葉を失った。この若さで、民衆の心理の本質をこれほどまでに静かに、かつ正確に射抜いている。

「滅多なことを言うものではない。……漢の威信が衰え、賈仁のような小物が法を歪めているのは事実だ。だが、秩序を支えるのは我々官吏の責務だ」
司馬防は嘆息したが、司馬懿はそれには答えず、ただ静かに群衆の目の奥を観察し続けていた。
その時だった。

雑踏の中、馬車の横をすり抜けていく一人の若者がいた。
泥に汚れた衣服を纏い、背中には布で包まれた長剣。周囲の喧騒など全く目に入らないかのように、その視線は街の中央に聳える賈仁の屋敷へと、杭を打ったように固定されている。

徐福である。

馬車とすれ違ったのは、ほんの一瞬に過ぎない。
だが、司馬懿の瞳が、わずかに揺れた。
彼は窓枠を掴むと、走り去る若者の背中を追って、静かに首を回した。体は正面を向いたまま、首だけが滑らかに、そして深く後方へと向けられる。

後に「狼顧(ろうこ)の相」と恐れられるその仕草で、彼は遠ざかる徐福の背中を、一点の感情も交えずに見つめ続けた。

「……父上。今の男を見ましたか」
司馬懿の声は、先程よりもさらに低く、密やかになった。

「いや……誰のことだ。人混みに紛れて見えぬが」
「……人を捨てた男。いや人を捨てる覚悟をした男でした」

司馬懿は静かに前を向き直した。口元には、微笑とも諦念ともつかない、微かな曲線が浮かんでいる。

「飢えた狼が、自分を殺して牙を研いでいる。……あの男が剣を抜くとき、この街の『嘘』は、本物の血で塗りつぶすのでしょう。……」

司馬懿はそれ以上、何も語らなかった。ただ、これから起きるであろう巨大な「なにか」を、一冊の書物を読むかのように静かに予見し、その到来を待っている。

(さて。この炎、どこまで、燃え広がるのでしょう?)

馬車は車輪の音を響かせ、徐福が向かう殺戮の予感とは逆の方向へと、静かに走り去っていった。
歴史の表舞台に名が刻まれる前の、寡黙な暗殺者と、静かなる天才。
二人の怪物が、互いに名を知らぬまま、腐臭漂う街の片隅で、ただ一度だけ交錯した瞬間だった。

2.怯える豚と、眠らぬ番犬

日は落ち、闇が陽翟を包み込んだ。
問題の震源地、督郵・賈仁の屋敷は、重苦しい緊張に包まれていた。

「ひぃっ!で、出た!またあそこだ!」

賈仁の館の兵士たちが悲鳴を上げる。
庭の古井戸のそばで、青白い火の玉がゆらりと揺れ、不気味なうめき声が風に乗って聞こえてきたからだ。
李譔が仕掛けた「青燐火(せいりんか)」と「唸る風車」の効果は絶大だった。

兵士たちは見えない敵に怯え、影が揺れるたびに槍を突き出し、過剰な反応を繰り返している。
主人にも兵士たちの混乱が伝染し、屋敷全体に混沌が蔓延していた。
李譔と向朗の狙い通り、指揮系統は寸断され、警備網には無数の「穴」が生まれていた――はずだった。

だが。

その混乱の中、ただ一人、岩のように動じない男がいた。
警備隊長、牛鉄(ぎゅうてつ)である。

「……静まれッ!!」
牛鉄の一喝が、騒ぐ兵士たちを黙らせた。
身長六尺を超える巨漢は、赤々と燃える松明を掲げ、古井戸の周りを冷徹に観察していた。

「よく見ろ。火は燃えているが、熱がない。……これは妖術の類ではない。燃えやすい粉を使った大道芸だ」

牛鉄は地面に残された微かな痕跡――李譔が忍び込んだ際の足跡――を指差した。

「幽霊に足跡があるか?風車に糸がついているか?……馬鹿げている」
彼は松明を地面に突き刺し、鋭い眼光で部下たちを睨みつけた。

「敵は亡霊などではない。この騒ぎに乗じて侵入しようとしている、生きた人間だ。……舐められたものだな」
牛鉄の「武人の勘」は、向朗たちの策を看破しつつあった。

怪異などという不確定な要素に頼る敵など、恐れるに足らない。
むしろ、小細工を弄するほどに、彼らの「焦り」と「本命の狙い」が透けて見える。

「総員に告ぐ!本日只今より、一滴の酒も飲むことを禁ずる!」
牛鉄の命令は、向朗たちにとって死刑宣告に等しいものだった。

「敵は必ず、宴の喧騒か、我々の気の緩みを狙ってくる。……今夜は不寝番だ。鼠一匹通すな。怪しい動きをする者は、問答無用で斬り捨てろ!」

皮肉なことに、李譔の策で賈仁の心を折った結果、それが逆に牛鉄という「最強の盾」を極限まで硬化させてしまったのだ。

酒を禁じられ、神経を研ぎ澄ませた五十人の精鋭。

向朗が用意していた「痺れ薬入りの酒」という策が、この瞬間、潰えた。
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