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第9話 蒼天、すでに死す 1/2
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1.亡霊たちの凱歌
空が割れる音がしたわけではない。
地が裂けたわけでもない。
ただ、早馬の使者が、泡を吹いて倒れながら吐き出した一言が、陽翟という都市の脊髄を凍らせたのだ。
「――帝、崩御」
その報せは、夏の熱気を含んだ風に乗って、疫病のように瞬く間に街路を駆け巡った。
市場の喧騒が、不自然に途切れる。
商人が、落とした銅銭を拾うことさえ忘れ、虚空を見つめる。
赤子が泣き止み、野良犬さえもが尾を巻いて路地裏へと消えた。
「蒼天、すでに死す」
誰の口から漏れたのか。
それはかつて、この国を焼き尽くした「黄巾の乱」の教義だった。
数年前、陽翟は地獄の中心だった。波旬と化した波才率いる黄巾賊に包囲され、朱儁将軍と皇甫嵩将軍が血路を開くまで、この街は死体と汚物、そして狂信の坩堝と化していたのだ。
その記憶が、蓋をしていた膿が噴き出すように、民たちの脳裏に蘇る。
(あの日、隣人が鍬を持って襲ってきた)
(あの日、優しかった店主が、黄色い布を巻いて笑いながら火を放った)
(あの日、飢えた子供が、死んだ親の腕を齧っていた)
帝が死んだ。それは漢という「蓋」が外れたことを意味する。
蓋が外れれば、またあの黄色い悪魔たちが、土の下から這い出してくるのではないか?
「いやだ……いやだァ!」女の絶叫が静寂を引き裂いた。
それを合図に、街はパニックという名の怪物に飲み込まれた。
「買い占めだ!米をよこせ!」
「隠すな!貴様、黄巾の信徒か!?」
「違う、私は違う!助けてくれ!」
昨日まで挨拶を交わしていた隣人が、今日は疑心暗鬼の鬼に見える。
誰かの袖から黄色い布が見えた気がする。風の音が、賊の喚声に聞こえる。
太守府の門前には、保護を求める民と、暴徒化しかけた群衆が押し寄せ、衛兵たちが青ざめた顔で槍を構えている。
だが、督郵の賈仁は葛陂(かつは)の賊との癒着を疑われ、昨日屋敷は燃え、殺害されたという。
また肝心の太守・李旻はこの騒ぎにも姿を見せない。
「黄巾の賊が再びせめて来るぞ。賈仁は賊と手を結び、太守自ら手引をしているそうだ」
彼らは知っているのだ。この恐怖を鎮めるには、誰かを生贄にするか、あるいは自分たちが真っ先に逃げるしかないことを。
陽翟の空気が腐っていく。誰もが目を血走らせ、呼吸をするたびに絶望を吸い込み、疑念を吐き出す。かつて焼き払われたはずの「黄天」の幻影が、陽炎のように街を覆い尽くそうとしていた。
「太守を倒せ!。賈仁とともに、葛陂(かつは)の賊と癒着していた太守を倒せ!。黄巾を倒せ!」
文書庫の窓から、その地獄絵図を見下ろす向朗の瞳だけが、冷たく、乾いていた。
蒼天は死んだ。そして腐りゆく座を巡り、生者たちの共食いが始まろうとしていた。
2.蒼天死す
洛陽から疾駆してきた伝令がもたらした「霊帝崩御」の報は、瞬く間に豫州全土を駆け巡った。
街は国喪に服すため、家々の軒先に白い麻布が吊るされている。
風になびく無数の白布は、まるで街全体が巨大な死装束をまとっているかのようであり、あるいは降伏の白旗のようにも見えた。
だが、その白さの裏で、どす黒い恐怖が発酵していた。夜が明けるたびに、路地裏の土壁や井戸の縁に、黒い墨の落書きが増殖していくのである。
『蒼天已死(そうてんすでにしす)』
かつて、太平道の教祖・張角が掲げたスローガンである。
わずか五年前、この陽翟を地獄の釜へと変えた黄巾の乱。
その呪言が、帝の死と共に亡霊のように蘇ったのだ。
当時、それは反乱の扇動文句であった。だが、天子という国家の支柱が折れた今、その言葉は単なるスローガンではなく、「漢王朝の死亡診断書」としてのリアリティを持って、人々の脳髄に突き刺さっていた。
市場を歩く人々の目は、死んだ魚のように濁っている。
「……誰が書いた?」
肉屋の主人が、壁の落書きを睨みつけて呟いた。
「隣の家の息子か?あいつは昔、太平道の集会に行っていたはずだ」
そばにいた桶屋が、声を潜めて答える。
「いや、向かいの宿屋の主人かもしれんぞ。最近、夜遅くに出歩いている」
挨拶は消え、目配せは監視へと変わった。
陽翟という都市を流れていた「信頼」という名の通貨が、大暴落を起こしている。
人々は互いに微笑みかけながら、懐の中で短刀の柄を握りしめていた。
社会契約の破産は、目前に迫っていた。
陽翟の民が抱く恐怖は、単なる妄想ではない。
彼らの骨髄に、焼き鏝(ごて)で刻み込まれた「記憶」である。
わずか五年前、中平元年(一八四年)。
この陽翟こそが、中華で最も凄惨な地獄の底であった。
当時、この地を支配したのは、神憑りした黄巾の渠帥・波才率いる数万の狂信者たちだった。
彼らは鍬を捨て、黄色い頭巾を巻くだけで、昨日までの隣人を八つ裂きにし、官吏の腹を裂いて内臓を引きずり出す「修羅」へと変貌した。
そして、それを鎮圧した皇甫嵩・朱儁ら漢の官軍もまた、慈悲深き解放者などではなかった。
彼らは、さらに巨大な暴力装置であった。
長社の戦いで数万の賊を火計で焼き殺し、逃げ延びた波才軍をここ陽翟で包囲殲滅した際、官軍は勝利の記念碑を築いた。
――「京観(けいかん)」である。
殺した賊徒の首と死体を、土と混ぜ合わせ、高く積み上げて固めた巨大な塔。
陽翟の城外には、見上げるごとき死体の山脈が築かれ、流れ出た血と脂は川となって大地を赤黒く染めた。その腐臭は三ヶ月経っても消えず、夜風には常に死者の呻きが混じった。
陽翟の土地は、死んでいる。大地の亀裂の奥底には、今なお数万人の無念と狂気が染み付いているのだ。
壁に書かれた『蒼天已死』の文字は、単なる悪戯ではない。
その地下に眠る「京観」の記憶を、無理やり叩き起こす召喚の儀式だった。
また、あの地獄が来る。
隣人が鬼となり、最後は死体の塔の一部として積み上げられる、あの狂乱の季節が帰ってくる。その確信が、陽翟の理性を内側から食い破ろうとしていた。
空が割れる音がしたわけではない。
地が裂けたわけでもない。
ただ、早馬の使者が、泡を吹いて倒れながら吐き出した一言が、陽翟という都市の脊髄を凍らせたのだ。
「――帝、崩御」
その報せは、夏の熱気を含んだ風に乗って、疫病のように瞬く間に街路を駆け巡った。
市場の喧騒が、不自然に途切れる。
商人が、落とした銅銭を拾うことさえ忘れ、虚空を見つめる。
赤子が泣き止み、野良犬さえもが尾を巻いて路地裏へと消えた。
「蒼天、すでに死す」
誰の口から漏れたのか。
それはかつて、この国を焼き尽くした「黄巾の乱」の教義だった。
数年前、陽翟は地獄の中心だった。波旬と化した波才率いる黄巾賊に包囲され、朱儁将軍と皇甫嵩将軍が血路を開くまで、この街は死体と汚物、そして狂信の坩堝と化していたのだ。
その記憶が、蓋をしていた膿が噴き出すように、民たちの脳裏に蘇る。
(あの日、隣人が鍬を持って襲ってきた)
(あの日、優しかった店主が、黄色い布を巻いて笑いながら火を放った)
(あの日、飢えた子供が、死んだ親の腕を齧っていた)
帝が死んだ。それは漢という「蓋」が外れたことを意味する。
蓋が外れれば、またあの黄色い悪魔たちが、土の下から這い出してくるのではないか?
「いやだ……いやだァ!」女の絶叫が静寂を引き裂いた。
それを合図に、街はパニックという名の怪物に飲み込まれた。
「買い占めだ!米をよこせ!」
「隠すな!貴様、黄巾の信徒か!?」
「違う、私は違う!助けてくれ!」
昨日まで挨拶を交わしていた隣人が、今日は疑心暗鬼の鬼に見える。
誰かの袖から黄色い布が見えた気がする。風の音が、賊の喚声に聞こえる。
太守府の門前には、保護を求める民と、暴徒化しかけた群衆が押し寄せ、衛兵たちが青ざめた顔で槍を構えている。
だが、督郵の賈仁は葛陂(かつは)の賊との癒着を疑われ、昨日屋敷は燃え、殺害されたという。
また肝心の太守・李旻はこの騒ぎにも姿を見せない。
「黄巾の賊が再びせめて来るぞ。賈仁は賊と手を結び、太守自ら手引をしているそうだ」
彼らは知っているのだ。この恐怖を鎮めるには、誰かを生贄にするか、あるいは自分たちが真っ先に逃げるしかないことを。
陽翟の空気が腐っていく。誰もが目を血走らせ、呼吸をするたびに絶望を吸い込み、疑念を吐き出す。かつて焼き払われたはずの「黄天」の幻影が、陽炎のように街を覆い尽くそうとしていた。
「太守を倒せ!。賈仁とともに、葛陂(かつは)の賊と癒着していた太守を倒せ!。黄巾を倒せ!」
文書庫の窓から、その地獄絵図を見下ろす向朗の瞳だけが、冷たく、乾いていた。
蒼天は死んだ。そして腐りゆく座を巡り、生者たちの共食いが始まろうとしていた。
2.蒼天死す
洛陽から疾駆してきた伝令がもたらした「霊帝崩御」の報は、瞬く間に豫州全土を駆け巡った。
街は国喪に服すため、家々の軒先に白い麻布が吊るされている。
風になびく無数の白布は、まるで街全体が巨大な死装束をまとっているかのようであり、あるいは降伏の白旗のようにも見えた。
だが、その白さの裏で、どす黒い恐怖が発酵していた。夜が明けるたびに、路地裏の土壁や井戸の縁に、黒い墨の落書きが増殖していくのである。
『蒼天已死(そうてんすでにしす)』
かつて、太平道の教祖・張角が掲げたスローガンである。
わずか五年前、この陽翟を地獄の釜へと変えた黄巾の乱。
その呪言が、帝の死と共に亡霊のように蘇ったのだ。
当時、それは反乱の扇動文句であった。だが、天子という国家の支柱が折れた今、その言葉は単なるスローガンではなく、「漢王朝の死亡診断書」としてのリアリティを持って、人々の脳髄に突き刺さっていた。
市場を歩く人々の目は、死んだ魚のように濁っている。
「……誰が書いた?」
肉屋の主人が、壁の落書きを睨みつけて呟いた。
「隣の家の息子か?あいつは昔、太平道の集会に行っていたはずだ」
そばにいた桶屋が、声を潜めて答える。
「いや、向かいの宿屋の主人かもしれんぞ。最近、夜遅くに出歩いている」
挨拶は消え、目配せは監視へと変わった。
陽翟という都市を流れていた「信頼」という名の通貨が、大暴落を起こしている。
人々は互いに微笑みかけながら、懐の中で短刀の柄を握りしめていた。
社会契約の破産は、目前に迫っていた。
陽翟の民が抱く恐怖は、単なる妄想ではない。
彼らの骨髄に、焼き鏝(ごて)で刻み込まれた「記憶」である。
わずか五年前、中平元年(一八四年)。
この陽翟こそが、中華で最も凄惨な地獄の底であった。
当時、この地を支配したのは、神憑りした黄巾の渠帥・波才率いる数万の狂信者たちだった。
彼らは鍬を捨て、黄色い頭巾を巻くだけで、昨日までの隣人を八つ裂きにし、官吏の腹を裂いて内臓を引きずり出す「修羅」へと変貌した。
そして、それを鎮圧した皇甫嵩・朱儁ら漢の官軍もまた、慈悲深き解放者などではなかった。
彼らは、さらに巨大な暴力装置であった。
長社の戦いで数万の賊を火計で焼き殺し、逃げ延びた波才軍をここ陽翟で包囲殲滅した際、官軍は勝利の記念碑を築いた。
――「京観(けいかん)」である。
殺した賊徒の首と死体を、土と混ぜ合わせ、高く積み上げて固めた巨大な塔。
陽翟の城外には、見上げるごとき死体の山脈が築かれ、流れ出た血と脂は川となって大地を赤黒く染めた。その腐臭は三ヶ月経っても消えず、夜風には常に死者の呻きが混じった。
陽翟の土地は、死んでいる。大地の亀裂の奥底には、今なお数万人の無念と狂気が染み付いているのだ。
壁に書かれた『蒼天已死』の文字は、単なる悪戯ではない。
その地下に眠る「京観」の記憶を、無理やり叩き起こす召喚の儀式だった。
また、あの地獄が来る。
隣人が鬼となり、最後は死体の塔の一部として積み上げられる、あの狂乱の季節が帰ってくる。その確信が、陽翟の理性を内側から食い破ろうとしていた。
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