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しおりを挟む深夜茶会から十日ほど経ったある日、シャーベット家の屋敷はまた静かな夜を迎えていた。アリスは自室でベッドに腰掛け、ノートを開いて新しいクッキーのレシピを眺めている。寝るのが嫌いと言いつつも、ここ最近は夜に活動的になり、疲れればしっかり眠れているのが不思議だ。
「ふぁ……夜更かししてクッキーを作るの、前ならただエリックと楽しむだけだったのに、今は色んな感情が入り混じってる。クライヴさまやエリックのこと……うう、頭がこんがらがる」
そう呟きながら、アリスは溜息をつく。数日前にグラントから「エリックへの政略結婚話が急増している」と聞かされたことで、アリスは焦りのようなものを感じていた。クライヴも公爵家として再婚約を本格的に考えていると噂され、アリスがどちらを選ぶのかが周囲の関心になりつつある。
(わたし、どちらかをすぐに決める気にはなれない。でも、エリックが王宮勤務になって離れてしまうかもしれないのも怖い。クライヴさまが本気で婚約を申し出てきたら、わたしはどう答えればいいの?)
寝るのが嫌いで夜を自由にしてきたアリスが、今は恋の行方を考えて夜を落ち着かない気持ちで過ごしている。そんな自分をどうにかしたいという思いが募り、アリスはノートを閉じて立ち上がる。
「……もう一度夜更かしクッキーの場を設けよう。今度はエリックをメインで誘って、わたしの想いをちゃんと伝えなきゃ。クライヴさまも呼ぶかは、あとで考える」
そう決心して、アリスはドアを開ける。夜中のシャーベット家で大きな動きをするのは難しいが、護衛のエリックならまだ起きているはず。彼に相談しようと廊下を進む。
――しかし、廊下は静まり返り、エリックの姿が見当たらない。侍女に尋ねると「今夜は王宮から呼び出しがあり、出かけたようです」と言われ、アリスは肩を落とす。
「そうか……やっぱり王宮の仕事が増えてるんだ。深夜に呼び出しなんて、まさに騎士見習いらしいけど……わたしは一人で夜を過ごすのかな」
悲しみを抑えきれず、アリスは仕方なく厨房へ向かった。エリック不在の夜にクッキーを焼くのは、少し切ないが、何もしないままでは落ち着かない。
「ふぁ……今夜は“キャラメルナッツ”とか挑戦してみようかな。普段より手間がかかるけど、一人でやらなきゃ意味がないかも」
わざと難易度の高いレシピを開き、粉や砂糖、ナッツ、キャラメルソースなどを揃える。侍女が手伝いたがるが、アリスは「今日はなるべく一人でやってみたいんです」と言って断る。
(寝るのが嫌いなわたしでも、この孤独な夜は……ちょっと心細い。でも、決めたんだから頑張らないと)
ボウルに材料を入れ、混ぜ合わせる。キャラメルソースを一度焦がしそうになったが、何とか持ち直し、ドロッとした独特の生地が完成する。エリックのアドバイスもない分、時間はかかるが、自分でやり遂げる充実感もある。
「ふふ、キャラメルの匂い……甘くて苦い。でも、わたしの今の気持ちにも似てるかも」
どこかメランコリックに微笑み、ラップに包んで冷蔵庫に入れる。冷やし待ちの間にアリスは椅子に腰掛けて「ふぁ……」とあくびをしながらノートを開き、“今度の夜更かしクッキー会”について落書きのように書き出す。
1) まずはエリックと二人で?
2) フローレンスは呼ぶべき?
3) クライヴさまを誘うと三角形がさらにややこしくなる?
夜の厨房でこんなメモをつける自分に苦笑するが、「わたしにはこういう形しかないんだな」と受け入れる。寝るのが嫌いだから、夜を味方につける以外に手がないのだ。
---
しばらくして生地を取り出し、ナッツを混ぜ込みながら成形作業を進める。キャラメルのベタつきが厄介で、思うように丸くならず苦戦する。しかし、エリックがいれば手伝ってくれただろうに……と考えがよぎってしまう。
「エリック……もう王宮に行ってしまうのかな。護衛を辞めるわけじゃないけど、これからは寝るの嫌いな夜に付き合ってくれなくなるのかも」
手が止まる。こんなにも彼を必要としている自分に気づき、アリスは切なくなる。結局、自分はエリックに甘えたいのか、クライヴと未来を築きたいのか、答えが出ないまま時間だけが過ぎていく。
「……寝るの嫌いだからって、何でも夜で解決できるわけじゃないか。でも、今はこれしか思いつかない」
アリスは形が少々いびつなクッキーの生地をオーブンへ入れて、タイマーをセットする。焼きあがるまで20分。待っている間にも思考が巡り、迷いが深くなっていく。
(父様が言うように、いつまでもウダウダしていられない。エリックが政略結婚なんて、本当に心が痛む……わたしはどうしたい?)
その問いの答えが出ないまま、タイマーが鳴る。焼き上がったキャラメルナッツクッキーは、焦げ目が少し強いが香ばしい匂いが漂って悪くなさそうだ。アリスはオーブンを開けて取り出しながら、「もしエリックがいたら、いい焦げ具合だねって言ってくれるかな」と切なく呟く。
一口かじってみると、ほろ苦いキャラメルとナッツの歯ごたえが新鮮で、決してまずくはない。むしろ大人っぽい味だが、アリスの舌には少し刺激が強い。
「ふぁ……寝るのが嫌いなわたしにはピッタリの苦さかもしれない。でも、エリックは甘いほうが好きかな。クライヴさまはどうかな」
ぽつりと呟き、アリスは冷めたクッキーをラッピングし、机の上に置いておく。いつかエリックが帰ってきたら試食してもらおう。そんな想いをこめて……しかし、また一人の夜が過ぎていく虚しさも同時に感じる。
(次の夜更かしクッキー会は、エリックがメイン……とか考えてたけど、当人が忙しくて来られない可能性もある。どうしよう)
キッチンの灯りを落とし、自室に戻りながらアリスは考える。クライヴはいつでもウェルカムだけど、それではエリックの気持ちを置き去りにしてしまう。寝るのが嫌いで築いた夜の絆を、失うわけにはいかない。しかし、エリックが行く先は王宮であり、結婚の話もある。
「わたし、こんなに不安になってるのに、どうして寝るのが嫌いなんだろう? 眠ったら全部忘れられるかな。それとも悪夢を見るだけかな」
悶々としながら部屋に入ると、ベッドが目に入って溜息をつく。昔は夜が怖くて眠るのが嫌だったのに、今は夜を活かしても解決しきれない恋の痛みに苦しんでいる。
最終的にアリスはベッドに横になり、目を閉じてみる。寝るのは嫌い――だけど、この苦しみをしばし忘れたいと思う自分がいる。
「ふぁ……寝るの嫌いなのに、今はちょっとだけ眠れたらいいかな。明日になれば、エリックが帰ってきて話せるかもしれないし……クライヴさまの手紙にもちゃんと返事しなきゃ」
そう呟いてまぶたを落とすと、意外にもスッと意識が遠のく。夢の中でエリックとクライヴの顔が交互に浮かんでは消え、怖い夢ではないが落ち着かない。しかし、わずかな安堵を得られるのも確かだ。
彼女の寝息が静かに部屋に広がる。寝るのが嫌いなはずなのに、この苦しい恋愛の闇から少しでも解放されようとする心の動き――大きくなった問題を抱え、アリスは眠りの中へ逃げ込む。夜のクッキーで癒せなかった痛みを、眠りで誤魔化しているかもしれない。
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