8 / 28
8
しおりを挟む
王宮の一角、かつてミナモルと語り合うためではなく、彼女が持参した高級茶菓子を貪るために使われていたサロンに、ジークフリート殿下の怒声が響き渡りました。
「どういうことだ、宰相! なぜ今月の私の遊興費……いや、公務経費がこれっぽっちしかないのだ!」
ジークフリート殿下は、目の前に突きつけられた予算書を震える指で指し示しました。
デスクの向こうでは、疲労困憊といった様子の宰相が、眼鏡を押し上げながら深いため息をついています。
「殿下。忘れたとは仰いませんよね? アステリア公爵家との婚約を一方的に、かつ盛大に破棄されたのはどこのどなたですか」
「それは私だ! だが、あんな冷酷な女を追い出したのだ。国を挙げて祝杯を挙げるべきだろう!」
「祝杯を挙げる金が、その公爵家から出ていたのですよ。アステリア家は婚約破棄の翌朝、王家へのすべての献金と、あなたが愛用していた特注前髪維持用魔法薬の提供を停止しました」
「……なに?」
ジークフリート殿下の動きが、ピタリと止まりました。
彼は、ミナモルが「ただ居るだけで金が湧き出る泉」だと思っていたのでしょう。
「それだけではありません。殿下がリリアーヌ様に贈る予定だった、隣国の宝石商への支払いも滞っております。先方は『公爵家の保証がないなら、現金一括払いで』と仰っていますが、いかがいたしますか?」
「なっ……現金一括だと!? そんな、数千万ルピスもするものを、今の私の小遣いで払えるわけがないだろう!」
「であれば、購入は断念するしかありませんな。……ああ、それから。リリアーヌ様がサロンでお待ちです。また新しいドレスのカタログをお持ちですよ」
「リ、リリアーヌが……」
ジークフリート殿下の顔に、冷や汗が伝いました。
そこへ、扉を勢いよく開けて、ピンク色のフリルをこれでもかと盛り付けたリリアーヌが飛び込んできました。
「ジーク様ぁ! 見てください、このドレス! 次の夜会で着たいんですけれど、たったの五百万ルピスなんですの。お安いでしょう?」
「五、五百万……。リ、リリアーヌ、少し落ち着こう。ほら、君は今のままでも十分に美しいし……」
「あら、ジーク様。ミナモル様を追い出せば、その分のお金が私に回ってくるって仰いましたわよね? まさか、王子様が嘘をつくはずありませんわよね?」
リリアーヌの瞳が、獲物を狙う猛禽類のように鋭く光りました。
「い、いや、もちろんだとも! ただ、少し手続きに時間がかかっていてな……」
「早くしてくださいませ。私、貧乏くさい生活なんて耐えられませんの。あ、あと、騎士団のあの……カインとかいう不愛想な男も、ミナモル様と一緒に追放してください。目障りですわ」
ジークフリート殿下は、リリアーヌの要求に頷きながらも、心の中では激しく計算を巡らせていました。
(……おかしい。ミナモルがいなくなれば、すべてが上手くいくはずだった。なのに、なぜこんなに胃が痛いのだ。なぜ前髪のセットが決まらないのだ!)
「そうだ、宰相! あの女はどうしている! 今頃、実家で泣き崩れて、私への謝罪文でも書いているのではないか?」
「いえ。ミナモル様は公爵家を勘当され、現在は騎士団で清掃員として働いておられます。……非常に、生き生きと」
「清掃員だと!? あの高慢な女が、雑巾を持って床を這いつくばっているというのか? ……はっ、そうか! 私を振り向かせるための、健気なパフォーマンスだな!」
ジークフリート殿下は、都合のいい解釈を脳内に展開しました。
「わざと卑賎な仕事に身を落とし、『こんなに苦労している私を見て、殿下、戻ってきてください』というアピールに違いない! ふん、相変わらず愛が重い女だ。……よし、少し様子を見に行ってやる。私が直接『もう無駄だ』と言ってやれば、あいつも絶望して、また金を……いや、真心を差し出すだろう!」
「殿下。それはただのストーカー行為では……」
宰相の制止を振り切り、ジークフリート殿下はマントを翻して立ち上がりました。
「リリアーヌ! 少し用事ができた。金の問題はすぐに解決してやる。……待っていろ、ミナモル! 貴様の小細工など、すべてお見通しだ!」
ジークフリート殿下は、自分の財布が空であるという現実から目を逸らし、颯爽とサロンを飛び出していきました。
その後ろ姿を、リリアーヌは冷ややかな目で見送りました。
「……チッ。金のない王子なんて、ただの前髪男じゃないの。早くミナモルを丸め込んで、公爵家の金を引き出させなさいよ、使えないわね」
「……リリアーヌ様。独り言が漏れておりますぞ」
宰相は天を仰ぎ、近々、胃薬の予算を増額しようと心に誓いました。
一方、そんなドロドロした王宮の空気など露知らず、ミナモルは騎士団の廊下で、カイン団長が脱ぎ捨てた訓練着の「繊維の密度」について熱い議論を交わしていたのでした。
「どういうことだ、宰相! なぜ今月の私の遊興費……いや、公務経費がこれっぽっちしかないのだ!」
ジークフリート殿下は、目の前に突きつけられた予算書を震える指で指し示しました。
デスクの向こうでは、疲労困憊といった様子の宰相が、眼鏡を押し上げながら深いため息をついています。
「殿下。忘れたとは仰いませんよね? アステリア公爵家との婚約を一方的に、かつ盛大に破棄されたのはどこのどなたですか」
「それは私だ! だが、あんな冷酷な女を追い出したのだ。国を挙げて祝杯を挙げるべきだろう!」
「祝杯を挙げる金が、その公爵家から出ていたのですよ。アステリア家は婚約破棄の翌朝、王家へのすべての献金と、あなたが愛用していた特注前髪維持用魔法薬の提供を停止しました」
「……なに?」
ジークフリート殿下の動きが、ピタリと止まりました。
彼は、ミナモルが「ただ居るだけで金が湧き出る泉」だと思っていたのでしょう。
「それだけではありません。殿下がリリアーヌ様に贈る予定だった、隣国の宝石商への支払いも滞っております。先方は『公爵家の保証がないなら、現金一括払いで』と仰っていますが、いかがいたしますか?」
「なっ……現金一括だと!? そんな、数千万ルピスもするものを、今の私の小遣いで払えるわけがないだろう!」
「であれば、購入は断念するしかありませんな。……ああ、それから。リリアーヌ様がサロンでお待ちです。また新しいドレスのカタログをお持ちですよ」
「リ、リリアーヌが……」
ジークフリート殿下の顔に、冷や汗が伝いました。
そこへ、扉を勢いよく開けて、ピンク色のフリルをこれでもかと盛り付けたリリアーヌが飛び込んできました。
「ジーク様ぁ! 見てください、このドレス! 次の夜会で着たいんですけれど、たったの五百万ルピスなんですの。お安いでしょう?」
「五、五百万……。リ、リリアーヌ、少し落ち着こう。ほら、君は今のままでも十分に美しいし……」
「あら、ジーク様。ミナモル様を追い出せば、その分のお金が私に回ってくるって仰いましたわよね? まさか、王子様が嘘をつくはずありませんわよね?」
リリアーヌの瞳が、獲物を狙う猛禽類のように鋭く光りました。
「い、いや、もちろんだとも! ただ、少し手続きに時間がかかっていてな……」
「早くしてくださいませ。私、貧乏くさい生活なんて耐えられませんの。あ、あと、騎士団のあの……カインとかいう不愛想な男も、ミナモル様と一緒に追放してください。目障りですわ」
ジークフリート殿下は、リリアーヌの要求に頷きながらも、心の中では激しく計算を巡らせていました。
(……おかしい。ミナモルがいなくなれば、すべてが上手くいくはずだった。なのに、なぜこんなに胃が痛いのだ。なぜ前髪のセットが決まらないのだ!)
「そうだ、宰相! あの女はどうしている! 今頃、実家で泣き崩れて、私への謝罪文でも書いているのではないか?」
「いえ。ミナモル様は公爵家を勘当され、現在は騎士団で清掃員として働いておられます。……非常に、生き生きと」
「清掃員だと!? あの高慢な女が、雑巾を持って床を這いつくばっているというのか? ……はっ、そうか! 私を振り向かせるための、健気なパフォーマンスだな!」
ジークフリート殿下は、都合のいい解釈を脳内に展開しました。
「わざと卑賎な仕事に身を落とし、『こんなに苦労している私を見て、殿下、戻ってきてください』というアピールに違いない! ふん、相変わらず愛が重い女だ。……よし、少し様子を見に行ってやる。私が直接『もう無駄だ』と言ってやれば、あいつも絶望して、また金を……いや、真心を差し出すだろう!」
「殿下。それはただのストーカー行為では……」
宰相の制止を振り切り、ジークフリート殿下はマントを翻して立ち上がりました。
「リリアーヌ! 少し用事ができた。金の問題はすぐに解決してやる。……待っていろ、ミナモル! 貴様の小細工など、すべてお見通しだ!」
ジークフリート殿下は、自分の財布が空であるという現実から目を逸らし、颯爽とサロンを飛び出していきました。
その後ろ姿を、リリアーヌは冷ややかな目で見送りました。
「……チッ。金のない王子なんて、ただの前髪男じゃないの。早くミナモルを丸め込んで、公爵家の金を引き出させなさいよ、使えないわね」
「……リリアーヌ様。独り言が漏れておりますぞ」
宰相は天を仰ぎ、近々、胃薬の予算を増額しようと心に誓いました。
一方、そんなドロドロした王宮の空気など露知らず、ミナモルは騎士団の廊下で、カイン団長が脱ぎ捨てた訓練着の「繊維の密度」について熱い議論を交わしていたのでした。
0
あなたにおすすめの小説
王太子殿下から婚約破棄されたのは冷たい私のせいですか?
ねーさん
恋愛
公爵令嬢であるアリシアは王太子殿下と婚約してから十年、王太子妃教育に勤しんで来た。
なのに王太子殿下は男爵令嬢とイチャイチャ…諫めるアリシアを悪者扱い。「アリシア様は殿下に冷たい」なんて男爵令嬢に言われ、結果、婚約は破棄。
王太子妃になるため自由な時間もなく頑張って来たのに、私は駒じゃありません!
出ていけ、と言ったのは貴方の方です
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
あるところに、小さな領地を治める男爵家がいた。彼は良き領主として領民たちから慕われていた。しかし、唯一の跡継ぎ息子はどうしようもない放蕩家であり彼の悩みの種だった。そこで彼は息子を更生させるべく、1人の女性を送りつけるのだったが――
※コメディ要素あり
短編です。あっさり目に終わります
他サイトでも投稿中
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
【完結】「政略結婚ですのでお構いなく!」
仙冬可律
恋愛
文官の妹が王子に見初められたことで、派閥間の勢力図が変わった。
「で、政略結婚って言われましてもお父様……」
優秀な兄と妹に挟まれて、何事もほどほどにこなしてきたミランダ。代々優秀な文官を輩出してきたシューゼル伯爵家は良縁に恵まれるそうだ。
適齢期になったら適当に釣り合う方と適当にお付き合いをして適当な時期に結婚したいと思っていた。
それなのに代々武官の家柄で有名なリッキー家と結婚だなんて。
のんびりに見えて豪胆な令嬢と
体力系にしか自信がないワンコ令息
24.4.87 本編完結
以降不定期で番外編予定
婚約者から悪役令嬢と呼ばれた公爵令嬢は、初恋相手を手に入れるために完璧な淑女を目指した。
石河 翠
恋愛
アンジェラは、公爵家のご令嬢であり、王太子の婚約者だ。ところがアンジェラと王太子の仲は非常に悪い。王太子には、運命の相手であるという聖女が隣にいるからだ。
その上、自分を敬うことができないのなら婚約破棄をすると言ってきた。ところがアンジェラは王太子の態度を気にした様子がない。むしろ王太子の言葉を喜んで受け入れた。なぜならアンジェラには心に秘めた初恋の相手がいるからだ。
実はアンジェラには未来に行った記憶があって……。
初恋の相手を射止めるために淑女もとい悪役令嬢として奮闘するヒロインと、いつの間にかヒロインの心を射止めてしまっていた巻き込まれヒーローの恋物語。
ハッピーエンドです。
この作品は他サイトにも投稿しております。
表紙絵は写真ACより、チョコラテさまの作品(写真のID:22451675)をお借りしています。
こちらは、『婚約者から悪役令嬢と呼ばれた自称天使に、いつの間にか外堀を埋められた。』(https://www.alphapolis.co.jp/novel/572212123/891918330)のヒロイン視点の物語です。
【書籍化決定】アシュリーの願いごと
ましろ
恋愛
「まあ、本当に?」
もしかして。そう思うことはありました。
でも、まさか本当だっただなんて。
「…それならもう我慢する必要は無いわね?」
嫁いでから6年。まるで修道女が神に使えるが如くこの家に尽くしてきました。
すべては家の為であり、夫の為であり、義母の為でありました。
愛する息子すら後継者として育てるからと産まれてすぐにとりあげられてしまいました。
「でも、もう変わらなくてはね」
この事を知ったからにはもう何も我慢するつもりはありません。
だって。私には願いがあるのだから。
✻基本ゆるふわ設定です。
気を付けていますが、誤字脱字などがある為、あとからこっそり修正することがあります。
✻1/19、タグを2つ追加しました
✻1/27、短編から長編に変更しました
✻2/2、タグを変更しました
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる