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ガタゴトと揺れる馬車の中で、私は絶望の淵に立たされていました。
いえ、正確には「空腹の淵」ですわね。
窓の外を流れていく景色は、王都の華やかさとは無縁の、荒れ果てた荒野ばかり。
私の胃袋も、この荒野と同じくらい、あるいはそれ以上にカラカラに干上がっております。
「……ねえ、騎士様。そこの無愛想な騎士様」
私は、馬車の小窓から御者席に座る男の背中に声をかけました。
彼は、今回の私を護送する責任者であり、ヴォルフ領の騎士団長だというカシアン様です。
「……なんだ、ラテ・ベルモンド。逃げようとしても無駄だぞ」
カシアン様は、一度もこちらを振り返ることなく、低い声で答えました。
その声は氷のように冷たく、さすが「鉄壁の死神」と恐れられる男だと思わされます。
しかし、今の私にとって彼の二つ名なんて、どうでもいいことですわ。
「逃げませんわよ。この空腹で馬車から飛び降りたら、着地の瞬間に私の胃が悲鳴を上げて、そのままブラックホールに飲み込まれてしまいますもの」
「……支離滅裂なことを言うな。大人しくしていろ」
「大人しくなんてしていられません! 先ほどから、あなたの腰のあたりから、抗いがたい『肉』の香りが漂ってきているのです!」
そう、私の鼻は、彼が隠し持っているであろう食料を正確に探知していました。
それは、乾燥させた肉にスパイスをまぶした、あのお酒のつまみにも最高な「ジャーキー」の香りに違いありません。
「……鼻が利く女だな。これは私の非常食だ。罪人に分け与える義理はない」
「罪人ではありませんわ! 私は、不当な婚約破棄の被害者! いわば『スイーツ難民』なのです! そのジャーキーを一切れ、いえ、一噛みさせていただけるなら、私はこれまでの人生で培ったすべての『悪役令嬢としての威厳』を捨て去っても構いません!」
「お前には、最初からそんなものはなかったように見えるが」
カシアン様が、ようやくわずかに肩を揺らしました。
もしかして、今、鼻で笑いましたの?
この絶世の美貌(自称)を誇る公爵令嬢が、ここまで必死に食い下がっているというのに!
「いいですか、カシアン様。人間、お腹が空くと何をするかわかりませんわよ。私は今、あなたのその立派な肩幅が、絶妙な焼き加減の『骨付きハム』に見えてきているのです。……うふふ、美味しそう」
「……おい、変な目で見るな。目が据わっているぞ」
「据わりますわよ! だって、最後にあのアヒルのコンフィを食べ損ねてから、もう十時間も経っているのですわ! 私の胃壁は今、自食作用を始めようとしています!」
ガタッと馬車が大きく揺れた瞬間、私は身を乗り出して小窓から手を伸ばしました。
カシアン様の漆黒の外套を、ガシッと掴みます。
「肉を……肉を寄越しなさいませ! さもなくば、私はこの馬車の背もたれを齧り始めますわよ!」
「……やめろ! この馬車は領の備品だ! わかった、わかったから離せ!」
カシアン様は、根負けしたように懐から小さな包みを取り出しました。
そして、中に入っていた茶色の塊を、投げ捨てるように私に手渡したのです。
「……これだ。これ一袋で、目的地まではもう何も出さんからな」
「まあっ! ありがとうございます、死神様! いえ、食糧の神様!」
私は受け取ったジャーキーを、まるで聖遺物でも扱うかのように両手で掲げました。
袋を開けると、芳醇な肉の香りと、ピリッとした黒胡椒の刺激が鼻腔を突き抜けます。
これです、これこそが、今の私に必要な生命の輝きですわ!
「はむっ……んんんん~~~っ! 噛めば噛むほど、凝縮された牛の旨味が溢れ出してきますわ……! この、少し硬めの食感が、空腹の胃に『今、お肉を食べていますよ』という信号を強烈に送ってくれます!」
「……ただの保存食だぞ。そこまで感動するものか?」
「カシアン様、あなたには情熱が足りませんわ! このジャーキーの塩加減、そして後から追いかけてくるこのスモーキーな香り。これは、ただの乾燥肉ではありません。職人の魂が込められた、一種のアートです!」
「……勝手なことを言っていろ」
カシアン様は呆れたように前を向きましたが、その耳の端が、ほんの少しだけ赤くなっているのを私は見逃しませんでした。
不器用な方ですわね。
もしかして、褒められ慣れていないのかしら。
私は、一切れ、また一切れと、大切にジャーキーを咀嚼していきました。
胃の中に少しずつ食べ物が溜まっていく充足感。
それだけで、先ほどまでの「世界が終わる」かのような絶望感はどこかへ消え去りました。
「……ふう。少し落ち着きましたわ。カシアン様、ヴォルフ領というのは、他にも美味しいものがあるのかしら?」
「……何もない。あるのは雪と、魔物と、無骨な騎士だけだ」
「まあ、夢がない返事ですこと。でも、魔物がいるということは、それはつまり『ジビエ』が豊富だということではありませんか?」
「……ジビエ?」
「そうですわ! 魔物の肉だって、適切な下処理と調理法さえ知っていれば、極上の御馳走に化けるかもしれません。私、不毛の地で餓死するつもりはありませんもの。こうなったら、ヴォルフ領を私の『個人用レストラン』に作り替えて差し上げますわ!」
「……はあ。お前という女は、つくづく……」
カシアン様は深い溜息をつきました。
でも、その溜息には、先ほどのような拒絶の色はありませんでした。
馬車は、荒野を抜けて、少しずつ険しい山道へと差し掛かっていきます。
冷たい風が吹き込んできましたが、お腹に肉が入った今の私には、それすらも「食欲を増進させる天然のスパイス」にしか感じられませんでした。
「見てなさい、ジュリアン王子。あなたが私を追い出したことを、胃液が枯れるほど後悔させて差し上げますわ!」
私は、空になったジャーキーの袋を握りしめ、誰にも聞こえない声で宣言しました。
これから始まる辺境生活。
それは、悪役令嬢ラテによる、飽くなき食の探求の始まりでもあったのです。
いえ、正確には「空腹の淵」ですわね。
窓の外を流れていく景色は、王都の華やかさとは無縁の、荒れ果てた荒野ばかり。
私の胃袋も、この荒野と同じくらい、あるいはそれ以上にカラカラに干上がっております。
「……ねえ、騎士様。そこの無愛想な騎士様」
私は、馬車の小窓から御者席に座る男の背中に声をかけました。
彼は、今回の私を護送する責任者であり、ヴォルフ領の騎士団長だというカシアン様です。
「……なんだ、ラテ・ベルモンド。逃げようとしても無駄だぞ」
カシアン様は、一度もこちらを振り返ることなく、低い声で答えました。
その声は氷のように冷たく、さすが「鉄壁の死神」と恐れられる男だと思わされます。
しかし、今の私にとって彼の二つ名なんて、どうでもいいことですわ。
「逃げませんわよ。この空腹で馬車から飛び降りたら、着地の瞬間に私の胃が悲鳴を上げて、そのままブラックホールに飲み込まれてしまいますもの」
「……支離滅裂なことを言うな。大人しくしていろ」
「大人しくなんてしていられません! 先ほどから、あなたの腰のあたりから、抗いがたい『肉』の香りが漂ってきているのです!」
そう、私の鼻は、彼が隠し持っているであろう食料を正確に探知していました。
それは、乾燥させた肉にスパイスをまぶした、あのお酒のつまみにも最高な「ジャーキー」の香りに違いありません。
「……鼻が利く女だな。これは私の非常食だ。罪人に分け与える義理はない」
「罪人ではありませんわ! 私は、不当な婚約破棄の被害者! いわば『スイーツ難民』なのです! そのジャーキーを一切れ、いえ、一噛みさせていただけるなら、私はこれまでの人生で培ったすべての『悪役令嬢としての威厳』を捨て去っても構いません!」
「お前には、最初からそんなものはなかったように見えるが」
カシアン様が、ようやくわずかに肩を揺らしました。
もしかして、今、鼻で笑いましたの?
この絶世の美貌(自称)を誇る公爵令嬢が、ここまで必死に食い下がっているというのに!
「いいですか、カシアン様。人間、お腹が空くと何をするかわかりませんわよ。私は今、あなたのその立派な肩幅が、絶妙な焼き加減の『骨付きハム』に見えてきているのです。……うふふ、美味しそう」
「……おい、変な目で見るな。目が据わっているぞ」
「据わりますわよ! だって、最後にあのアヒルのコンフィを食べ損ねてから、もう十時間も経っているのですわ! 私の胃壁は今、自食作用を始めようとしています!」
ガタッと馬車が大きく揺れた瞬間、私は身を乗り出して小窓から手を伸ばしました。
カシアン様の漆黒の外套を、ガシッと掴みます。
「肉を……肉を寄越しなさいませ! さもなくば、私はこの馬車の背もたれを齧り始めますわよ!」
「……やめろ! この馬車は領の備品だ! わかった、わかったから離せ!」
カシアン様は、根負けしたように懐から小さな包みを取り出しました。
そして、中に入っていた茶色の塊を、投げ捨てるように私に手渡したのです。
「……これだ。これ一袋で、目的地まではもう何も出さんからな」
「まあっ! ありがとうございます、死神様! いえ、食糧の神様!」
私は受け取ったジャーキーを、まるで聖遺物でも扱うかのように両手で掲げました。
袋を開けると、芳醇な肉の香りと、ピリッとした黒胡椒の刺激が鼻腔を突き抜けます。
これです、これこそが、今の私に必要な生命の輝きですわ!
「はむっ……んんんん~~~っ! 噛めば噛むほど、凝縮された牛の旨味が溢れ出してきますわ……! この、少し硬めの食感が、空腹の胃に『今、お肉を食べていますよ』という信号を強烈に送ってくれます!」
「……ただの保存食だぞ。そこまで感動するものか?」
「カシアン様、あなたには情熱が足りませんわ! このジャーキーの塩加減、そして後から追いかけてくるこのスモーキーな香り。これは、ただの乾燥肉ではありません。職人の魂が込められた、一種のアートです!」
「……勝手なことを言っていろ」
カシアン様は呆れたように前を向きましたが、その耳の端が、ほんの少しだけ赤くなっているのを私は見逃しませんでした。
不器用な方ですわね。
もしかして、褒められ慣れていないのかしら。
私は、一切れ、また一切れと、大切にジャーキーを咀嚼していきました。
胃の中に少しずつ食べ物が溜まっていく充足感。
それだけで、先ほどまでの「世界が終わる」かのような絶望感はどこかへ消え去りました。
「……ふう。少し落ち着きましたわ。カシアン様、ヴォルフ領というのは、他にも美味しいものがあるのかしら?」
「……何もない。あるのは雪と、魔物と、無骨な騎士だけだ」
「まあ、夢がない返事ですこと。でも、魔物がいるということは、それはつまり『ジビエ』が豊富だということではありませんか?」
「……ジビエ?」
「そうですわ! 魔物の肉だって、適切な下処理と調理法さえ知っていれば、極上の御馳走に化けるかもしれません。私、不毛の地で餓死するつもりはありませんもの。こうなったら、ヴォルフ領を私の『個人用レストラン』に作り替えて差し上げますわ!」
「……はあ。お前という女は、つくづく……」
カシアン様は深い溜息をつきました。
でも、その溜息には、先ほどのような拒絶の色はありませんでした。
馬車は、荒野を抜けて、少しずつ険しい山道へと差し掛かっていきます。
冷たい風が吹き込んできましたが、お腹に肉が入った今の私には、それすらも「食欲を増進させる天然のスパイス」にしか感じられませんでした。
「見てなさい、ジュリアン王子。あなたが私を追い出したことを、胃液が枯れるほど後悔させて差し上げますわ!」
私は、空になったジャーキーの袋を握りしめ、誰にも聞こえない声で宣言しました。
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