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「ルビー・フォン・ベルシュタイン! 貴様との婚約を、今この時をもって破棄する!」
きらびやかなシャンデリアが輝く夜会の中心で、第一王子レナードの声が響き渡りました。
音楽は止まり、着飾った貴族たちの視線が一斉に私たちへと注がれます。
「ええ、わかりました。承知いたしました。異議はありません。むしろ歓迎いたします。はい、ハンコはどこに押せばいいですか?」
私は手に持っていたシャンパングラスを給仕の盆にそっと戻し、食い気味に返事をしました。
あまりの即答ぶりに、レナード殿下は口を半開きにして固まっています。
「……は? お前、今なんと……?」
「ですから、婚約破棄を全面的に受け入れると申し上げたのです。殿下の滑舌が悪かったわけではありません。私の理解が迅速だっただけです」
「待て! もっとこう、ショックを受けたり、泣き崩れたり、隣にいるシルヴィアを睨みつけたりする工程があるだろう! そういうのを全部飛ばして、なぜハンコの話をしている!」
レナード殿下の隣には、これ見よがしに彼にしがみついている男爵令嬢のシルヴィア様がいました。
彼女は潤んだ瞳で私を見つめ、いかにも「悲劇のヒロイン」といった風情で震えています。
「ルビー様……そんなに投げやりにならないでください。私が殿下と真実の愛を見つけてしまったことは、確かに罪深いことかもしれません。でも、愛は誰にも止められないのです……っ!」
「安心してください、シルヴィア様。私はあなたの『真実の愛』とやらに一ミリも興味がありません。それより殿下、婚約破棄の理由は『性格の不一致』ということでよろしいですね? まさか私の不貞などという、捏造に手間のかかる理由は使いませんよね?」
「な、な……っ! お前には羞恥心というものがないのか! これほどの大勢の前で婚約を破棄されるのだぞ! もっと惨めに、這いつくばって許しを請うのが悪役の作法だろう!」
レナード殿下は顔を真っ赤にして叫びました。
どうやら彼は、自分が主役の騎士物語でも演じているつもりなのでしょう。
残念ながら、私の辞書に「無償のエンターテインメント」という言葉は載っていません。
「作法、ですか。殿下、時間は有限なのです。私がここで泣き真似をするために費やす五分間で、王国のGDPがどれだけ損失を受けるか計算したことがありますか? ありませんよね。あなたの脳内は現在、シルヴィア様とのバラ色の未来図をレンダリングすることで手一杯でしょうから」
「き、きさ……っ! どこまでも可愛げのない女だ! シルヴィアの爪の垢を煎じて飲め!」
「衛生上の問題がありますのでお断りします。さて、婚約破棄に合意したところで、次の議案に移りましょう。侍従、例のものを持ってきて」
私が指を鳴らすと、控えていた我が家の執事が、重厚な革表紙のファイルを持って現れました。
それをレナード殿下の目の前で、ジャバラ状に広げます。
床に届き、さらに数メートル先まで転がっていくその紙の束に、周囲の貴族たちがざわつきました。
「なんだ、これは……? 呪文のスクロールか?」
「いいえ、請求書です。品名は『第一王子レナード・フォン・アステリア専用・婚約者兼、実務代行者としての業務委託料および経費精算書』です」
「……ぎょうむ、いた……? なんだそれは」
「日本語……いえ、この国の言葉でわかりやすく言いましょうか。殿下が遊び歩いている間に、私が代わりに処理した書類の残業代、および殿下がシルヴィア様へのプレゼント代として私の個人口座から引き落とした社交費、それから本日の婚約破棄に伴う精神的苦痛への慰謝料。これらを合算したものです」
私は扇子で、請求書の末尾に記載された数字を指し示しました。
「しめて、金貨三万枚。端数は切り捨てておきました。私の慈悲です」
「き、きんかさんまん……っ!? 馬鹿な! そんな大金、国家予算の何分の一だと思っている!」
「ですから、それだけの損失を殿下はこの三年間で私に与えたということです。この請求書には、殿下が『ルビー、これ明日までにやっておいて』と丸投げしてきた公文書の一覧も添付してあります。筆跡鑑定の結果も添えてありますので、言い逃れはできませんよ」
レナード殿下の手が、ガタガタと震え始めました。
隣のシルヴィア様も、金額の桁を見て白目を剥いています。
「あ、愛の問題に……お金を持ち出すなんて……ルビー様はなんて汚らわしい方なの……っ!」
「シルヴィア様、汚らわしいのは私の手ではなく、支払いを踏み倒そうとするその根性です。愛で腹は膨らみませんが、金貨があれば最高級のステーキが食べられます。私はステーキの方が好きです」
「おのれ……っ! 父上に報告してやる! こんな法外な請求、認められるはずがない!」
「どうぞ。国王陛下にはすでに出入国の管理権限の委譲について、事後承諾を得る手配をしてあります。それから殿下、言い忘れていましたが、私がこの国を去るということは、明日から王宮の会計システムが完全にストップすることを意味します。なにせ、そのパスワードを知っているのは私だけですから」
レナード殿下の顔が、赤から青、そして土気色へと変わっていく様は、どの劇場の舞台よりも滑稽でした。
「パスワード……? そんなもの、適当に入れれば開くだろう!」
「『LEONARD_LOVE_SYLVIA』とかですか? そんなセキュリティ意識の低いものには設定しておりません。では殿下、シルヴィア様、末永くお幸せに。私は明日から有給休暇を消化させていただきますので、探さないでくださいね」
私は完璧な淑女の礼をして、唖然とする聴衆の中を堂々と歩き出しました。
背後でレナード殿下が「待て! まだ話は終わっていない!」と叫んでいますが、私の耳にはもう、自由の鐘の音しか聞こえていません。
「ああ、せいせいした。さて、まずは美味しい肉を食べて、それから隣国のカイル殿下に連絡を取らなくちゃ」
私は夜会の出口へ向かいながら、心の中で新しい通帳の残高を計算し、満面の笑みを浮かべました。
婚約破棄? どうぞどうぞ。
私の市場価値は、こんなお花畑王子にはもったいないほど高騰しているのですから。
きらびやかなシャンデリアが輝く夜会の中心で、第一王子レナードの声が響き渡りました。
音楽は止まり、着飾った貴族たちの視線が一斉に私たちへと注がれます。
「ええ、わかりました。承知いたしました。異議はありません。むしろ歓迎いたします。はい、ハンコはどこに押せばいいですか?」
私は手に持っていたシャンパングラスを給仕の盆にそっと戻し、食い気味に返事をしました。
あまりの即答ぶりに、レナード殿下は口を半開きにして固まっています。
「……は? お前、今なんと……?」
「ですから、婚約破棄を全面的に受け入れると申し上げたのです。殿下の滑舌が悪かったわけではありません。私の理解が迅速だっただけです」
「待て! もっとこう、ショックを受けたり、泣き崩れたり、隣にいるシルヴィアを睨みつけたりする工程があるだろう! そういうのを全部飛ばして、なぜハンコの話をしている!」
レナード殿下の隣には、これ見よがしに彼にしがみついている男爵令嬢のシルヴィア様がいました。
彼女は潤んだ瞳で私を見つめ、いかにも「悲劇のヒロイン」といった風情で震えています。
「ルビー様……そんなに投げやりにならないでください。私が殿下と真実の愛を見つけてしまったことは、確かに罪深いことかもしれません。でも、愛は誰にも止められないのです……っ!」
「安心してください、シルヴィア様。私はあなたの『真実の愛』とやらに一ミリも興味がありません。それより殿下、婚約破棄の理由は『性格の不一致』ということでよろしいですね? まさか私の不貞などという、捏造に手間のかかる理由は使いませんよね?」
「な、な……っ! お前には羞恥心というものがないのか! これほどの大勢の前で婚約を破棄されるのだぞ! もっと惨めに、這いつくばって許しを請うのが悪役の作法だろう!」
レナード殿下は顔を真っ赤にして叫びました。
どうやら彼は、自分が主役の騎士物語でも演じているつもりなのでしょう。
残念ながら、私の辞書に「無償のエンターテインメント」という言葉は載っていません。
「作法、ですか。殿下、時間は有限なのです。私がここで泣き真似をするために費やす五分間で、王国のGDPがどれだけ損失を受けるか計算したことがありますか? ありませんよね。あなたの脳内は現在、シルヴィア様とのバラ色の未来図をレンダリングすることで手一杯でしょうから」
「き、きさ……っ! どこまでも可愛げのない女だ! シルヴィアの爪の垢を煎じて飲め!」
「衛生上の問題がありますのでお断りします。さて、婚約破棄に合意したところで、次の議案に移りましょう。侍従、例のものを持ってきて」
私が指を鳴らすと、控えていた我が家の執事が、重厚な革表紙のファイルを持って現れました。
それをレナード殿下の目の前で、ジャバラ状に広げます。
床に届き、さらに数メートル先まで転がっていくその紙の束に、周囲の貴族たちがざわつきました。
「なんだ、これは……? 呪文のスクロールか?」
「いいえ、請求書です。品名は『第一王子レナード・フォン・アステリア専用・婚約者兼、実務代行者としての業務委託料および経費精算書』です」
「……ぎょうむ、いた……? なんだそれは」
「日本語……いえ、この国の言葉でわかりやすく言いましょうか。殿下が遊び歩いている間に、私が代わりに処理した書類の残業代、および殿下がシルヴィア様へのプレゼント代として私の個人口座から引き落とした社交費、それから本日の婚約破棄に伴う精神的苦痛への慰謝料。これらを合算したものです」
私は扇子で、請求書の末尾に記載された数字を指し示しました。
「しめて、金貨三万枚。端数は切り捨てておきました。私の慈悲です」
「き、きんかさんまん……っ!? 馬鹿な! そんな大金、国家予算の何分の一だと思っている!」
「ですから、それだけの損失を殿下はこの三年間で私に与えたということです。この請求書には、殿下が『ルビー、これ明日までにやっておいて』と丸投げしてきた公文書の一覧も添付してあります。筆跡鑑定の結果も添えてありますので、言い逃れはできませんよ」
レナード殿下の手が、ガタガタと震え始めました。
隣のシルヴィア様も、金額の桁を見て白目を剥いています。
「あ、愛の問題に……お金を持ち出すなんて……ルビー様はなんて汚らわしい方なの……っ!」
「シルヴィア様、汚らわしいのは私の手ではなく、支払いを踏み倒そうとするその根性です。愛で腹は膨らみませんが、金貨があれば最高級のステーキが食べられます。私はステーキの方が好きです」
「おのれ……っ! 父上に報告してやる! こんな法外な請求、認められるはずがない!」
「どうぞ。国王陛下にはすでに出入国の管理権限の委譲について、事後承諾を得る手配をしてあります。それから殿下、言い忘れていましたが、私がこの国を去るということは、明日から王宮の会計システムが完全にストップすることを意味します。なにせ、そのパスワードを知っているのは私だけですから」
レナード殿下の顔が、赤から青、そして土気色へと変わっていく様は、どの劇場の舞台よりも滑稽でした。
「パスワード……? そんなもの、適当に入れれば開くだろう!」
「『LEONARD_LOVE_SYLVIA』とかですか? そんなセキュリティ意識の低いものには設定しておりません。では殿下、シルヴィア様、末永くお幸せに。私は明日から有給休暇を消化させていただきますので、探さないでくださいね」
私は完璧な淑女の礼をして、唖然とする聴衆の中を堂々と歩き出しました。
背後でレナード殿下が「待て! まだ話は終わっていない!」と叫んでいますが、私の耳にはもう、自由の鐘の音しか聞こえていません。
「ああ、せいせいした。さて、まずは美味しい肉を食べて、それから隣国のカイル殿下に連絡を取らなくちゃ」
私は夜会の出口へ向かいながら、心の中で新しい通帳の残高を計算し、満面の笑みを浮かべました。
婚約破棄? どうぞどうぞ。
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