悪役令嬢として婚約破棄されましたが、異議はありません。

鏡おもち

文字の大きさ
2 / 28

2

しおりを挟む
「ただいま戻りましたわ、お父様! たった今、無職になりました!」

 ベルシュタイン公爵邸の重厚な玄関ホールに、私の晴れやかな声が響き渡りました。
 出迎えた使用人たちが一斉に「ヒッ」と短い悲鳴を上げ、持っていた掃除用具やトレイを落としました。
 無理もありません、婚約破棄されて帰ってきた令嬢が、これほどまでに満面の笑みを浮かべているはずがないのですから。

「ルビー! 本当なのか!? 夜会でレナード殿下に婚約破棄を突きつけられたというのは!」

 廊下の奥から、私の父であるベルシュタイン公爵が、寝間着の上にガウンを羽織っただけの姿で飛んできました。
 普段は冷静沈着な宰相補佐として知られる父ですが、今は髪を振り乱して取り乱しています。

「ええ、本当ですわ。それはもう見事な断罪劇でした。殿下はシルヴィア様を抱き寄せ、私は悪の権化のように罵られ……。ああ、思い出すだけで、あまりの滑稽さに笑いが込み上げてきますわ」

「笑っている場合か! 我が公爵家の名誉はどうなる! お前のこれからの人生は……!」

「お父様、名誉でパンは買えませんし、人生ならこれからの方がずっと明るいですわ。それより、お父様に見ていただきたいものがありますの。応接室へ行きましょう。温かいココアも用意させてくださいませ」

 私は呆然とする父の背中を押し、無理やり応接室へと連行しました。
 ソファに座らせ、執事に命じて極上のココアを淹れさせると、私はカバンから「あの書類」の写しを取り出しました。

「……なんだ、この巻物は。また新しい領地経営の試算表か?」

「いいえ。私が三年間、王宮で『無償』で働かされてきた分の請求明細書です」

 父が震える手でその書類を広げました。
 読み進めるうちに、父の顔色がどんどん白くなっていきます。

「……代筆した親書、百八十通。予算案の修正、五十件。夜間における王子の愚痴聞き業務、一時間につき金貨十枚……。ルビー、お前、こんなことまで記録していたのか?」

「当然ですわ。私はビジネスとして殿下の婚約者を務めておりましたから。愛という名のボランティアは、今日この瞬間をもって終了しました。これからは、徹底的に債権を回収させていただきます」

「金貨三万枚……。これは、王家の私有財産を半分は吹き飛ばす額だぞ。いくらなんでも、法外ではないか?」

「いいえ、お父様。これでもかなり手加減しております。もし私が『知的財産権の侵害』や『精神的苦痛による慰謝料の増額』を主張すれば、この三倍は請求できましたわ。でも、あまり追い詰めすぎて王家が破産しても困りますからね。あくまで『正当な労働の対価』として請求するのがコツです」

 私はココアを一口飲み、満足げに息をつきました。
 父は、私のあまりの計算高さに、少しだけ引いているようです。

「……お前、泣かないのか? 三年間も婚約者として尽くしてきた男に、あんな泥棒猫のような女のために捨てられたのだぞ」

「泣く暇があるなら、その時間で複利計算をしますわ。泣いても一銭にもなりませんが、計算すれば利益が見えます。お父様、殿下は私のことを『可愛げのない、氷の女』と仰いました。ええ、その通りですわ。私は氷のように冷徹に、数字を追い求める女なのです」

「ルビー……」

「それに、お父様。私はすでに次の手を打っております。この国が私の請求に対して誠意ある対応を見せない場合、私は隣国のヴァレンティーノ王国へ移住いたします」

 父が「ゴフッ」とココアを吹き出しました。
 ヴァレンティーノ王国といえば、我が国とは歴史的にライバル関係にある軍事・経済の大国です。

「ま、待て! 移住!? そんなことをすれば、我が国の大事な頭脳が流出することになる! 宰相閣下が黙っていないぞ!」

「黙らせるのはお父様の仕事でしょう? 私はもう、この国の無能な王子に振り回されるのは御免なのです。隣国のカイル殿下からは、すでに『財務省の顧問として迎えたい』との打診をいただいておりますわ。あちらのほうが、ずっと福利厚生が整っていますもの」

「カイル殿下だと!? あの『冷徹な毒蛇』と恐れられる第三王子か!? いつの間にそんな男と接触していたんだ!」

「一ヶ月前の通商条約の交渉の際、殿下があくびをしながら適当にサインしようとした脇で、私がカイル殿下の提示した数字の矛盾を三秒で指摘した時からですわ。彼は私を見て、まるで掘り出し物の宝石を見つけたような目で笑ってくださいました」

 あの時のカイル殿下の瞳を思い出します。
 周囲が恐れる冷たい瞳でしたが、私にはそれが「最高級の計算機」を眺めるような、同志の眼差しに見えました。

「お前……。婚約破棄される前から、転職活動をしていたのか?」

「リスクヘッジは基本ですわ、お父様。殿下がシルヴィア様にうつつを抜かし始めた時点で、この婚約の存続可能性は十五パーセント以下だと算出しておりました。私は、期待値の低い投資に執着するほど愚かではありません」

 父は頭を抱え、深いため息をつきました。
 しかし、その口元はわずかに緩んでいます。
 父もまた、有能すぎる娘を誇りに思っているタイプの実務家なのです。

「わかった。ベルシュタイン公爵家として、お前の請求を全面的にバックアップしよう。王家には私から正式に抗議文を送る。……ただし、ルビー。一つだけ約束しろ」

「なんですの?」

「隣国へ行くにしても、たまには私の顔を見に帰ってこい。……あと、その恐ろしい請求書を、私に向けないでくれ」

「ふふ、お父様ったら。家族に対して請求書を発行するほど、私は鬼ではありませんわ。……今のところは、ですけれど」

 私は冗談めかしてウインクをしました。
 外では夜風が吹き荒れていますが、私の心はこれまでにないほど晴れやかでした。

 明日の朝、王宮にこの請求書が届いた時、あのお花畑王子はどんな顔をするかしら。
 想像するだけで、ステーキが三枚は食べられそうです。

 ルビー・フォン・ベルシュタインの「自由という名の逆襲」は、まだ始まったばかりなのです。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

働かないつもりでしたのに、気づけば全部うまくいっていました ――自由に生きる貴族夫人と溺愛旦那様』

鷹 綾
恋愛
前世では、仕事に追われるだけの人生を送り、恋も自由も知らないまま終わった私。 だからこそ転生後に誓った―― 「今度こそ、働かずに優雅に生きる!」 と。 気づけば貴族夫人、しかも結婚相手は冷静沈着な名門貴族リチャード様。 「君は何もしなくていい。自由に過ごしてくれ」 ――理想的すぎる条件に、これは勝ち確人生だと思ったのに。 なぜか気づけば、 ・屋敷の管理を改善して使用人の待遇が激変 ・夫の仕事を手伝ったら経理改革が大成功 ・興味本位で教えた簿記と珠算が商業界に革命を起こす ・商人ギルドの顧問にまで祭り上げられる始末 「あれ? 私、働かない予定でしたよね???」 自分から出世街道を爆走するつもりはなかったはずなのに、 “やりたいことをやっていただけ”で、世界のほうが勝手に変わっていく。 一方、そんな彼女を静かに見守り続けていた夫・リチャードは、 実は昔から彼女を想い続けていた溺愛系旦那様で――。 「君が選ぶなら、私はずっとそばにいる」 働かないつもりだった貴族夫人が、 自由・仕事・愛情のすべてを“自分で選ぶ”人生に辿り着く物語。 これは、 何もしないはずだったのに、幸せだけは全部手に入れてしまった女性の物語。

婚約破棄で悪役令嬢を辞めたので、今日から素で生きます。

黒猫かの
恋愛
「エリー・オルブライト! 貴様との婚約を破棄する!」 豪華絢爛な夜会で、ウィルフレッド王子から突きつけられた非情な宣告。 しかし、公爵令嬢エリーの心境は……「よっしゃあ! やっと喋れるわ!!」だった。

あの日々に戻りたくない!自称聖女の義妹に夫と娘を奪われた妃は、死に戻り聖女の力で復讐を果たす

青の雀
恋愛
公爵令嬢スカーレット・ロッテンマイヤーには、前世の記憶がある。 幼いときに政略で結ばれたジェミニ王国の第1王子ロベルトと20歳の時に結婚した。 スカーレットには、7歳年下の義妹リリアーヌがいるが、なぜかリリアーヌは、ロッテンマイヤー家に来た時から聖女様を名乗っている。 ロッテンマイヤーは、代々異能を輩出している家柄で、元は王族 物語は、前世、夫に殺されたところから始まる。

アルバートの屈辱

プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。 『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

旦那様には愛人がいますが気にしません。

りつ
恋愛
 イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。 ※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。

裏切られた令嬢は、30歳も年上の伯爵さまに嫁ぎましたが、白い結婚ですわ。

夏生 羽都
恋愛
王太子の婚約者で公爵令嬢でもあったローゼリアは敵対派閥の策略によって生家が没落してしまい、婚約も破棄されてしまう。家は子爵にまで落とされてしまうが、それは名ばかりの爵位で、実際には平民と変わらない生活を強いられていた。 辛い生活の中で母親のナタリーは体調を崩してしまい、ナタリーの実家がある隣国のエルランドへ行き、一家で亡命をしようと考えるのだが、安全に国を出るには貴族の身分を捨てなければいけない。しかし、ローゼリアを王太子の側妃にしたい国王が爵位を返す事を許さなかった。 側妃にはなりたくないが、自分がいては家族が国を出る事が出来ないと思ったローゼリアは、家族を出国させる為に30歳も年上である伯爵の元へ後妻として一人で嫁ぐ事を自分の意思で決めるのだった。 ※作者独自の世界観によって創作された物語です。細かな設定やストーリー展開等が気になってしまうという方はブラウザバッグをお願い致します。

《完結》「パパはいますか?」ある日、夫に似た子供が訪ねて来た。

ヴァンドール
恋愛
嫁いですぐに夫は戦地に赴いた。すると突然一人の男の子が訪ねて来た「パパはいますか?」 その子供の顔は戦地に行った夫にそっくりだった。

厄介払いされてしまいました

たくわん
恋愛
侯爵家の次女エリアーナは、美人の姉ロザリンドと比べられ続け、十八年間冷遇されてきた。 十八歳の誕生日、父から告げられたのは「辺境の老伯爵に嫁げ」という厄介払いの命令。 しかし、絶望しながらも辺境へ向かったエリアーナを待っていたのは――。

処理中です...