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「ただいま戻りましたわ、お父様! たった今、無職になりました!」
ベルシュタイン公爵邸の重厚な玄関ホールに、私の晴れやかな声が響き渡りました。
出迎えた使用人たちが一斉に「ヒッ」と短い悲鳴を上げ、持っていた掃除用具やトレイを落としました。
無理もありません、婚約破棄されて帰ってきた令嬢が、これほどまでに満面の笑みを浮かべているはずがないのですから。
「ルビー! 本当なのか!? 夜会でレナード殿下に婚約破棄を突きつけられたというのは!」
廊下の奥から、私の父であるベルシュタイン公爵が、寝間着の上にガウンを羽織っただけの姿で飛んできました。
普段は冷静沈着な宰相補佐として知られる父ですが、今は髪を振り乱して取り乱しています。
「ええ、本当ですわ。それはもう見事な断罪劇でした。殿下はシルヴィア様を抱き寄せ、私は悪の権化のように罵られ……。ああ、思い出すだけで、あまりの滑稽さに笑いが込み上げてきますわ」
「笑っている場合か! 我が公爵家の名誉はどうなる! お前のこれからの人生は……!」
「お父様、名誉でパンは買えませんし、人生ならこれからの方がずっと明るいですわ。それより、お父様に見ていただきたいものがありますの。応接室へ行きましょう。温かいココアも用意させてくださいませ」
私は呆然とする父の背中を押し、無理やり応接室へと連行しました。
ソファに座らせ、執事に命じて極上のココアを淹れさせると、私はカバンから「あの書類」の写しを取り出しました。
「……なんだ、この巻物は。また新しい領地経営の試算表か?」
「いいえ。私が三年間、王宮で『無償』で働かされてきた分の請求明細書です」
父が震える手でその書類を広げました。
読み進めるうちに、父の顔色がどんどん白くなっていきます。
「……代筆した親書、百八十通。予算案の修正、五十件。夜間における王子の愚痴聞き業務、一時間につき金貨十枚……。ルビー、お前、こんなことまで記録していたのか?」
「当然ですわ。私はビジネスとして殿下の婚約者を務めておりましたから。愛という名のボランティアは、今日この瞬間をもって終了しました。これからは、徹底的に債権を回収させていただきます」
「金貨三万枚……。これは、王家の私有財産を半分は吹き飛ばす額だぞ。いくらなんでも、法外ではないか?」
「いいえ、お父様。これでもかなり手加減しております。もし私が『知的財産権の侵害』や『精神的苦痛による慰謝料の増額』を主張すれば、この三倍は請求できましたわ。でも、あまり追い詰めすぎて王家が破産しても困りますからね。あくまで『正当な労働の対価』として請求するのがコツです」
私はココアを一口飲み、満足げに息をつきました。
父は、私のあまりの計算高さに、少しだけ引いているようです。
「……お前、泣かないのか? 三年間も婚約者として尽くしてきた男に、あんな泥棒猫のような女のために捨てられたのだぞ」
「泣く暇があるなら、その時間で複利計算をしますわ。泣いても一銭にもなりませんが、計算すれば利益が見えます。お父様、殿下は私のことを『可愛げのない、氷の女』と仰いました。ええ、その通りですわ。私は氷のように冷徹に、数字を追い求める女なのです」
「ルビー……」
「それに、お父様。私はすでに次の手を打っております。この国が私の請求に対して誠意ある対応を見せない場合、私は隣国のヴァレンティーノ王国へ移住いたします」
父が「ゴフッ」とココアを吹き出しました。
ヴァレンティーノ王国といえば、我が国とは歴史的にライバル関係にある軍事・経済の大国です。
「ま、待て! 移住!? そんなことをすれば、我が国の大事な頭脳が流出することになる! 宰相閣下が黙っていないぞ!」
「黙らせるのはお父様の仕事でしょう? 私はもう、この国の無能な王子に振り回されるのは御免なのです。隣国のカイル殿下からは、すでに『財務省の顧問として迎えたい』との打診をいただいておりますわ。あちらのほうが、ずっと福利厚生が整っていますもの」
「カイル殿下だと!? あの『冷徹な毒蛇』と恐れられる第三王子か!? いつの間にそんな男と接触していたんだ!」
「一ヶ月前の通商条約の交渉の際、殿下があくびをしながら適当にサインしようとした脇で、私がカイル殿下の提示した数字の矛盾を三秒で指摘した時からですわ。彼は私を見て、まるで掘り出し物の宝石を見つけたような目で笑ってくださいました」
あの時のカイル殿下の瞳を思い出します。
周囲が恐れる冷たい瞳でしたが、私にはそれが「最高級の計算機」を眺めるような、同志の眼差しに見えました。
「お前……。婚約破棄される前から、転職活動をしていたのか?」
「リスクヘッジは基本ですわ、お父様。殿下がシルヴィア様にうつつを抜かし始めた時点で、この婚約の存続可能性は十五パーセント以下だと算出しておりました。私は、期待値の低い投資に執着するほど愚かではありません」
父は頭を抱え、深いため息をつきました。
しかし、その口元はわずかに緩んでいます。
父もまた、有能すぎる娘を誇りに思っているタイプの実務家なのです。
「わかった。ベルシュタイン公爵家として、お前の請求を全面的にバックアップしよう。王家には私から正式に抗議文を送る。……ただし、ルビー。一つだけ約束しろ」
「なんですの?」
「隣国へ行くにしても、たまには私の顔を見に帰ってこい。……あと、その恐ろしい請求書を、私に向けないでくれ」
「ふふ、お父様ったら。家族に対して請求書を発行するほど、私は鬼ではありませんわ。……今のところは、ですけれど」
私は冗談めかしてウインクをしました。
外では夜風が吹き荒れていますが、私の心はこれまでにないほど晴れやかでした。
明日の朝、王宮にこの請求書が届いた時、あのお花畑王子はどんな顔をするかしら。
想像するだけで、ステーキが三枚は食べられそうです。
ルビー・フォン・ベルシュタインの「自由という名の逆襲」は、まだ始まったばかりなのです。
ベルシュタイン公爵邸の重厚な玄関ホールに、私の晴れやかな声が響き渡りました。
出迎えた使用人たちが一斉に「ヒッ」と短い悲鳴を上げ、持っていた掃除用具やトレイを落としました。
無理もありません、婚約破棄されて帰ってきた令嬢が、これほどまでに満面の笑みを浮かべているはずがないのですから。
「ルビー! 本当なのか!? 夜会でレナード殿下に婚約破棄を突きつけられたというのは!」
廊下の奥から、私の父であるベルシュタイン公爵が、寝間着の上にガウンを羽織っただけの姿で飛んできました。
普段は冷静沈着な宰相補佐として知られる父ですが、今は髪を振り乱して取り乱しています。
「ええ、本当ですわ。それはもう見事な断罪劇でした。殿下はシルヴィア様を抱き寄せ、私は悪の権化のように罵られ……。ああ、思い出すだけで、あまりの滑稽さに笑いが込み上げてきますわ」
「笑っている場合か! 我が公爵家の名誉はどうなる! お前のこれからの人生は……!」
「お父様、名誉でパンは買えませんし、人生ならこれからの方がずっと明るいですわ。それより、お父様に見ていただきたいものがありますの。応接室へ行きましょう。温かいココアも用意させてくださいませ」
私は呆然とする父の背中を押し、無理やり応接室へと連行しました。
ソファに座らせ、執事に命じて極上のココアを淹れさせると、私はカバンから「あの書類」の写しを取り出しました。
「……なんだ、この巻物は。また新しい領地経営の試算表か?」
「いいえ。私が三年間、王宮で『無償』で働かされてきた分の請求明細書です」
父が震える手でその書類を広げました。
読み進めるうちに、父の顔色がどんどん白くなっていきます。
「……代筆した親書、百八十通。予算案の修正、五十件。夜間における王子の愚痴聞き業務、一時間につき金貨十枚……。ルビー、お前、こんなことまで記録していたのか?」
「当然ですわ。私はビジネスとして殿下の婚約者を務めておりましたから。愛という名のボランティアは、今日この瞬間をもって終了しました。これからは、徹底的に債権を回収させていただきます」
「金貨三万枚……。これは、王家の私有財産を半分は吹き飛ばす額だぞ。いくらなんでも、法外ではないか?」
「いいえ、お父様。これでもかなり手加減しております。もし私が『知的財産権の侵害』や『精神的苦痛による慰謝料の増額』を主張すれば、この三倍は請求できましたわ。でも、あまり追い詰めすぎて王家が破産しても困りますからね。あくまで『正当な労働の対価』として請求するのがコツです」
私はココアを一口飲み、満足げに息をつきました。
父は、私のあまりの計算高さに、少しだけ引いているようです。
「……お前、泣かないのか? 三年間も婚約者として尽くしてきた男に、あんな泥棒猫のような女のために捨てられたのだぞ」
「泣く暇があるなら、その時間で複利計算をしますわ。泣いても一銭にもなりませんが、計算すれば利益が見えます。お父様、殿下は私のことを『可愛げのない、氷の女』と仰いました。ええ、その通りですわ。私は氷のように冷徹に、数字を追い求める女なのです」
「ルビー……」
「それに、お父様。私はすでに次の手を打っております。この国が私の請求に対して誠意ある対応を見せない場合、私は隣国のヴァレンティーノ王国へ移住いたします」
父が「ゴフッ」とココアを吹き出しました。
ヴァレンティーノ王国といえば、我が国とは歴史的にライバル関係にある軍事・経済の大国です。
「ま、待て! 移住!? そんなことをすれば、我が国の大事な頭脳が流出することになる! 宰相閣下が黙っていないぞ!」
「黙らせるのはお父様の仕事でしょう? 私はもう、この国の無能な王子に振り回されるのは御免なのです。隣国のカイル殿下からは、すでに『財務省の顧問として迎えたい』との打診をいただいておりますわ。あちらのほうが、ずっと福利厚生が整っていますもの」
「カイル殿下だと!? あの『冷徹な毒蛇』と恐れられる第三王子か!? いつの間にそんな男と接触していたんだ!」
「一ヶ月前の通商条約の交渉の際、殿下があくびをしながら適当にサインしようとした脇で、私がカイル殿下の提示した数字の矛盾を三秒で指摘した時からですわ。彼は私を見て、まるで掘り出し物の宝石を見つけたような目で笑ってくださいました」
あの時のカイル殿下の瞳を思い出します。
周囲が恐れる冷たい瞳でしたが、私にはそれが「最高級の計算機」を眺めるような、同志の眼差しに見えました。
「お前……。婚約破棄される前から、転職活動をしていたのか?」
「リスクヘッジは基本ですわ、お父様。殿下がシルヴィア様にうつつを抜かし始めた時点で、この婚約の存続可能性は十五パーセント以下だと算出しておりました。私は、期待値の低い投資に執着するほど愚かではありません」
父は頭を抱え、深いため息をつきました。
しかし、その口元はわずかに緩んでいます。
父もまた、有能すぎる娘を誇りに思っているタイプの実務家なのです。
「わかった。ベルシュタイン公爵家として、お前の請求を全面的にバックアップしよう。王家には私から正式に抗議文を送る。……ただし、ルビー。一つだけ約束しろ」
「なんですの?」
「隣国へ行くにしても、たまには私の顔を見に帰ってこい。……あと、その恐ろしい請求書を、私に向けないでくれ」
「ふふ、お父様ったら。家族に対して請求書を発行するほど、私は鬼ではありませんわ。……今のところは、ですけれど」
私は冗談めかしてウインクをしました。
外では夜風が吹き荒れていますが、私の心はこれまでにないほど晴れやかでした。
明日の朝、王宮にこの請求書が届いた時、あのお花畑王子はどんな顔をするかしら。
想像するだけで、ステーキが三枚は食べられそうです。
ルビー・フォン・ベルシュタインの「自由という名の逆襲」は、まだ始まったばかりなのです。
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