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第一部 少年と十字架
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一 伴天連来訪
時は戦国。乱世の最中にあって、西国周防国なる山口の街は「西の都」と称され、賑やかなひとときの栄華を極めていた。
山口に君臨する守護大名・大内氏は、義興(一四七七~一五二八)の代より京の都の朝廷と室町幕府中枢部に深く通じ、その気風は次代の義隆(一五〇七~一五五一)にも受け継がれた。相次ぐ動乱で荒廃した京の都からは数多くの公家達が山口へ落ち延び、西国の彼方にありながら雅やかな都振りが華開いた。また、西海に通ずる交通の要衝として、明や遠く東南アジアからの交易で舶来した豊かな文物が集積され、この街の栄華をさらに彩っていた。
天文十九年(一五五〇)和暦十月の或る日。木枯らし吹く晩秋の寒さにも怯まず賑わう山口の街の中心、その中でもひときわ、時ならず賑わう人だかりが出来ていた。
黒いビロードの衣に白いレースの衿袖、白肌の長身に鼻筋の通った彫りの深い顔立ち。その全く見慣れぬ姿の異国人の一団に、群衆たちは我先に人混みを掻き分け、一目拝むや刮目した。
「南蛮人来朝」と大きな驚きをもって噂されたこの異国人こそ、はるか西洋・ポルトガルから日本に初来航した伴天連(カトリック・イエズス会の修道司祭)、かのフランシスコ・ザビエル(フランシスコ・デ・シャヴィエル、一五〇六~一五五二)とその一行である。
「宇治丸、どこか見えるところないかしら」
「広、こっちだ。早く、いや気を付けて」
「大丈夫よ、これくらい平気なんだから」
群集の隅で、町家の脇手から板葺き屋根によじのぼる、少年と少女の姿があった。やんちゃ極まりない行動だが、身なりの悪いただの町小僧ではない。薄汚れながらも良家の子女らしく、整った装束と聡明な面立ちをした二人だ。
「よし。ほら、見えたぞ!」
「わあ……珍しい人達!」
「本当に珍しいなあ……!」
町家の屋根の上に立って、広場を見下ろす。幼い口からとっさに出た「珍しい」という言葉、その一言ではとても語り尽くせない感嘆に、二人は目を丸くして輝かせた。その「異国人」の姿は、多感な少年少女の目に、いかに新鮮な輝きをもって映ったことだろう。
「あいや、こんなところにおられた! なんて無茶なことを! おーい、広姫様、危のうござりますぞ!」
やや老けた男の叫び声に、少年と少女は慌てて振り向いた。
「今梯子を! これ、そこの者、どこぞに梯子はあらぬか!」
男が町人をどやして梯子を調達する間、二人は気まずそうに降り仕度をしつつ、見合って苦笑を交わした。
「僕が連れ出したのです。広……広姫様は悪うござりません」
「なんだこら、また宇治丸の仕業か! 全くこやつときたら」
すごすごと梯子を降りると、少女をかばうように男に向かって、神妙に、だが毅然と釈明する少年。そのやや後ろで、いたたまれなさそうに少年の横顔を見つめる少女。
「申し訳のうござります。広姫様も、危ない真似を申し訳のう」
「……」
「南蛮人来朝」の噂を聞いて、屋敷を抜け出して街へ見に行こうと言い出したのは自分である、と告白できる状況ではなかった。
「全く、この日の本にやってきて、殿君や公方様・天朝様の許しもなく、傍若無人に南蛮の異様なる宗門を辻で説くとは。実にけしからぬ、不遜極まりない輩共じゃ。世も末というものじゃわい。決して近づいてはならんぞ。広姫様も、慎まのうてはなりませぬぞ」
男――二人の住む屋敷に仕える家人は、この異国人たちの来航を快く思っていないようだった。二人とも公家の落人の屋敷で育てられ、神道を学ぶ身の上。その屋敷に仕える家人としては致し方ないことである。
身分上は、少女・広のほうが格上、他ならぬ山口領主大内義隆の庶子である。少年・宇治丸はといえば、一時期戦乱を逃れて山口に下った下級公家の庶子で、父は彼の出生を見届けることもなく京へ戻ってしまい、その後いわば広に仕える者として引き取られた身。
二人とも、庶子・いわゆる「落とし子」として実父母の元から離され、肩身狭く世の隅で育てられるという共通した身の上で、数え八つの歳から共に一つ屋根の下で育てられた同い年。当人同士は生まれの違いなど意に介さず、良き幼馴染みの間柄である。とはいえ、厳然たる身分の格差が公の場で二人の間を隔てていた。
二人の齢は数え十二歳。この宇治丸と呼ばれる少年が、のちのキリシタン陰陽師・賀茂在昌(一五三九~一五九九)である。
・在昌の生没年は生年を二十年遅く設定している。詳細は第一部末コラム。
・在昌が山口で生まれたというガスパル・ヴィレラの記録あり。
二 陰陽師、その地味な史実
いまだかつて一目たりとも顔合わせたことなき宇治丸の父、その名は勘解由小路在富(一四九〇~一五六五)。公家としては下級な部類の家柄ながら、二十五歳にして朝廷陰陽寮の長官「陰陽頭」に任ぜられ、宇治丸出生の三年前・山口下向時には上流公卿と肩を並べる従二位、先の物語の翌年・天文二十年(一五五一)には六十二歳で正二位まで昇りつめた、老練な陰陽師。在富の場合はあくまで長寿と長年の功労に報いた、「非参議」という実権のない名誉位階ではあるが、正二位とは本来の律令の官位では左右二大臣に相当する高い位階であり、家格からすれば稀代の大出世である。
賀茂氏勘解由小路家は、かの安倍晴明(九二一~一〇〇五)の師である賀茂忠行(八九〇~九七〇)・保憲(九一七~九七七)父子以来、朝廷の陰陽師を世襲してきた家柄。晴明の子孫・安倍氏は天文道、片の賀茂氏は暦道という、陰陽道の二本柱をそれぞれ家学としてきた、いわば陰陽道の二大家元の一つである。室町時代になると、安倍氏嫡流は土御門家、賀茂氏嫡流は勘解由小路家を苗字として名乗るようになった。
なお、陰陽道賀茂氏の出自はいささか不確かながら、山城国(京都)の上賀茂・下鴨神社を氏神とする在郷氏族「賀茂県主氏」ではなく、大和国(奈良)葛城(現・御所市付近)に発し、天武朝から奈良時代にかけて朝廷中枢に官人として仕えた「賀茂朝臣氏」の子孫と伝わる。
さて、ここで大前提を話しておこう。史実の「陰陽師」とは、俗に知られる魔法使いのような存在ではなく、本来は、朝廷の部署「陰陽寮」に属し、天文観測を元に暦を作り司る、いわば国立天文台職員のような理系専門技術職――あえて云ってしまえば、地味な下級国家公務員である。
もっとも、日柄や方位、天象などの「吉凶」が重んじられた平安朝廷にあって、陰陽師はそれらにまつわる「占い」や「厄祓い」をも任されるようになり、次第に、道教・神道・仏教(密教)の要素が渾然一体となった独特の呪術的体系を形成していった――さらには、やがて朝廷の官人以外の巷でもこれを模倣した占い・祓の祭儀が行われるようになり、民間呪術者集団を形成していき、彼らも俗に陰陽師と称されるようになった、ということもまた事実である。
いずれにせよ、宇治丸の父方・勘解由小路家は、乱世に翻弄され身を潜めつつ、京の都の片隅で日々暦司りに忙殺される下級公家。妖術使いや妖怪退治などは、残念ながらこの物語には無関係なことである。
三 父・在富の山口下向
宇治丸と広の出自、それは両者とも一筋縄にはいかない難儀なものであった。
天文五年(一五三六)七月、京の都は未曾有の戦乱と大火の阿鼻叫喚に包まれた。比叡山延暦寺の動員した約六万人もの僧兵と武士が京都市中に来襲、日蓮法華宗の拠点をことごとく焼き払った。延暦寺勢力が放った火は大火を招き、京都は下京の全域、および上京の三分の一ほどを焼失。その災禍はかの応仁の乱よりも大きく、京都史上最凶の戦禍と云われる、「天文法華の乱」である。
上京勘解由小路(現・下立売通)にあった勘解由小路在富の邸宅も飛び火を受け、屋敷の半分ほどを焼失、命からがら妻子と家伝の暦道の書物を守りきった。在富四十七歳の年であった。
この時点で生存し、のちに成人まで育った子女は、日枝子十二歳と阿多子九歳という二人の娘のみ。
乱世の中での激務と困窮とで元来子宝に恵まれなかった在富、先に生まれた子はみな天文法華の乱以前に夭折してしまい、自らはこの歳で、唯一の妻も今や四十二歳である。もとい、半壊した邸宅と焼け出された家族の回復が当面の死活問題であり、とてものこと側室など迎えるどころの騒ぎではない。自らの血を引く跡取り息子の望みはほとんど潰えて、ただでさえ災難に目眩する在富の絶望たるや計り知れない。
妻方の親戚が社家(神主の家柄)である京都東山の吉田神社に妻子を預け、ひとまずの収拾をつけた在富は、西国の雄・大内義隆(一五〇七~一五五一)を頼り、周防山口に下向した。周防国には勘解由小路家の貴重な財源である所領があり、先代・大内義興の代から大内氏と勘解由小路家は密接な関係があったのだ。すなわち、所領を護持してもらう代わりに京都での地位を取り次ぐという、持ちつ持たれつの関係である。新当主である大内義隆への顔繋ぎ、そして財政再建のための所領護持確認が、山口行きの主目的である。
大内義隆は八年前の享禄元年(一五二八)、父・義興の没を受け二十二歳で家督相続し、当時三十一歳の若き武将。先代の大内義興は、永正五年(一五〇八)在富十九歳の頃に、山口に逃げてきた前将軍・足利義稙を奉じて上洛し、十年間京都と近畿に滞在して、「管領代」として幕政を執行した。その間、伊勢神宮に参拝して強い感銘を受け、山口に戻ると天皇の勅許を得て伊勢神宮の分霊を勧請、建物まで忠実に伊勢を再現した「西の伊勢」と称される高嶺太神宮(現・山口大神宮)を建立したほどの神道びいきであった。
大内義隆もまた、父・義興の薫陶を受けて都振りびいき・神道びいきであった。この時、二十一歳の若さながら「神祇管領長上」という神道界の頭領的地位にあった吉田神社祠官・吉田兼右(一五一六~一五七三)も、大内義隆の招きによって在富とともに山口に赴き、父義興の遺産である高嶺太神宮と今八幡宮で、当時神道の一大流派となっていた「吉田神道」の流儀を指南した。
この吉田兼右、歳は離れているが、実は在富の妻の弟にあたる姻戚である。在富の正室・木根子および吉田兼右の父は、国学・漢学の大家・清原宣賢(一四七五~一五五〇)。その父(兼右と木根子にとっては父方祖父)は、仏教・儒教・陰陽道などの要素を集大成した吉田神道の創始者・吉田兼倶(一四三五~一五一一)、という碩学の家柄である。在富の山口行きは、この義弟吉田兼右の同伴という意義もあった。
在富は、山口に二年間滞在したのち京都へ戻った。乱世にあって、ことに在富にとっては絶望のさなかにあって、「西の都」での滞在は貴重なしばしの安息の時であった。
・天文法華の乱で在富邸が焼かれたという点は架空。
・在富の娘二人は架空。名の由来は生まれ年の干支から。詳細は第一部末コラム。
・在富が山口に下向したという点、吉田兼右がそれに同行したという点も架空。
・在富妻の名と出自も架空。名の由来は生まれ年の干支から。詳細は第一部末コラム。
四 落人の落とし子
絶望の淵からのしばし貴重な安息――こんな時に、否、こんな時だからこそ、であろう。在富は山口滞在中、一つの「気の緩み」を生んでしまった。
「西の都」山口には多くの公家が落ち延びて暮らしていたが、大内義隆の「後宮」もまた、公家の娘揃いであった。正室は、天文十五年(一五四六)に内大臣まで進んだ中堅公卿・万里小路秀房(一四九二~一五六三)の娘・貞子。在富山口来訪の時には二十六歳。名門の出とあって、理知的で気丈な賢婦人であった。
その貞子に仕える侍女「上臈」という地位にあった者で、朝廷の官人・大宮伊治(一四九六~一五五一)の娘・佐井子(おさい)という若い女がいた。大宮家は、朝廷の諸記録を司り、算博士という地位を世襲する家柄。「公家」とは厳密には「堂上家」という家格分類の者を指し、それ未満の家格で朝廷に仕える者は「官人」、家柄としては「地下家」と呼ばれる。大宮家は、その地下家という分類の中では筆頭格とはいえ、大雑把に云ってしまえば最下級公家である。
最初の時には数え十七歳のうら若き乙女であった大宮佐井子と、父子ほどの歳の差である四十七歳の在富は、山口での二年の間に、こともあろうか行きずりの恋仲になってしまったのだ。
京からの一行来訪歓迎の宴席で佐井子と出会った在富は、彼女の家柄を知って関心を持ち、言葉を交わした。他の公家柄の者と違って、成り上がり公卿である自分に対しても高飛車ではなく、誰に対しても分け隔てなく慎ましやかに振る舞う佐井子に、好感と娘のような親近感を覚えた。
同じ才女でも、気性が強く気位も高い正室貞子と違い、佐井子は利発ながら謙虚で温厚な乙女だった。暦道と算学という近しい家学からも意気投合し、学問の話の文を交わし、歌文を交わし、想いを交わし――それは絶望の淵にあった在富にとって、この上ない安らぎであった――そしてやがて、相通じ合う仲となった。
まるで源氏物語のような話だが、現実問題は美談でも笑い事でもない。恋相手は、世話になっている大名の奥方の侍女である。当然秘め事であったが、運命なるかな――二年の時を経て、在富が間もなく京へ戻るというその時、佐井子は身籠ってしまったのだ。
二人は、別れを惜しんで、しかし運命を受け入れて、静かに涙を呑んだ。そして別れ際、胎の子がもし女児なら自分の別れ形見に、もし男児として産まれ、無事一人前に育ったなら、これを携えて京へ遣るように――と、自筆の暦道の初歩指南書に、六壬式占という占いのための式盤を模した手のひらに収まるほどの銅盤を添えて、佐井子に託した。
時に在富四十九歳、佐井子十九歳。在富は、二歳下の同輩公卿で前年周防に下向した持明院基規(一四九二~一五五一)と共立って京都へ帰った。
年が明けた天文八年(一五三九)一月末、凍てつく梅の枝にもつぼみがほころび始める頃。山口の街の片隅で、公に祝われることもなく密やかに、のちに賀茂在昌となる男児は産まれた。京都の岩清水八幡宮になぞらえて、先代大内義興の代に大改修し立派な社殿が建立された「今八幡宮」。男児はその社家に預けられた。
創建当初の祭神・宇治皇子から昔は宇治社と呼ばれていたことに因み、男児は宇治丸と名付けられた。あるいはもう一つには、悲恋の別れを源氏物語の「宇治十帖」になぞらえた母佐井子の密かな想いもあったのかも知れない。
・おさいの方は実在。佐井子という字と年齢は架空。在富との恋も架空。
・在昌の幼名「宇治丸」は架空。
五 領主の落とし子
「英雄、色を好む」という諺の通り、大内義隆は女性関係にも豪傑であった。史書に名が残る者だけでも、正室二人、側室二人がいた。
在富が山口に下向した時の少し前には、正五位上・武家伝奏という地位にあった公家・広橋兼秀三十一歳(一五〇六~一五六七)と、その長女・光子十四歳が山口に下向していた。光子はそのまま山口に置かれ、大内義隆の大叔母が晩年を過ごした広徳院という尼寺に入り、庶務係の稚児・「喝食」という任に着いた。
それから二年後、ちょうど在富が京都へ帰っていった頃。在俗の庶務とはいえ、仮にも寺院に仕える者、しかもまだうら若き数え十六歳の少女――それがこともあろうか、ふとしたことから大名大内義隆の目に留まり、見初められてしまったのだ。
在富と佐井子との切ない恋とは違い、義隆の「御見初め」は手が早く、いささか強引であった。ある時、親族の年忌法要に訪れた義隆は、寺の隅にいた光子が目に留まるや一目惚れといった有り様。のちには正式に側室として迎え入れられたものの、最初の頃はたびたび使いをやって連れ出して、光子は寺の者たちの後ろ指差しを買った。
ほどなくして、光子は子を孕んだ。未だ正式な側室となる前のことである。そして宇治丸の産まれと同じ年の暮れ、こちらもまた公に祝われることもなく密やかに、数え十七歳の若さで光子は女児を産んだ。
これが男児であったなら処遇もまた違っただろうが、嫡出でない女児というのは惨めなものである。父・義隆は産まれたのが女児と伝え聞くや祝いに訪れもせず、一つ山口の街にいながら、生涯ただの一度も間近に顔を合わすことはなかった。
ここに至って光子はようやく正式に側室として迎え入れられ、「広徳院御新造」と呼ばれた。女児は母光子の住地・広徳院と実家・広橋家から一字を取って「広」と名付けられ、光子の正式な側室入りと引き換えに、高嶺太神宮に仕える一禰宜(神職)の家に預けられた。
・広徳院御新造は実在。光子という名と年齢は架空。彼女の長女「広」も架空。
六 祖父にして養父
大内義隆の妻はこれで二人出てきたが、もう一人にして二番目の正室は、何を隠そう、あの大宮佐井子である。
勘解由小路在富が京へ戻ったのち、佐井子もまた義隆に見初められて側室となった。在富との想いを抱えた佐井子にとっては辛い心境であったが、ひとたび義隆の目に留まっては、その想いはたやすく打ち砕かれてしまったのだった。
気丈すぎる性格と気位の高さが災いして、正室万里小路貞子は豪傑義隆とのそりが全く合わなかった。一夫多妻が当たり前であった当時にあっては尋常でないほど嫉妬心も深く、義隆の側室との付き合いにたびたび強い苦言を呈した。そこにあって、義隆の心はいつしかすっかり、謙虚で温厚な佐井子に移ってしまったのだ。
天文十四年(一五四五)、おさいの方と呼ばれた大宮佐井子は二十六歳の時、のちに嫡子大内義尊となる男児・亀童丸を産んだ。義隆はこれを大いに喜び、盛大に祝した。
ここに至って正室貞子の面目は完全に潰され、大いに憤慨したあげく離縁して京都の実家へ戻ってしまったのだ。佐井子は正室に昇格し、貞子の旧邸・東の御殿を与えられ、以後そこに住むこととなった。かくしてのち、佐井子とその初子・宇治丸とは二度と会うことがなかった。
これまたこれを大いに喜んだ佐井子の父・大宮伊治は、翌年の天文十五年(一五四六)、五十一歳にして山口に下向してきた。伊治は二代目正室の父として大名大内義隆に大いに歓待され、すっかり上機嫌になった。そして、乱世の動乱続きで荒れ果て政情不安定な京の都と、繁忙なわりにうだつの上がらない朝廷の官職をなげうって、屋敷を与えられてそのまま山口に住み込む身となってしまった。
伊治は、娘・佐井子の落とし子の宇治丸、そして大内義隆の落とし子で同い年の広という娘の存在を知ると、二人の養父となることを申し出た。かくして、数え八歳になった宇治丸と広は、宇治丸の母方祖父・大宮伊治の山口邸宅に引き取られ、共に育てられることとなった。
二人は、養父伊治に家学の算学と公家としての教養「有職故実」を、そして産まれ育ちの地・今八幡宮と高嶺太神宮に通って吉田神道を学び、立派な教養階級の子女に育っていった。
・宇治丸と広を大宮伊治が養子としたという点は架空。
七 伴天連再来
さて、物語の時間軸は、主人公とヒロインの父母の慣れ初めから生誕、そして養育歴までに至るエピソードを遡り、ようやく冒頭第一章に追いついた。
インドのゴアに置かれた東洋大司教座から、「黄金の国」として西洋人航海者の夢の的であった「ジパング」日本への宣教を任ぜられたフランシスコ・ザビエルは、天文十八年(一五四九)・ユリウス暦八月十五日、薩摩(鹿児島)に来着した。一行の中には、ゴアで洗礼を受けたヤジロウら三人の日本人も共にいた。戦国時代にあって、遠くインドにまで日本人が来航していたことは、当時の日本の海外私貿易がいかに盛んであったかを偲ばせる。
一行は薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見、一旦は宣教の許可を得たが、仏僧の助言を聞き入れた貴久が禁教に傾いてしまったため、京に上ることを目指して薩摩を去った。一行は肥前国(佐賀)の平戸に入り、宣教活動を行った。
そして天文十九年(一五五〇)和暦十月上旬、山口に至り、無許可で宣教活動を行った。これが冒頭第一章「伴天連来訪」の物語の背景である。
ザビエルは大名・大内義隆にも謁見した。が、珍しい異国の文物宝物を目にすることと「献上」されることを楽しみにしていた義隆の期待と裏腹に、一行は珍奇とはいえ質素な身なりで献上品の一つもないという結果が失望と無礼に値するという不満を抱かせ、加えてこともあろうか、「男色を罪とするキリスト教の教え」が、「豪傑」義隆の怒りを大いに買ってしまったのだった。さすがの豪傑らしい逸話である。
一行は和暦十月二十九日に山口を発ち、目的の京都へと向かった。途中、堺の豪商・日比屋了珪の知遇を得て、その支援により、翌十一月、念願の京に到着。了珪の紹介で小西隆佐の歓待を受けた。そして全国での宣教の許可を得るため、後奈良天皇および室町将軍への拝謁を請願。しかしこのたびもまた、長旅で身なりは薄汚れ、献上の品もなかったため、また政情も不安定で将軍は京に不在、その念願は叶わなかった。ザビエルは失意のうちに、翌天文二十年(一五五一)二月、山口を経て、平戸に戻っていった。二度目の山口来訪である。
ザビエルは、平戸に置き残していた宝物の数々を携えて三度目の山口来訪を行い、二月下旬、大内義隆に再謁見の機会を得た。これまでの苦い経験に学び、日本の風習では貴人との会見時には威儀を正した服装と献上品が重視されることを知ったザビエルは、本来質素な黒い長衣の修道服を着るべきイエズス会修道士としての会則を敢えて破り、ポルトガル来航船の豪商から借りたルネサンス貴族のような最上等の洋服で一行を装い、天皇に捧呈しようと用意していたポルトガル王国インド総督とゴア大司教の親書の他、小銃、置時計、眼鏡、洋書、洋画など珍しい文物を義隆に献上した。
これに喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、当時廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた。これが日本最初の常設の教会堂である。ザビエルはこの大道寺で熱心に説教を行った。
八 伴天連との出会い
前年の伴天連来訪を目撃して感激を覚えた宇治丸と広は、二度目の来訪も懲りずに眺めに行き、三度目の来訪で伴天連一行が晴れて大名の許可を得て山口に長期滞在することが叶ったと知るや、此度こそはと思いきって連れ立った。数え十三歳の時であった。
「当分大道寺留め置きだって。今度こそしっかり間近に拝みに行きましょ!」
「うん。今度こそ! 口実は僕がうまいこと伝えておいたから」
荒れ寺となっていた大道寺は、今や南蛮寺・天主堂として立派に補修され、梁には異国の文字の額、屋根の破風には十文字形の飾りが掲げてあり、大勢の人々が集っていた。が、伴天連は洋装ながら質素な修道服、日本人のキリシタンは首に提げた十字架以外は全く僧侶の姿をしており、期待したほどの異国情緒は見られなかった。
二人はその末席に着いて、会衆と伴天連が語り合う問答に耳をこらした。
「天主様の坐す神の御国とは、いずこに在るのでござりましょう。伴天連様方の出でて来られたというはるか西の海の彼方のふるさとには、極楽浄土がまことに在るのでござりましょうか」
伴天連の前に座り込んで、熱心に問いを発し、その答えに聞き入る僧形の男がいた。うつろな眼と視点の定まらないしぐさ、持ち物と身なりから、琵琶法師と分かった。琵琶法師には目の不自由な者がなる、というのは通例である。
「我々のふるさとは、西方極楽浄土などではありませぬ。神の御国とは、何処に在る、其処に在る、というものではありませぬ。神の御国は、我々、そなた方、全ての人のうちにこそ在るのです」
一人の伴天連は、二年間の日本滞在の間に、日本語をそつなく話せるようになっていた。少し訛りはあるものの、その博覧強記ぶりが伺われる。
「それでは、我々も今すぐに、その恵み深き神の御国を垣間見て、天主様のみ恵みに与ることができるのでしょうか」
「救い主なる現人神・耶蘇様(イエス・キリスト)と結ばれ、そのみ教えを受け入れ、その行いに倣い、その命の光を一身に受ければ、この身は耶蘇様の復活の命に与り、日ごとに新たにされてゆく――そこにこそ、全て時と空間を超えて、神の御国は顕現するのです。御父・御子・聖霊の三位一体なる天主様は全宇宙を創り給うた方、耶蘇様もまた父なる神と一体なる御子にして主なる神。そのみ恵みは、全て生きとし生ける者、森羅万象に至るまで、あらゆる処にあまねく注がれています。太初にありし如く、今も何時も世々に――」
最後の一句とともに、伴天連は指先で胸元に十文字の形を切り、天窓から差し入る光を見上げて念じた。
「で、ではどうか今ここに、その顕現をお見せくださりませ。我々は日々苦しみ、み救いを待ち望んでおります……私めのごとき目の見えぬ者でも、尊きみ姿を拝することが出来るのでござりましょうか」
琵琶法師もまた、差し入る光を手探りするように首を上げた。
「目の見えぬ者は幸いです。この世の虚しくも衆目を囚われにする美に目眩ますことなく、まことに美しく尊き、見えざる天の賜物に目を開くことができるからです」
伴天連は優しく、琵琶法師の手を取り、額から目元にかけて手をかざした。
「日曜日の巳の刻(午前十時)、ミサという聖なる祭儀を行います。その中で献げる聖餅と聖葡萄酒が、先ほど読み上げた聖福音経の通り、耶蘇様が尊き十字架の死に引き渡され給うた前の晩、弟子たちに仰せになった如く、聖霊によって耶蘇様の尊き御体と御血になります。そこに、死より復活し、死を以て死を滅ぼし、世々に生き統べたもう耶蘇様が、全てを超えて臨在せられ給い、全てを超えて我々と交わり、神の御国の窓が顕現するのです」
「あな畏れ多きことかな……かくのごとき聖なる祭儀に、私めのような下賤の者でも与ることができるのでござりましょうか」
「貧しき者、苦しむ者は幸いです。その人は満たされ、癒やされます。父なる天主様はそのような『小さき者』のためにこそ、御子耶蘇様を世に遣わし給うたのです」
「伴天連様……!」
琵琶法師は、半開きの虚ろな眼から涙を流した。探りゆらぐ琵琶法師の手のひらを、伴天連は慈しみ深く握りしめた。
この問答と光景を見聞きして、宇治丸と広も幼心にも強く心打たれ、澄んだ目を潤ませた。
散会際、無心になって最後まで残っている二人に、先程の一人の伴天連が声を掛けた。
「今日はようこそ。お二人は武家のご子息ですかな?」
「はい、あっ、いえ。大宮家という公家の元に養われている身です」
「そうか公家ですか。では学問にも励んでおいでのことでしょう」
「はい、実は神道の勉強を。僕の実の父は京の陰陽師――天文学者、らしいのですが」
「ほう、天文学の家柄ですか。それは素晴らしい。しばしお時間はありますかな?」
「あ、はい。少しくらいなら大丈夫です」
「天文学」という宇治丸の一言を聞いて、伴天連は興味を示し、奥の司祭館に二人を案内した。
「これは天球儀、天体の巡りを模式化した道具です。東洋にも確か似たものがありましたな。しかし、こちら東洋では星座が西洋とはだいぶん異なるようですな」
「渾天儀とよく似ていますね! はい、日本にも似たものがあります」
寺の住坊を改装した司祭館は少しばかり洋風の設えで、珍しい舶来の品々があった。期待していた異国情緒を目にして、二人は興味津々、目を輝かせた。
「そして一番お見せしたかったもの、これは地球儀。地を象って球に全地上の陸と海を記したものです。全ての大地は、一つの球のもとに繋がっているのです」
「わあ、それは初耳です! 地は球の形をしているのですか……!」
「左様。太陽や月と同じく、夜空に輝く千々の星々も、みな大小の球。地球もまた、大宇宙にあっては一つの小さな星に過ぎず、太陽の回りを水星・金星・火星・木星・土星と同じように周回しているのです」
地球儀は、二人にとって最も興味をそそられ、また驚きの事実を示す品だった。
「地球もまた一つの小さな星……それぞれの星にも人は住んでいるのでしょうか? そう考えると、この地上の人間というものは、なんだかとてもちっぽけな、塵砂粒にも満たないような者に思えてきますね……」
「地球以外の星に生き物がいるか否か、それは分かりませぬ。しかし、我々の知る限り、天主様はこの地球と我々人間を深く慈しんでおられる。人間一人一人、そして天地の全てのものは、天主様が大いなる慈しみを込め、『善し』と仰せになって創られ、命を分け与えられた、『神の似姿』。主の御目には、誰一人、何一つとして、価値なきものは在らぬのです」
「命を分け与えられられた、神の似姿……」
二人は改めて地球儀を見つめつつ、伴天連の言葉を反芻した。
「ね、宇治丸、感動したね……」
「うん、感動した……」
「あの琵琶法師のおじさん、救われるといいね……」
「うん、救われるよ……きっとね」
帰り道、二人は五月晴れの夕日の中、並んで道を歩きながら、固く手を握り合った。
この琵琶法師は、ほどなく洗礼を受け、「キリシタン」となった。後にイエズス会の強力な宣教師となった「ロレンソ了斎」(一五二六~一五九二)。そして、宇治丸と広の相手をした伴天連が、のちに二人を窮地から救い出す恩人となった、コスメ・デ・トーレス司祭(一五一〇~一五七〇)である。
山口での宣教は成功し、約五百人もの信徒を獲得した。ザビエルは大道寺を与えられて宣教を始めてから約二ヵ月間の宣教活動が過ぎた和暦七月頃、豊後国の中央都市・府内(現・大分市)にポルトガル船が来着したとの話を聞きつけ、山口での宣教をトーレス司祭に託し、豊後府内へ向かった。そこでも、守護大名・大友義鎮に迎えられ、その保護を受けて大々的に宣教を行った。この時の大名が、後にキリシタン大名として知られる大友宗麟である。
・ザビエルが山口大道寺にて布教し、ロレンソ了斎がその際に入信したことは史実。その他の描写は架空。
・「神の御国とは、何処に在る、其処に在る…」――ルカによる福音書17章21。
九 非業の養子
こうして山口ではザビエル再来で平和な時が流れていた頃、京の都は未だ政情不安定、そしてまた勘解由小路家を巻き込んだ一動乱が起こっていた。
時は遡って、勘解由小路在富が京へ戻った翌年の天文八年(一五三九)、ちょうど宇治丸が生まれた年のこと。在富の弟・賀茂在康の息子で、在富にとっては甥にあたる数え十九歳の在種(一五二一~一五五一)が、在富の養子として迎え入れられた。天文法華の乱に巻き込まれて父を亡くし、一時は路頭に迷った末に、在富の妻・木根子の計らいで、吉田神社脇手の空き家を譲り受けた勘解由小路家新邸宅に引き取られた青年であった。
在富としては、山口にて別れた大宮佐井子に宿された自らの子が気がかりだったが、それは表沙汰にはできぬ秘められた話であり、手紙も交わせる状況ではない。産まれたのは男児か女児か、はたまた死産やも分からぬうえに、いくら平和な西の都山口とはいえ、乳飲み子が青年まで育つ保証はどこにもなく、夭折が日常茶飯事であった時代である。一か八かの落とし子に賭けるのは無謀なことだ。
自らも寄る年波は五十歳、しかも京を離れている間に縁組の談はほぼ固まっていたとあって、在富は秘めた想いを押し殺して、この甥・在種との養子縁組談を呑んだ。
時戻って、その十二年後の天文二十年(一五五一)、ちょうどザビエル一行が三度目の山口入りを果たして大道寺にて布教を始めていた、和暦三月のことである。
この頃、細川晴元・三好政勝らに担がれたまだ幼い将軍足利義藤(一五四六~一五六五・後に義輝と改名)は、これと対立する三好長慶によって、京都から比叡山を隔てた近江国(滋賀)堅田に追放され、幕府界隈には強い緊張関係が生じていた。
そんな中、三月七日、十四日の二日にわたって、京都洛中で将軍の留守を預かる幕府政所執事・伊勢貞孝の邸宅に会見中であった三好長慶に対し、将軍方の刺客による暗殺未遂事件が発生した。一回目の犯人は挙動不審な態度からすぐに逮捕・処刑され、二回目は長慶に手傷を負わせたが失敗して、刺客・進士賢光は即座に自害した。さらに翌十五日には、これに乗じて将軍方の三好政勝と香西元成が三好長慶本拠地丹波宇津に侵入するという動乱が起こった。
在種は、この暗殺未遂事件に図らずも関わってしまったのだった。
在種としては、勘解由小路家の復興に少しでも役に立ちたいという一心で引き受けた仕事だった。しかも、まさかこのような物騒な事件になるとは知らなかった。ただ、とある知り合いの武士に呼び出され、伊勢貞孝邸付近や洛中の近況と、今月の「日柄」を訊ねられて答え、守秘命令とともにわずかな謝礼を受け取っただけであった。
しかし、事が起きると暗殺計画への関与を疑われ、義父在富ともども三好方の尋問を受け、あわや懲らしめ寸前という一大事になってしまったのだ。在富は痛く肝を冷やし面目丸つぶれとなったが、在種本人こそが、誰よりも心外のあまり啞然とした。
三月十四日の晩、雨の中を呆然と勘解由小路邸に戻ってきた在種を待ち受けていたのは、怒髪天を衝くばかりに怒り打ち震える義父在富だった。在種はおののきのあまり、何も言葉が出なかった。
在富は戦慄する拳で杖を握り絞め、六十二歳の老体を力の限り振り絞り、地も鳴る勢いで在種の顔面を打ち据えた。在種は抵抗なく打ち飛ばされ、雨濡れた門前の石段に背中から倒れこみ、数段転げ落ちた下の地面で仰向けに横たわったまま小さく震え悶えた。在富はそれを放って、息を荒らげながら屋敷の奥へ戻っていった。
「殿、さすがに堪忍して給わりませ……」
「構わぬ、放っておけ。一晩くらい頭冷やせばよい。なに、死にはせぬ」
在富は家人の心配をはねのけ、
「手助けなどしたらお前たちも容赦せぬぞ」
と強く命じた。雨音が強まる夜であった。
在富としては目一杯の仕置きのつもりであった――のだが、不運なるかな、よほど打ち所が悪かったのだろう。明くる朝、在種は濡れねずみで、昨晩のまま門前の石段下に倒れていた――息を失い、冷たくなって。
「在種、在種よ! すまぬ……起き上がれ、在種!」
顔面蒼白で「それ」を揺さぶる在富。しかし、明らかに手遅れであった。
かくして、勘解由小路家を嗣ぐはずであった養子在種は、三十一歳の若さで、伯父にして義父である在富の手により「横死」という、非業の最期を遂げた。貴重な跡取りを、ほんのふとした出来事から、在富は水泡に帰してしまったのであった。
・在種は実在の人物。その父在康が天文法華の乱で没したという点は架空。
・勘解由小路家の新邸が吉田神社脇という点は架空。
・在種が義父・在富の手により「横死」したという点は史実。在種の生年は十年早く設定。細かい顚末と描写は架空。詳細は第一部末コラム参照。
十 山口大乱
「平和な山口」とたびたび語ってきたが、その「平和」とは、実は砂上の楼閣のようなもの――「平和ぼけ」と言ってしまってもよいようなものであった。
天文十一年(一五四二)に大軍を率いて出雲国(島根県東部)の大名・尼子氏への遠征に挑んだ大内義隆だが、翌年二月に大内軍は総崩れとなり、大敗を期して帰還した。大内領内、山口近隣の村里は、負傷兵や帰らぬ人の遺族となった者らの嘆きが各地でとどろいた。
一方で義隆は、出雲での大敗から極端なまでに厭戦的になり、出雲遠征を主導した陶隆房ら武功派を労うどころか遠ざけ、文治派の寵臣・相良武任に政務を一任した。そして自らは、居館の奥手にこもって芸事や茶会などの道楽に没頭し、公家のような生活を送るようになり、領国の治政さえ顧みなくなってしまった。さらには敗け戦で負った多額の損失を埋め合わせるため、年貢の増徴を行った。ただでさえ嘆きに暮れる領民は、重い徴税でさらに苦しんだ。
かつての豪傑は、今やすっかり愚将に成り下がってしまったのだ。そして、大内領政の主導権を巡って、武功派の陶隆房・内藤興盛らは文治派の相良武任を敵対視するようになり、山口に不穏な影が落とされていった。
天文十九年(一五五〇)になると、相良武任と陶隆房との対立が決定的となり、武任の暗殺が謀られたが、事前に察知した武任は義隆に密告して難を逃れた。しかしこの頃から、隆房が謀叛を起こすという噂が大内領内の各地で流れるようになった。
そして、その時は来た。時あたかもザビエルが豊後へ旅立ってほどなくの天文二十年(一五五一)八月二十日、陶隆房は内藤興盛らと共に挙兵。まずは大内領の東の要衝、安芸国の厳島(宮島)とその対岸の桜尾城を落とし、山陽道を制圧した。
この明らかな謀叛の挙に対して、義隆の態度は何とも悠長なものであった。二十三日には豊後大友氏からの使者を接待する酒宴を続けており、運命の日の前日・二十七日に至っても能の興行などに耽っていた。
「運命の日」八月二十八日。陶隆房率いる叛乱軍は東方二方向から、すっかり平和ぼけに耽っている山口の街に、破竹の勢いで侵攻した。「陶隆房軍山口へ向け進攻・防御隊壊滅寸前」の報が届いてようやく危機感を覚えた義隆は、大内氏館・築山館を出て、高嶺山麓の谷間にある法泉寺に退いた。義隆に味方した家臣はわずかで、兵力も二、三千人ほどしか集まらなかった。
継室のおさいの方こと大宮佐井子は、山口の北東側・宮野の妙喜寺に逃れた。これを聞いた大宮伊治は、娘を追って山口宮野へ向かって屋敷を飛び出た。
「殿、宮野の方は敵方の本隊がおります……危のうござります」
「なるものか、おさいはわしが命を懸けてでも守る! 命を捨てる覚悟がある者のみ、共に従うがよいぞ!」
宇治丸ももちろん、物心ついてからほとんど顔を合わせたこともないとはいえ、実母の身柄が気になった。また何より、祖父にして養父である伊治に従う心積もりだった。
まだ見ぬ父の別れ形見として渡されていた、暦道の書と式盤をしかと懐に抱き、大宮家の一同とともに走り出した。しかし――
「痛っ……!」
逃げ道の道中で、広が躓き転んでしまったのだった。
「広! 大丈夫!?」
「ええ、これくらい平気よ……っ、いたた……」
先陣を切る伊治と、我先に逃げ走る家人たちは、振り返り気づくこともなくわずかな間に走り去って行き、宇治丸と広の二人は取り残されてしまった。
(どうしよう……八幡様、神明様、天主様……あっ!)
走り行き交う街の大路で、一心に祈っていた宇治丸は、ふと思い立った。
「広、大道寺なら近いよ! 負ぶさって!」
「ちょっと……おじ上様とおさい様はいいの?」
「大丈夫、祖父上様ならきっとなんとかなるよ。それより今は、僕たちが無事逃げることが一番大事だ!」
「……分かった、宇治丸を信じるわ。肩を貸してくれるだけで平気、自分で走れるから」
「僕じゃなくて、天神地祇と……天主様を信じてみよう!」
片足をやや引きずった広の肩を組んで、宇治丸は「南蛮寺」大道寺を目指して走った。
大道寺の近くまで来たところで、伴天連とそれに続いて脱出を試みる信徒たちの一行が見えた。
「伴天連様! どうかお助けを……!」
「おお、君は京の天文学者の……」
山口を任されていた伴天連・トーレス司祭は、二人の顔をしかと覚えていてくれた。
「ジョアン、薬箱を!」
「へいさ! 君ら大丈夫かい?」
同い年くらいのキリシタンの少年が同行しており、薬箱とともに医者を呼んできた。すぐに広の応急処置を施し、共に海の方へ向かう道を急いだ。
「広、大丈夫?」
「ええ、お陰でだいぶん楽になったわ。それより、大宮のおじ上様は……」
「大丈夫、きっと大丈夫だよ。それよりも、広の母君・広徳院御新造様が心配だね……」
「お母上、なのかな……一度も会ったこと無いけど、そうね、きっと大丈夫よ」
「うん、大丈夫だね、きっと……」
後ろ髪引かれる思いの広をなだめつつ、宇治丸は何よりも自分にそう言い聞かせ奮い立たせた。
「君ら公家の子なんだって? おいらは案じるものなんてなんもねぇから、平気さ」
「そうか、独り身なのか……気の毒に」
「お気の毒ね……」
ジョアン少年と道すがら語り合う宇治丸と広。途中何度か軍の詰問を受けたが、遊行僧とそれに従う衆徒であると説明して難を逃れた。宇治丸と広も、偽装のため装束を背袋にしまって僧衣をまとった。
「なぁに、庶民なんてなぁみんな大概そういうもんさ。それより、君らこそ気の毒だな……おやじさんとおふくろさん、無事だといいんだが」
「心配ね……天主様……」
「そうさ、俺らには天主様がついておられる。きっと大丈夫さ!」
「そうだね。天主様のお助けがあって、僕らこうして生き延びられたんだ」
この「キリシタン」の群れにあっては、生まれの身分は関係なく、みな家族なのだ、と伴天連が言っていたとおり、三人もすぐに打ち解けて話す仲となった。
「了斎殿も、くれぐれもお気をつけて……お手を」
「おお、かたじけのうござります。声と杖で大体はわかるのじゃが、段差があると危のうて……」
一行の中には、かつての琵琶法師・ロレンソ了斎もいた。彼とも二人は打ち解けた旅仲間となった。
「これは私めの私見にござりますが――真言密教では大日如来こそが本初にして普遍万有の宇宙の真理であり、釈尊もまた人間としてこの世に生まれ給うたのは一刹那なれど、その本性は釈迦如来として大日如来と本性一体にして久遠なる存在、と説きます。父なる神は大日如来、子なる神は釈迦如来に喩えられましょう。しかして聖霊なる神は、仏の慈悲の象徴にして永遠なる命の源たる阿弥陀如来に喩えられましょう」
彼はさすがは元琵琶法師、説法がうまく、卑近なたとえ話から、キリスト教と仏教教理との類似性など高度な話まで、日本人に分かりやすい巧みな講話で道中の一行を飽きさせず、かえって励まし元気づけた。
こうして五時間ほどの道のりを歩き通し、晩には無事港町秋穂まで逃れ、翌朝にはザビエルの滞在する豊後府内へ向けて船出した。危機一髪、奇跡の脱出劇であった。
二十八日の夕刻頃には、叛乱軍はいともたやすく山口の中心部を制圧し、空となった大内氏館や周辺の近臣邸は火をかけられ、宝物を掠奪された。火の手は山口の街に燃え広がり、「平和」な砂上楼閣は一夜にして阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
京より下向していた公家も多数殺傷された。十三年前に在富と京へ戻る旅路を共にした持明院基規も、この時再び山口におり、手にかけられた。彼は特に、首を半分だけ斬られた生殺し状態で放置された末に事切れるという無惨な最期だった。義隆を取り巻いていた公家達は、謀叛を起こした武断派の憎悪を買っていたのだった。
そして、宇治丸の祖父にして広と二人の養父・大宮伊治も、二人と別れて宮野の娘の元へ向かった末、叛乱軍に捕まり、その手にかかって命を落とした。しかし、伊治の最期の嘆願が聞き届けられて、おさいの方こと大宮佐井子は助命された。命懸けで娘を守りきったのだ。
法泉寺の大内義隆軍は逃亡兵が相次ぎ、翌二十九日には山口を放棄し、山口から峠を越えて北西にあたる長門(山口県北部)の港町・仙崎に逃れた。ここから海路で、縁戚に当たる石見国(島根県西部)の大名・吉見氏を頼って脱出を図ったが、嵐のために逃れることはできなかった。仙崎に引き返した義隆らは、そこから少し山手に入った長門深川の大寧寺に籠城したが、四方を追手に囲まれてしまった。命運尽きた義隆は、翌九月一日(この年の和暦八月は「小月」で、二十九日が晦日であった)に大寧寺で自害した。さらに翌日には捕らえられていた義隆の子にして、佐井子の第二子・宇治丸にとって異父弟、広にとっては異母弟にあたる、わずか七歳の大内義尊も殺害された。
大寧寺まで逃れた義隆勢はわずかであったが、その中には共に逃れた公家衆もいた。元関白にして当代関白の父・二条尹房とその次男良豊、前左大臣三条公頼は、長門大寧寺まで逃れたが、義隆と運命を共にした。摂関家という最高位の公卿まで遠く西国の山村であえなく討ち殺される、まさに乱世「戦国」の世の無情さを象徴する事件であった。
これが世に云う「大寧寺の変」の顚末。山口大内氏三代の栄華は、わずか三日にして夢の過ぎ去るように潰えた。三代目義隆の晩年はまさに砂上楼閣であり、それは蜃気楼のように儚くも砂へと帰ったのだった。助命された義隆の妻にして、宇治丸の母・大宮佐井子と、広の母・広徳院御新造こと広橋光子は、その後山口で尼となり、日夜戦没者の弔いに勤めた。
・山口大乱の顚末はほぼ史実。
・大宮伊治は、史実では山口湯田縄手路にて殺害死。
・宇治丸と広の脱出エピソードは架空。
・ジョアン・デ・トーレスという少年が山口から豊後府内へ救出されたという記録があり。
十一 十字架を負った少女
天文二十年(一五五一)九月頭、豊後府内のザビエルに与えられた天徳寺・天主堂に到着して、ほっと肩を撫で下ろしたトーレス一行であったが、山口大乱の顚末を知らされた宇治丸と広は啞然とした。
「おじ上様も、お父様も、亀童丸も、持明院様も、二条様も、みんな死んでしまったのね……みんな……」
特に、広の心的外傷は病的なまでにひどかった。日夜涙をこぼし、その涙も枯れて目の輝きを無くしてしまった。
「祖父上様の最期は立派だったそうだよ……自らの命を犠牲にして、おさい様――母上の命を守った、って……」
「そんな、そんなの嫌よ……! どうしてこんなことに……私が転んだりしなければ……」
実の母方祖父を亡くして誰よりも辛いであろう宇治丸も、必死に広を慰めるが、それは耳にこそ入っても、心の奥のとげまで取り去ることは容易ではなかった。
物蔭からその様子をじっと見ていたジョアンは、ザビエルとの会見が終わって司祭館から出てくるのを待って、トーレス司祭を二人の元へ連れてきた。
「この度はまことにお気の毒に……心中お察しします」
「トーレス伴天連様……伴天連様、うぐっ……」
広はなりふり構わずトーレスの膝元にしがみついて泣き噎いだ。
「人は霊を支配できぬ。霊を押しとどめることはできぬ。死の日を支配することもできぬ。何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時があります。生まれる時、死ぬ時、植える時、刈り入れる時。愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時があるのです」
トーレスは、広を抱き上げると、慈しみ深い目を注ぎ、続けた。
「天主様は全てを時宜に適うように造り給うた。そのみ業は皆その時に適って美しい――また、主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。その者の労苦は憩いとなり、その行いは永遠に報われるでしょう」
「伴天連様……」
広は伏せっていた顔をようやく上げると、涙を一杯に湛えた眼で、トーレスのまなざしをじっと見つめ返した。
「我は蘇りなり、命なり。我を信ずる者は、死してなお生くるなり――と、耶蘇様は仰せになりました。どうでしょう、広殿。このみ言葉を信じてみませぬか?」
広は拭ってもなお涙に潤った目で、トーレスをしかと見つめて、手のひらを取って握りしめ、頷いた。
「お慰め、まことにありがたく……はい、今直ちにとは参りませぬが、み言葉をしかと心に留め、信じてみます……!」
トーレスは慈しみ深い微笑みをたたえて、広の手を握りかえした。
「『“Emmanuel”――主我らと共に坐す』。この言葉を、どうか忘れないでくだされ。慈しみ深き主の平安が、いついかなる時も、常に我らと共に在らんことを――Dominus vobiscum, 主汝らと共に坐す」
胸元で十字を切るトーレスに続き、広と宇治丸は辿々しい手つきで、そして蔭のジョアンも手慣れた手つきで、みな自らの胸元に十字を切った。
「主我らと共に坐す――」
宇治丸も、トーレス司祭の言葉を反芻した。
「Requiem aeternam dona eis, Domine, et lux perpetua luceat eis. ――主よ、とこしえの安息を彼らに与え、絶えざるみ光もて照らしたまえ――」
山口大乱のひと月後、死者を弔う鎮魂祭の中で、広は洗礼の儀を受けて、キリシタンとなった。
「神に愛されし娘カタリナ・ヒロよ。父と、子と、聖霊の御名によって、今汝に聖なる洗礼を授く――」
洗礼名は「カタリナ」。古代エジプトの聖女で、高官の娘に生まれ高い学識を持ちながら、全ての誉れで自分を超える男でなければ結婚しないと宣言。その後隠修士の導きでキリストの教えに入り、数々の迫害と計り知れない責め苦の末に殉教するが、夢の中で聖母マリアの導きによって耶蘇=イエス・キリストと婚約したという人物である。そこから名を授かった。
「トーレス伴天連様……キリシタンとなった暁には、日本の神仏を拝んではならないのでしょうか?」
広の洗礼式が済んでのち、宇治丸はかねがね思っていた一つの疑問を訊ねた。
「天主様こそがあらゆるものをはるかに超えた万有の主である、という理を忘れさえしなければ、寺社に詣ろうとも、神事・法要に参祷しようとも、主の御心に違うことはありませぬ。主は人の行いの形よりも、まことの心こそをご覧になります。つまるところは、それぞれの者の心の置き所次第です」
「そうですか、ほっとしました。僕達二人とも神社に生まれ、幼い頃から神道を学んできた身ゆえ……ことに、僕は陰陽師の子、京にて跡取りとならねばならぬやも知れぬ身ゆえ……」
慈しみ深く答えるトーレスの言葉に安堵しつつ、宇治丸は天主の助けに与りながら、広を残して自らは洗礼を受けられないという後ろめたさを告白した。
「風は思いのままに吹く。その音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを人は知らぬ。今はまだ時が満ちていないのでしょう。もしも、いずれの日にか再び天主様のお導きがあったなら、また戸惑うことなくおいでなさい」
「はい、いつの日にかきっと……!」
宇治丸は、今こそ京へ戻って父の跡嗣ぎとして対面すべき時であると考え、洗礼は見送った。そして、京への海の窓口・堺の港へと行く船の手配を伴天連に依頼した。広もこれに同行を決意した。
トーレスの言葉を聞いて安堵した宇治丸と広は、宇治丸の生まれの地にして二人の学業の場であった山口今八幡宮を思い起こしつつ、最後に豊後府内の鎮守社・若宮八幡社に詣で――
「これに坐す八幡大明神の御前に畏み畏みも白さく、この度は天主様と共に、広き篤き恩頼を給わりし事をかたじけなみまつり……」
それからほどなく、港へ向かって船出の仕度に着いた。
「宇治丸殿、この本はそなたに差し上げましょう」
トーレスは、一冊の洋書を宇治丸に渡した。それはきれいな活版で印刷され、図解がたくさん入った、天文学の初歩的解説書であり、洋書ながら日本人通訳が書き込んだであろうたくさんの和文の註解が入っていて、宇治丸にも十分読めるものであった。
「これは……ありがとうござります、大切に拝読いたします!」
「立派な天文学者になるのですぞ」
「はい、精進いたします!」
「広殿も、今度は宇治丸殿のために日々祈り、たとえキリシタンの集いから離れていようとも、いかなる困難があろうとも、主のみ恵みとお導きを感謝し信じて依り頼み、共に助け合うのですぞ」
「はい、慎んでお言葉心に留め――天主様のみ助けによりて精一杯努めます!」
宇治丸と広はトーレス司祭と固く握手を交わすと、船に乗り込んだ。
「宇治丸、広、達者でな!」
「不肖了斎の夢は、ザビエル伴天連様が果たせなかった再度の上洛と宣教公認を果たすことにござります。その折には何卒私めを思い出してくださりませ」
「旅路に主の導きと平安の豊かにあらんことを――主、汝らと共に坐す」
「また、汝の霊と共に坐す――カタリナ広、行ってまいります!」
「まことにありがとうござりました! 宇治丸行ってまいります。皆様も御達者で!」
かくして、ちょうど豊後から一路堺へ向かう大型貿易船に便乗を許され、トーレス、ジョアン、了斎らに見送られつつ、豊後府内の港を旅立っていった。
・本章は架空。
・「人は霊を支配できぬ…~全てを時宜に適うように…」――コヘレトの言葉8章8/3章1~2、11。
・「主の慈しみに生きる人の死は…」――詩編116編5/ヨハネの黙示録14章13。
・「我は蘇りなり、命なり…」――ヨハネによる福音書11章25。
・「Requiem aeternam」――死者のためのミサ「レクイエム」入祭唱。
・「風は思いのままに吹く…」――ヨハネによる福音書3章8。
・「主、汝らと共に坐す/また、汝の霊と共に坐す」――ミサ中の司祭と信徒の応答。
十二 上洛・父との対面
豊後から瀬戸内の海路をはるばる越えて、宇治丸と広は遠く堺の港に着いた。
「わあ、とっても大きくて立派な街ね!」
「そうだね、山口の街が顔負けするほどに大きな街!」
当時、堺は京へ向かう要衝の港町として、自治都市の体を為し、荒廃した京の都に代わって大いに栄えていた。
「これはこれは、ようこそおいでくださいました。先年ザビエル殿の上洛の折にもお供仕りました者でござります」
「どうも、初めまして。賀茂宇治丸と高嶺広にござります。こちらこそお世話になります」
二人は、ザビエルも世話になった堺の豪商・日比屋了珪に出迎えられ、堺の街でひと月ほどを過ごしたのち、いよいよ京の都へ向かった。
「天下の京の都とはいっても、ずいぶん荒れた街だなぁ……」
「広さはともかく、山口のほうがよっぽど綺麗な街だったわね……」
相次ぐ動乱と疫病の流行などで、京の都・ことに庶民の住む下京はすっかり荒れ果て、半壊した廃屋と病や飢えにあえぐ人々、そして大路小路には物乞いやごろつきなどがたむろするばかりであった。すでに季節は冬となり、冷たく吹き付け砂煙を巻き上げる木枯らしが、街の寒々しさをいっそう引き立てていた。
上京に至るとそれもいくぶん解消したが、立派な建物は物々しい警備に囲まれた武家屋敷ばかり。公家屋敷は構えこそ大きくても、屋根の檜皮の葺き替えもままならず、苔むしたままに軒を連ねていた。そして、飢えた物乞いや浮浪者を警護の武士たちが非情にも蹴散らす姿が見られた。
了珪が付けてくれた部下の隊商も、寄ってくる物乞いを鞭で追い払ってゆく。宇治丸と広は心苦しかったが、自分達の身の安全を守ってくれているのだ、仕方ないと諦め、目を背けた。
「このあたりまで来ればもう安心でしょう。それでは私めは、商談がござりますので、こちらにて」
「はい、遠路ありがとうござりました」
二人は上京の鴨川河辺・河原町荒神口付近で隊商と別れて、京の東の郊外・東山の吉田神社門前にあるという勘解由小路邸へと向かった。
身寄りの者が堺におり、これから京に遣わす――とだけ知らせを聞いていた勘解由小路在富だが、もしやと思い当たって、そわそわと到来を待ちわびていた。
吉田神社に到着した二人は、勘解由小路邸の場所を訊ねるべく境内にいた神主に話しかけた。
「これはこれは、勘解由小路殿の……来られたら便りを遣るよう承っておりますで、しばしお待ちを」
神主は下人を遣わした。しばらくすると、下人は急ぎ足で戻ってきて、その後ろから狩衣烏帽子姿の老人が現れた。二人もその方へ駆け寄っていった。
「勘解由小路殿にござります」
神主と下人は、それを見届けて去った。
「それがし宇治丸と申す者にござります。こちらは広。山口より馳せ参じてまいりました。ご無礼ながら、勘解由小路在富殿にござりますか?」
「左様。知らせは聞いておるが、そなたは――」
思い当たる年頃と場所の少年少女であることを見て、声を震わせながら訊ねる在富。そこで宇治丸は、大切に懐に持ってきた袱紗をその場でひもとき、暦道の書と式盤を取り出した。
「おお、これは……そなた、大宮佐井子の子か……我が息子なのか!」
「左様にござります……お父上、お会いしとうござりました!」
打ち震える手を恐る恐る伸ばして、在富は書と式盤を受け取り、それを確かめるとその場に思わず投げ落として、宇治丸の手をしかと握った。時に在富六十二歳、宇治丸と広は数え十三歳であった。
しばし我を忘れて見つめ合ったのち、宇治丸は気を取り直し、後ろの広を紹介した。
「そして、こちらは広橋光子殿と亡き大内殿の娘――八つの歳から、亡き大宮伊治殿の御邸宅にて共に育てられた幼馴染みにござります」
「おお、広橋殿と大内殿の……」
「初めてお目にかかります、広と申します」
在富は今度は広の顔をじっと眺めた。
「ああ、広橋光子殿によく似ておる……二人とも、よくぞ生き延びてやってきたのう」
「はい。まことに無念ながら、大内殿も大宮殿も……」
しばしの感嘆に浸っていた三人だが、在富が気まずそうに顔を背けた。
「急なことであったもので、済まぬが今すぐに屋敷へ迎えることはできぬ……そうじゃのう、山科殿なら何とかしてくださるやも知れぬ。手紙を持たせるで、しばし屋敷の外で待っておれ」
こう言って二人は勘解由小路邸の手前まで来ると留め置かれ、しばらくすると在富が手紙を持って戻ってきた。
「上京に山科言継殿という見知った公卿がおわす。道のりと殿への手紙をしたためたで、これを持って行くがよい。くれぐれも宜しくお伝え申し上げてくれ」
こうして在富は、そそくさと邸内に戻ってしまった。
「殿、いかがなされましたか」
「いや、小用じゃった。ところで、遠方に手紙を遣わす用が出来た。手配してくれ」
在富にとってはまたとない喜ばしき僥倖であったが、正室のいる手前、正式な対面は周到に行わなくてはならない。正室木根子は良家の育ちである分、気位が高い女房関白であった。言いつくろいの言葉をあれこれ考え巡らせたが、やはり喜びの心がふつふつと湧き上がってくる。義理の子をうっかりと撲殺してしまい、これでいよいよ跡取りがなくなってしまった、と落胆に暮れていたちょうどその時であるから、なおさらのことだ。
(宇治丸、と申したか……よくぞ育って戻ってきた、我がただ独りの息子よ――)
宇治丸と広は、在富の指示通り、上京へ戻ると山科邸を探し出し、恐る恐る門戸を叩いた。しかし、中級公卿の屋敷にしては呆気ないほどすぐに、屋敷の中へ通された。
そしてもう一つ驚きには、山科邸の内部は怪しい辻易者も顔負けするほど、そんじょそこいらに怪しげな護符・霊符の類や、干からびて吊された生薬、薬壺、薬研などが並んでいる。公卿の邸宅とは思えない、何とも胡散臭い屋敷であった。
「あや、これは愛らしい坊やとお嬢よのう。どうしたのかね、塗り薬か、飲み薬か?」
夕暮れ前から酒焼けた赤ら顔で出迎えた酔っぱらいの恵比寿顔、彼こそが山科言継四十三歳(一五〇七~一五七九)であった。
「いえ、突然でまことに恐れながら、しばしの宿をお借り申し上げたく……これを」
「ほう、勘解由小路殿の頼みとあってはやぶさかでない。どれどれ」
酔っぱらってふらつきながらも、在富から託された手紙をひもとき読む言継。そして、次第に酔いが覚めるように驚き顔になった。
「なんと……そなた、在富殿の落とし子とな!」
そして、がばっと立ち上がると二人に詰め寄り、まさに恵比寿の面のような満面の笑顔を浮かべ、二人の肩を抱いてもみくしゃに撫で回しつつ大声で笑い立てた。
「そしてお嬢は大内殿の遺児とな! ぬあっはっはっは、これはめでたい、今宵は宴じゃ! これ、ありったけの酒を持って参れ~!」
「ともかく気さくそうなお方で良かったね……」
「そうね……ちょっと心配だけども」
酒の銚子を踏ん付けて文字通り笑い転げながら床をばんばんと叩く言継に、二人はくすくすと微笑みを交わした。
・本章は架空。山科言継という人物とその人柄等は記録通り。
十三 認められぬ落とし子
こうして一時的に父・在富の知り合いであるひょうきん公卿・山科言継の邸宅に居候することになった宇治丸と広。言継は突然転がり込んできた二人を、我が子のように手厚くもてなしてくれた。在富との信頼関係の篤さが伺われる。この時の言継の妻(二番目の妻・継室にあたる)は、在富の末娘にして宇治丸の姉に当たる阿多子二十六歳であった。
言継はひょうきんなだけではなく、しっかりした学徳のある立派な公卿で、朝廷でも幕府筋からも信頼篤かった。また、実にお人好しで、趣味の薬学が高じて来る者来る者に薬を施し、貧しい者からは謝礼も受け取らず、上流階級から庶民に至るまで広く慕われていた。
二人も、言継に薬学を習いつつ、薬を求めてやってきた客の接待や看病に励んだ。しかし、在富からの連絡はなかなか来なかった。
ふた月ばかりが経ち、年が明け、松の内も明けた頃。ようやく山科邸宛に、在富からの手紙が届いた。二日後に装束を整えて勘解由小路邸へ来るように、とのことだった。
二人は山科言継から上等の公卿稚児装束を借りて、山科家の牛車に乗り、緊張を抑えつつ吉田山へ向かった。
「この童が殿の落とし子にござりますか」
やはり、在富の正室・木根子は、険しい態度であった。
「今まで黙っていて面目なかった……確かにわしの息子に相違ない」
「これが証拠の品にござります」
宇治丸は、確かに在富の筆跡で、山口下向から帰る直前の年月日と、大宮佐井子に我が子とこの品を託す旨を巻末に記した暦道指南書、そして式盤を見せた。
「これは確かにわしが山口で別れ形見として託したものじゃ。そして、山口に手紙を遣って問うた結果、先日大宮佐井子からも、確かに我が子であるとの返事があった」
「左様ですか。よくぞ先の合戦から逃れてまいりましたわね」
木根子の言葉は、二人の子供を労う口調ではなかった。そして、見定めるような目線で二人を眺めた。
「して、こちらのお嬢様が、大内殿の」
「は、はい。広と申します……」
鋭い視線を向けられて、広は肩をすくませつつ答えた。
「分かりました。殿も先頃在種を亡くして御傷心でしたから、さぞお喜びのことでしょう」
「ううむ……」
嫌味を込めた口調で語る木根子に、あの在富までもが肩をすくませた。
「しばらく考えさせてくださりまし。それまでは、山科殿も御厄介でしょうから、吉田神社で奉仕でもしておいでなされ。殿、それでよろしゅうおますか」
「そうじゃな……そちら山口でも吉田神道を学んでおったと聞く。足手まといにはなるまいな」
在富としても、二人が山科邸でちやほやされるよりは、吉田神社奉仕で境遇が多少厳しくなっても、将来跡取りとなった時に少しでも修学の経験があったほうがよかろう、また近くにおれば自ら教鞭を執る機会もあろうと考え、妻・木根子の提案を呑んだ。
「かしこまりました。非力ながら精一杯奉仕してまいります」
二人もこの裁断を承服し、山科邸に戻ると在富から預かった謝礼品を言継に渡し、心からの礼を告げた。
「神社奉仕か、心配じゃのう。せめてもう少し春温まってからでもよかろうに……辛くなったらいつでも戻ってきて良いのじゃぞ」
「ありがとうござります。大丈夫、神社奉仕なら慣れておりますから。長らく本当にお世話になりました」
戸口まで出てきて見送る言継を背に、二人は発っていった。
・本章は架空。在富の娘が山科言継の継室という点も架空。
十四 嗣子認定
吉田神社での住み込み修行は、厳しくもあったが、宇治丸と広にとって充実した時だった。なにせ、今まで学んできた吉田神道の総本家である。三十七歳になった神祇管領長上・吉田兼右も、若き日の山口下向では在富に世話になった恩義と、宇治丸にとっては義理の母方叔父にあたるという縁故もあって、熱心に二人に吉田神道の伝授を施した。そして、時に父・在富も訪れ、陰陽道の指南をつけた。
また、年頃に育つにつれて、二人は異性として意識しあい、恋い慕う仲となっていった。
しかし、嗣子、すなわち跡取り息子としての認定はなかなか得られなかった。木根子はあくまでも素性の明らかな京生まれ京育ちの公家の子を求め、親戚、姻戚、知古を巡り巡って養子の宛を必死に探した。が、裕福な上・中級公卿は格下で専門職の勘解由小路家に大事な子を遣ることをよしとせず、下級公家や地下家は養子に遣るような子をたくさん育てる余裕などなかった。賀茂氏嫡流は在種とその父在康が没して勘解由小路家だけとなっており、遠縁で奈良を拠点とする賀茂氏分流・幸徳井家もまた、貧困のため余分な子などいなかった。天文法華の乱を生き残ったもう一人の娘・日枝子が継室として嫁いだ先・安倍氏土御門家に至っては、ライバル関係である上に、都の乱を逃れて所領の若狭国(福井県西部)の山あいの片田舎・名田庄に長らく引きこもっており、京の朝廷に出仕することもなかった。
二人が吉田神社に預け入れられてから一年半ほどが経った天文二十二年(一五五三)九月、在富の正室・木根子は独断で山科言継に、その三男で数え七歳になる鶴松丸を養子に取ることを要請した。この子の母は在富の末娘・阿多子であり、在富にとって外孫、宇治丸にとっては甥にあたる。言継邸に世話になっていた時には、二人によくなついていた子だ。
さすがの言継にとっても、この要請は無茶振りであった。
「鶴松丸はまだ幼すぎて、跡取りには到底無茶な話、足手まといにさせてしまうだけでござりましょう……それに、実のお子・宇治丸殿もおいでにござります」
言継は鄭重に断りを入れた。我が子鶴松丸の身もさることながら、宇治丸の身の上を慮ってはもっともなことであった。
なお、この子は後に、橘氏末裔唯一の堂上公家であった薄家の養子として跡を嗣ぎ、薄諸光(一五四七~一五八五)となったが、豊臣秀吉の怒りを買って自害させられた。
ここに至って、木根子もついに根負けして、宇治丸を嗣子として勘解由小路家に迎え入れることを認めた。宇治丸も広も、持ち前の利発さを遺憾なく発揮して、砂が水を吸うようにもりもりと勉学・修行に励み、立派な陰陽師と巫女に育っていた。専門的家学を持つ下級公家にとっては、家の体面よりも実力が重視される。もはやこの二人をおいて他に跡取りはいない、体面に拘り続けては家の存亡にかかわる――と認めざるを得なかった。
年が明けた天文二十三年(一五五四)正月、宇治丸は数え十六歳にして正式に勘解由小路家の嗣子と認められ、元服の儀を執り行った。烏帽子親は山科言継。そして諱は在昌と名付けられた。賀茂在昌朝臣・勘解由小路在昌の公的誕生である。
そしてふた月の後、弥生の晴れ空の満開に華やぐ桜の元、在昌と広は祝言を挙げ、夫婦の仲となった。
「広――これからも、末永く、よろしく!」
「ええ、こちらこそ。末永くよろしくお願いします――在昌殿!」
・在富の妻が天文二十二年(一五五三)九月に山科言継の三男を養子にと要請したことは記録にあり。
時は戦国。乱世の最中にあって、西国周防国なる山口の街は「西の都」と称され、賑やかなひとときの栄華を極めていた。
山口に君臨する守護大名・大内氏は、義興(一四七七~一五二八)の代より京の都の朝廷と室町幕府中枢部に深く通じ、その気風は次代の義隆(一五〇七~一五五一)にも受け継がれた。相次ぐ動乱で荒廃した京の都からは数多くの公家達が山口へ落ち延び、西国の彼方にありながら雅やかな都振りが華開いた。また、西海に通ずる交通の要衝として、明や遠く東南アジアからの交易で舶来した豊かな文物が集積され、この街の栄華をさらに彩っていた。
天文十九年(一五五〇)和暦十月の或る日。木枯らし吹く晩秋の寒さにも怯まず賑わう山口の街の中心、その中でもひときわ、時ならず賑わう人だかりが出来ていた。
黒いビロードの衣に白いレースの衿袖、白肌の長身に鼻筋の通った彫りの深い顔立ち。その全く見慣れぬ姿の異国人の一団に、群衆たちは我先に人混みを掻き分け、一目拝むや刮目した。
「南蛮人来朝」と大きな驚きをもって噂されたこの異国人こそ、はるか西洋・ポルトガルから日本に初来航した伴天連(カトリック・イエズス会の修道司祭)、かのフランシスコ・ザビエル(フランシスコ・デ・シャヴィエル、一五〇六~一五五二)とその一行である。
「宇治丸、どこか見えるところないかしら」
「広、こっちだ。早く、いや気を付けて」
「大丈夫よ、これくらい平気なんだから」
群集の隅で、町家の脇手から板葺き屋根によじのぼる、少年と少女の姿があった。やんちゃ極まりない行動だが、身なりの悪いただの町小僧ではない。薄汚れながらも良家の子女らしく、整った装束と聡明な面立ちをした二人だ。
「よし。ほら、見えたぞ!」
「わあ……珍しい人達!」
「本当に珍しいなあ……!」
町家の屋根の上に立って、広場を見下ろす。幼い口からとっさに出た「珍しい」という言葉、その一言ではとても語り尽くせない感嘆に、二人は目を丸くして輝かせた。その「異国人」の姿は、多感な少年少女の目に、いかに新鮮な輝きをもって映ったことだろう。
「あいや、こんなところにおられた! なんて無茶なことを! おーい、広姫様、危のうござりますぞ!」
やや老けた男の叫び声に、少年と少女は慌てて振り向いた。
「今梯子を! これ、そこの者、どこぞに梯子はあらぬか!」
男が町人をどやして梯子を調達する間、二人は気まずそうに降り仕度をしつつ、見合って苦笑を交わした。
「僕が連れ出したのです。広……広姫様は悪うござりません」
「なんだこら、また宇治丸の仕業か! 全くこやつときたら」
すごすごと梯子を降りると、少女をかばうように男に向かって、神妙に、だが毅然と釈明する少年。そのやや後ろで、いたたまれなさそうに少年の横顔を見つめる少女。
「申し訳のうござります。広姫様も、危ない真似を申し訳のう」
「……」
「南蛮人来朝」の噂を聞いて、屋敷を抜け出して街へ見に行こうと言い出したのは自分である、と告白できる状況ではなかった。
「全く、この日の本にやってきて、殿君や公方様・天朝様の許しもなく、傍若無人に南蛮の異様なる宗門を辻で説くとは。実にけしからぬ、不遜極まりない輩共じゃ。世も末というものじゃわい。決して近づいてはならんぞ。広姫様も、慎まのうてはなりませぬぞ」
男――二人の住む屋敷に仕える家人は、この異国人たちの来航を快く思っていないようだった。二人とも公家の落人の屋敷で育てられ、神道を学ぶ身の上。その屋敷に仕える家人としては致し方ないことである。
身分上は、少女・広のほうが格上、他ならぬ山口領主大内義隆の庶子である。少年・宇治丸はといえば、一時期戦乱を逃れて山口に下った下級公家の庶子で、父は彼の出生を見届けることもなく京へ戻ってしまい、その後いわば広に仕える者として引き取られた身。
二人とも、庶子・いわゆる「落とし子」として実父母の元から離され、肩身狭く世の隅で育てられるという共通した身の上で、数え八つの歳から共に一つ屋根の下で育てられた同い年。当人同士は生まれの違いなど意に介さず、良き幼馴染みの間柄である。とはいえ、厳然たる身分の格差が公の場で二人の間を隔てていた。
二人の齢は数え十二歳。この宇治丸と呼ばれる少年が、のちのキリシタン陰陽師・賀茂在昌(一五三九~一五九九)である。
・在昌の生没年は生年を二十年遅く設定している。詳細は第一部末コラム。
・在昌が山口で生まれたというガスパル・ヴィレラの記録あり。
二 陰陽師、その地味な史実
いまだかつて一目たりとも顔合わせたことなき宇治丸の父、その名は勘解由小路在富(一四九〇~一五六五)。公家としては下級な部類の家柄ながら、二十五歳にして朝廷陰陽寮の長官「陰陽頭」に任ぜられ、宇治丸出生の三年前・山口下向時には上流公卿と肩を並べる従二位、先の物語の翌年・天文二十年(一五五一)には六十二歳で正二位まで昇りつめた、老練な陰陽師。在富の場合はあくまで長寿と長年の功労に報いた、「非参議」という実権のない名誉位階ではあるが、正二位とは本来の律令の官位では左右二大臣に相当する高い位階であり、家格からすれば稀代の大出世である。
賀茂氏勘解由小路家は、かの安倍晴明(九二一~一〇〇五)の師である賀茂忠行(八九〇~九七〇)・保憲(九一七~九七七)父子以来、朝廷の陰陽師を世襲してきた家柄。晴明の子孫・安倍氏は天文道、片の賀茂氏は暦道という、陰陽道の二本柱をそれぞれ家学としてきた、いわば陰陽道の二大家元の一つである。室町時代になると、安倍氏嫡流は土御門家、賀茂氏嫡流は勘解由小路家を苗字として名乗るようになった。
なお、陰陽道賀茂氏の出自はいささか不確かながら、山城国(京都)の上賀茂・下鴨神社を氏神とする在郷氏族「賀茂県主氏」ではなく、大和国(奈良)葛城(現・御所市付近)に発し、天武朝から奈良時代にかけて朝廷中枢に官人として仕えた「賀茂朝臣氏」の子孫と伝わる。
さて、ここで大前提を話しておこう。史実の「陰陽師」とは、俗に知られる魔法使いのような存在ではなく、本来は、朝廷の部署「陰陽寮」に属し、天文観測を元に暦を作り司る、いわば国立天文台職員のような理系専門技術職――あえて云ってしまえば、地味な下級国家公務員である。
もっとも、日柄や方位、天象などの「吉凶」が重んじられた平安朝廷にあって、陰陽師はそれらにまつわる「占い」や「厄祓い」をも任されるようになり、次第に、道教・神道・仏教(密教)の要素が渾然一体となった独特の呪術的体系を形成していった――さらには、やがて朝廷の官人以外の巷でもこれを模倣した占い・祓の祭儀が行われるようになり、民間呪術者集団を形成していき、彼らも俗に陰陽師と称されるようになった、ということもまた事実である。
いずれにせよ、宇治丸の父方・勘解由小路家は、乱世に翻弄され身を潜めつつ、京の都の片隅で日々暦司りに忙殺される下級公家。妖術使いや妖怪退治などは、残念ながらこの物語には無関係なことである。
三 父・在富の山口下向
宇治丸と広の出自、それは両者とも一筋縄にはいかない難儀なものであった。
天文五年(一五三六)七月、京の都は未曾有の戦乱と大火の阿鼻叫喚に包まれた。比叡山延暦寺の動員した約六万人もの僧兵と武士が京都市中に来襲、日蓮法華宗の拠点をことごとく焼き払った。延暦寺勢力が放った火は大火を招き、京都は下京の全域、および上京の三分の一ほどを焼失。その災禍はかの応仁の乱よりも大きく、京都史上最凶の戦禍と云われる、「天文法華の乱」である。
上京勘解由小路(現・下立売通)にあった勘解由小路在富の邸宅も飛び火を受け、屋敷の半分ほどを焼失、命からがら妻子と家伝の暦道の書物を守りきった。在富四十七歳の年であった。
この時点で生存し、のちに成人まで育った子女は、日枝子十二歳と阿多子九歳という二人の娘のみ。
乱世の中での激務と困窮とで元来子宝に恵まれなかった在富、先に生まれた子はみな天文法華の乱以前に夭折してしまい、自らはこの歳で、唯一の妻も今や四十二歳である。もとい、半壊した邸宅と焼け出された家族の回復が当面の死活問題であり、とてものこと側室など迎えるどころの騒ぎではない。自らの血を引く跡取り息子の望みはほとんど潰えて、ただでさえ災難に目眩する在富の絶望たるや計り知れない。
妻方の親戚が社家(神主の家柄)である京都東山の吉田神社に妻子を預け、ひとまずの収拾をつけた在富は、西国の雄・大内義隆(一五〇七~一五五一)を頼り、周防山口に下向した。周防国には勘解由小路家の貴重な財源である所領があり、先代・大内義興の代から大内氏と勘解由小路家は密接な関係があったのだ。すなわち、所領を護持してもらう代わりに京都での地位を取り次ぐという、持ちつ持たれつの関係である。新当主である大内義隆への顔繋ぎ、そして財政再建のための所領護持確認が、山口行きの主目的である。
大内義隆は八年前の享禄元年(一五二八)、父・義興の没を受け二十二歳で家督相続し、当時三十一歳の若き武将。先代の大内義興は、永正五年(一五〇八)在富十九歳の頃に、山口に逃げてきた前将軍・足利義稙を奉じて上洛し、十年間京都と近畿に滞在して、「管領代」として幕政を執行した。その間、伊勢神宮に参拝して強い感銘を受け、山口に戻ると天皇の勅許を得て伊勢神宮の分霊を勧請、建物まで忠実に伊勢を再現した「西の伊勢」と称される高嶺太神宮(現・山口大神宮)を建立したほどの神道びいきであった。
大内義隆もまた、父・義興の薫陶を受けて都振りびいき・神道びいきであった。この時、二十一歳の若さながら「神祇管領長上」という神道界の頭領的地位にあった吉田神社祠官・吉田兼右(一五一六~一五七三)も、大内義隆の招きによって在富とともに山口に赴き、父義興の遺産である高嶺太神宮と今八幡宮で、当時神道の一大流派となっていた「吉田神道」の流儀を指南した。
この吉田兼右、歳は離れているが、実は在富の妻の弟にあたる姻戚である。在富の正室・木根子および吉田兼右の父は、国学・漢学の大家・清原宣賢(一四七五~一五五〇)。その父(兼右と木根子にとっては父方祖父)は、仏教・儒教・陰陽道などの要素を集大成した吉田神道の創始者・吉田兼倶(一四三五~一五一一)、という碩学の家柄である。在富の山口行きは、この義弟吉田兼右の同伴という意義もあった。
在富は、山口に二年間滞在したのち京都へ戻った。乱世にあって、ことに在富にとっては絶望のさなかにあって、「西の都」での滞在は貴重なしばしの安息の時であった。
・天文法華の乱で在富邸が焼かれたという点は架空。
・在富の娘二人は架空。名の由来は生まれ年の干支から。詳細は第一部末コラム。
・在富が山口に下向したという点、吉田兼右がそれに同行したという点も架空。
・在富妻の名と出自も架空。名の由来は生まれ年の干支から。詳細は第一部末コラム。
四 落人の落とし子
絶望の淵からのしばし貴重な安息――こんな時に、否、こんな時だからこそ、であろう。在富は山口滞在中、一つの「気の緩み」を生んでしまった。
「西の都」山口には多くの公家が落ち延びて暮らしていたが、大内義隆の「後宮」もまた、公家の娘揃いであった。正室は、天文十五年(一五四六)に内大臣まで進んだ中堅公卿・万里小路秀房(一四九二~一五六三)の娘・貞子。在富山口来訪の時には二十六歳。名門の出とあって、理知的で気丈な賢婦人であった。
その貞子に仕える侍女「上臈」という地位にあった者で、朝廷の官人・大宮伊治(一四九六~一五五一)の娘・佐井子(おさい)という若い女がいた。大宮家は、朝廷の諸記録を司り、算博士という地位を世襲する家柄。「公家」とは厳密には「堂上家」という家格分類の者を指し、それ未満の家格で朝廷に仕える者は「官人」、家柄としては「地下家」と呼ばれる。大宮家は、その地下家という分類の中では筆頭格とはいえ、大雑把に云ってしまえば最下級公家である。
最初の時には数え十七歳のうら若き乙女であった大宮佐井子と、父子ほどの歳の差である四十七歳の在富は、山口での二年の間に、こともあろうか行きずりの恋仲になってしまったのだ。
京からの一行来訪歓迎の宴席で佐井子と出会った在富は、彼女の家柄を知って関心を持ち、言葉を交わした。他の公家柄の者と違って、成り上がり公卿である自分に対しても高飛車ではなく、誰に対しても分け隔てなく慎ましやかに振る舞う佐井子に、好感と娘のような親近感を覚えた。
同じ才女でも、気性が強く気位も高い正室貞子と違い、佐井子は利発ながら謙虚で温厚な乙女だった。暦道と算学という近しい家学からも意気投合し、学問の話の文を交わし、歌文を交わし、想いを交わし――それは絶望の淵にあった在富にとって、この上ない安らぎであった――そしてやがて、相通じ合う仲となった。
まるで源氏物語のような話だが、現実問題は美談でも笑い事でもない。恋相手は、世話になっている大名の奥方の侍女である。当然秘め事であったが、運命なるかな――二年の時を経て、在富が間もなく京へ戻るというその時、佐井子は身籠ってしまったのだ。
二人は、別れを惜しんで、しかし運命を受け入れて、静かに涙を呑んだ。そして別れ際、胎の子がもし女児なら自分の別れ形見に、もし男児として産まれ、無事一人前に育ったなら、これを携えて京へ遣るように――と、自筆の暦道の初歩指南書に、六壬式占という占いのための式盤を模した手のひらに収まるほどの銅盤を添えて、佐井子に託した。
時に在富四十九歳、佐井子十九歳。在富は、二歳下の同輩公卿で前年周防に下向した持明院基規(一四九二~一五五一)と共立って京都へ帰った。
年が明けた天文八年(一五三九)一月末、凍てつく梅の枝にもつぼみがほころび始める頃。山口の街の片隅で、公に祝われることもなく密やかに、のちに賀茂在昌となる男児は産まれた。京都の岩清水八幡宮になぞらえて、先代大内義興の代に大改修し立派な社殿が建立された「今八幡宮」。男児はその社家に預けられた。
創建当初の祭神・宇治皇子から昔は宇治社と呼ばれていたことに因み、男児は宇治丸と名付けられた。あるいはもう一つには、悲恋の別れを源氏物語の「宇治十帖」になぞらえた母佐井子の密かな想いもあったのかも知れない。
・おさいの方は実在。佐井子という字と年齢は架空。在富との恋も架空。
・在昌の幼名「宇治丸」は架空。
五 領主の落とし子
「英雄、色を好む」という諺の通り、大内義隆は女性関係にも豪傑であった。史書に名が残る者だけでも、正室二人、側室二人がいた。
在富が山口に下向した時の少し前には、正五位上・武家伝奏という地位にあった公家・広橋兼秀三十一歳(一五〇六~一五六七)と、その長女・光子十四歳が山口に下向していた。光子はそのまま山口に置かれ、大内義隆の大叔母が晩年を過ごした広徳院という尼寺に入り、庶務係の稚児・「喝食」という任に着いた。
それから二年後、ちょうど在富が京都へ帰っていった頃。在俗の庶務とはいえ、仮にも寺院に仕える者、しかもまだうら若き数え十六歳の少女――それがこともあろうか、ふとしたことから大名大内義隆の目に留まり、見初められてしまったのだ。
在富と佐井子との切ない恋とは違い、義隆の「御見初め」は手が早く、いささか強引であった。ある時、親族の年忌法要に訪れた義隆は、寺の隅にいた光子が目に留まるや一目惚れといった有り様。のちには正式に側室として迎え入れられたものの、最初の頃はたびたび使いをやって連れ出して、光子は寺の者たちの後ろ指差しを買った。
ほどなくして、光子は子を孕んだ。未だ正式な側室となる前のことである。そして宇治丸の産まれと同じ年の暮れ、こちらもまた公に祝われることもなく密やかに、数え十七歳の若さで光子は女児を産んだ。
これが男児であったなら処遇もまた違っただろうが、嫡出でない女児というのは惨めなものである。父・義隆は産まれたのが女児と伝え聞くや祝いに訪れもせず、一つ山口の街にいながら、生涯ただの一度も間近に顔を合わすことはなかった。
ここに至って光子はようやく正式に側室として迎え入れられ、「広徳院御新造」と呼ばれた。女児は母光子の住地・広徳院と実家・広橋家から一字を取って「広」と名付けられ、光子の正式な側室入りと引き換えに、高嶺太神宮に仕える一禰宜(神職)の家に預けられた。
・広徳院御新造は実在。光子という名と年齢は架空。彼女の長女「広」も架空。
六 祖父にして養父
大内義隆の妻はこれで二人出てきたが、もう一人にして二番目の正室は、何を隠そう、あの大宮佐井子である。
勘解由小路在富が京へ戻ったのち、佐井子もまた義隆に見初められて側室となった。在富との想いを抱えた佐井子にとっては辛い心境であったが、ひとたび義隆の目に留まっては、その想いはたやすく打ち砕かれてしまったのだった。
気丈すぎる性格と気位の高さが災いして、正室万里小路貞子は豪傑義隆とのそりが全く合わなかった。一夫多妻が当たり前であった当時にあっては尋常でないほど嫉妬心も深く、義隆の側室との付き合いにたびたび強い苦言を呈した。そこにあって、義隆の心はいつしかすっかり、謙虚で温厚な佐井子に移ってしまったのだ。
天文十四年(一五四五)、おさいの方と呼ばれた大宮佐井子は二十六歳の時、のちに嫡子大内義尊となる男児・亀童丸を産んだ。義隆はこれを大いに喜び、盛大に祝した。
ここに至って正室貞子の面目は完全に潰され、大いに憤慨したあげく離縁して京都の実家へ戻ってしまったのだ。佐井子は正室に昇格し、貞子の旧邸・東の御殿を与えられ、以後そこに住むこととなった。かくしてのち、佐井子とその初子・宇治丸とは二度と会うことがなかった。
これまたこれを大いに喜んだ佐井子の父・大宮伊治は、翌年の天文十五年(一五四六)、五十一歳にして山口に下向してきた。伊治は二代目正室の父として大名大内義隆に大いに歓待され、すっかり上機嫌になった。そして、乱世の動乱続きで荒れ果て政情不安定な京の都と、繁忙なわりにうだつの上がらない朝廷の官職をなげうって、屋敷を与えられてそのまま山口に住み込む身となってしまった。
伊治は、娘・佐井子の落とし子の宇治丸、そして大内義隆の落とし子で同い年の広という娘の存在を知ると、二人の養父となることを申し出た。かくして、数え八歳になった宇治丸と広は、宇治丸の母方祖父・大宮伊治の山口邸宅に引き取られ、共に育てられることとなった。
二人は、養父伊治に家学の算学と公家としての教養「有職故実」を、そして産まれ育ちの地・今八幡宮と高嶺太神宮に通って吉田神道を学び、立派な教養階級の子女に育っていった。
・宇治丸と広を大宮伊治が養子としたという点は架空。
七 伴天連再来
さて、物語の時間軸は、主人公とヒロインの父母の慣れ初めから生誕、そして養育歴までに至るエピソードを遡り、ようやく冒頭第一章に追いついた。
インドのゴアに置かれた東洋大司教座から、「黄金の国」として西洋人航海者の夢の的であった「ジパング」日本への宣教を任ぜられたフランシスコ・ザビエルは、天文十八年(一五四九)・ユリウス暦八月十五日、薩摩(鹿児島)に来着した。一行の中には、ゴアで洗礼を受けたヤジロウら三人の日本人も共にいた。戦国時代にあって、遠くインドにまで日本人が来航していたことは、当時の日本の海外私貿易がいかに盛んであったかを偲ばせる。
一行は薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見、一旦は宣教の許可を得たが、仏僧の助言を聞き入れた貴久が禁教に傾いてしまったため、京に上ることを目指して薩摩を去った。一行は肥前国(佐賀)の平戸に入り、宣教活動を行った。
そして天文十九年(一五五〇)和暦十月上旬、山口に至り、無許可で宣教活動を行った。これが冒頭第一章「伴天連来訪」の物語の背景である。
ザビエルは大名・大内義隆にも謁見した。が、珍しい異国の文物宝物を目にすることと「献上」されることを楽しみにしていた義隆の期待と裏腹に、一行は珍奇とはいえ質素な身なりで献上品の一つもないという結果が失望と無礼に値するという不満を抱かせ、加えてこともあろうか、「男色を罪とするキリスト教の教え」が、「豪傑」義隆の怒りを大いに買ってしまったのだった。さすがの豪傑らしい逸話である。
一行は和暦十月二十九日に山口を発ち、目的の京都へと向かった。途中、堺の豪商・日比屋了珪の知遇を得て、その支援により、翌十一月、念願の京に到着。了珪の紹介で小西隆佐の歓待を受けた。そして全国での宣教の許可を得るため、後奈良天皇および室町将軍への拝謁を請願。しかしこのたびもまた、長旅で身なりは薄汚れ、献上の品もなかったため、また政情も不安定で将軍は京に不在、その念願は叶わなかった。ザビエルは失意のうちに、翌天文二十年(一五五一)二月、山口を経て、平戸に戻っていった。二度目の山口来訪である。
ザビエルは、平戸に置き残していた宝物の数々を携えて三度目の山口来訪を行い、二月下旬、大内義隆に再謁見の機会を得た。これまでの苦い経験に学び、日本の風習では貴人との会見時には威儀を正した服装と献上品が重視されることを知ったザビエルは、本来質素な黒い長衣の修道服を着るべきイエズス会修道士としての会則を敢えて破り、ポルトガル来航船の豪商から借りたルネサンス貴族のような最上等の洋服で一行を装い、天皇に捧呈しようと用意していたポルトガル王国インド総督とゴア大司教の親書の他、小銃、置時計、眼鏡、洋書、洋画など珍しい文物を義隆に献上した。
これに喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、当時廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた。これが日本最初の常設の教会堂である。ザビエルはこの大道寺で熱心に説教を行った。
八 伴天連との出会い
前年の伴天連来訪を目撃して感激を覚えた宇治丸と広は、二度目の来訪も懲りずに眺めに行き、三度目の来訪で伴天連一行が晴れて大名の許可を得て山口に長期滞在することが叶ったと知るや、此度こそはと思いきって連れ立った。数え十三歳の時であった。
「当分大道寺留め置きだって。今度こそしっかり間近に拝みに行きましょ!」
「うん。今度こそ! 口実は僕がうまいこと伝えておいたから」
荒れ寺となっていた大道寺は、今や南蛮寺・天主堂として立派に補修され、梁には異国の文字の額、屋根の破風には十文字形の飾りが掲げてあり、大勢の人々が集っていた。が、伴天連は洋装ながら質素な修道服、日本人のキリシタンは首に提げた十字架以外は全く僧侶の姿をしており、期待したほどの異国情緒は見られなかった。
二人はその末席に着いて、会衆と伴天連が語り合う問答に耳をこらした。
「天主様の坐す神の御国とは、いずこに在るのでござりましょう。伴天連様方の出でて来られたというはるか西の海の彼方のふるさとには、極楽浄土がまことに在るのでござりましょうか」
伴天連の前に座り込んで、熱心に問いを発し、その答えに聞き入る僧形の男がいた。うつろな眼と視点の定まらないしぐさ、持ち物と身なりから、琵琶法師と分かった。琵琶法師には目の不自由な者がなる、というのは通例である。
「我々のふるさとは、西方極楽浄土などではありませぬ。神の御国とは、何処に在る、其処に在る、というものではありませぬ。神の御国は、我々、そなた方、全ての人のうちにこそ在るのです」
一人の伴天連は、二年間の日本滞在の間に、日本語をそつなく話せるようになっていた。少し訛りはあるものの、その博覧強記ぶりが伺われる。
「それでは、我々も今すぐに、その恵み深き神の御国を垣間見て、天主様のみ恵みに与ることができるのでしょうか」
「救い主なる現人神・耶蘇様(イエス・キリスト)と結ばれ、そのみ教えを受け入れ、その行いに倣い、その命の光を一身に受ければ、この身は耶蘇様の復活の命に与り、日ごとに新たにされてゆく――そこにこそ、全て時と空間を超えて、神の御国は顕現するのです。御父・御子・聖霊の三位一体なる天主様は全宇宙を創り給うた方、耶蘇様もまた父なる神と一体なる御子にして主なる神。そのみ恵みは、全て生きとし生ける者、森羅万象に至るまで、あらゆる処にあまねく注がれています。太初にありし如く、今も何時も世々に――」
最後の一句とともに、伴天連は指先で胸元に十文字の形を切り、天窓から差し入る光を見上げて念じた。
「で、ではどうか今ここに、その顕現をお見せくださりませ。我々は日々苦しみ、み救いを待ち望んでおります……私めのごとき目の見えぬ者でも、尊きみ姿を拝することが出来るのでござりましょうか」
琵琶法師もまた、差し入る光を手探りするように首を上げた。
「目の見えぬ者は幸いです。この世の虚しくも衆目を囚われにする美に目眩ますことなく、まことに美しく尊き、見えざる天の賜物に目を開くことができるからです」
伴天連は優しく、琵琶法師の手を取り、額から目元にかけて手をかざした。
「日曜日の巳の刻(午前十時)、ミサという聖なる祭儀を行います。その中で献げる聖餅と聖葡萄酒が、先ほど読み上げた聖福音経の通り、耶蘇様が尊き十字架の死に引き渡され給うた前の晩、弟子たちに仰せになった如く、聖霊によって耶蘇様の尊き御体と御血になります。そこに、死より復活し、死を以て死を滅ぼし、世々に生き統べたもう耶蘇様が、全てを超えて臨在せられ給い、全てを超えて我々と交わり、神の御国の窓が顕現するのです」
「あな畏れ多きことかな……かくのごとき聖なる祭儀に、私めのような下賤の者でも与ることができるのでござりましょうか」
「貧しき者、苦しむ者は幸いです。その人は満たされ、癒やされます。父なる天主様はそのような『小さき者』のためにこそ、御子耶蘇様を世に遣わし給うたのです」
「伴天連様……!」
琵琶法師は、半開きの虚ろな眼から涙を流した。探りゆらぐ琵琶法師の手のひらを、伴天連は慈しみ深く握りしめた。
この問答と光景を見聞きして、宇治丸と広も幼心にも強く心打たれ、澄んだ目を潤ませた。
散会際、無心になって最後まで残っている二人に、先程の一人の伴天連が声を掛けた。
「今日はようこそ。お二人は武家のご子息ですかな?」
「はい、あっ、いえ。大宮家という公家の元に養われている身です」
「そうか公家ですか。では学問にも励んでおいでのことでしょう」
「はい、実は神道の勉強を。僕の実の父は京の陰陽師――天文学者、らしいのですが」
「ほう、天文学の家柄ですか。それは素晴らしい。しばしお時間はありますかな?」
「あ、はい。少しくらいなら大丈夫です」
「天文学」という宇治丸の一言を聞いて、伴天連は興味を示し、奥の司祭館に二人を案内した。
「これは天球儀、天体の巡りを模式化した道具です。東洋にも確か似たものがありましたな。しかし、こちら東洋では星座が西洋とはだいぶん異なるようですな」
「渾天儀とよく似ていますね! はい、日本にも似たものがあります」
寺の住坊を改装した司祭館は少しばかり洋風の設えで、珍しい舶来の品々があった。期待していた異国情緒を目にして、二人は興味津々、目を輝かせた。
「そして一番お見せしたかったもの、これは地球儀。地を象って球に全地上の陸と海を記したものです。全ての大地は、一つの球のもとに繋がっているのです」
「わあ、それは初耳です! 地は球の形をしているのですか……!」
「左様。太陽や月と同じく、夜空に輝く千々の星々も、みな大小の球。地球もまた、大宇宙にあっては一つの小さな星に過ぎず、太陽の回りを水星・金星・火星・木星・土星と同じように周回しているのです」
地球儀は、二人にとって最も興味をそそられ、また驚きの事実を示す品だった。
「地球もまた一つの小さな星……それぞれの星にも人は住んでいるのでしょうか? そう考えると、この地上の人間というものは、なんだかとてもちっぽけな、塵砂粒にも満たないような者に思えてきますね……」
「地球以外の星に生き物がいるか否か、それは分かりませぬ。しかし、我々の知る限り、天主様はこの地球と我々人間を深く慈しんでおられる。人間一人一人、そして天地の全てのものは、天主様が大いなる慈しみを込め、『善し』と仰せになって創られ、命を分け与えられた、『神の似姿』。主の御目には、誰一人、何一つとして、価値なきものは在らぬのです」
「命を分け与えられられた、神の似姿……」
二人は改めて地球儀を見つめつつ、伴天連の言葉を反芻した。
「ね、宇治丸、感動したね……」
「うん、感動した……」
「あの琵琶法師のおじさん、救われるといいね……」
「うん、救われるよ……きっとね」
帰り道、二人は五月晴れの夕日の中、並んで道を歩きながら、固く手を握り合った。
この琵琶法師は、ほどなく洗礼を受け、「キリシタン」となった。後にイエズス会の強力な宣教師となった「ロレンソ了斎」(一五二六~一五九二)。そして、宇治丸と広の相手をした伴天連が、のちに二人を窮地から救い出す恩人となった、コスメ・デ・トーレス司祭(一五一〇~一五七〇)である。
山口での宣教は成功し、約五百人もの信徒を獲得した。ザビエルは大道寺を与えられて宣教を始めてから約二ヵ月間の宣教活動が過ぎた和暦七月頃、豊後国の中央都市・府内(現・大分市)にポルトガル船が来着したとの話を聞きつけ、山口での宣教をトーレス司祭に託し、豊後府内へ向かった。そこでも、守護大名・大友義鎮に迎えられ、その保護を受けて大々的に宣教を行った。この時の大名が、後にキリシタン大名として知られる大友宗麟である。
・ザビエルが山口大道寺にて布教し、ロレンソ了斎がその際に入信したことは史実。その他の描写は架空。
・「神の御国とは、何処に在る、其処に在る…」――ルカによる福音書17章21。
九 非業の養子
こうして山口ではザビエル再来で平和な時が流れていた頃、京の都は未だ政情不安定、そしてまた勘解由小路家を巻き込んだ一動乱が起こっていた。
時は遡って、勘解由小路在富が京へ戻った翌年の天文八年(一五三九)、ちょうど宇治丸が生まれた年のこと。在富の弟・賀茂在康の息子で、在富にとっては甥にあたる数え十九歳の在種(一五二一~一五五一)が、在富の養子として迎え入れられた。天文法華の乱に巻き込まれて父を亡くし、一時は路頭に迷った末に、在富の妻・木根子の計らいで、吉田神社脇手の空き家を譲り受けた勘解由小路家新邸宅に引き取られた青年であった。
在富としては、山口にて別れた大宮佐井子に宿された自らの子が気がかりだったが、それは表沙汰にはできぬ秘められた話であり、手紙も交わせる状況ではない。産まれたのは男児か女児か、はたまた死産やも分からぬうえに、いくら平和な西の都山口とはいえ、乳飲み子が青年まで育つ保証はどこにもなく、夭折が日常茶飯事であった時代である。一か八かの落とし子に賭けるのは無謀なことだ。
自らも寄る年波は五十歳、しかも京を離れている間に縁組の談はほぼ固まっていたとあって、在富は秘めた想いを押し殺して、この甥・在種との養子縁組談を呑んだ。
時戻って、その十二年後の天文二十年(一五五一)、ちょうどザビエル一行が三度目の山口入りを果たして大道寺にて布教を始めていた、和暦三月のことである。
この頃、細川晴元・三好政勝らに担がれたまだ幼い将軍足利義藤(一五四六~一五六五・後に義輝と改名)は、これと対立する三好長慶によって、京都から比叡山を隔てた近江国(滋賀)堅田に追放され、幕府界隈には強い緊張関係が生じていた。
そんな中、三月七日、十四日の二日にわたって、京都洛中で将軍の留守を預かる幕府政所執事・伊勢貞孝の邸宅に会見中であった三好長慶に対し、将軍方の刺客による暗殺未遂事件が発生した。一回目の犯人は挙動不審な態度からすぐに逮捕・処刑され、二回目は長慶に手傷を負わせたが失敗して、刺客・進士賢光は即座に自害した。さらに翌十五日には、これに乗じて将軍方の三好政勝と香西元成が三好長慶本拠地丹波宇津に侵入するという動乱が起こった。
在種は、この暗殺未遂事件に図らずも関わってしまったのだった。
在種としては、勘解由小路家の復興に少しでも役に立ちたいという一心で引き受けた仕事だった。しかも、まさかこのような物騒な事件になるとは知らなかった。ただ、とある知り合いの武士に呼び出され、伊勢貞孝邸付近や洛中の近況と、今月の「日柄」を訊ねられて答え、守秘命令とともにわずかな謝礼を受け取っただけであった。
しかし、事が起きると暗殺計画への関与を疑われ、義父在富ともども三好方の尋問を受け、あわや懲らしめ寸前という一大事になってしまったのだ。在富は痛く肝を冷やし面目丸つぶれとなったが、在種本人こそが、誰よりも心外のあまり啞然とした。
三月十四日の晩、雨の中を呆然と勘解由小路邸に戻ってきた在種を待ち受けていたのは、怒髪天を衝くばかりに怒り打ち震える義父在富だった。在種はおののきのあまり、何も言葉が出なかった。
在富は戦慄する拳で杖を握り絞め、六十二歳の老体を力の限り振り絞り、地も鳴る勢いで在種の顔面を打ち据えた。在種は抵抗なく打ち飛ばされ、雨濡れた門前の石段に背中から倒れこみ、数段転げ落ちた下の地面で仰向けに横たわったまま小さく震え悶えた。在富はそれを放って、息を荒らげながら屋敷の奥へ戻っていった。
「殿、さすがに堪忍して給わりませ……」
「構わぬ、放っておけ。一晩くらい頭冷やせばよい。なに、死にはせぬ」
在富は家人の心配をはねのけ、
「手助けなどしたらお前たちも容赦せぬぞ」
と強く命じた。雨音が強まる夜であった。
在富としては目一杯の仕置きのつもりであった――のだが、不運なるかな、よほど打ち所が悪かったのだろう。明くる朝、在種は濡れねずみで、昨晩のまま門前の石段下に倒れていた――息を失い、冷たくなって。
「在種、在種よ! すまぬ……起き上がれ、在種!」
顔面蒼白で「それ」を揺さぶる在富。しかし、明らかに手遅れであった。
かくして、勘解由小路家を嗣ぐはずであった養子在種は、三十一歳の若さで、伯父にして義父である在富の手により「横死」という、非業の最期を遂げた。貴重な跡取りを、ほんのふとした出来事から、在富は水泡に帰してしまったのであった。
・在種は実在の人物。その父在康が天文法華の乱で没したという点は架空。
・勘解由小路家の新邸が吉田神社脇という点は架空。
・在種が義父・在富の手により「横死」したという点は史実。在種の生年は十年早く設定。細かい顚末と描写は架空。詳細は第一部末コラム参照。
十 山口大乱
「平和な山口」とたびたび語ってきたが、その「平和」とは、実は砂上の楼閣のようなもの――「平和ぼけ」と言ってしまってもよいようなものであった。
天文十一年(一五四二)に大軍を率いて出雲国(島根県東部)の大名・尼子氏への遠征に挑んだ大内義隆だが、翌年二月に大内軍は総崩れとなり、大敗を期して帰還した。大内領内、山口近隣の村里は、負傷兵や帰らぬ人の遺族となった者らの嘆きが各地でとどろいた。
一方で義隆は、出雲での大敗から極端なまでに厭戦的になり、出雲遠征を主導した陶隆房ら武功派を労うどころか遠ざけ、文治派の寵臣・相良武任に政務を一任した。そして自らは、居館の奥手にこもって芸事や茶会などの道楽に没頭し、公家のような生活を送るようになり、領国の治政さえ顧みなくなってしまった。さらには敗け戦で負った多額の損失を埋め合わせるため、年貢の増徴を行った。ただでさえ嘆きに暮れる領民は、重い徴税でさらに苦しんだ。
かつての豪傑は、今やすっかり愚将に成り下がってしまったのだ。そして、大内領政の主導権を巡って、武功派の陶隆房・内藤興盛らは文治派の相良武任を敵対視するようになり、山口に不穏な影が落とされていった。
天文十九年(一五五〇)になると、相良武任と陶隆房との対立が決定的となり、武任の暗殺が謀られたが、事前に察知した武任は義隆に密告して難を逃れた。しかしこの頃から、隆房が謀叛を起こすという噂が大内領内の各地で流れるようになった。
そして、その時は来た。時あたかもザビエルが豊後へ旅立ってほどなくの天文二十年(一五五一)八月二十日、陶隆房は内藤興盛らと共に挙兵。まずは大内領の東の要衝、安芸国の厳島(宮島)とその対岸の桜尾城を落とし、山陽道を制圧した。
この明らかな謀叛の挙に対して、義隆の態度は何とも悠長なものであった。二十三日には豊後大友氏からの使者を接待する酒宴を続けており、運命の日の前日・二十七日に至っても能の興行などに耽っていた。
「運命の日」八月二十八日。陶隆房率いる叛乱軍は東方二方向から、すっかり平和ぼけに耽っている山口の街に、破竹の勢いで侵攻した。「陶隆房軍山口へ向け進攻・防御隊壊滅寸前」の報が届いてようやく危機感を覚えた義隆は、大内氏館・築山館を出て、高嶺山麓の谷間にある法泉寺に退いた。義隆に味方した家臣はわずかで、兵力も二、三千人ほどしか集まらなかった。
継室のおさいの方こと大宮佐井子は、山口の北東側・宮野の妙喜寺に逃れた。これを聞いた大宮伊治は、娘を追って山口宮野へ向かって屋敷を飛び出た。
「殿、宮野の方は敵方の本隊がおります……危のうござります」
「なるものか、おさいはわしが命を懸けてでも守る! 命を捨てる覚悟がある者のみ、共に従うがよいぞ!」
宇治丸ももちろん、物心ついてからほとんど顔を合わせたこともないとはいえ、実母の身柄が気になった。また何より、祖父にして養父である伊治に従う心積もりだった。
まだ見ぬ父の別れ形見として渡されていた、暦道の書と式盤をしかと懐に抱き、大宮家の一同とともに走り出した。しかし――
「痛っ……!」
逃げ道の道中で、広が躓き転んでしまったのだった。
「広! 大丈夫!?」
「ええ、これくらい平気よ……っ、いたた……」
先陣を切る伊治と、我先に逃げ走る家人たちは、振り返り気づくこともなくわずかな間に走り去って行き、宇治丸と広の二人は取り残されてしまった。
(どうしよう……八幡様、神明様、天主様……あっ!)
走り行き交う街の大路で、一心に祈っていた宇治丸は、ふと思い立った。
「広、大道寺なら近いよ! 負ぶさって!」
「ちょっと……おじ上様とおさい様はいいの?」
「大丈夫、祖父上様ならきっとなんとかなるよ。それより今は、僕たちが無事逃げることが一番大事だ!」
「……分かった、宇治丸を信じるわ。肩を貸してくれるだけで平気、自分で走れるから」
「僕じゃなくて、天神地祇と……天主様を信じてみよう!」
片足をやや引きずった広の肩を組んで、宇治丸は「南蛮寺」大道寺を目指して走った。
大道寺の近くまで来たところで、伴天連とそれに続いて脱出を試みる信徒たちの一行が見えた。
「伴天連様! どうかお助けを……!」
「おお、君は京の天文学者の……」
山口を任されていた伴天連・トーレス司祭は、二人の顔をしかと覚えていてくれた。
「ジョアン、薬箱を!」
「へいさ! 君ら大丈夫かい?」
同い年くらいのキリシタンの少年が同行しており、薬箱とともに医者を呼んできた。すぐに広の応急処置を施し、共に海の方へ向かう道を急いだ。
「広、大丈夫?」
「ええ、お陰でだいぶん楽になったわ。それより、大宮のおじ上様は……」
「大丈夫、きっと大丈夫だよ。それよりも、広の母君・広徳院御新造様が心配だね……」
「お母上、なのかな……一度も会ったこと無いけど、そうね、きっと大丈夫よ」
「うん、大丈夫だね、きっと……」
後ろ髪引かれる思いの広をなだめつつ、宇治丸は何よりも自分にそう言い聞かせ奮い立たせた。
「君ら公家の子なんだって? おいらは案じるものなんてなんもねぇから、平気さ」
「そうか、独り身なのか……気の毒に」
「お気の毒ね……」
ジョアン少年と道すがら語り合う宇治丸と広。途中何度か軍の詰問を受けたが、遊行僧とそれに従う衆徒であると説明して難を逃れた。宇治丸と広も、偽装のため装束を背袋にしまって僧衣をまとった。
「なぁに、庶民なんてなぁみんな大概そういうもんさ。それより、君らこそ気の毒だな……おやじさんとおふくろさん、無事だといいんだが」
「心配ね……天主様……」
「そうさ、俺らには天主様がついておられる。きっと大丈夫さ!」
「そうだね。天主様のお助けがあって、僕らこうして生き延びられたんだ」
この「キリシタン」の群れにあっては、生まれの身分は関係なく、みな家族なのだ、と伴天連が言っていたとおり、三人もすぐに打ち解けて話す仲となった。
「了斎殿も、くれぐれもお気をつけて……お手を」
「おお、かたじけのうござります。声と杖で大体はわかるのじゃが、段差があると危のうて……」
一行の中には、かつての琵琶法師・ロレンソ了斎もいた。彼とも二人は打ち解けた旅仲間となった。
「これは私めの私見にござりますが――真言密教では大日如来こそが本初にして普遍万有の宇宙の真理であり、釈尊もまた人間としてこの世に生まれ給うたのは一刹那なれど、その本性は釈迦如来として大日如来と本性一体にして久遠なる存在、と説きます。父なる神は大日如来、子なる神は釈迦如来に喩えられましょう。しかして聖霊なる神は、仏の慈悲の象徴にして永遠なる命の源たる阿弥陀如来に喩えられましょう」
彼はさすがは元琵琶法師、説法がうまく、卑近なたとえ話から、キリスト教と仏教教理との類似性など高度な話まで、日本人に分かりやすい巧みな講話で道中の一行を飽きさせず、かえって励まし元気づけた。
こうして五時間ほどの道のりを歩き通し、晩には無事港町秋穂まで逃れ、翌朝にはザビエルの滞在する豊後府内へ向けて船出した。危機一髪、奇跡の脱出劇であった。
二十八日の夕刻頃には、叛乱軍はいともたやすく山口の中心部を制圧し、空となった大内氏館や周辺の近臣邸は火をかけられ、宝物を掠奪された。火の手は山口の街に燃え広がり、「平和」な砂上楼閣は一夜にして阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
京より下向していた公家も多数殺傷された。十三年前に在富と京へ戻る旅路を共にした持明院基規も、この時再び山口におり、手にかけられた。彼は特に、首を半分だけ斬られた生殺し状態で放置された末に事切れるという無惨な最期だった。義隆を取り巻いていた公家達は、謀叛を起こした武断派の憎悪を買っていたのだった。
そして、宇治丸の祖父にして広と二人の養父・大宮伊治も、二人と別れて宮野の娘の元へ向かった末、叛乱軍に捕まり、その手にかかって命を落とした。しかし、伊治の最期の嘆願が聞き届けられて、おさいの方こと大宮佐井子は助命された。命懸けで娘を守りきったのだ。
法泉寺の大内義隆軍は逃亡兵が相次ぎ、翌二十九日には山口を放棄し、山口から峠を越えて北西にあたる長門(山口県北部)の港町・仙崎に逃れた。ここから海路で、縁戚に当たる石見国(島根県西部)の大名・吉見氏を頼って脱出を図ったが、嵐のために逃れることはできなかった。仙崎に引き返した義隆らは、そこから少し山手に入った長門深川の大寧寺に籠城したが、四方を追手に囲まれてしまった。命運尽きた義隆は、翌九月一日(この年の和暦八月は「小月」で、二十九日が晦日であった)に大寧寺で自害した。さらに翌日には捕らえられていた義隆の子にして、佐井子の第二子・宇治丸にとって異父弟、広にとっては異母弟にあたる、わずか七歳の大内義尊も殺害された。
大寧寺まで逃れた義隆勢はわずかであったが、その中には共に逃れた公家衆もいた。元関白にして当代関白の父・二条尹房とその次男良豊、前左大臣三条公頼は、長門大寧寺まで逃れたが、義隆と運命を共にした。摂関家という最高位の公卿まで遠く西国の山村であえなく討ち殺される、まさに乱世「戦国」の世の無情さを象徴する事件であった。
これが世に云う「大寧寺の変」の顚末。山口大内氏三代の栄華は、わずか三日にして夢の過ぎ去るように潰えた。三代目義隆の晩年はまさに砂上楼閣であり、それは蜃気楼のように儚くも砂へと帰ったのだった。助命された義隆の妻にして、宇治丸の母・大宮佐井子と、広の母・広徳院御新造こと広橋光子は、その後山口で尼となり、日夜戦没者の弔いに勤めた。
・山口大乱の顚末はほぼ史実。
・大宮伊治は、史実では山口湯田縄手路にて殺害死。
・宇治丸と広の脱出エピソードは架空。
・ジョアン・デ・トーレスという少年が山口から豊後府内へ救出されたという記録があり。
十一 十字架を負った少女
天文二十年(一五五一)九月頭、豊後府内のザビエルに与えられた天徳寺・天主堂に到着して、ほっと肩を撫で下ろしたトーレス一行であったが、山口大乱の顚末を知らされた宇治丸と広は啞然とした。
「おじ上様も、お父様も、亀童丸も、持明院様も、二条様も、みんな死んでしまったのね……みんな……」
特に、広の心的外傷は病的なまでにひどかった。日夜涙をこぼし、その涙も枯れて目の輝きを無くしてしまった。
「祖父上様の最期は立派だったそうだよ……自らの命を犠牲にして、おさい様――母上の命を守った、って……」
「そんな、そんなの嫌よ……! どうしてこんなことに……私が転んだりしなければ……」
実の母方祖父を亡くして誰よりも辛いであろう宇治丸も、必死に広を慰めるが、それは耳にこそ入っても、心の奥のとげまで取り去ることは容易ではなかった。
物蔭からその様子をじっと見ていたジョアンは、ザビエルとの会見が終わって司祭館から出てくるのを待って、トーレス司祭を二人の元へ連れてきた。
「この度はまことにお気の毒に……心中お察しします」
「トーレス伴天連様……伴天連様、うぐっ……」
広はなりふり構わずトーレスの膝元にしがみついて泣き噎いだ。
「人は霊を支配できぬ。霊を押しとどめることはできぬ。死の日を支配することもできぬ。何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時があります。生まれる時、死ぬ時、植える時、刈り入れる時。愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時があるのです」
トーレスは、広を抱き上げると、慈しみ深い目を注ぎ、続けた。
「天主様は全てを時宜に適うように造り給うた。そのみ業は皆その時に適って美しい――また、主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。その者の労苦は憩いとなり、その行いは永遠に報われるでしょう」
「伴天連様……」
広は伏せっていた顔をようやく上げると、涙を一杯に湛えた眼で、トーレスのまなざしをじっと見つめ返した。
「我は蘇りなり、命なり。我を信ずる者は、死してなお生くるなり――と、耶蘇様は仰せになりました。どうでしょう、広殿。このみ言葉を信じてみませぬか?」
広は拭ってもなお涙に潤った目で、トーレスをしかと見つめて、手のひらを取って握りしめ、頷いた。
「お慰め、まことにありがたく……はい、今直ちにとは参りませぬが、み言葉をしかと心に留め、信じてみます……!」
トーレスは慈しみ深い微笑みをたたえて、広の手を握りかえした。
「『“Emmanuel”――主我らと共に坐す』。この言葉を、どうか忘れないでくだされ。慈しみ深き主の平安が、いついかなる時も、常に我らと共に在らんことを――Dominus vobiscum, 主汝らと共に坐す」
胸元で十字を切るトーレスに続き、広と宇治丸は辿々しい手つきで、そして蔭のジョアンも手慣れた手つきで、みな自らの胸元に十字を切った。
「主我らと共に坐す――」
宇治丸も、トーレス司祭の言葉を反芻した。
「Requiem aeternam dona eis, Domine, et lux perpetua luceat eis. ――主よ、とこしえの安息を彼らに与え、絶えざるみ光もて照らしたまえ――」
山口大乱のひと月後、死者を弔う鎮魂祭の中で、広は洗礼の儀を受けて、キリシタンとなった。
「神に愛されし娘カタリナ・ヒロよ。父と、子と、聖霊の御名によって、今汝に聖なる洗礼を授く――」
洗礼名は「カタリナ」。古代エジプトの聖女で、高官の娘に生まれ高い学識を持ちながら、全ての誉れで自分を超える男でなければ結婚しないと宣言。その後隠修士の導きでキリストの教えに入り、数々の迫害と計り知れない責め苦の末に殉教するが、夢の中で聖母マリアの導きによって耶蘇=イエス・キリストと婚約したという人物である。そこから名を授かった。
「トーレス伴天連様……キリシタンとなった暁には、日本の神仏を拝んではならないのでしょうか?」
広の洗礼式が済んでのち、宇治丸はかねがね思っていた一つの疑問を訊ねた。
「天主様こそがあらゆるものをはるかに超えた万有の主である、という理を忘れさえしなければ、寺社に詣ろうとも、神事・法要に参祷しようとも、主の御心に違うことはありませぬ。主は人の行いの形よりも、まことの心こそをご覧になります。つまるところは、それぞれの者の心の置き所次第です」
「そうですか、ほっとしました。僕達二人とも神社に生まれ、幼い頃から神道を学んできた身ゆえ……ことに、僕は陰陽師の子、京にて跡取りとならねばならぬやも知れぬ身ゆえ……」
慈しみ深く答えるトーレスの言葉に安堵しつつ、宇治丸は天主の助けに与りながら、広を残して自らは洗礼を受けられないという後ろめたさを告白した。
「風は思いのままに吹く。その音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを人は知らぬ。今はまだ時が満ちていないのでしょう。もしも、いずれの日にか再び天主様のお導きがあったなら、また戸惑うことなくおいでなさい」
「はい、いつの日にかきっと……!」
宇治丸は、今こそ京へ戻って父の跡嗣ぎとして対面すべき時であると考え、洗礼は見送った。そして、京への海の窓口・堺の港へと行く船の手配を伴天連に依頼した。広もこれに同行を決意した。
トーレスの言葉を聞いて安堵した宇治丸と広は、宇治丸の生まれの地にして二人の学業の場であった山口今八幡宮を思い起こしつつ、最後に豊後府内の鎮守社・若宮八幡社に詣で――
「これに坐す八幡大明神の御前に畏み畏みも白さく、この度は天主様と共に、広き篤き恩頼を給わりし事をかたじけなみまつり……」
それからほどなく、港へ向かって船出の仕度に着いた。
「宇治丸殿、この本はそなたに差し上げましょう」
トーレスは、一冊の洋書を宇治丸に渡した。それはきれいな活版で印刷され、図解がたくさん入った、天文学の初歩的解説書であり、洋書ながら日本人通訳が書き込んだであろうたくさんの和文の註解が入っていて、宇治丸にも十分読めるものであった。
「これは……ありがとうござります、大切に拝読いたします!」
「立派な天文学者になるのですぞ」
「はい、精進いたします!」
「広殿も、今度は宇治丸殿のために日々祈り、たとえキリシタンの集いから離れていようとも、いかなる困難があろうとも、主のみ恵みとお導きを感謝し信じて依り頼み、共に助け合うのですぞ」
「はい、慎んでお言葉心に留め――天主様のみ助けによりて精一杯努めます!」
宇治丸と広はトーレス司祭と固く握手を交わすと、船に乗り込んだ。
「宇治丸、広、達者でな!」
「不肖了斎の夢は、ザビエル伴天連様が果たせなかった再度の上洛と宣教公認を果たすことにござります。その折には何卒私めを思い出してくださりませ」
「旅路に主の導きと平安の豊かにあらんことを――主、汝らと共に坐す」
「また、汝の霊と共に坐す――カタリナ広、行ってまいります!」
「まことにありがとうござりました! 宇治丸行ってまいります。皆様も御達者で!」
かくして、ちょうど豊後から一路堺へ向かう大型貿易船に便乗を許され、トーレス、ジョアン、了斎らに見送られつつ、豊後府内の港を旅立っていった。
・本章は架空。
・「人は霊を支配できぬ…~全てを時宜に適うように…」――コヘレトの言葉8章8/3章1~2、11。
・「主の慈しみに生きる人の死は…」――詩編116編5/ヨハネの黙示録14章13。
・「我は蘇りなり、命なり…」――ヨハネによる福音書11章25。
・「Requiem aeternam」――死者のためのミサ「レクイエム」入祭唱。
・「風は思いのままに吹く…」――ヨハネによる福音書3章8。
・「主、汝らと共に坐す/また、汝の霊と共に坐す」――ミサ中の司祭と信徒の応答。
十二 上洛・父との対面
豊後から瀬戸内の海路をはるばる越えて、宇治丸と広は遠く堺の港に着いた。
「わあ、とっても大きくて立派な街ね!」
「そうだね、山口の街が顔負けするほどに大きな街!」
当時、堺は京へ向かう要衝の港町として、自治都市の体を為し、荒廃した京の都に代わって大いに栄えていた。
「これはこれは、ようこそおいでくださいました。先年ザビエル殿の上洛の折にもお供仕りました者でござります」
「どうも、初めまして。賀茂宇治丸と高嶺広にござります。こちらこそお世話になります」
二人は、ザビエルも世話になった堺の豪商・日比屋了珪に出迎えられ、堺の街でひと月ほどを過ごしたのち、いよいよ京の都へ向かった。
「天下の京の都とはいっても、ずいぶん荒れた街だなぁ……」
「広さはともかく、山口のほうがよっぽど綺麗な街だったわね……」
相次ぐ動乱と疫病の流行などで、京の都・ことに庶民の住む下京はすっかり荒れ果て、半壊した廃屋と病や飢えにあえぐ人々、そして大路小路には物乞いやごろつきなどがたむろするばかりであった。すでに季節は冬となり、冷たく吹き付け砂煙を巻き上げる木枯らしが、街の寒々しさをいっそう引き立てていた。
上京に至るとそれもいくぶん解消したが、立派な建物は物々しい警備に囲まれた武家屋敷ばかり。公家屋敷は構えこそ大きくても、屋根の檜皮の葺き替えもままならず、苔むしたままに軒を連ねていた。そして、飢えた物乞いや浮浪者を警護の武士たちが非情にも蹴散らす姿が見られた。
了珪が付けてくれた部下の隊商も、寄ってくる物乞いを鞭で追い払ってゆく。宇治丸と広は心苦しかったが、自分達の身の安全を守ってくれているのだ、仕方ないと諦め、目を背けた。
「このあたりまで来ればもう安心でしょう。それでは私めは、商談がござりますので、こちらにて」
「はい、遠路ありがとうござりました」
二人は上京の鴨川河辺・河原町荒神口付近で隊商と別れて、京の東の郊外・東山の吉田神社門前にあるという勘解由小路邸へと向かった。
身寄りの者が堺におり、これから京に遣わす――とだけ知らせを聞いていた勘解由小路在富だが、もしやと思い当たって、そわそわと到来を待ちわびていた。
吉田神社に到着した二人は、勘解由小路邸の場所を訊ねるべく境内にいた神主に話しかけた。
「これはこれは、勘解由小路殿の……来られたら便りを遣るよう承っておりますで、しばしお待ちを」
神主は下人を遣わした。しばらくすると、下人は急ぎ足で戻ってきて、その後ろから狩衣烏帽子姿の老人が現れた。二人もその方へ駆け寄っていった。
「勘解由小路殿にござります」
神主と下人は、それを見届けて去った。
「それがし宇治丸と申す者にござります。こちらは広。山口より馳せ参じてまいりました。ご無礼ながら、勘解由小路在富殿にござりますか?」
「左様。知らせは聞いておるが、そなたは――」
思い当たる年頃と場所の少年少女であることを見て、声を震わせながら訊ねる在富。そこで宇治丸は、大切に懐に持ってきた袱紗をその場でひもとき、暦道の書と式盤を取り出した。
「おお、これは……そなた、大宮佐井子の子か……我が息子なのか!」
「左様にござります……お父上、お会いしとうござりました!」
打ち震える手を恐る恐る伸ばして、在富は書と式盤を受け取り、それを確かめるとその場に思わず投げ落として、宇治丸の手をしかと握った。時に在富六十二歳、宇治丸と広は数え十三歳であった。
しばし我を忘れて見つめ合ったのち、宇治丸は気を取り直し、後ろの広を紹介した。
「そして、こちらは広橋光子殿と亡き大内殿の娘――八つの歳から、亡き大宮伊治殿の御邸宅にて共に育てられた幼馴染みにござります」
「おお、広橋殿と大内殿の……」
「初めてお目にかかります、広と申します」
在富は今度は広の顔をじっと眺めた。
「ああ、広橋光子殿によく似ておる……二人とも、よくぞ生き延びてやってきたのう」
「はい。まことに無念ながら、大内殿も大宮殿も……」
しばしの感嘆に浸っていた三人だが、在富が気まずそうに顔を背けた。
「急なことであったもので、済まぬが今すぐに屋敷へ迎えることはできぬ……そうじゃのう、山科殿なら何とかしてくださるやも知れぬ。手紙を持たせるで、しばし屋敷の外で待っておれ」
こう言って二人は勘解由小路邸の手前まで来ると留め置かれ、しばらくすると在富が手紙を持って戻ってきた。
「上京に山科言継殿という見知った公卿がおわす。道のりと殿への手紙をしたためたで、これを持って行くがよい。くれぐれも宜しくお伝え申し上げてくれ」
こうして在富は、そそくさと邸内に戻ってしまった。
「殿、いかがなされましたか」
「いや、小用じゃった。ところで、遠方に手紙を遣わす用が出来た。手配してくれ」
在富にとってはまたとない喜ばしき僥倖であったが、正室のいる手前、正式な対面は周到に行わなくてはならない。正室木根子は良家の育ちである分、気位が高い女房関白であった。言いつくろいの言葉をあれこれ考え巡らせたが、やはり喜びの心がふつふつと湧き上がってくる。義理の子をうっかりと撲殺してしまい、これでいよいよ跡取りがなくなってしまった、と落胆に暮れていたちょうどその時であるから、なおさらのことだ。
(宇治丸、と申したか……よくぞ育って戻ってきた、我がただ独りの息子よ――)
宇治丸と広は、在富の指示通り、上京へ戻ると山科邸を探し出し、恐る恐る門戸を叩いた。しかし、中級公卿の屋敷にしては呆気ないほどすぐに、屋敷の中へ通された。
そしてもう一つ驚きには、山科邸の内部は怪しい辻易者も顔負けするほど、そんじょそこいらに怪しげな護符・霊符の類や、干からびて吊された生薬、薬壺、薬研などが並んでいる。公卿の邸宅とは思えない、何とも胡散臭い屋敷であった。
「あや、これは愛らしい坊やとお嬢よのう。どうしたのかね、塗り薬か、飲み薬か?」
夕暮れ前から酒焼けた赤ら顔で出迎えた酔っぱらいの恵比寿顔、彼こそが山科言継四十三歳(一五〇七~一五七九)であった。
「いえ、突然でまことに恐れながら、しばしの宿をお借り申し上げたく……これを」
「ほう、勘解由小路殿の頼みとあってはやぶさかでない。どれどれ」
酔っぱらってふらつきながらも、在富から託された手紙をひもとき読む言継。そして、次第に酔いが覚めるように驚き顔になった。
「なんと……そなた、在富殿の落とし子とな!」
そして、がばっと立ち上がると二人に詰め寄り、まさに恵比寿の面のような満面の笑顔を浮かべ、二人の肩を抱いてもみくしゃに撫で回しつつ大声で笑い立てた。
「そしてお嬢は大内殿の遺児とな! ぬあっはっはっは、これはめでたい、今宵は宴じゃ! これ、ありったけの酒を持って参れ~!」
「ともかく気さくそうなお方で良かったね……」
「そうね……ちょっと心配だけども」
酒の銚子を踏ん付けて文字通り笑い転げながら床をばんばんと叩く言継に、二人はくすくすと微笑みを交わした。
・本章は架空。山科言継という人物とその人柄等は記録通り。
十三 認められぬ落とし子
こうして一時的に父・在富の知り合いであるひょうきん公卿・山科言継の邸宅に居候することになった宇治丸と広。言継は突然転がり込んできた二人を、我が子のように手厚くもてなしてくれた。在富との信頼関係の篤さが伺われる。この時の言継の妻(二番目の妻・継室にあたる)は、在富の末娘にして宇治丸の姉に当たる阿多子二十六歳であった。
言継はひょうきんなだけではなく、しっかりした学徳のある立派な公卿で、朝廷でも幕府筋からも信頼篤かった。また、実にお人好しで、趣味の薬学が高じて来る者来る者に薬を施し、貧しい者からは謝礼も受け取らず、上流階級から庶民に至るまで広く慕われていた。
二人も、言継に薬学を習いつつ、薬を求めてやってきた客の接待や看病に励んだ。しかし、在富からの連絡はなかなか来なかった。
ふた月ばかりが経ち、年が明け、松の内も明けた頃。ようやく山科邸宛に、在富からの手紙が届いた。二日後に装束を整えて勘解由小路邸へ来るように、とのことだった。
二人は山科言継から上等の公卿稚児装束を借りて、山科家の牛車に乗り、緊張を抑えつつ吉田山へ向かった。
「この童が殿の落とし子にござりますか」
やはり、在富の正室・木根子は、険しい態度であった。
「今まで黙っていて面目なかった……確かにわしの息子に相違ない」
「これが証拠の品にござります」
宇治丸は、確かに在富の筆跡で、山口下向から帰る直前の年月日と、大宮佐井子に我が子とこの品を託す旨を巻末に記した暦道指南書、そして式盤を見せた。
「これは確かにわしが山口で別れ形見として託したものじゃ。そして、山口に手紙を遣って問うた結果、先日大宮佐井子からも、確かに我が子であるとの返事があった」
「左様ですか。よくぞ先の合戦から逃れてまいりましたわね」
木根子の言葉は、二人の子供を労う口調ではなかった。そして、見定めるような目線で二人を眺めた。
「して、こちらのお嬢様が、大内殿の」
「は、はい。広と申します……」
鋭い視線を向けられて、広は肩をすくませつつ答えた。
「分かりました。殿も先頃在種を亡くして御傷心でしたから、さぞお喜びのことでしょう」
「ううむ……」
嫌味を込めた口調で語る木根子に、あの在富までもが肩をすくませた。
「しばらく考えさせてくださりまし。それまでは、山科殿も御厄介でしょうから、吉田神社で奉仕でもしておいでなされ。殿、それでよろしゅうおますか」
「そうじゃな……そちら山口でも吉田神道を学んでおったと聞く。足手まといにはなるまいな」
在富としても、二人が山科邸でちやほやされるよりは、吉田神社奉仕で境遇が多少厳しくなっても、将来跡取りとなった時に少しでも修学の経験があったほうがよかろう、また近くにおれば自ら教鞭を執る機会もあろうと考え、妻・木根子の提案を呑んだ。
「かしこまりました。非力ながら精一杯奉仕してまいります」
二人もこの裁断を承服し、山科邸に戻ると在富から預かった謝礼品を言継に渡し、心からの礼を告げた。
「神社奉仕か、心配じゃのう。せめてもう少し春温まってからでもよかろうに……辛くなったらいつでも戻ってきて良いのじゃぞ」
「ありがとうござります。大丈夫、神社奉仕なら慣れておりますから。長らく本当にお世話になりました」
戸口まで出てきて見送る言継を背に、二人は発っていった。
・本章は架空。在富の娘が山科言継の継室という点も架空。
十四 嗣子認定
吉田神社での住み込み修行は、厳しくもあったが、宇治丸と広にとって充実した時だった。なにせ、今まで学んできた吉田神道の総本家である。三十七歳になった神祇管領長上・吉田兼右も、若き日の山口下向では在富に世話になった恩義と、宇治丸にとっては義理の母方叔父にあたるという縁故もあって、熱心に二人に吉田神道の伝授を施した。そして、時に父・在富も訪れ、陰陽道の指南をつけた。
また、年頃に育つにつれて、二人は異性として意識しあい、恋い慕う仲となっていった。
しかし、嗣子、すなわち跡取り息子としての認定はなかなか得られなかった。木根子はあくまでも素性の明らかな京生まれ京育ちの公家の子を求め、親戚、姻戚、知古を巡り巡って養子の宛を必死に探した。が、裕福な上・中級公卿は格下で専門職の勘解由小路家に大事な子を遣ることをよしとせず、下級公家や地下家は養子に遣るような子をたくさん育てる余裕などなかった。賀茂氏嫡流は在種とその父在康が没して勘解由小路家だけとなっており、遠縁で奈良を拠点とする賀茂氏分流・幸徳井家もまた、貧困のため余分な子などいなかった。天文法華の乱を生き残ったもう一人の娘・日枝子が継室として嫁いだ先・安倍氏土御門家に至っては、ライバル関係である上に、都の乱を逃れて所領の若狭国(福井県西部)の山あいの片田舎・名田庄に長らく引きこもっており、京の朝廷に出仕することもなかった。
二人が吉田神社に預け入れられてから一年半ほどが経った天文二十二年(一五五三)九月、在富の正室・木根子は独断で山科言継に、その三男で数え七歳になる鶴松丸を養子に取ることを要請した。この子の母は在富の末娘・阿多子であり、在富にとって外孫、宇治丸にとっては甥にあたる。言継邸に世話になっていた時には、二人によくなついていた子だ。
さすがの言継にとっても、この要請は無茶振りであった。
「鶴松丸はまだ幼すぎて、跡取りには到底無茶な話、足手まといにさせてしまうだけでござりましょう……それに、実のお子・宇治丸殿もおいでにござります」
言継は鄭重に断りを入れた。我が子鶴松丸の身もさることながら、宇治丸の身の上を慮ってはもっともなことであった。
なお、この子は後に、橘氏末裔唯一の堂上公家であった薄家の養子として跡を嗣ぎ、薄諸光(一五四七~一五八五)となったが、豊臣秀吉の怒りを買って自害させられた。
ここに至って、木根子もついに根負けして、宇治丸を嗣子として勘解由小路家に迎え入れることを認めた。宇治丸も広も、持ち前の利発さを遺憾なく発揮して、砂が水を吸うようにもりもりと勉学・修行に励み、立派な陰陽師と巫女に育っていた。専門的家学を持つ下級公家にとっては、家の体面よりも実力が重視される。もはやこの二人をおいて他に跡取りはいない、体面に拘り続けては家の存亡にかかわる――と認めざるを得なかった。
年が明けた天文二十三年(一五五四)正月、宇治丸は数え十六歳にして正式に勘解由小路家の嗣子と認められ、元服の儀を執り行った。烏帽子親は山科言継。そして諱は在昌と名付けられた。賀茂在昌朝臣・勘解由小路在昌の公的誕生である。
そしてふた月の後、弥生の晴れ空の満開に華やぐ桜の元、在昌と広は祝言を挙げ、夫婦の仲となった。
「広――これからも、末永く、よろしく!」
「ええ、こちらこそ。末永くよろしくお願いします――在昌殿!」
・在富の妻が天文二十二年(一五五三)九月に山科言継の三男を養子にと要請したことは記録にあり。
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