44 / 68
Episode8:夕凪のピボット
②
しおりを挟む
冷たいタイルに、革靴の音が鋭く響き渡る。
静かな怒りを内に滾らせながら、崇弥は廊下を歩いていた。彼の纏う張り詰めた空気に、すれ違う社員たちは一瞬凍りついたように立ち止まると、慌てて頭を下げた。
普段は温厚で沈着冷静。そんな副社長の尋常ならざる様子に、社内は一時騒然となった。
崇弥の怒りの矛先は、ここ九条光学本社ビルの最上階だ。
「どういうつもりだ」
制止する秘書を振り切り、社長室の扉を押し開けると、崇弥は匡士郎に詰め寄った。不快そうに眉を顰め、貫かんばかりに睨みつける。
「やめろ、崇弥。姫華さんの前で。不躾だぞ」
椅子の背もたれにゆったりと体を預け、匡士郎は脚を組み直した。息子である崇弥を、ため息交じりに叱責する。
その隣には、スーツ姿の姫華が静かに立っていた。
「不躾なのはどっちだ。わざわざ俺がいないときに、その人を彼女にけしかけて」
「人聞きの悪いことを言うな。いつまでも煮え切らないお前を案じてのことだ」
椅子に深く身を沈め、呆れたような表情で息子の言葉を軽くいなす。
「大人の話をしましょう。崇弥さん」
そんな匡士郎に追随するように、姫華が前に一歩踏み出した。余裕すら感じさせる澄んだ声で、崇弥に語りかける。
姫華が瑛茉を待ち伏せたあの日。
月見茶房の常連客がふたり一緒にいるところを目撃したと、月尾から留守電が残されていた。嫌な予感がして瑛茉に連絡を試みるも、夜遅かったせいか繋がらず。寝ているのかもしれないと、翌朝電話をかけてもやはり繋がらなかった。以降、瑛茉とは音信不通に。
出張を前倒し、昨夜急いで帰宅した崇弥を待っていたのは、瑛茉のいなくなった空虚な部屋だけだった。
「……彼女に何を言ったんです?」
「大したことは何も。ただ、置かれた立場を、丁寧に説明して差し上げただけです」
崇弥の質問に、姫華は控えめながらも力強い口調で答えた。自信に満ちた表情。自分は微塵も間違ってなどいないといったふうな。
しかし、次の質問に、姫華は動揺し、言葉を詰まらせてしまう。
「あなたの望むものは何ですか? 俺との結婚ですか? それとも、九条の名前ですか?」
「……そ、れは……どういう意味、ですか……?」
「好きでもない相手と一緒になるその目的は何だと聞いてるんです」
「そ、んな……私は……っ」
「いい加減にしろ、崇弥! お前の戯言に付き合うのはもううんざり——」
「いい加減にするのはあなたたちのほうだっ!!」
匡士郎の言葉を遮るように、崇弥が声を張り上げた。
喉が千切れんばかりの激しい怒声に、思わず怯む匡士郎と姫華。そんなふたりに対し、崇弥は自身の奥底から突き上げてくる怒りを容赦なくぶつける。
「これまでに何度も言ったはずだ。俺は心を殺してまで結婚するつもりはないと。……俺の選択が会社のためにならないというのなら、今すぐ俺を経営から外し、首でもなんでも切ればいい!!」
そう吐き捨てると、崇弥は胸元の社章バッジをむしるように取り外し、思いきり床に投げつけた。純銀製のそれは、数回小さく跳ねたあと、ころころと転がり匡士郎の足に当たって静止した。
この言動の意味するもの。それは、まぎれもなく、九条との訣別——。
「……待て……待ってくれ崇弥……っ、崇弥……!!」
必死に呼び止めようとする匡士郎に目もくれず、崇弥は社長室から出ていった。その背中を、姫華が茫然と見つめる。
崇弥のいなくなった室内には、冷酷な静寂だけが残されていた。
静かな怒りを内に滾らせながら、崇弥は廊下を歩いていた。彼の纏う張り詰めた空気に、すれ違う社員たちは一瞬凍りついたように立ち止まると、慌てて頭を下げた。
普段は温厚で沈着冷静。そんな副社長の尋常ならざる様子に、社内は一時騒然となった。
崇弥の怒りの矛先は、ここ九条光学本社ビルの最上階だ。
「どういうつもりだ」
制止する秘書を振り切り、社長室の扉を押し開けると、崇弥は匡士郎に詰め寄った。不快そうに眉を顰め、貫かんばかりに睨みつける。
「やめろ、崇弥。姫華さんの前で。不躾だぞ」
椅子の背もたれにゆったりと体を預け、匡士郎は脚を組み直した。息子である崇弥を、ため息交じりに叱責する。
その隣には、スーツ姿の姫華が静かに立っていた。
「不躾なのはどっちだ。わざわざ俺がいないときに、その人を彼女にけしかけて」
「人聞きの悪いことを言うな。いつまでも煮え切らないお前を案じてのことだ」
椅子に深く身を沈め、呆れたような表情で息子の言葉を軽くいなす。
「大人の話をしましょう。崇弥さん」
そんな匡士郎に追随するように、姫華が前に一歩踏み出した。余裕すら感じさせる澄んだ声で、崇弥に語りかける。
姫華が瑛茉を待ち伏せたあの日。
月見茶房の常連客がふたり一緒にいるところを目撃したと、月尾から留守電が残されていた。嫌な予感がして瑛茉に連絡を試みるも、夜遅かったせいか繋がらず。寝ているのかもしれないと、翌朝電話をかけてもやはり繋がらなかった。以降、瑛茉とは音信不通に。
出張を前倒し、昨夜急いで帰宅した崇弥を待っていたのは、瑛茉のいなくなった空虚な部屋だけだった。
「……彼女に何を言ったんです?」
「大したことは何も。ただ、置かれた立場を、丁寧に説明して差し上げただけです」
崇弥の質問に、姫華は控えめながらも力強い口調で答えた。自信に満ちた表情。自分は微塵も間違ってなどいないといったふうな。
しかし、次の質問に、姫華は動揺し、言葉を詰まらせてしまう。
「あなたの望むものは何ですか? 俺との結婚ですか? それとも、九条の名前ですか?」
「……そ、れは……どういう意味、ですか……?」
「好きでもない相手と一緒になるその目的は何だと聞いてるんです」
「そ、んな……私は……っ」
「いい加減にしろ、崇弥! お前の戯言に付き合うのはもううんざり——」
「いい加減にするのはあなたたちのほうだっ!!」
匡士郎の言葉を遮るように、崇弥が声を張り上げた。
喉が千切れんばかりの激しい怒声に、思わず怯む匡士郎と姫華。そんなふたりに対し、崇弥は自身の奥底から突き上げてくる怒りを容赦なくぶつける。
「これまでに何度も言ったはずだ。俺は心を殺してまで結婚するつもりはないと。……俺の選択が会社のためにならないというのなら、今すぐ俺を経営から外し、首でもなんでも切ればいい!!」
そう吐き捨てると、崇弥は胸元の社章バッジをむしるように取り外し、思いきり床に投げつけた。純銀製のそれは、数回小さく跳ねたあと、ころころと転がり匡士郎の足に当たって静止した。
この言動の意味するもの。それは、まぎれもなく、九条との訣別——。
「……待て……待ってくれ崇弥……っ、崇弥……!!」
必死に呼び止めようとする匡士郎に目もくれず、崇弥は社長室から出ていった。その背中を、姫華が茫然と見つめる。
崇弥のいなくなった室内には、冷酷な静寂だけが残されていた。
0
あなたにおすすめの小説
白椿の咲く日~ひそかな恋、遠い日の思いは
紫さゆり
恋愛
結婚を控えた真由子は、久しぶりに異母姉の稚子(わかこ)と会う。
真由子の母の雪江は、大学教授であり著名な歌人の水上実之(みなかみさねゆき)の後添いとして水上家に嫁いだ。
婚約者の諒人(りょうと)のことなど、真由子は稚子と色々語り合ううち、庭の白椿の木は真由子がなついていた異母兄、靖之が植えたものだと知る。
白椿の木をめぐっての、ひそかな大人の恋物語です。
伯爵家の箱入り娘は婚儀のまえに逃亡したい
瑞原唯子
恋愛
だから、きっと、恋を知らないままでよかった。
伯爵令嬢のシャーロットはもうすぐ顔も知らないおじさまと結婚する。だから最後にひとつだけわがままを叶えようと屋敷をこっそり抜け出した。そこで知り合ったのは王都の騎士団に所属するという青年で——。
---
本編完結しました。番外編も書きたかったエピソードはひとまず書き終わりましたが、気が向いたらまた何か書くかもしれません。リクエストなどありましたらお聞かせください。参考にさせていただきます。
夜の帝王の一途な愛
ラヴ KAZU
恋愛
彼氏ナシ・子供ナシ・仕事ナシ……、ないない尽くしで人生に焦りを感じているアラフォー女性の前に、ある日突然、白馬の王子様が現れた! ピュアな主人公が待ちに待った〝白馬の王子様"の正体は、若くしてホストクラブを経営するカリスマNO.1ホスト。「俺と一緒に暮らさないか」突然のプロポーズと思いきや、契約結婚の申し出だった。
ところが、イケメンホスト麻生凌はたっぷりの愛情を濯ぐ。
翻弄される結城あゆみ。
そんな凌には誰にも言えない秘密があった。
あゆみの運命は……
恋した悪役令嬢は余命一年でした
葉方萌生
恋愛
イーギス国で暮らすハーマス公爵は、出来の良い2歳年下の弟に劣等感を抱きつつ、王位継承者として日々勉学に励んでいる。
そんな彼の元に突如現れたブロンズ色の髪の毛をしたルミ。彼女は隣国で悪役令嬢として名を馳せていたのだが、どうも噂に聞く彼女とは様子が違っていて……!?
フリーランスエンジニアの優しすぎる無償の愛
春咲さゆ
恋愛
26歳OLの木崎茉莉は人生のどん底にいた。上手くいかないことに慣れ、心を凍らせることで自分を守る毎日に絶望した茉莉は、雨の夜に思わず人生の終わりを願ってしまう。そんな茉莉に手を差し伸べたかっこいい彼。茉莉は、なぜか無償の愛のような優しさをくれる不思議な男性に少しずつ救われ、前を向いていく。けれど、疑ってしまうほど親切な彼には、親切であり続ける理由があって……。雨の夜の出会いがもたらした、優しくも切ない物語。
【完結】時計台の約束
とっくり
恋愛
あの日、彼は約束の場所に現れなかった。
それは裏切りではなく、永遠の別れの始まりだった――。
孤児院で出会い、時を経て再び交わった二人の絆は、すれ違いと痛みの中で静かに崩れていく。
偽りの事故が奪ったのは、未来への希望さえも。
それでも、彼を想い続ける少女の胸には、小さな命と共に新しい未来が灯る。
中世異世界を舞台に紡がれる、愛と喪失の切ない物語。
※短編から長編に変更いたしました。
Blue Moon 〜小さな夜の奇跡〜
葉月 まい
恋愛
ーー私はあの夜、一生分の恋をしたーー
あなたとの思い出さえあれば、この先も生きていける。
見ると幸せになれるという
珍しい月 ブルームーン。
月の光に照らされた、たったひと晩の
それは奇跡みたいな恋だった。
‧₊˚✧ 登場人物 ✩˚。⋆
藤原 小夜(23歳) …楽器店勤務、夜はバーのピアニスト
来栖 想(26歳) …新進気鋭のシンガーソングライター
想のファンにケガをさせられた小夜は、
責任を感じた想にバーでのピアノ演奏の代役を頼む。
それは数年に一度の、ブルームーンの夜だった。
ひと晩だけの思い出のはずだったが……
氷の宰相補佐と押しつけられた厄災の花嫁
瑞原唯子
恋愛
王命により、アイザックはまだ十歳の少女を妻として娶ることになった。
彼女は生後まもなく始末されたはずの『厄災の姫』である。最近になって生存が判明したが、いまさら王家に迎え入れることも始末することもできない——悩んだ末、国王は序列一位のシェフィールド公爵家に押しつけたのだ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる