【完結】夕凪のピボット

那月 結音

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Episode10:はじまりの場所

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「おつかれ、瑛茉ちゃん。あとは俺やっとくから、上がっていいよ」
「あっ、ありがとうございます。じゃあ、このテーブルだけ」
 先ほど暖簾をしまった月見茶房、その店内で、瑛茉は清掃に勤しんでいた。
 本日も盛況だった。十月に入り過ごしやすい気候になったせいか、連日客足が途絶えることはない。とはいえ、日中はまだ気温が高く、かき氷や白玉ぜんざいといった冷菓が人気だ。
 ふう、と息をつく。布巾を片して入念に手洗いをすれば、この日の業務も無事に終了した。
「今日はあいつ迎えに来る?」
 カウンター内にいる月尾から、こんな質問をされた。キュキュッと、食器を磨く小気味いい音がする。
 月尾の言う〝あいつ〟は、相変わらず多忙を極めているゆえ、在宅時間が多くない。それでも瑛茉との時間を作るため、日夜調整に奮闘している。
 そのひとつが、仕事帰りにここへ立ち寄ることだ。
「今夜は連絡がないので、もしかするとまだ仕事中かもしれません」
「そっか。……おっ? 噂をすれば」
「え?」
 カラララ——と、絶妙なタイミングで入口の自動格子戸が開いた。秋の匂いが、夜風に乗って店内へ流れ込んでくる。
「おつかれさまです、崇弥さん」
「ありがとう。瑛茉ちゃんもおつかれさま」
 崇弥は、瑛茉と笑みを交わし、月尾にねぎらいの声をかけると、いつものようにカウンター席へと腰掛けた。
 月尾に促され、瑛茉も崇弥の隣に座る。緩く束ねていた髪を結び直し、エプロンを外して空いている椅子に畳んだ。
 このとき月尾は、崇弥の様子がいつもとは違うことに気づいていた。どことなく緊張しているような、なんだかそわそわしているような。
「なんか飲むか?」
「あー……じゃあ、水出し煎茶」
「りょーかい」
 そう言って、厨房に入ろうとした月尾は——ぎょっとした。
 思わず足を止める。崇弥がバッグから取り出したが、視界に入ってしまったせいだ。
「瑛茉ちゃん」
 瑛茉のほうへと真っ直ぐ向き直った崇弥が、居住まいを正した。つられて瑛茉も背筋を伸ばす。
 改まった、否、強張った態度。何かあったのだろうか。
 しかし、瑛茉が疑問の声を発するよりも先に、慌てた月尾が声を張り上げた。
「ばっ……お前マジで場所選べよ! ここは夜景がきれいなとこでも高級レストランでもねーんだぞっ!」
 崇弥が手にしているもの。
 それは、まぎれもなくリングケースだった。
 月尾の声にはっとした瑛茉が、崇弥の手元を見遣る。まさか……と、両手で口元を覆った。
 崇弥は、緊張した面持ちで深呼吸すると、ぎゃいぎゃいと吠える月尾を無視し、ケースを開いた。
 素朴な意匠ながらも高級感漂うプラチナの環。その頂で、大粒のダイヤモンドが、力強い輝きを放っている。
「瑛茉ちゃんと暮らすようになって、家で過ごす時間が本当に楽しくなった。一緒にご飯食べたり、家のこと分担したり、いろんなこと話したり……はじめてなんだ、こんな気持ち。……たくさん傷つけたし、迷惑もかけたけど、これから先もずっと、君の隣にいさせてほしい」
 崇弥の紡ぐ言葉。飾り気のない言葉。
 静かな、されど確かな響きを持ったそのひとつひとつが、瑛茉の心の深い部分に触れる。
 言葉にできない。これ以上の喜びなんて知らない。
 胸が張り裂けそうだ。
「もちろん、今すぐってわけにはいかないけど……。大学を卒業して、そのときが来たら、俺と結婚してくれますか?」
「……っ、はい……!」
 大切な、はじまりのこの場所で。
 瑛茉は、迷うことなく頷いた。
 崇弥が笑う。幸せそうに。そんなふたりのもとに、号泣した月尾が、ありったけの甘味を持ってやってきた。

 甘い香りに満たされていく。
 この夜、祝福の余韻に、彼らはいつまでも浸っていた。


 <END>
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