【完結】硝子の海と天色の贈り物

那月 結音

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第5話

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「うー、寒い。今日は一日寒かったわねー」
 上半身を丸め、大名先生が調剤室から出てきた。白衣の上から両腕をさすっている。
「昨日よりも、五度くらい気温下がってるみたいですね」
 今朝、トーストをかじりながら見たテレビの中で、お天気キャスターのお姉さんが、にこやかにこう言っていたことを思い出す。キーボードを叩く手を止めて、窓の外に目をやると、どんよりとした鈍色の空が見えた。……もう冬だ。
 十一月二十八日。速水さんと食事をし始めてから七日目。とうとう期限の日がやってきた。
 昨日、彼に対する自分の気持ちを認識してからというもの、なんとなく心がざわついている。
 速水さんのこと、好きになっちゃった。でも、これからいったいどうすればいいんだろう。
 恥ずかしい話だが、生まれてこの方二十二年、私には恋愛経験というものがない。まったくない。はっきり言って、人を好きになったのも、今回が初めてかもしれない。人を好きになることなんか、一生ないと思っていた。過去のとある経験が、ある種のトラウマになっていることは間違いないのだが、それをこの短期間で払拭してしまうほどに、彼の存在は私の中で大きくなっていたようだ。
 だからといって、『この先彼とこういう関係になりたい』などという具体的な理想は皆無だし、ましてや自分の気持ちを伝えることなんて到底できない。そんなこと、できるはずない。
 今日が終われば、何事もなかったかのように、明日からはまた、速水さんに出会う前の生活に戻るんだろうな。一週間……そういう約束だったから。
 彼には感謝している、心の底から。けれど、私の胸中では、なんとも言いようのない寂しさと不安が交錯しているのだ。
「あ、そうそう」
「?」
 ディスプレイに視線を戻し、入力を再開しようとした矢先。何かを思い出した様子の大名先生により、キーを叩こうと構えた私の手は、止まったままになってしまった。
「昨日、茉莉花ちゃん迎えにきてくれてた人……私、どっかで見たことあると思ったら、向かいの速水総合病院の息子さんだったのね」
「……えっ!?」
 さらりと告げられた驚愕の事実に、私は思わず目を丸くした。
 確かに、向かい側に威風堂々とそびえている大病院の名前は『速水』だ。院長先生も、もちろん『速水』先生。だけど、まさか彼と同じ『速水』だったなんて、想像すらしていなかった。彼からも、そんなことひとことも聞いていない。
「もともと長髪だったけど、あそこまでじゃなかったし。なにより、髭生やしてたから雰囲気変わってて、気づくまでに時間かかっちゃった。……茉莉花ちゃん、知らなかったの?」
「知りませんでした……」
 だから、ドクター……。お父さんと同じ職業を選んだんだ。……病院を継ぐために? じゃあ、どうしてフォトグラファーをしてるんだろう? 昨日聞いたかぎりでは、以前は内科医をしてたみたいだけど……。
 考えれば考えるほど、虚しさが襲ってきた。
 私は、彼のことを何も知らない。
 たかだか知り合って一週間。知らなくて当然かもしれない。
 でも、今一番ショックなのは、それらを聞ける間柄になれないまま、彼と離れなければならないということだ。
 明日になれば、彼と一緒にいる理由は、なくなってしまうから。
「……じゃあ、このことも知らないのかしら」
「?」
 手を止めたまま、本日二度目の疑問符を浮かべ、先生の口から紡がれる二の句を待つ。その表情は、明らかに険しいものになっていた。緊張し、息を呑む。
 そして、次の瞬間。私の心は、強張った音をたてながら、急速に凍てついてしまった。
「若先生ね、結婚されてたんだけど……五年くらい前かな? 奥さん、病気で亡くしてるのよ」
「……えっ——」
 次第に速くなる鼓動。打ちつける音が、自身の頭の中で低く反響する。
 速水さんの結婚——それは、私がもっとも直面したくなかった現実だ。
 それだけで十分だった、今の私を喪心させるには。なのに、追い打ちをかけるように突きつけられた、もう一つの現実。

 速水さん、奥さんと、死別してるの……?

 思考に感情が追いつかない。この事実を受け止め切れなかった。……いや、受け止めたくないんだ。
 彼が結婚していることも、彼の奥さんが、もうこの世にはいないということも。
 それから、どんなふうに仕事を終えたのか、どんなふうに薬局を去ったのか、もはや記憶がない。一つ覚えているのは、大名先生が、まだ何かもの言いたそうな面持ちをしていたということだけだ。
 これから、私は速水さんのマンションへと向かう。
 ……どんな顔をして、彼に会えばいい?
 『普通に』や『今まで通りに』といったところが模範解答なのだろうけど、あいにく私はそんなに器用じゃない。本当は逃げ出したかった。素知らぬ顔をして、彼と会う自信なんて、私にはない。
 でも、約束、してるから……。
 外見で目立ってしまっているがゆえ、それ以外はなるべく人目につかないようにしようと、規範や規律は率先して守ってきた。今日ほど、自分のこの優等生精神を恨んだことはない。
 ピシッという鋭い音を一つたてて、凍てついた私の心にヒビが走った。



「……どうした?」
「……」
「おいっ!」
「あ……」
 速水さんの呼びかけにハッとする。気づけば、彼に顔を覗き込まれていた。
 今の今まで、完全に上の空だった。『心ここにあらず』とは、きっとこういう状態のことを指すのだろう。
 いつものように、テーブルに対面して彼と夕食を摂る。けれど、ここへ来てからというもの、私は彼とまともに会話をしていない。やっぱり、平静を装うことなんて、私には不可能だった。
 テーブルに並べられた、オムライスと生ハムサラダ。昨夜、帰り際に私のリクエストを聞いて、彼がこのメニューを用意してくれた。デミグラスソースも、手間暇かけて、一から作ってくれたらしい。
 美味しいはずなのに、私はそれを素直に表現できていなかった。なかなか食も進まない。正直、ここまでの道中のできごとすら想起できなかった。
「今日、来たときからなんか変だぞ、お前」
 そんな私の様子を心配してくれたのか、はたまた怪訝に思ったのか……彼にこう指摘されてしまった。
「何があった?」
 さらに、手に持っていたスプーンをわざわざ置いて、彼は私に詰め寄ってきた。
「……」
 言いたくない……言いたくなんてないけれど、彼に隠しごとなんてできるはずがない。この鋭く綺麗な瞳を目の当たりにすると、なおさらだ。
 私は、静かに重たい口を開き、喉の奥から声を絞り出した。
「……速水さん、結婚、してるんですね」
「——っ!!」
 私のこの言葉に、彼は大きく目を見開いた。
 ついに口にしてしまった。もう逃れられない。
 これが、
「奥さん……亡くなって、るん、ですね……」
 現実だ——
「……それ、誰から聞いた?」
 訥々と語る私に、さきほどよりも鋭い眼差しで、彼が追及してきた。
「バイト先の、薬局の、先生から……」
「大名さんか……」
 溜息まじりにこう言った彼に、こくりと一つ頷く。どうやら、大名先生のことを知っているらしい。
 先生は、十年以上あの調剤薬局に勤務している。速水院長と面識があるということは聞いていた。だから、その息子である彼と、顔見知りであったとしてもおかしくはない。もしかすると、私が思っている以上に、二人は親しかったりするのかもしれない。
 彼の顔を直視することができず、うつむいたまま、下唇をきゅっと噛んだ。
「……ちょっと待ってろ」
 ゆっくりと立ち上がると、彼はこの部屋から出て行ってしまった。ここに一人残された自分の顔面が、硬直し、乾いていくのがわかる。
 今度はいったい何? 彼の行動が全然予測できない。
 ……怖い。
 間もなく戻ってきた彼のその手には、一枚の写真が握られていた。
 彼は、それを私にそっと差し出した。
「これが……俺の妻だ」
 震える両手で、その写真を受け取る。
「……っ——!?」
 蒼い空と碧い海をバックに、柔らかく微笑んでいる一人の女性。その人物を目にした瞬間、一気に全身から血の気が引いていくのを感じた。

 この人……そ、んな……。

速水はやみ瑠璃子るりこ

 嘘でしょう……?

「旧姓は、鈴原。……お前の、担当薬剤師だったんだろう?」

 そこに写っていたのは、紛れもなく鈴原先生だった。
 凍てついた私の心が、音もなく粉々に砕け散った。
「っ——」
 彼が結婚していること。奥さんが亡くなっていること。その奥さんが、私が憧れていた鈴原先生だったということ。その鈴原先生が、すでに他界しているのだということ。
 もうグチャグチャだ、何もかも。
 定まらない焦点。ぼやける視界。手の、全身の、震えが……止まらない。
 気にはかかっていた。ときおり彼が見せた切ない表情。そこに滲ませた翳りを。
 彼は気づいていたんだ、私と鈴原先生の関係を。それがいつの時点なのかはわからないけれど。
 私のせいだ。私が彼に奥さんのことを……鈴原先生のことを、思い出させてしまっていたんだ。無知とはいえ、無意識とはいえ、私は彼を苦しめていた。そんなこと、言い訳になんかならない。
 私はここにいてはいけない。彼に甘えるだなんて、とんだ筋違いだ。

 私には最初から、この人を好きになる資格なんて、なかったんだ——

「今まで……本当に、ありがとう、ございました。……ご迷惑、おかけ、して……すみません、でした……っ」
 勢いよく立ち上がり、自身の荷物を奪うように掴んで、玄関へと向かう。一刻も早く、この場から立ち去りたかった。
「あ、おいっ——!!」
 伸ばされた速水さんの腕を振り切るようにして、私は彼のマンションを飛び出した。
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